はてなキーワード: 年寄とは
PCデポではないパソコンショップにいったときのお話。レジでSSDを注文しようとしたところ、一人のおじいちゃんが店員さん相手にずーとお話をしているのだった。どうやら、購入したパソコンのサポート権を使って質問にきていたようだった。店員の人の話しぶりからすると昨日も来ていたようで、そのときにトラブルは解決しているようだった。
おじいちゃんは、よい話し相手を見つけたような雰囲気で丁寧に接してくれる店員さんと話し続けていた。
このおじいちゃんの行動をみたとき、あのPCデポが有償のサポートを始めた理由がわかったような気がした。有償のサポートプランは、おともだち券のような位置づけで、1時間でも2時間でも世間話に付き合ってくれるのだ。ある意味誰も損をしていない。レジを占拠されて、順番が回ってこないボクだけが不利益を被っている。このお店ではそーゆーサポートをしているわけではないので、おじいちゃんの行為は言語道断なわけだが、パソコンやスマホの使い方を丁寧に教えてくれる有償サポートは、元気なおじいちゃんの暇つぶしに最適なことだと思った。
こんなことを無償サポートとして行うのは、無茶な話で、店員のリソースをおじいちゃんの世間話にすべて割いてしまうのは、お店としては困った話なのだろう。この世間話需要をお金に変えようとしたPCデポさんは、先見の明があると思った。お金に変えることは大変難しいのだが、年寄の話し相手業は、今後の日本ではポピュラーな存在になるに違いないと思う。
「無駄な都税を使っていいんですか?都議会解散なんてやれるわけないでしょ?」と蓮舫氏は応援演説していたね。
なにせ「がん検診受診率を上げる」ことが都政で第一だと彼は言っているんでしょ?今回鳥越氏は完全に年寄だけをターゲットに絞っているから、もし奴が政権取ったら現実無視しまくりで超停滞都政の4年間になると思うよ。
民進党の不真面目ぶりというか、石田純一氏と鳥越氏とどこに政策的趣向の共通点があるの?テレビとだけがオトモダチのような年寄連中からウケがよくて、自分たちの傀儡にしやすい点か?暴露される前までの桝添氏のように、国民に隠れて裏でこそこそやれると思っているんでしょうかね?
ここは卑怯者の集まりだと知りました。誰も名乗らない。私の真似事のようにして人を馬鹿にするばかりです。
こうやって名前を名乗らなければ私が誰なのかわからないでしょう。
鬼畜米鬼なんでも言い放題じゃないですか。
孫には会社に行くまでにユーチューブを見るように言いつけていたら、まきおは悪くないなどとぬかす。
朝から大喧嘩です。叱りつけてやったら逃げられました。もう少し見込みがある奴だと思っていました。
私も腹が減っているせいか力が出ず無念です。医者には前より胃炎が悪化していると言われてしまいました。
年寄が体を壊してまで日本の未来を考えているのに、若い人はどうしたのですか?
