はてなキーワード: 「奇跡」とは
塾の先生が大好きだった。
知識豊富で、視野が広くて、感受性が豊かで、面白くて、人としての魅力がたくさんあってその人の傍にいるだけで胸がいっぱいになった。
気にかけて貰えると嬉しくて、認めて貰えると涙が出てきてしまいそうになった。
先生のようになりたくて勉強を頑張った。勉強をしていくうちに学ぶことが楽しくなっていった。
それから様々なものに興味を持つようになり気が付いたら、今まで見向きもしなかったものを好きになっていた。
ものの考え方も、捉え方も良い方向に変わり、人との出会いや一時一時を大切にするようになった。
その時の私は先生が「カラスは白だ」と言えば何の疑問も抱かずに「カラスは白なんだ!!!」だと思ってしまうくらい単純だった。
けれど、この時点で先生に対する気持ちを拗らせていて「尊敬」なのか「愛」なのか自分でもよくわからなかった。
結果、「先生のようになりたいんですがどうしたらいいですか」と言うことしか出来なかった。
これが私の先生に対する精一杯の「好き」だった。
先生は「俺のようになることは出来ないだろうな。お前は結婚をして幸せを感じることが出来る人間だからな」と困ったように笑って言った。
泣きたくなった。
はっきり自分の気持ちを言葉にしなくては伝わらないことをわかっていたが、自分でも把握出来ない拗らせてしまった好意を口にするのは重たすぎて出来なった。
「先生と一緒に働きたい」と言えば良かったのか、「好きだ」と伝えれば良かったのかわかりはしない。
頭が良かったら? 美人だったら? 先生と似たような人間だったら?
どんな人だったら先生に選んでもらえたんだろう。
私の中で先生が一番だったように、先生の中で私が一番になりたかった。
「君の名は。」を観た。映画としては面白かったが、監督の東京至上主義的発想がにじみ出ていて気分の悪い作品だった。以下ネタバレこみでどこが気持ち悪かったか書く。
まず、三葉が飛騨に住んでいるのに東京の話ばかりするところが気持ち悪い。飛騨は一応岐阜の一部であり東海地方である。テレビも名古屋のニュースが入るはず。ならば、まず三葉が向かうべき都会は東京ではなく名古屋のはずである。もちろん、東京と名古屋では都市の規模に明確な差があるけれど、「カッフェ」はたくさんあるし雇用も最低限はある。実家の様子を見に行くことを考えれば名古屋に就職するという選択肢も考えられるはずで、そこがすっぽり抜け落ちているのが不思議だ。小説版では三葉が名古屋のことを「大きな田舎」と表現する場面があるらしいが、当たり前だが飛騨よりは名古屋のほうが何倍も都会だ。三葉たちが困っていたのは「カッフェ」がないこと、雇用がないこと、訳のわからない因習があることだ。それらから逃れるためだけならば東京ではなく、岐阜市なり名古屋市なり富山市なり近くの地方都市に引っ越せばいい話である。(岐阜や富山は雇用が少ないかもしれないけれど)三葉が「田舎」を脱出したいという気持ちはわかるが、その向かう先が「東京」である必然性は感じられなかった。
次に、三葉たち糸森村の若者たちが最終的に三人とも上京するというのが気持ち悪い。繰り返し書くが、三葉たちが「田舎」から脱出するなら名古屋に引っ越すという手段もある。それなのに三人が三人とも東京に出てくるのはなぜなのか?また、百歩譲って名古屋が飛騨と同じレベルの「大きな田舎」だとして、「田舎」に彼らが残らなかったのはなぜか?糸森が消滅したとして、その地元に愛着があるなら欠点はあれど飛騨に残るという考え方も抱けたはずだ。特にテッシーは親父が土建屋でその跡を継ぐという選択肢も考えられたはずであり、岐阜で就職することもできたはず。東京に行った三葉と地方に残ったテッシーという対比もできたのに三人とも上京してしまうというのが腑に落ちなかった。
そして、彗星が墜落したあとの三葉とテッシー夫婦以外の糸森町民の姿が描かれないのも気持ち悪い。町は半分くらい吹っ飛んだが避難は完了したはずで、三葉の妹やおばあちゃん、親父さんは生き残ったはずである。それなのにせいぜい三葉の親父さんが週刊誌に載ったことがわかるくらいで妹やおばあちゃんの後日談はない。あたかも彗星によって三葉たち以外の糸森町民は抹殺されてしまったかのようだった。また三葉たちは生き残ったが、糸森という文化は彗星墜落によって消滅してしまった。これは瀧が過去を改変する前も後も実は変わっていないように思えた。田舎の文化や田舎に残った人たちを瀧は実は救えていないのではないか。
(そもそもおばあちゃんや妹は生き残ったのかという疑問もある。ラスト付近で瀧が彗星の被害について振り返ったとき、彼は「突然の避難訓練によって、奇跡的に『ほとんど』の町民が生き残った」といった。この言葉からわかるのはあの彗星墜落によって少なからず死者が出ていたということである。その死者の中にテッシーの親父や三葉パパや四葉が入っていた可能性も後日談が描かれなかったから十分ありうる。神社や土建屋といった「田舎の因習」の象徴である彼らを監督は観客にはわからない形で彗星で消し去ってしまっていたのかもしれない。)
①「君の名は。」の世界には「東京」と「ど田舎(=飛騨)」しか存在しないのが気持ち悪い。地方都市の存在を無視している。
