はてなキーワード: クリアとは
何年も言い続けているのに改善しないこの状況、
運営側に対応を求める意見をよく見かけますが、それを待っても仕方ないと思うので、
具体的・実際的に「どうしたら解決(は無理でも、今よりは改善)するか?」を妄想してみた
運営に対応を任せきりにするのではなく、参加者が知恵を出し合って一歩でも前進できればいいと思うので
気が向いたら読んでみてください
まず大前提として、
「朝4時半(と仮にします)以降に待機場所に到着した人を最初に入場させる」
「かつ、コミケが社会的に問題にならず、継続的に運営しつづける」ということを目指します。
コミケ準備会の権限の及ぶ限りの敷地を、4時半までは一般参加者が立ち入れないように封鎖する。
↓
「封鎖」を具体的にどうするか?
→簡単に超えらる柵を設置したところで、現状でもルールを破る人たちは余裕で無視して超えてきそう。そうなると現状と同じで、物理的に千人単位及の人を無理やり移動させる合法手段が準備会側にはない。もし怪我をさせたりしたらすぐにニュースに取り上げられてコミケの存続が危うくなる。
→無理に登って転落して怪我したり、さいあく死人が出たら…「コミケ来場者が負傷・死亡」というニュースが出ると、何もわかってないニュースの見出しを鵜呑みにするマスの批判を浴びて今後の開催が不可能に。
→結局その壁の外側の「コミケ準備会の権限の及ばない公道・施設」で数千人の野宿者が出る。周辺施設に迷惑がかかり、結局「コミケのせいで近隣に迷惑が」と問題になりやはり今後の開催が不可能に。
↓
結局どれだけ封鎖区域を拡大しても、その「封鎖された地区に一番近い、封鎖されてない地区」で徹夜するだけなので、
封鎖を拡大すればするほど公共の場所に迷惑がかかり問題になる。スタッフの配備についても同様。
だからこそ現状では、近隣に迷惑がかからない、コミケ準備会の権限の及ぶ敷地内で大人しく並ばせることになってしまっている。
警察などの機関の協力についても、千人単位を誘導できる規模での出動は「イベントの不手際に対して何人の警察を使うんだ、税金が」とマスコミが騒ぐのは目に見えているので同様。
徹夜組よりも、始発組が早く入れるように。
↓
どうやって?
→ルールを破って徹夜しに来た人が従ってついてくるわけがない。1回目は騙せても2回目以降は不可。動こうとしない人間を動かす手立てがないのは前述の通り。
B) 徹夜組に整理券を配布、始発組が入場した後に入場させる。
→整理券を受け取るわけがないし、さっさとその場を離れて始発組の列に紛れて入場できてしまう。それ以前に、徹夜組を容認・待遇してしまっているのは根本的に間違い。
C) 4時半になったら徹夜組の周囲に柵を設置。徹夜組が柵から出られないようにして、その後ろに到着した始発組を最前列とする。
→容易に超えられる柵だったら、徹夜組は無理にでも柵を越えて始発組の列に混ざるはず。
超えられないほどの柵を作った場合、野外でトイレにも行かせない・倒れても救護しないで柵の中に人を監禁する行為は問題があり、人権侵害で訴えられても準備会は勝てない。もし仮に1回目はこれが効いたとしても、2回目以降は徹夜組は柵を設置するタイミングで逃げ出すので諸刃の剣。
根本的に、準備会は「イベントのルールを破った一般人」に対して人権侵害レベル・刑事起訴しうるレベルの強硬手段を取るのはさすがにマズイ、というのが問題のベースにあるので、その点をクリアできない。
D) GPS記録機能付きのリストバンドをつくって有料で事前販売。午前中はリストバンド購入者のみ入場可能に。
入り口でGPS記録を読み取り、4時半以前に待機列にいた記録のある人は改札ではじく。
システム構築・機器の大量設置でかなりコストはかかるが、1日5万人分を1000円で販売すれば4日で2億円。2億あればシステム構築・製造・リストバンド流通をまかなえるのでは? なんなら2000円でも売れると思う。
→GPS読み取りで時間がかかるので今以上に入場のスムーズさは欠けると思うが「正午までにさばける数」だけリストバンドを販売すればいいいので来場者数の目処は確実に立つ。さいあく、当日システムエラーで読み取りが機能しない場合はノーチェックでもいい(現状よりは徹夜組・リストバンド非購入者を抑制できるはず)。
→5万個限定のリストバンドを巡って、転売屋が湧きリストバンドの転売価格が高騰するという別の問題が起こる。
これはあらゆるチケット販売で起きていることなのでこれを防ぐ方法はないのが現状だと思うが、善意でキャンセルする人の譲渡手段は運営側で準備するなど…? もしこれがまたいらぬニュースのタネになって社会問題化すると、コミケ存続が危うくなる。
どこまでいっても「運営側は一般人の抵抗にあった場合、強硬手段に出れない」壁は残る。
もう少し参加者同士で指摘し合うことで徹夜組の絶対数を減らせないか?