昔危険な年齢という小説を読んだとき、アメリカも府抜けたものだと思ったものですが、日本もどんどん弱体化している。そう感じます。
和牛ステーキなんてめったに食べられないでしょう。私の歳では焼肉を食べるのが精一杯です。若い人はステーキを食べる。その方が良いと思ったのですが、誰も居ない。
ここは使いにくくて誰が何を言っているのかもわからない。私に言っているのか誰に言っているのかもわからない。
ヤフーで騒動を起こしてからは孫に使えなくされました。でもヤフーの方が使いやすかった。
住所を書いたら絶交するとまで言われました。ここも使えなくすると言うのです。
http://anond.hatelabo.jp/20160207011039
『男女の性欲の質が違い過ぎて議論が噛み合わない罠』
つらいけど真実の一端があるのかなとも思う。
男の価値が経済力だけというのも極論を言えば正しいかもしれない。
触られたくないところを触られたような印象があった。
私も幼い頃は父が大好きで
ああでもいま思い出すとウゲッと気持ちわるくなることもあった。
ほらオチンチンだよーとか言って私に握らせようとしてた。
なんていって石けんで泡作ってペニスに乗せて遊んでた気がするけど。笑
べつにこの程度なら性的虐待ではないと思う
けど気持ちわるいことには違いない。
脱線したけどそれはともかく
両親はとなりの私の部屋に聞こえるくらい大声で口げんかしてて
私は精神年齢の成長が早かった(ようするにエロ耳年寄だった笑)ほうなので、
両親の派手な口けんかの内容をなんとなく理解できたんだけど
ようするに母は私を産んだあとに父とまったく性交渉をしていなかったらしい。
お前がやってる家事なんて家政婦やとえば済むことだぞ!とか
まあけんかがエキサイトしてるときの言葉尻をつかまえてもしょうがないけど
とにかく母が体を許さないというだけで
と心の中でちょっと苦笑してた。
でもこれって父にとっては深刻な問題だったとおもうんだよね。
それは承認欲求であって性欲ではないと指摘する人もいるとおもうけど、
承認欲求と性欲って複雑にまざりあってて簡単にはわけられないと思う。
私も交際相手が自分を求めなくなってきたらそろそろ関係も潮時かなと心配になる。
本当は65歳くらいまで一緒にいた方が法的に何か有利だったらしいけど
とにかく私が社会にでるくらいまでの間はおたがい我慢しようと
その間はおたがいに何をしようと関知しないということになっていたらしい。
自分も中高生になってからは父親とまったく会話しなくなってたし
上に書いた性虐待?とけんかの記憶もあって父=汚らわしいと思っていた
結果として父は家庭ではまったく喋らなくなっていた。
少なくとも外見は人付き合いのいい人だったから女性にモテただろう。
たぶん父はそのあとも不倫してたのかもしれないし、
あるいはセックスワークのお世話になっていたのかもしれない。
その手や口で家に入ってたのかな、と考えるとゾワゾワするけど
母は典型的な箱入りで育てられたと自分で言ってたから、そのせいか
出産のためにはしょうがないと父と関係を持っていたのかもしれないし
父にふつうに恋してたのかもしれない。
まちがいなく父は母が知っている唯一の男性だ。
どちらにしろ自分が生まれてまもなく両親の関係は冷えはじめていて
母は父に体を許さなくなっていたし、
父も子供という責任?重荷?がなければいつでも離婚したかったのだろう。
定年退職の1週間後に別れを切り出した。
おそらく父はもっと早く別れを決意しただろう。
だけの味気ないものとは信じたくないと思う
私も信じたくはない。
そこにどんな美しい信頼関係があったとしても、
おたがいの汚い部分を許しあう関係を築きたいとは思う。
でも私には明らかに性(的接触への)嫌悪があって
私の「性欲」には男性に触れられることより
精神的・経済的に支えられたいという身勝手な気持ちがまざってるから
私の手を握ることもキスすることもなく常にそばにいて
自分が落ち込んだときやイライラしたときに支えてくれる男性がいるなら
それに越したことはない。
でもいままでの少ない恋愛経験でもどんなに優しそうなパートナーでも
これからもそんな人は現れないにちがいない
ごめん、たぶんそれが女の「性欲」だと思う。
女性の身体的魅力や男性の経済優位性?が関係ないと言い切るのは
あまりにも現実を無視した理想化された男女関係じゃないかと思う。
そう思い知らされた。
先日、『選挙カーがはた迷惑な大声で名前を連呼する理由を知った時のこと』という文章を書いた。
予想外の反響を得て、驚くとともに、うれしくも思う。
そもそも記事を書くきっかけとなったサイバーメガネさんも、さっそく内容をフォローするように
『無党派層はコスパが悪くて当てにならない』というエントリを書いてくださった。
なぜ、反響があったかといえば、おそらく、あの頃の自分と同じように選挙の現場を見たことがなく、