②若者たちは必ず「東京」へ行かなければならず、彼らが抜けだしてしまった「ど田舎」は描く必要がないという思想が気持ち悪い。東京は必ずしも「地上の楽園」ではないし、若者たちが抜けだしても飛騨に残った人たちの生活は続いている。「田舎」は「東京」へ向かう若者たちの踏み台ではない。
この二つは監督の「東京至上主義」から出てきているのではないか。東京以外に日本に都会はなく、あとは全て「田舎」である。「都会(=東京)」は素晴らしく、「田舎(=東京以外)」はくそったれであり、若者は必ず上京しなければならない。自分は新海監督のファンではないので彼が今までどういう映画を撮ってきたかよくしらない。だけど、「君の名は。」を自分なりに解釈するとこういうメッセージがあるように思えて仕方ない。そしてこの発想は「東京以外」にすむ自分としては非常に気持ち悪い。セカイ系だなんたら言われてる人らしいがその手の批判もむべなるかな、と思ってしまうような映画だった。
・追記
一部ブコメに返信
「miruna 軽井沢の田舎のボンボンにはTOKYOがあんなキラキラに見えるんだよきっと。ファーストフードの豊かさを無視してブルジョア高校生がクソ高いカフェでお茶してトラットリアでバイトするんだから。」
これは全くその通りだと思います。自分がなんでこんな増田を書いたかというと恐らく新海監督は長野のご出身(それも関東圏にかなり近い)なので都会=東京なんですよ。彼の原体験にはど田舎(長野)と都会(東京)しかない。近くに札幌や福岡、名古屋のようなそこそこ都会な都市がない。だから地方都市をぶっ飛ばして若者がみな東京にすい寄せられていく話を書いたんだと思います。でもそれは福岡や名古屋、札幌のほうが東京より近いエリアでは微妙に事情が違ってくるはずなんですよね。だから本当はご自身の出身である長野東部を舞台にされたほうがしっくりくると思います。
「Phenomenon あんだけ飛騨を美しく描いてるのにその解釈②はないんじゃない」
この点については「星の降る夜に”『君の名は。』(ネタバレ) - 私設刑務所CHATEAU D'IF http://chateaudif.hatenadiary.com/entry/2016/09/09/232626」というエントリーが自分以上にわかりやすく解説しています。
“ 新海誠本人の田舎への郷愁は景色のみで、ヒロインの言う「都会に行きたい」、東京大好きが本音というところだろうか。彗星には世界が滅びる鬱映画『メランコリア』的な破壊衝動も感じる。人が死ぬ必要はさらさらないけれど、場としての田舎は滅び去れ! 災害描写は3.11メタファーなのだが、滅びるのが予言通り、みたいな乱暴さもあり、ババアの教えや伝統芸能が、街が救われることプラス自分の恋愛のために存在した、というのはすごいナルシシズムだ。 ”
“ ヒロインや友人ら主要登場人物はみんな東京へと去り、親以上の世代のその後は語られないあたり、まさに「親殺し」の物語であったとも言える。”
「メランコリア」は未見なのでよくわかりませんが、自分は「君の名は。」を観て「アクシズが墜落してしまった逆襲のシャア」みたいな映画だなあ、と感じました。人は死ななかったわけですが、彗星の落下自体を「奇跡」で回避できなかったということは、実はかなり絶望的な映画なのではないか、と。彗星の落下は自然現象ですが、その落下を設定したのは監督自身です。彼には田舎の人間(若者以外)を全て抹殺したいという願望があったのでは?少なくとも私は田舎に対する愛着は感じられませんでしたね。
とにかく自分は事実誤認(四葉や彗星の死者数)をたくさんしているということもわかったので、もう一度見返したいと思います。そしたらまた追記を書くかも
香田幸 | (長女) | 真木よう子 | 「そして父になる」出演 |
香田佳乃 | (次女) | 鈴木杏 | 映画「吉祥天女」叶小夜子役 |
香田千佳 | (三女) | ? | |
浅野すず | (異母妹・四女) | 内田伽羅 | 「奇跡」出演 |
浅野陽子 | (すずの義母) | YOU | 是枝作品の常連 |
都 | (三姉妹の生母) | 森下愛子 | |
大船の大叔母 | (三姉妹の祖母の妹) | 樹木希林 | 是枝作品の常連 |
北川十和子 | (すずの叔母) | 内田也哉子 | 樹木希林の娘で内田伽羅の母 |
浅野 | (四姉妹の父親) | 井浦新 | 是枝作品の常連 |
多田裕也 | (エース) | 金子隼也 | 大天才テレビくんのサッカー少年 | |
尾崎風太 | (同級生) | ? | ||
緒方将志 | (関西弁) | 前田旺志郎(まえだまえだ弟) | 「奇跡」出演 | |
坂下美帆 | (ゴールキーパー) | ? |
椎名和也 | (シカ先生) | 阿部寛 | 是枝作品の常連 |
井上泰之 | (オクトパス監督。理学療法士) | オダギリジョー | 是枝作品の常連 |
藤井朋章 | (大学生?) | 柳楽優弥 | 「誰も知らない」主演 |
浜田三蔵 | (アフロ店長) | ? | |
坂下 | (佳乃の上司・美帆の兄) | 堺雅人 | 銀行員といえば |