方法③ 運営側が「徹夜組の個人を周知する」ことで、人の目に晒す
↓
A) 4時半前に強盗犯に投げるようなカラーボールを発射、徹夜組の服に色をつけ、会場内で「こいつ徹夜組だな」と全員に分かるようにして全員で冷遇する。
→ 運営による一般人への器物破損な上に、着替えられたら終わり。
B) 4時半前に待機列にいる人を顔がわかるように正面から撮影、ツイッターの準備会アカウントで晒す。
→ 肖像権を訴えられたら負ける、来場者のプライバシーを最も配慮すべき準備会がこれをやるのは大問題、コミケに関係のないマスの人間にまで見られてしまうと準備会に不利な形でニュースに取り上げられそう、あと顔隠されたら終わり。
B’) 準備会が撮影するのは問題だけど、一般参加者が撮影して晒せば?
→ 「参加者の顔を写さない」というルール違反を準備会は黙認できない。これで初心者が「参加者の顔を撮ってもいい」と勘違いしたら問題が広がる。
↓
そもそも「晒す」行為が人権侵害に限りなく近くなってしまい、晒した側が悪になってしまう。
準備会は「公式」「運営」「代表」という立場上、社会的に問題になるような行動には出られないし、
準備会がリスクを犯せばコミケを待ち望んでいる全員が悲しむ結果に繋がりうる。
徹夜組の駆逐は有志組織で対応し、あくまでも外向きには「一般参加者同士が互いのマナー向上のために注意しあっている」状態に。
A) 「入場できなくてもいいから、徹夜組を駆逐したい」という有志が始発で来場し、
徹夜組を取り囲んでスクラムを組み「人の壁」で徹夜組をその場から動けなくする。
準備会が列を誘導してもその一帯はてこでも動かないので、「スタッフの言うことを聞かない一団」としてまるごと無視されて、
その後ろに並んだ始発組が先に誘導される。
「徹夜組をなくしたい」という気持ちの人が集えば集うほど強固な壁になり、
彼らが始発組に「行け、お前ら…! 徹夜組はここで食い止める…!」と踏ん張り
「ありがとう…! 明日は俺が壁になるからな…!」という参加者同士の熱いドラマ、
そして準備会も「有志のみなさん、申し訳ない…!俺たちが徹夜組に手を出せないばかりに…!」
「馬鹿野郎、お前らのためじゃねえよ…俺たちは、俺たちのコミケのためにやってんだ…
それより、俺たちが間違って始発組を閉じ込めちまわないように、準備会は目を光らせてくれよ」
っていう本を誰か書いて欲しい。
件の映画に対するコメントを見るにどうもこの国ではDQはその名を知りプレイした国民の100%全てに愛されているかのように扱われているように思えます。
でもそうじゃない人もいることを忘れないでください。
私はDQが大嫌いです。
件の映画は見ていませんし、見る気もありません。
DQを2時間も見せられて結局不完全燃焼で終わるなんて許せません。
最初の出会いは、友人宅でゲームソフトを交換していたときに、ふと目に入ったそのゲームを借りたことです。
ぼうけんのしょ1には友人が進めていたデータが入っていました。
隠しボスを気が向いたときにいつか倒すために取っておいてあるデータだから絶対消すなよと念を押されました。
ぼうけんのしょ2ではじまった私の冒険は素晴らしいものでした。
大工の息子にして最高の兄貴分というまるでかの聖人をなぞるような存在であるハッサン
エリート意識に振り回されるままに落ちぶれ続け仲間になる頃にはMPタンクにもなれるかどうかも微妙なテリー
そんなテリーに1度は叩きのめされたものの彼よりよっぽど強いドランゴ
魅力的なキャラクター達と巡る2つの世界、寓話性の高い物語の数々、定期的に現れるやたら強いボス、マダンテを打った直後に死ぬバーバラ、確かにとても素晴らしいゲームでした。
明日こそ、アイツを倒す。
後に知るのだが、これは大きな間違いだったのだ。
同じDQシリーズでもFCのソフトの場合はリセットを押しながら電源を切った方がセーブが消えにくく、SFCのソフトはリセットを押しながら電源を切るとセーブが消えやすくなる。
そして、次の日。
ぼうけんのしょ1と2が消えたのだ。