「なぜ、反感を買うだけなのに、選挙カーは騒音をまき散らしているのだろう」と疑問に思っていた人が多かったのだろう。
中には、「ああいうばあさんは、もうすぐいなくなるだろう」という趣旨のコメントもあったが、僕はそうは思わない。
そもそも、あれはまだ橋本龍太郎が総理大臣をやっていた頃の話だ。
つまり、かれこれ20年近く前の話なのだが、その後も状況にさほど大きな変化はなかったことは、いくつかのブコメを見るだけでも分かる。
次の20年で変わるかといえば、そうでもないだろう。なぜそう思うかを、書いていこうと思う。
あの頃、「無党派層」という言葉はすでにメディアに登場していた。
(wikiによれば、大阪府知事に横山ノック、東京都知事に青島幸男が当選するという「珍事」が起きた時に注目され、流行語大賞をとったそうである。
その前に「日本新党ブーム」を経て、細川内閣が誕生したころには、まだメディアではメジャーな言葉ではなかったのか)。
無党派層に心情が近かった当時の僕も、「ああいうばあさんみたいなタイプの人は、いずれいなくなるのだろう」と思っていた。
だが、少なくとも20年程度では、いなくならなかった。
思い起こしてみれば、あの当時から、「応援しているのに、なぜウチのほうに選挙カーがこないのか」と苦情をいうのは、必ずしも年寄とは限らなかったのだ。
その渦中に身を投じてみれば分かるが、選挙というのは一種の「お祭り」である。
であれば、選挙カーという「神輿」は、自分の家の近所に来てくれたほうが楽しかろう。
お祭りというのは、参加する者にとっては楽しかろうが、部外者にとっては迷惑で騒々しいだけだ。ハロウィンを見ればわかる。
最近、高知県では、新住民からの「よさこい祭りの練習の騒音がうるさい」という苦情が増えて、祭りの伝統を守りたい人々は対応に苦慮しているらしい。
祭に参加して騒ぎたい人々と、外側にいて「うるさい」と感じる人とは、どうしても対立する。
それは、祭りのルーツがどうとか、そんなこととは、おそらく関係がない。
僕はあの頃、お祭りに参加して盛り上がるのは年寄りのやることだと思っていた。
だが、実際にはそうでもなかった。
古臭い祭りにはそっぽを向いても、なにか面白そうな新しいお祭りあれば、こぞって参加するという人たちが、世の中には相当程度いるのだ。
既成政党による「ドブ板選挙祭り」にはそっぽを向いている若者が、国会議事堂前でSEALDs祭に参加したって、なんの不思議もない。
お祭りといえば、あの選挙事務所でバイトをしていたとき、幹部がにわかに、ちょっとしたお祭り騒ぎになったことがあった。
総裁とは誰のことなのか、僕はにわかに判じかねたが、それは当時、自民党総裁にして総理大臣でもあった橋本龍太郎のことであった。
事務所の関係者は「総理」でも「首相」でも、ましてや「ハシリュウ」でもなく、「総裁」と呼んでいた。
総裁が応援しに来てくれるということは、つまり、その候補者や選挙区を党本部が重視している証拠なのだが、、
橋本龍太郎という人は日本の歴代総理には珍しく、その端正なルックスで女性人気がきわめて高かった。
慶応大学在学中に第一期東宝ニューフェイスに誘われたこともあるというから、「政治家にしてはイケてる」というレベルではない。
当然、「集客力」も高く、事務所としては、願ってもない応援弁士なのである。
今でいえば、小泉進次郎の人気が、近いものがあるのかもしれない。
当日は、それはもう「お祭り騒ぎ」だった。バイトも支持者も大勢駆り出された。
事務所の幹部は警察官やSPと打ち合わせに余念がなく、事務所の司令塔たる候補者の長女は、誇らしげな顔をしていた。
実際、当時の橋本龍太郎は、「本日、○時に、橋本龍太郎総裁が、応援演説に来られます!!」と呼びかければ、
「エッ、うそ!? マジ? こんなトコにハシモトソーリがくるの? じゃ、ちょっと見ていこうかな」
などと騒ぐほどの人気があった。
「もし、総裁が演説している最中に暴漢が襲いかかって、それをウチの先生が体を張って守って、ケガして運ばれたりしたら、明日の新聞の一面になりますかね?」
「ああ。そうなったら先生は、もう当選確実だな。お前、いっちょやってみるか?」
僕らは、大分親しくなった事務所の下っ端幹部と、そんな軽口をたたいたりした。
定刻になると、ちょうどライブの最前列でファンを押さえるスタッフのように、バイトや運動員が群衆を抑えている前に、黒塗りの車列が到着した。
SPに囲まれながら降り立った橋本龍太郎は、思った以上に背が低かったが、確かに二枚目だった。
「世の中には、選挙になると、消費税率は下げて福祉の水準は上げるなどと、夢のようなことを訴える政党もありますが、
私には、そんな魔法使いのようなお約束をすることはできません」
などと語りかけるイヤミな調子には、好き好きがあっただろうけれど。
当日、街頭には大勢の支持者が動員されていたけれど、それを上回る人々が足を止めた。
それがきっかけで自民党候補者に投票したひともいるのではないだろうか?