尾崎光良 | (風太の兄。酒屋の三代目) | 寺島進 | 是枝作品の常連 |
福田仙一 | (山猫亭マスター) | リリー・フランキー | 「そして父になる」出演 |
二ノ宮幸子 | (海猫食堂店主) | 風吹ジュン | 是枝作品の常連 |
肉のナカムラ店主 | 佐々木則夫 | なでしこ監督 | |
肉のナカムラ娘 | 澤穂希 | 伝説のなでしこ選手 | |
観光客 | ニコール・キッドマン | 逆オファー中 |
あの方が手をかざしたら苦しんでいた病気が治ったとか、
あの方がいらした間だけ雨がやんで陽が射したとか、
そういう物言いがすごく腹立たしい。
そういった特別なイベントを奇跡と扱う発想が、間違ってるとか恥ずべきだとか、
理屈の上でも倫理的にでもズバッと一蹴できるなら、スルーできなくもないんだけど。
なんでモヤモヤするんだろう、これはどういう心理なんだろうという自分に対する疑問がある。
腹が立つのは、自分たちさえ気分よけりゃそれでいいっていう選民思想に無自覚なこと。
自分らだけが助かったり特別扱いされたってんなら、そうでなかった人がいるってこと。
全員を救えないレベルで、何有り難がられてんの?何偉そうに語ってんの?と
そういう奇跡を信じることで辛さを紛らすのに役立つのかもしれないけど、
そんなこと簡単に出来る。
既知の科学的事実から考えて自明だし何の意義もないから誰もやらない実験とかならまだしも、
実験データの発表が取り沙汰されてあちこちで追証実験されるようなテーマで、
シミュレーションで正確なデータが取れて実際に実験する必要なし、捏造で論文上げて実験での証明は他人にオマカセなんてことが簡単にできるなんてものは聞いたこともないよ
君の分野って何?
「『奇跡』を起こして新発見することが当たり前」なんて誰も言ってないんだけど
俺は何度も何度も「起こりそうもないこと」「実際には起こらない」と繰り返してるぞ。記憶障害なんじゃねえの?
馬鹿なの?
理論だけ出来てる現象に対して、実験やってないのに理論どおりにヤったら出来ましたーって論文出して
その後他の人がきちんと実験を組み立ててやったら出来ました、と。
そんなこと簡単に出来る。
実験たって、シミュレーションすれば実際にやらなくたってある意味「きちんとしたデータ」は作れるし、
アホ過ぎるだろ、お前。
放浪息子は途中から単行本で話を追うだけになっていたし、青い花は何巻か飛ばして最終話を読んだ。けれど漫画を読んだ瞬間に一巻からの思い出が、絵が、雰囲気がありありと思い出されてくる。
青い花は最後のあの一言で、連載を追っていなかった自分でも目頭が熱くなった。あの言葉はまだ青い花だったころの「あーちゃんとふみちゃん」、ひいてはそれをみていた私たちの感情を思いださせてくれた。
志村貴子さんの作品はいつもそうなのだ。私たちが忘れていたもの、目をつむって見ないようにしているもの、忘れたふりをしているものを揺さぶってくる。
放浪息子はそんな、人間の深い部分に触れているから、いまだに最終巻を読み返せていない(普段は漫画を同じ日に二度読み返すのだが)。
放浪息子のラストについては衝撃的すぎて(表紙をみたときもすごく驚いた)何も書けない。まだ書ける状態にない。
「ぼくたちのきせき」
映画「奇跡のリンゴ」が好評のようです。私も見てきました。感動しました。
いっぽう、はてなのニセ科学批判クラスタ界隈では、この映画を見ずに「奇跡のリンゴ」のモデルになった農法を批判するのが流行っているようです。追従礼賛ブクマもたくさんついています。
http://d.hatena.ne.jp/locust0138/20130609/1370789361
http://d.hatena.ne.jp/locust0138/20130612/1371052702
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20130618/1371549428
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20130619/1371611793
これらは映画に対する評ではないのですが封切りに合わせたエントリーですから、映画を観てきた身として、これらの評を読んで???となってしまうところを指摘しておくのも悪くないかと思います。
まず、映画は何も農法を学ぶために観るものではありません。「奇跡のリンゴ」でいえば、阿部サダヲ、菅野美穂、山崎努、音楽:久石譲といった顔ぶれで観にいく人も多いでしょう。またもちろん、作品に100%のめり込めなくても観にいきますし、感動もできます。この映画はそういう映画です。「海上自衛隊全面協力!」という宣伝文句にあまり良い感情を持てない人間でも「灰原哀が出てるなら」で映画館に足を運ぶことはあるでしょう。
「感動している人間は思考力が落ちて大事なことを色々と見落とし、判断を誤るからです」とわざわざ赤字強調で書いている人もいますが、感動したからといってそうならない人間のほうが圧倒的多数です。アクション映画で感動した人がみな現実と混同するかといえばそんなことはありません。