2が消えたこともショックだったが、1が消えたショックは更に大きかった。
そのことを友人にどう打ち明ければいいのか悩み、まだクリアしていないという事で友人とは会話を合わせながらもう一度冒険を開始することにした。
2回めの冒険は、ムドーを倒すよりも早くぼうけんのしょが消えた。
セーブが消える癖がついたソフトを友人に返し、2週間ほどぎこちない関係を送ることとなった。
友人にソフトは返したものの、クリア出来ずに終わったという思い出は私の中に残り続けた。
それから5年ほどたった頃、私はふとゲームショップでDQ6が安く売られているのを発見した。
PS2が主流となった時代、もはやゲームショップにとってSFCのソフトは邪魔なだけとなったのかどの店も二束三文で売り買いをしていた。
リベンジ、そんな言葉がふとよぎり、私はDQ6をレジに持っていった。
そして、帰りの電車の中で説明書を読み、リセットボタンを押しながら電源を切るという友人から推奨された方法が説明書と食い違っていたことを知った。
もう疲れた。
私はもうDQを遊ぶ気にはなれなかった。
その後DSでリメイクが発売され、再び挑戦しようと思ったが、全てが面倒になっていた私はYOUTUBEでEDだけ見て終わらせることにした。
虚しかった。
とても味気なかった。
こんなゲームのために、私は一度は友情さえ失いかけたのかと思うと、憎しみが燃え上がってきた。
私はDQを愛してなどいない。
件の映画も見に行こうとは思わない。
でも、勇者ヨシヒコは好きだ。
勇者ヨシヒコはバラバラで見ても面白いし、ぶっちゃけラスボス戦周りは特に面白くもないからどうでもいいし、何よりセーブが消えたりはしないし、録画ミスっていても配信で見ればいいだけだし、私がDQを嫌いな理由である所の「おきのどくですが ぼうけんのしょは きえてしまいました」という舐めた態度と無関係の所にいるので、勇者ヨシヒコは好きだ。
寝る前にこの記事を読んで興奮してしまい、眠れずに書いている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/kokoro.squares.net/?p=7763
http://kokoro.squares.net/?p=7763
そんなことを、ぼくも考えていたことがある。
例えば、抗不安薬を飲んで悩むことも喜びも感じないとき、あれほど悩んだ不眠に薬が効いてコンピュータのスイッチを切るように自由に眠れるようになったとき。そういう体験を通して、自己同一性に疑問を持ったことがある。そんな悩みを友人に打ち明けたとき、お前の言っていることは意味が分からない、悩みすぎだと一蹴されずっと心の中に抱えていた。
だからこそ、この投稿者の質問文の明晰さに惚れ惚れする。彼の文章は淀みなく流れる川のようであり、彼が何を悩んでいるのか手に取るように伝わってくる。だからこそ、ぼくは読んで興奮している。
そして、このようなクリアな質問を紡ぐことができなかった自分を責め、彼を嫉妬している。
しかし、ふと冷静になっているとこのような素晴らしく明晰な文章に出会えたことは喜ばしいことだと気づく。
お薬飲んで寝ます。
え、すごい。私も育成しきってないカルデアで1部クリアしたけどそこそこガチャ回してたから星5いたよ。
いつも9月と12月にボックスガチャのイベントがあるから周回して種火貯めたらいいよ。
9月は復刻なしの新イベントだからボックスガチャの制限ないし。
12月の初めはボックスガチャのサンタイベントでだいたい10箱くらいの制限あるけど新サンタイベントのほうは制限なしだと思うし。
要約:フレポで星2陳宮引いて火をぶっこんでみろ
死にながらったってマスターは死なない 令呪か石が死ぬだけだ 標準かちょっと早い進行えらいね
次はサポ鯖だ、星2陳宮、孔明、マーリン、スカスカ、玉藻など術に多い いなければアンデルセンでもいいけど陳宮
次にエクストラ鯖 フォーリナー、ルーラー、アヴェンジャー1つずつ(あとアルターエゴかバーサーカーの2人目)
ムーンキャンサーが要ると便利だし配布最強だけど復刻待つしかないよな(とれたか?)