だが、なにより、事務所に集う人々は、「総裁が来てくれた」「予想以上に人が集まった」という事実に興奮し、
例のばあさんは、街頭には来ていなかっただろうが、
「自分の支持する先生のために、橋本さんが応援に来てくれた」という事実に喜びを感じ、
ますます「近所の人に、投票してくれるように頼む」という彼女なりの方法で、お祭りを楽しんだことだろう。
「お祭りだなんて、とんでもない。選挙というのは、冷静に過去の実績や提示された政策を比較検討して、適切な候補者に投票すべきだ」
という人もいるだろう。それは、おそらく正論だ。
だが、そういう正論を唱える人たちが、政策とやらにどの程度つうじているのか。
数多ある課題の、すべての軽重を判断して、どれが適切な政策が判断することが、果たして可能なのか。
それに、どんなに「政策」が素晴らしかったとて、口先だけでは何とでもいえる。
政策はもちろんのこと、きちんと有権者に呼びかけ、汗を流している人を選ぶべきではないのか、という話にもなる。
そもそも政策など判断しかねるという大多数の人は、「難しいことは分からないけれど、あの人ならば大丈夫」という人に、判断を託すことになろう。
そして、「あの人=政策を作成、判断し、実行する人」というのは、つまり「権力者」だ。
かつての世の中では、文字通り血で血を洗う抗争をくぐり抜け、数多の屍の上に生き残った者が権力を握ったのだろうが、
そんなことで無闇に人の命が奪われるのはよろしくないということで、選挙というお祭りで権力者を選ぶようになったというのが、つまり民主政治なのだと思う。
「あの、お偉い先生も、私の一票があるから、大きな顔をしていられる」「私の一票のために、頭を下げてくれる」
そのことに喜びを感じられる人が、選挙というお祭りに参加する。
選挙カーを待ちわびる老人(のような人)とは、そういう人たちではないかと思うのだ。
そして、「お祭り」を利用して権力を上りつめようとする人間は、冷めた傍観者たちに参加を促すよりも、
「お祭り気質」な人たちを盛り上げることに注力した方が、効率が良いことを知っている。
時に、「権力者」という個人ではなくて、「戦争法案をつぶす」とか、そういう思想だが理念だか、そんなようなものを「ご神体」にしてお祭りが催されることもあろう。
多分、それがSEALDsだ。
彼らは初期の目的を達することはできなかったが、多分、世の中を意図的に動かそうと思えば、お祭りのような手段を使ってエネルギーを結集することが必要なのだと思う。
そんなこととは関係なしに、僕らから全く見えないどこかで、いつのまにか物事が決まっていく世の中は、多分、今の世より住みにくかろう。
僕はそんな世の中に住みたくないし、世の多くの人が、そう望んでいると思う。
だから僕は、「選挙カーを待ちわびる老人(のような人)」は、そう簡単に消えないと思うのだ。
消えるべきではない、といえるかもしれない。
選挙のやり方は変わっていけば、騒音をまき散らす選挙カーのような方法は使われなくもなるだろう。
選挙ではないけれど、今もネットでは、「炎上」という名のお祭り騒ぎが日夜開催され、それに参加する人もいれば、眉を顰める人もいる。
僕の粗末な頭では具体的に想像できないけれど、仮にネット選挙が今より進化したとしても、
選挙カーの連呼とは違う種類の「騒音」に悩まされ、うっとうしくなる日がくるのだろう。