「実話と銘打ってるから危険」――は? 映画「大脱走」は実話に基づいており、観た人は《多少は》本当はどうであったか気にするかもしれませんが、本格的に調べようとはまずしないでしょう。「実話に基づく」は基本的には映画を楽しむ際の参考として機能するだけです。また、シネコンだと関連書籍置いて売る、ということもあまりないかと思います。もちろん本屋では積んでありますが、映画見て出たところに本があるのとでは影響はかなり違うでしょう。
さて、映画「奇跡のリンゴ」についてはYahoo!映画の次のようなユーザーレビューが参考になるかと思います(固定URL表示できないので、投稿時間で示します):
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tymv/id344360/
2013/06/15 01:25:41
とは言え、僕自身鑑賞前は
突っ込んだ内容を想像していましたがさにあらず。
と簡単に思わせないところがよかった。農薬を使っている農家の方を
悪者に仕立て上げたら嫌だなとも思って見ていたのですが
この映画では、既存の農薬を使った農法を批判する箇所はほとんど全くと言っていいほどありません。まわりの農民、池内博之、笹野高史、ベンガルらも実はいい人です。
冒頭のナレーションでは
とあって、菅野美穂が農薬で苦しんでいる場面へと繋がります。しかし、このナレーション、言い換えると、農薬を使って作ったリンゴでも食べるのは安全、ということです(1980年代前半までだとこう言い切ってしまうのは言い過ぎではないか、という気もしますが)。
同様に、無農薬リンゴの利点について何か語られる、ということもありません――さいごの「おいしい」という以外には。
はっきりいって、この映画、主人公がなぜそこまで無農薬に固執するのか、という点では弱いと思います。ここまできたからにはもう止められない、というような言葉が何度となく語られますが、それは本人たちの事情です。
これらの点は製作側が、木村農法に対する批判をある程度知った上でつくったからではないか、と私は推測しました。今後、もし木村農法を批判するのであれば、映画のこういう姿勢を知っておかないとズレたものになります――というか上の批判はその典型。
言葉をかけなかった木だけ実らなかったというくだりは本人の書籍にもあるそうですが、映画でこういう「奇跡」だけいくつか押し出して「科学的説明」はほとんど付けないというのもダブル・ミーニングで、双方に配慮してるからだと思います。
映画全体でも、雄大な岩木山、リンゴの花の可憐さ、などの風景や原田美枝子、伊武雅刀らも含む家族愛、隣人愛が一番印象に残りました。人によってかなり違いはあるでしょうが、「無農薬のすばらしさ!」がまず刻印される人はそんなにいないと思います。(もちろん、そういう人もいるでしょう。ただ、映画館でみた客層でいうと、最初からそう思っている人が自らの信念を確認するケースの方が遥かに多そうです。)
ということで、映画を見ずに批評したり、それに追従ブクマを付けたりする人がおそらく想像してないことを述べておきます。
この映画見て、「無農薬」という言葉にそれほど影響されずに単純に、津軽りんごいいなぁ、食べたくなったなぁ、という私みたいな人はけっこう存在するのではないでしょうか。つまり、この映画が大ヒットすることで、木村氏だけでなく、(おこぼれとも言えますが)他のりんご農家にとってもプラスに働く可能性もそれなりにありそうです。―――もしそういうことになれば、それは既存の農法に対する批判を抑え、まわりの農家も良い人として描いたスタッフの心遣いのたまものでしょう。
最後は私からのお願いです。「農薬は安全」という人は、中国等の農薬やTPPについても必ず触れていただけないでしょうか?
良い映画でした。
「子どものこと、ちゃんと考えたほうがいいよ」という暴力 - キリンが逆立ちしたピアス
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20130612/1371012059
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20130612/1371012059
障害児を産むのが恐い http://anond.hatelabo.jp/20130613094716
両親が子供を作れば、子供は生まれてきて様々な体験をする可能性があります。
子供がどうなるかはまったくわかりませんが、それを作るかどうかを最終的に決めるのは両親です。
作りたければ作ればいい。作りたくなければ作らなければいい。
子供を作る人たちの多くが見落としているか軽視しているであろうと思われる、子作りに対する「ある観点」。
これは子供を作る上でしっかりと念頭に置いた方が良い重要な観点であると思われます。
この増田を読んで何か思う事がありましたら、自分なりによく考えてみると良いかも知れません。
特に将来子供が欲しいと思っている人は、事前に考える機会があっても良いかと思います。
というわけでこの増田は、読んだ人に考える切っ掛けを提供するための増田です。
よ く 考 え て く だ さ い。
また、どんな目に遭う可能性がありますか?