全体宝具鯖ほしいだろうけどボス戦は単体宝具鯖もよくささってよい
ロリンチちゃんのクラスなんだっけ ライダーか メモリアル後半に術が必要なの結構あっただろ 育成早めにすませろ
第一、第三スキルがNPアップ ライダーだから星も吸うから2015年の欠片つけたらクリティカル頻発だろ
ゲームのクリア直前で世界が崩壊することを皆は口々に批判していたけど、俺にとってのDQはいつだってこうだった。
https://www.youtube.com/watch?v=gQf_QTsvXCU *例のBGM
そのどれもでラストダンジョンの半ば、ラスボスを倒すためにレベルを上げている最中にデータが吹き飛んだせいでクリア出来ていない。
それでもと、繰り返し遊ぶが何度やってもラスボスよりも前でデータは消えていく。
段々とプレイは効率化され、繰り返されるリセットにより感情移入は失われ、世界は断片的で無味乾燥としたものへと姿を変える。
やがてそれらはただの義務的な作業となり、キャラクターはただのデータに過ぎなくなる。
俺にとってのドラクエだ。
ただ一つの違いは、俺には奇跡が起こらず、世界は壊れたままで閉じていった事だ。
俺の中で、3つの世界は今も救われないまま胸のしこりとして残り続けている。
それらを救いに行こうと旅立つ気力はもうどこにもない。
俺にとってあの世界はもう、フラグ管理された0と1の羅列でしかなくなっている。
胸のうちから没入感を湧き上がらせる度に裏切られる旅路は、いつしか俺にドラクエに対する無気力を学習させていった。
今ではあれらの世界は俺に苦痛だけを残した忌むべき場所となっている。
俺はドラクエが大嫌いだ。
ドラクエが大嫌いなアイツこそが俺だったんだ。
ならば壊す側の俺にとってはアイツこそが二人称で呼ぶべき何者か、「ユー」だ。
あの映画が「ユー」の物語であるのならば、俺にとってはたしかにアレは「ユア・ストーリー」だった。
俺の物語でもあったし、俺と対立する誰かの物語であり、その中で結局主人公だったのはあの映画において正義として描かれたのもその何者かの方だ。
その虚しさは、俺が何度も消えゆくデータの中で、世界を救えないことに対して感じた申し訳無さを確かに思い出させてくれた。
正しく「ユア・ストーリー」だった。
【辛い描写が出てくるので閲覧ご注意ください】
京アニの事件があった。あれから、友人に連絡が取れない。既読のつかないライン、夢に出てくる彼の顔、10分置きに被害者リストと検索をかけている。
多くの人が、今日アニのために祈っている。多くの人が、募金箱にお金を入れる。多くの人が、「生きて真相解明を、生きて罰を」と望んでいる。多くの人が失われてしまった京アニの財産を悼み、多くの人が有名な監督の安否を気遣う。それは当然のことで、現実的なことで、そしてとても尊いことだと思う。
そのうえで、僕はこの文章を綴る。
なお僕はこの事件のずっと前に、人を焼死というかたちで失くしている。最後の吐息を、苦しむ様を、肌を、僕は知っている。それがどれほど凄惨なものであるかを、知りたくもないのに、僕は知っている。
僕は彼が好きだった。彼が夢を叶えるためのあの場所に、どれほど頑張ってたどり着いたか、どれほどの夢を見ていたかを僕は知っていたし、彼の仕事への姿勢を、僕はとても尊敬していた。一緒に作り上げてきたものがとても素晴らしいものであったことを、僕は誇りに思っている。
こんなことを言うと怒られるかもしれない。でも、僕は、彼が「著名な人間」ではなくても彼を愛していたし、彼が彼の仕事をしていなくても彼のことが大好きだった。
多くのアニメーターさんの命が失われた。文化の消失であり、文明への許せない反逆だ。
多くの人が僕と同じように苦しんでいる。34人の方々の、怪我をされた方々の近しい人たちが、みんな苦しんでいる。直接に関わりのなかった人も、心を寄せ、その無事を祈っている。だから僕は、決して僕が僕と分かる場所で、この言葉を吐きだすことはしない。だってそれは、「35人の方々の、怪我をされた方々の」近しい人への暴言になるかもしれないからだ。
でも、ここでだけ言わせてほしい。
文化や資料の損失、それに思いが至らないくらい、僕はただ、個人でしかない、僕の友人のことが、ただ心配している。その無事を祈っている。