ところで、僕はハロウィンに仮装して参加したことがない。今後もたぶん、参加することはないだろう。
だが、心の片隅に、あの、屈託なく仮装して楽しんでいる人たちを羨ましく思う気持ちがないかと聞かれると、全くないとは言い切れない。
選挙カーで名前を連呼する事象について言及すると「そもそも公職選挙法で規定されているから、それしかできないのだ」とブコメやトラバでご教示くださる方がいる。
仮に、連呼以外のことが認められ、選挙カーが政策を訴えだしても、「うるさい」と思う人は「うるさい」と思うだろうし、
走り回る選挙カーから、「政策に興味のある意識が高い有権者」の判断材料になるほど意義のある複雑な内容が訴えられるとも思えない。
良く気付いたね。
犯罪行為の前には、自分の行為の正当化の段階が含まれているのだよ。
俺よりあいつのほうが普段よっぽど悪いことをしている、私をこんなふうにしたのは世の中のせいだ、こんなところで扉を開けているほうがおかしい、本人のパスワード管理のしかたに問題があるのだ、私は不健康で可哀そうだから許される、あいつら金持ちなんだから・ぜいたくをしているのだから少しくらい分けてもらっても良いはず、昔はこういうことをしても許されおおらかで良かったが今は悪い社会になっただけ、未来の人たちにはわかってくれる、夜こんなところにいるほうがどうかしている、私のほうが他の世間の連中より苦しいんだ、(悪い行為ができるようになって)これは神様がくれたチャンスだ、神様ご本尊様・民族・国家・新しい社会・会社組織みんなのため、俺のほうが世の中にずっと貢献しているのだから、俺のほうがIQがいい・けんかが強い・運動や学科の成績が良いのだから許される、被害者が勉強不足・へたくそなんだから自業自得だろ、家族を救う・食べさせるためであって自分のためではないのだ、相手の運が悪かったということで、みんながやっていることだ、英雄はしばしば批判されたり反社会的だったりするのだ、子供・年寄だから許せよ、罪よりも(社会などの他人の受益者の)利益のほうが大きいことだ、社会を正すためにする、(古かったり、所有権争いされていたりして)壊した・壊れたのはかえって良かったはず、頭が悪い人は損をしてよい、本来ならもっとひどいことをされていただろうに私が軽い被害にしておいたからむしろ被害者は助かっただろ、被害者に学習をさせてあげたのよ、俺が自主的にやろうとしたことではないので責任はおおもとの奴にある、共同犯行だから悪いとしても自分は半分だけ、、
幽霊どころか金縛りにすらあったことがないほどに「霊感」というのがなく、
UFOというのも見たことがないのだが、
一生一度くらい、UFOに遭遇したり、幽霊に驚かされてみてもいいかなと思っている。
で、何となく疑問に思ったのだが、幽霊って素っ裸なことないよね?
それとも幽霊と一体化しているのだろうか?
服は脱げるのか?
仮に脱げるとしたら、脱いだ後の服は、どういう存在になるのだろうか?
服自体にも霊魂があって、この世に何か思いを残しているということなのか?
古典的な幽霊は、いわゆる経帷子に三角形のヤツ(名前がわからん)をつけて出てきたりするから
そういう場合は、「この世で最後に来ていた服装を身に着けている」ということなのかもしれないが、
必ずしも、そういう服装をしているとは限らない。
「枕元に父親の霊が現れた」なんていう話に出てくる父親は
「こういう服装で現れたい」という幽霊の意思が、服装に反映されるということだろうか?