想定出来る事だけでも不幸苦痛の雨あられですね。
想定外の不幸も起こり得る事をお忘れなく。
本当にそうでしょうか。よ く 考 え て く だ さ い。
生まれなければ、それらを 全 て 回 避 出 来 ま す。
どんな場合でもハッキリ言える事は、
親が産まなければ子供もそんな目には遭わなかったという事。
親 は 直 接 の 原 因 だ ろ う が。
この問題から逃げないでください。
何故子供が欲しいのか、よく考えてください。
考えればわかりますが、全 て 自 分 の 都 合 で す。
即ち、親の目的は己の利益。利益を得られるかどうかは運に依存する。
賭け物は子供。
要するに、子供(賭け物)を用意して利益を得ようというのが子作り。
賭けに勝てば(運が良ければ)親は利益を得る。
賭けに負ければ(運が悪ければ)親はその身を削る事になる。
(当然、勝ちとも負けともつかないケースもある)
(当然、勝ちとも負けともつかない人生もある)
この博打の性質として、一つ目の博打も二つ目の博打も常に絶えず打ち続ける事になる。
その博打を打つ点(つまり人生)が無数に繋がり線となったものが人の一生である。
せめてこれ位は理解した上で子供を作るかどうかを決めるのが望ましい。
そして、実際に交尾をして作るわけだ。
では仮に、とてつもなく幸福な気持ちで生き、幸福なままの気持ちで死ぬ可能性が90%、とてつもなく不幸な気持ちで生き、不幸なままの気持ちで死ぬ可能性が10%の人生があるとする。
交尾によって子供にこの人生を負わせるとした場合、親は子供が幸福になる可能性を容認すると同時に、子供が不幸になる可能性も容認している事になる。
可能性を容認するという事は実際にそうなる事を容認するのと同義であり、親は『子供が不幸になる事も容認した上で』子供を作っているのだ。
その辺は理解出来るよな?
例えば、日本人の1/3はガンで死ぬ。日本人の男女が子供を作る場合、その男女は「自分の子供がガンで苦しみ抜いて死んでも良い(仕方が無い)」と思って子供を作るわけだ。
例えば、人間は必ず死ぬ。どこかのカップルが子供を作る場合、そのカップルは「自分の子供が死んでも良い(仕方が無い)」と思って子供を作るわけだ。
例えばこの世では、病気、障碍、事故、犯罪、災害など様々な危険が降り掛かる可能性がある。
子供を作る者は、当然の事ながら「自分の子供が病気になっても、障碍者になっても、事故に遭っても、犯罪に遭っても、災害に遭っても良い(仕方が無い)」
と思って子供を作るわけだ。
「子供が欲しい」という親のエゴを充足させるために、膨大な危険を子供に「無理やり」背負わせるのだ。
子供への思いやりが無いからこそ、こうして子供を作る事が出来るのである。
別に法的な話をする気はない。
出産というのは、相手が死ぬとわかっていながら子供を作る行為だ。
生まれてすぐ死のうと80年生きてから死のうと、人の死ぬ原因が「両親がそいつを作ったから」であるのは確実だ。
事故で死のうが事件で死のうが病死だろうが災害で死のうが、そもそも死ぬのは「両親がそいつを作ったから」。
人が殺された時って「殺した犯人」が非難されるが、そもそもの問題として「親が産んだから」子供は死ぬ。
出産というのは殺人よりも根本的な意味に於ける人殺しじゃあないのか。
人が何らかの理由で死んだ時、その理由というのは死の時期を決定するものだ。
だが、親はその時期に子供が死ぬ事も容認して子供を作っているはずなので、親が犯人を責める事は出来ない。
そして、子供に死という結果そのものを喰らわすのは他でもない親だって事。
「人生(子供にとっては非常にリスクの大きなギャンブル)」と「死(これは確定している)」。
この2つを他人に無理やり押し付けるのが子作りなんですよ。
それが善いとか悪いとかではなく、「わかっててやってんの?」って言ってんの。
わかっててやってるなら私は「鬼畜」だと思うし、
そんな事すらわからずに子供を作ってるなら私は「バカ」だと思うのね。
「子供を作りたいから作る人」に対して私があれこれ言う事は出来ません。
しかし、「子供を作る事を正当化しようとする人」については批判します。
どんなに悲惨な状況であっても
その通り。逆に言うならば、
どんなに恵まれた状況であっても
それを不幸に感じる子供も居るかも知れん。
「子供が不幸になる可能性」とは、
エゴですよ。
ここではそういう話をしているのだ。
まず「不幸」の定義をはっきりさせろ。
「本人が不幸だと感じたら不幸」だ。
本人の主観に依存する問題なので、細かい定義をする事自体がナンセンスである。
強いて言える事があるとするなら、不幸とは「絶望感」に苛まれている精神状態である。
絶望感に対して積極的な気分で向き合えないのなら、それが「不幸」だ。
つまり、「本人が不幸だと感じたら不幸」という事だ。
将来設計も無計画で、自分たちに子育ては困難なのも知っている。
だが、一時的な感情の高ぶりを抑えるのが生まれつき苦手で
他人への迷惑行為は抑えられないような「人間味」である場合が多い。
「子供でも産めば何か変わるかもしれない」という
手っ取り早い一人前扱いにすがる。