有名な監督の安否を心配する声が流れるなかで、僕はただ、「一個人」であった、まだ名前も出ていない彼の安否を願って夜をすごしている。優秀な技術者だったから、彼を、彼たちを、彼女たちを心配しているわけじゃない。名付けられないスタッフひとりひとりに、その無事を祈る人間がいる。そのことを、どうかだれかひとりにでも知ってほしい。
多くの人が京アニのために募金をし、その再建を祈り、願い、思いをはせている。とても尊いことだと思う。多くの人が「お金では何も戻らない、でも何かせずにはいられない」と考えて、お金を入れている。僕ももちろん入れた。
だけど、多くの人が言っているように、京アニが復活しても、そこには34人の姿はない。
これは決して、「募金をするのが無駄だ」とか「偽善だ」とかじゃない。入れている人達の多くが、戻ってこないことを承知で、それでも自分にできることを探して、大切なお金を入れている。それが前を向くための力になることも知っている。
だからこれはただのやるせなさとどうしようもなさと無念さで言うのだけれど、人の命はお金では買えない。戻ってこない。決して。それにどうやって折り合いをつけたらいいのだろう。
今まで何度もこの言葉を聞いた。僕はそれをわかっているつもりだった。でも、全然わかっていなかった。被災地に、犯罪被害者の方々に届けと入れてきた多くの募金は、それでも僕にとっては「他人事」だったことに気づく。本当にごめんなさい。
選挙のこともほかの芸能ニュースも、申し訳ないけれど、僕にはどうでもいい。だって彼らは生きている。選挙には行ったけれど、世の中のあらゆる動きは、僕にとってはどうでもいい。それらにもとても大切な意味があるということを、今の僕は「知って」はいても、どうしてもクリアには「感じ」られないのだ。
犯人について
犯人の話も出ている。よく見るのは
1.犯人の背景の話
2.生きて償え、生きて真相を語れ
3.これから二度とそんなことが起きないようにするために、対策が必要
という3つだと思う。
1については正直、どうでもいい。犯人の背景にどのようなものがあろうと、その男が全き加害者で、京アニの人達が全き被害者であることは間違いがないからだ。精神障害があった? 苦しんでいた? それがなんだというのか。それによって差別がうんぬん、という話すらどうでもいい。
その男の背景に思いを馳せてその男を許そうとすると考える人がいたとして、そしてそれが今回の件のご家族なのだとしたら、僕はそのご家族の勇気に敬意を表したいと思う。
そうでなければ黙ってろ。その男の背景を持ってその男を擁護する人には、夢を希望を奪われ、苦悶と壮絶な痛みのなかでもがき苦しみ、喉がやけて息ができなくなって、「なぜ」の声も届かないまま死んでいく己の家族を見ても言えるのかと聞きたい。
こういうことを言うと、「仮定の話をしても無意味だ」と言う人もいるだろう。だが、「仮定の話」を考えることができないのであれば、その人は想像力と共感力の欠けた化け物なのだと僕は思う。
2はよく見る意見だし、僕にも分かる部分がある。僕と同じ立場の人でも、このように望んでいる人もいるだろう。ただ、それでも、僕はあくまで僕だけの考えで言いたい。今まで一度も言わなかった言葉で、僕ははっきりとこう言いたい。「死ねばいいのに」ではなくて、心の底から言いたい。
「どうか、死んでいてくれ」。
「刑罰を受けなければならない」「神格化されてはならない」「真相を究明しなければならない」という意見は本当にその通りなのだけれど、僕はあの男がたとえ生きていたとしても、僕たちが望むような刑罰も、僕たちが望むような真相も、齎されることはないと思っている。
日本は法治国家だ。だから僕は、その男が拷問によって死ぬべきだとは決して言わないし、その男の家族に累が及んではいけないと考える。だが、そうである以上、あの男に下されるのはたとえ死刑判決であっても安寧に満ちた「首吊り」という終わり方に過ぎないのだろうし、そしてそれが実行されるのは何十年も後のことになるだろう。