死に装束で出てくる幽霊は、その辺にこだわりがないということなのか?
仕事上の付き合いの人は「黒縁メガネの人」という認識があるみたいだけれど
死後、どうしてもこの世に用があった時、メガネをかけたまま出てこられるだろうか?
すっぴんと化粧顔に落差がある女性の場合、ちゃんと化粧して出てくる必要もあるよね?
本人は大丈夫なつもりで、すっぴんで恨みのある男性の前に現れたら、
本人と認識してもらえなかった女性の幽霊とか、いないのだろうか?
あ、カツラしてる男なんか、怖がられる前に笑われたりして。
このあたり、こういう問題に詳しい界隈では、理論的に説明されているのだろうか?
美輪明宏あたりに聞いたらいいのかな?
うふふ。わかるぅ
朝5時に起きて飯を炊けって何時代だって話よねぇ。炊飯予約があるっつーのwwwねぇ?
ゴールデンウィーク的な(田植え休み期間ね)は田植えしろってのもちょっと切ないよねぇ。でも子供だから本来乗りものじゃない田植えマシーンwに乗って移動できて楽しかったなぁw今考えると超危ないけどw段々畑の一段が数メートルあるところのキワキワをターンしたりして命がけ感あるわねwだけど田植えは割と楽しかったから児童労働感はないわぁ。
風邪でどんなに死にそうで世界が回ってても吐いてても起き上がれなくても、ご飯の用意しなきゃいけないとかいうのが辛かったよねぇ。
でもその後、そんなことを強く強要した家族が私よりひどい症状になってたからちょっと黒いけど楽しかったわ。子供でそれだけひどい症状になるんだから年寄なんて死の淵までいくわよねぇ。
ああ、そうそう夏休みはどこにも行かずに、毎日ひたすらのび続ける雑草を鎌で狩るのが大変だったわね。
炎天下だし。大人はエンジンの付いた草刈機を使うけど子供は鎌しか使っちゃダメなんだって。毎日毎日まめがつぶれてもつぶれても終わらないのよね。まぁマメをつぶしたのは軍手するのを面倒がったせいなんだけどね。おかげ様で手がハンパない分厚くなったわぁ。女子の手とは思えない立派な手よw努力は人を裏切らないってこういう事ね。ナウシカも私の手を見て立派な手とか言うに違いないわ。
ついでに扇風脚の練習もしたわね。足で草刈もできるようになったわ。細かい調節ができないから苗木も刈ったわ。でも今ぐぐったら扇風脚って空飛ぶの??地面すれすれを刈ってたんだけど・・・私の修行無駄だったかも・・・・ショックwww
草の片づけをするのも大変だったわね。干し草をばらけさせずにフォークでさして投げるって大変なのよね。
でも格闘技の修行だと思うと楽しいのよwwwあれは嫌じゃなかったわ。しっかり腰を落とすのがポイントよ。上半身がブレると途中にバラバラと枯草が落ちるのよ。雪かきといっしょね。遠くに投げるのには練習がいるわ。
親戚の小学生は「男だから」とかいう理由で2トントラックとか運転してたわね。いくら自宅の畑の中で背が大人と同じくらいあるとはいえあれはいけないとおもうわ。教習所の意味がなくなっちゃうもの。
あと畑と田圃の管理の為ならスクーターは男は乗っていいことになっていたわ。児童労働よねぇ。でも本人は楽しそうだったわよ。スクーターに乗れるなら水の管理もするといった具合ね。
おとこってばかねぇw
稲刈りもたいへんだったわね。
干すところを作るために竹をいっぱい運んだわ。刈った稲を運んで干すのよ。わらをフカフカの椅子にして食べるおにぎりは美味しかったわねぇ。
干した米を脱穀機に投入して、最後には落ち穂を拾ってたき火でポップコーンならぬポップ米よ。
「落穂ひろい」っていう外国の有名な絵があるけれどあの景色は国境を越えてるわね。「外国の人も一年の収穫が今日終わって夕方、落穂ひろいをするのね。そして切ないようなほっとしたような気持ちになるのね」って子供心に思ってたものだわ。
そういえば茶碗を洗う話だったかしら?