ようするに「母親になるという大いなる名目」を周囲に突きつけることで
これは「親になれば一人前」という風潮を作った社会にも責任はある。
駄目だった奴の遺伝子で頑張らなければいけないのだから子供は楽じゃない。
いくら期待をかけても、結果も親そっくり。
子供は自分の所有物という意識が強く、自分の為に子を利用するタイプ。
自分の趣味を押し付けたり、芸能界に入れて下品なことをさせる親もこのタイプ。
彼らが愛しているのは子供ではなく、個性的なパパママを演じている自分自身である。
上記のような理由だけではかっこ悪いから
社会貢献などを持ち出して、さも自分が先見の明があったかのように装い
という問題は「考えると暗くなる」と不問にし、
「子は親を選んで生まれてくる」と思っているタイプ。
なぜ時空を超えるほどの存在が、極めて人間臭い修行に励むのでしょうか?
人間でさえ「罪を憎んで人を憎まず」と言っているのに
何もしないだけでゴミのように扱われ、自殺するのすら苦痛を伴う
頑張ってこの世で生きていく道を選んだとしても
最期は大半の人間が病気やなんやで苦しみながら死に、それまで築き上げてきたもの全てを失う
こんな苦行みたいなもんに自分たちの都合で強制参加させる親は自己中
自分たちの幸せのことだけで、子供のことなんてまったく考えていない
でも、いざ生きていく事に耐えられ無くなって来て生きるの辛いねといえば、みんなはもっと辛いんだ甘えるなと返される。
別に成長して行く子供も守られてる訳ではなく誰も助けてはくれない自己責任。
でも誰もが何時も子供を守ってると言うしそれが正しいと思ってる。
助けを求めれば当然誰も助けてはくれない。
支えてる振りして子供を操ってるのと、何もしてないのに守ってる恩を与える。
親には、なぜ、私を産んだのか。何度も聞きました。
その理由が私にとっては納得のいくものではなくて、余計に腹の立つものでした。
傷つける気持ちがあったというより、腹が立ったので言ったんだと思います。
そのあと、あんたが産まれてくると分かっていたら産まなかった。
とも言われました。
自分だけを食わせて生きいる強さのある人間は凄いなあ。と思います。
そういう人が、何を思って生きているのか知りたい。
そもそも子供を産まなければ何も起きなかった
頼んでもいないし産む必要もない
親を責めないことでちょっとでも自分の評価を高めようという姑息な考え?
この世界の地獄っぷりは日々ニュースでも目にしてるはずなんだがな
自殺スレをまわって少しでも苦しまずに死ぬための情報を集めてると
心底怨みがこみ上げてくる
親が産まなければこんなことしなくても良かったのに
「どうして私の子がこんな目に」
という場面をテレビなどでよく見かけるが理解出来ない。
”こんな目に”あう可能性が充分ある世界という事は既に分かっていたはず。
何も不思議じゃない。普通に想定出来る範囲の悲劇が起きてしまっただけ。
運が悪い?そうだな。この世界に生まれた事が既に運の尽きだ。
”どんな目にも”あうかもしれないという事を想像、覚悟するべきだ。
でもこれらを全て受け入れて
それでも産もうとする人間なんてそれこそ、理解出来ないけどな。
・そういう考えはネガティブ思考だ
・人間苦労して成長する
・こんなこと言う人は頭のネジが足りないんじゃないの
・うつ病じゃないの
と、偉そうなことを言うのである。
「どうして私の子がこんな目に」
「どうして私がこんな目に」
とこうである。
子供を作ったやつがその人生で苦しんだとしても同情することない。
「ポジティブ思考で苦しんでください」
「人間苦労して成長する」
と言ってやればいい。
いつ子供に自殺されても「親不孝」などとは決して言わないで欲しい。
自分の意思以外で産まれてくるのだったら、せめて不幸になった場合は
親はそれをたまに起こり得る「織り込み済み」のこととして納得してください。
子供が自分で死ぬ、これもまた自然のうちだと認識してください。
生きる事は辛い。死ぬ事も辛い。
両方とも辛いのだから、現時点でマシな方を取ればいい。
「死んだ方がマシだ」と思うようになるまでは生きる。
最期までそういう風に思う事が無ければ自然死するまで生きてもいい。
それで何の問題も無い。
生きるも死ぬもクソだが、マシな方を選べばいい。
生きる事が素晴らしいと思えるならば、そう思っても別にいい。
ただ、言える事は、
生まれて来たヤツが人生をどう捉えるようになるかはわからない。
人生を肯定出来るヤツになるかも知れんし、
子供を作るという事は、「生まれる子がどっちになるかはわからないけど取り敢えず作りますよ」という事だ。
何故作るかと言えば、それは「作りたいから」。つまり自分のためだ。
この事を変に美化しようとするから、子作り賛美の醜悪な風潮が出来上がる。
美化などしなくていい。
「子供がどうなるかは知らんが、俺は子供が欲しい。それだけだ」
子供の事を自分よりも優先させたければ、子供を作らなければいい。
この「子供を作らない」という事に関しても、自分がそうしたいからそうするだけだ。
その点が異なる。
と言ってるだけで、これは紛うことなき事実で真理だろ?