真相などない。狂人に真相などない。そしてたとえ真相が語られたとしても、亡くなった方が生きて帰るわけじゃない。亡くなった方は声をあげることもできずに命を引き取ったのに、なぜあの男にだけ法廷で声を挙げる権利が許されるというのか。なぜ、自らの、けったくその悪い最低最悪の言葉を、「真相」という言葉で語ることが許されるのか。死刑廃止論とかそういう議論に使われるのもごめんだ。私怨で構わない。
死んでくれ。死んでいてくれ。死んでいてくれ。どうか、死んでいてくれ。
これから二度とそんなことが起きないようにするために、対策が必要
3の意見もよく見る。たしかに正しい話だし、二度と同じことが繰り返されてはならない。再発があってはならない。
でも、この言葉を語る人に、反論ではなくて、ただ本当に純粋に聞きたいのだ。
「セーフティーネットや孤独を感じる人へのフォロー、世界が裕福になったとして、本当に『狂人』が現れないと思いますか?」と。
孤独が人を狂わせることはたしかにある。セーフティーネットがあれば防げていた事件もあるだろうし、実際に防がれたこともあると思う。そういう意味では、これは有効だ。
だけれど、どのようなきめ細やかなネットであっても、そこから漏れる人は必ず出てくる。ネットに引っかかっていたとしても、犯罪を起こす人間はいる。
今回の事件は、「社会が悪かったから」起こったんじゃない。社会がよくなっても、事件を起こす人間はいなくならない。
それに、亡くなった人は、「次の事件が起こらない布石になるために」死んだわけじゃない。このような発言をする人も、決してこんな意味で言っているのではないと推測はできる。
歌の歌詞ではないけれど「意味のない悲しみはないと思う」と僕も願いたいし、今までずっとそう思って生きてきた。そしてそうすることが、この痛ましい事件から立ち直る方法のひとつだとしても、それでも僕は、「対策」から外れる人間がいることも知っているし、このような事件がまったく起こらなくなるわけではないと知っている。
「今回の事件から学ぶ」「二度と同じ思いをしない世界へ」これはたしかに意味のあることだ。
だけれど、「今」亡くなった人は、二度とかえってこない。
その言葉をネットに流す意味を、「今」亡くなった人がいた・その人を愛しく思う人達がいるネットに流す意味を、どうかお願いだから考えてほしい。
残された人のこと
未来を夢を希望を一方的に奪われた犠牲者の悲しみを、僕は決して「分かる」なんて言えない。言える筈がない。僕が思いを馳せられるとしたら、「残された人のこと」だけだ。
楽しく語り合った時間、一緒にとった写真、ともに作り上げた作品。それらはすべて優しくて面白い思い出の筈なのに、一番つらい記憶と重なることの残酷さを僕は思う。思い出となるものが、一番苦しい記憶に重なって、そしてそれは決してなくなることはない。思い出が鮮やかであれば鮮やかであるほど、夢と希望と命を奪われた愛する人の胸を苦しみを思い出してしまう。
僕は人の死を何度も見てきた。だけれど、「だれかに、理不尽に、奪われた命」は、また違う意味を持つ。命の尊さやご家族の苦しみに優劣や軽重はない。それはわかったうえで(僕自身も、それの経験者だ)言う。故意に、だれかの手によって、理不尽に、身勝手に、苦しみを持って愛する人を奪われたことの慟哭は、その人と紡いだ楽しい記憶さえ蹂躙してしまうものだと。
もうひとつ。
僕は彼と、随分「大人」になってから知り合った。子どもの頃からの付き合いとは異なり、多分彼の交友関係もまた、彼の家族はそれほど明確に把握はしていなかったと思う。
だから、彼の名前が公式で発表されない限り、僕は彼の安否を直接的に知る方法はほとんどない。あらゆる方法で連絡をとったけれど、ご家族がそれを目にして、そしてご返信をされない限りは(当たり前のことだけれど、それを強制するわけではないです)、僕は彼の本当の安否を状態を、知ることができないのだ。
これはとても難しい問題だと思う。「被害者の名前を公開するな」という気持ちはもちろんあるだろうし、それは責められるべきではない。被害者のプライバシーは守られるべきだ。だから僕は、僕のところに連絡がなくても、それを批判はしない。
ただ、心配なだけだ。ただ、安否が知りたいだけだ。そして、「それがしれない環境」をどう打破していいのか分からず、毎日夜を過ごすことしかできないでいる。