あれも研究に研究を重ねたわ。仕事をしながら子育てもする今となってはそんな暇はないけれど、子どもだからたっぷり時間をかけて研究したわ。
自然の素材の石鹸水。これで茶碗を洗うのは滑るのよぉぉ。だけど親は合成洗剤は買ってくれないのよね。自分で洗わないから知らないのよ。プリプリ。
そうね、どうせだから、私が小学生の頃研究した結果を発表するわ。
2~3リットルの水に適当に洗剤を入れてから、指をちゃせんみたいにして、泡を立てるの。泡がブクブクたてばちょうどいい濃さの石鹸水よ。泡がちょうどよくブクブク立つような石鹸水作るのには修行が必要よ。
それから、その石鹸水の中に、あらかじめ汚れをだいたい落とした皿を入れて、持ち上げずに水の中で洗うの。石鹸水はすべるから持ち上げたらだめよ。落として割るわ。このとき中身が泡で見えないけどカンで洗うのが正しいやりかたよ。
何年も研究してようやくこの境地にたどり着いたの。そんなこと真面目に何年も追及するなんて時間のある小学生でしかできないことよ。まぁぶっちゃけこの児童労働には私感謝してるわ。
さぁ、ナチュラル派の皆さん私の知見を役立てなさい。指で泡立てるのがポイントよ。石鹸水はそのままとっておいて、後でまた使いまわしができるわ。指で泡立つなら再利用可能。泡立たないならもうダメ。優しい!地球にやさしい!
だけどね、だけどね、ナテラバンザイ!私ナテラを始めて使ったとき、ちょっと泣いたわ。茶碗を持ち上げたとき滑らない。泡立てた水を使った洗いかたじゃなくても汚れが落ちる。すごい。合成洗剤すごい。だから今でも私合成洗剤が大好きよ。というか合成洗剤しかつかわないわ。うふふ。ナチュラルなんてくそくらえよ。
父親から言われたのよぉ。「ルーチンワークを何も考えずにやるやつはバカだ。常に考えろ」ってね。
私、その命題があったから、子どもなりに一生懸命考えてたのよ。毎日の同じような仕事の何をどう考えるかってことから考え始めたわ。
子供の頃にやったから落穂ひろいにノスタルジーを感じるし、私が考えた最強の洗い方も発見できたし。修行しながら草刈もできたし。
だからアンタはかわいそうね。考えろって言ってくれる人がいたら違ってたのかもね。
アンタだって一生懸命やってればなんかアンタも知らないうちに結果が出てるわ。多分ね。
一生懸命やってなかったら、、、、やっぱアンタかわいそうね。
泣いていいのよ。
つらかったわね
タイトルの通り、当社でも寄付をしているが、「1個売れたら何円か寄付」とか「売り上げの何%を寄付」というイメージだったが、実態はそうではなかった。
当社の場合、寄付する額は予め決まっていて、決裁を取るときだけ、その額から1個あたりの寄付額を求めて提出していた。
なので毎年寄付する単価は異なる。1個あたり2円の年もあれば0.5円の年もある。
一方で寄付額が決まっているので、景気が良くても悪くても、変わらない。(変わらないと言っても毎年私の安月収程度)
この寄付額は公表していないので、この問題は表に出ない。株主にも、小売店にも。
冒頭にも書いたとおり、「売り上げの一部を寄付」という言葉は、売れた数に比例して寄付額が増えるイメージを持ってる人が多いと思う。
ただこの書き方だと、寄付する額が青天井になりかねないので避けているらしい。
なら何故普通に「いくら寄付しました」と普通に公表しないで、「売り上げの一部を」という書き方にするのか。
この決裁を書き、1個あたりの寄付額を計算するのが私の仕事。なんだか騙したような気分でたまらない。
今年は何円になるのか。1円だと並。3円だと景気が悪い。0.5円だと景気が良い。