どんな心理でか考えて見ればいい。
の都合しか出てこない。
子の為に子を作るんじゃなく、自分の為に子を作るんだ。
そこには別に善も悪もないし、求めてもいない。
子供を作るなと書いてる訳でもない。
これがあるよね、ってだけだ。
それだけ
矛盾が無い否定論を正しいと見て置き、作りたい馬鹿は勝手にすればいいだけ
不条理も込みでね
先生質問です。 魔法をまったく使わなくてもソウルジェムは穢れるのですか? しかし、魔法を使うとソウルジェムが穢れるのですから、魔法を使わなければソウルジェムは汚れないと思います。
キュウべぇ先生も、魔法少女になって魔女と戦って欲しい という契約でしたが 魔法少女になってほしい とは 契約していません
つまり、 魔法少女になることと、魔女と戦うことは別問題であり
グリフシードがなければ、何もしなくても汚れてしまうならば、自動的に魔法少女になれば魔女と戦うことになるので 合理的なキュウべぇ先生が、そんな付随条項を付けるはずがないからです。
つまり、魔法少女になることは、魔女と戦わないという選択をとればなんらデメリットではないはずです。
つまり、「奇跡」を望んだ契約の代償として「魔法少女・魔女」に化す ではなく 、「奇跡」を望んだ契約の代償として魔女と戦う その為の魔法少女 があくまでも正解かと思います。
また、今回のようなケースにならなくても、「穢れ」を他人のソウルに押し付けなければ、破綻することは指摘されていました。たとえば、死亡だったかもしれません。
指摘されているにも関わらずその行為を続けたことは
単に 見返りを求めない考え ではなく 破滅したいという希望 と捉えるのが正解でしょう。
自己への破滅願望が、より進化して 自己を含むすべての世界の破滅願望に進化した というのが正しいかと思います。
それに、見返りを求めないのと、相手がくれるものを受け取らないのは別問題でしょう。
長くなりましたが、見返りを求めないと、自己犠牲はちがいます。ということが言いたかったのです。見返りを求めないというのは、自己を維持する活動をしつつ、要望に対して見返りを求めず行動する。であって。
自己の活動維持を無視して、行動した挙句、お前が望むからこんなになっちゃっただろチクショーというのは、見返りを求めないとは違います。
※肉体からジェムが100m以上離れると操作不能というデメリットが一見ありそうですが、ジェムの方が本体ですから、移動が自在なキュウべぇ先生に、回収してもらえばよいだけの話で。あの時も、ほむほむ先生が取りに行かなくても、キュウべぇ先生があとから回収したことでしょう。(戦力弱体は困りますから)。それに、ジェムが移動中に体が破壊されても、体は何度でも復活可能という定義ですから、問題にはならないでしょう。また、ジェム付近で体を再生して、古い体を回収する事も キュウべぇ先生がやったように可能です。よってデメリットにはなりません。
※どうでもいいですが、魔法少女他はかなりの優先度で、グリフシードを使わない、汚れの回復方法は無いのかを、キュウベェ先生に聞かないといけないと思うのですが、なぜ聞かないのでしょうか?それ以外に方法はないって言われてましたっけ?