これからのこと
「本当に友人だったらこんなことを書ける精神状態じゃないはずだ」「事件にカコつけてみてもらいたいだけ」「自分に酔っている」と思う人もいるかもしれない(たとえ匿名であっても)。ただ僕は彼のプライバシーを書く気はないし、また僕も「僕」としてここに綴るつもりもない。酔っていると言うのならそうなんだろう、こんなつらい話、いつもの精神状態で、いつもの語り言葉で話せるわけがない。ただ、書いていて、吐き出して、それでいい。僕は僕自身が落ち着かないということで、これを書いているだけだ。
僕は彼からの連絡を待つ。それ以外にできることはない。ただ、そうはわかっていても、僕は何度も被害者名を調べる。身勝手なことだ。ほかのご家族やご友人だって同じ気持ちでいるのに、僕はその「被害者名」のなかに彼がいないことを願って、ずっと調べているのだから。
ただ知りたい。彼がどうしているのか。彼が今何をしているのか。「覚悟を決めなさい」と言われたけれど、それでも彼の無事を祈り、僕は彼の連絡を待っている。
京アニを、なかにいた人を愛していた人たちの「心配」「何かできることを」の気持ちを、この吐露によって傷つけてしまったとしたらごめんなさい。「心配」「祈ること」「自分達ができること」をやりとげる人達に、心から敬意を表します。僕はまだ、現地にいけません。心が追い付きません。まだ安寧を祈るところにまでたどり着けていません。僕自身の未熟さゆえの話です。「安らかな旅路を」とさえ、まだ祈ることもできない。あまりにもむごい事件だったから。
僕はこの事件を、政治的な解釈と結びつけたくはないし、陰謀論も知りたくありません。ほかの犯罪や事故との比較もいりません。僕がこの事件に、今まで接してきた事件のどれよりも深くショックを受けているのは、社会的道義や主義主張などの話ではなく、ただただ身勝手に、僕個人として、僕の友人が心配だからです。僕は僕の怒りを憤りをやるせなさを、社会的道義や社会的倫理観に代えることはしません。犯人の背景や思想もどうでもいいです。ただ友人の無事を祈ります。
僕は仕事をします。彼は僕の仕事のやり方を好きだと言ってくれていたから。だけれど、日常に戻れない人にも僕は寄り添いたいし、寄り添われたいと思います。
「被害者のなかに、実際の知人・友人・家族がいる人」と、「京アニという会社を、なかのスタッフを画面を通して心から愛していた人」と、「痛ましい事故に心を寄せ、自分ができる限りのことをしようとしている人」との間には、たしかにどうしても、どうしても、どうしたって越えることのない、仕切りはあると思います。あります。
その仕切りがあっても、だれもが祈り、願い、心を馳せることの尊さは、決して変わりません。喜びは分け合うことができても、悲しみは分け合うことはできない。でもそれでも、僕は人が持つ人の可塑性を、人の持つ人への愛情を信じたいと思います。その可塑性が亡くなった人にはもうないのだとしても。残された人間にしか感じられないものだとしても。
(また、これはあくまで「人間」を対象としているので、人間ではないあの男に対しての言葉ではありません)
読んでくれてありがとう。
思い出ばなしを絶対に誰にも喋ってないし喋らない、写真も取らない(証拠になるので)、楽しかった思い出、現地での交流、素敵な景色、全て自分の心を満たしたので、自分以外には一切口外しないし、嘘ついて休みを取得してるので、誰にも旅行に行ったことをさとられていない、
そりゃまず小学校の学習っていうのが(もちろん有名私立とかは知らないけど……)基本下に合わせて、低いラインを全員がクリアするのが目的でしょ
高い能力を持っていても100点以上は評価の対象にならないし、それよりも授業態度とかの方が重要になる
「バカなりに一生懸命頑張ってます」という奴の方が、少なくとも通知表の上では優等生になってしまうわけだ
そういうのが評価されるのはどっちかというと塾のテストの方だし、だいたい公立の先生なんか塾敵視しまくってたしさ
学校の四教科で本当に死力を尽くして頭をフル回転させた経験って、それこそ50マスとか100マスの計算ぐらいのもんじゃないか?
その点、副教科は本気を出しても空気の読めない奴扱いされない