上述のように、契約条件に魔女と戦う事が明記されているということは、魔法少女になっても、魔女と戦わずに生きる方法があることを提示されていると思うのですが・・・
そもそも「好き」という感覚の発生自体が自発的なものに見えて全然そんなことなくて、社会の流行とか他の人もそうだからとかに影響されて発生してるからな。恋愛とか存在しなかった遥か古代の時代の人たちは「好き」とか発生しなかったし。
「初恋は幼稚園のとき」が今じゃ当たり前になってるけど、そんなのここ15年くらいの話であって、それより前は10代後半とかで発生してた。だれかが「初恋は幼稚園」と言いテレビでそれがいくつか映ったときにバーっと(このバーには時間的な幅がそれなりにあるけど)日本中の幼稚園児が自分もするもんなんだと思い込みやがてそれが当たり前になった。思い込むとそうなる。
ある宗教が根付いている期間、その宗教で起こるとされている「奇跡」の目撃例がやたらあるみたいなもんだ。本人たちがあるに決まってると思えば見えないものでも見える。うちの親戚でなんかの新興宗教の信者がいて、なんか念じると先祖の霊が降りてくるらしいんだけど、来た来たって言い張ってるから。本人にとってはそうなんだろう。
だから70年代前半くらいまでに結婚したおとんおかんたちの場合、それが以外に一番の相手だったりするんだよ。見合いで一番にたどり着けるわけがない、ってのは現代の社会状況とかによって「好き」の発生まで操られている我々の発想であってさ。ところ変われば感覚もまるで違う。
彼と一生添い遂げたいなら、ひとつ心に留めておいてね。
人は変わる。悪い意味じゃなくて、全く成長しない人生なんてつまらないでしょ? 新しい経験をして、新しい視点を得れば、人生はどんどん豊かになってゆく。自分が変わりたくなくても、周囲が変わってゆけば関係は変わらざるを得ない。
望むと望まざるとにかかわらず、人は同じ場所に立ち続けることはできないんだ。
だから、パートナーとずっと一緒にいる、っていうことは、パートナーとの関係がずっと変わらない、っていうことじゃない。全く逆なんだ。常に、パートナーと新しい関係を築いてゆくこと、お互いの歩調を合わせて、同じ方向に成長してゆくこと、相手が変わるのに合わせて自分も変わってゆくこと、なんだね。
別れてしまう人達がいつも、考えが浅くて付き合っちゃったっていうわけじゃない。それぞれの人生の旅の、あるひとときにたまたま道程が重なったってこともある。それはそれで、真剣な関係があり得るけれど、最終的な旅の目的地が違っていたら、やっぱり別れざるを得ないんだよ。でもその一時期に一緒に旅をしたことっていうのは、無駄ではないんだ。それが無ければその後の人生もありえないんだから。
若い頃に、何十年も後の自分の人生の旅を想像するのは難しい。むしろ想像がついちゃう人生なんてつまらない。そんな時に、一生一緒に旅をしてゆける人と巡り会えるのは、ひとつの奇跡みたいなものだ。大事にね。
P.S. ブコメで「奇跡」ということばにひっかかってるのをいくつか見たけど、「奇跡」が気に入らなかったら「幸運な偶然」とでも読み替えてください。同じことです。
http://anond.hatelabo.jp/20090122230347
科学と疑似科学の信憑性についてはここでは議論しないが、「放送が科学をスルーして疑似科学を取り上げる」理由は、視聴者がアホになればなるほどテレビ局(ひいては広告会社)が儲かるからだ。
言うまでもなく、テレビ局の収入源はCM料であるため、テレビ局は視聴率が上がり、広告効果が高くなることが収益に繋がる。それがなぜ前述の理由に繋がるかというと、端的に言って、
だからである。
また、放送で科学など確実性の高いものでなく、例えば「気」「奇跡」「感情」などと曖昧なものを前面に押し出すのは、それらがあたかも十分な確実性を持つものと錯覚させることで、これまた定量的な評価のしにくい商品のCMを効果的にするためである。そしてそれを古館のような一見インテリな芸能人が薦めることで、より視聴者に信憑性を持たせるという効果を狙っている。
こういうのに騙されない賢い人は、テレビ局から見れば全く金にならない人種なので、放っておいてテレビ放送から離れて行っても構わない。逆に、こういう疑似科学などを見て影響される人はいい収入源なので大事にしたい。
信頼できる大人や専門家に話を聞いて貰った方がいいと思います。
自力で何とかしようとするのはとても危険だし
同意見です。
ぼくが「専門家」じゃなくてごめんね。
「生き残ったことへの罪悪感」と、「生き残らせてくれたことに感謝してこなかったことへの罪悪感」。
この気持ちとつきあいながら生きていくのはつらいことだと思いますが、
ぼくが少し希望をいだくのは、そのことを彼女が増田に打ち明けてくれた事実です。
言葉にして誰かに話すことが出来て、それを受け止めてもらえたというのは、
PTSDを抱える生存者たちにとって大切な出来事です。
逆に症状をこじらせるのが「甘えるな」とか「同じように苦しんでる人は他にもいる」、「がんばれ」などの類です。
ぼくが思うに、増田がすべき優先事項は次のふたつ。
彼女が自殺の実行をほのめかしたり、誰からも連絡が取れない状態が数時間から数日続いたときが「緊急時」です。
彼女の保護者や彼女が信頼している大人の緊急連絡先は把握しておくべき。
内容が内容だけに、単純に物事はすすみません。「奇跡」が起こることはないだろうし、予想以上の長期戦になるかもしれません。
彼女がその気持ちとつきあって生き続けていくために、カウンセリングが助けになると思います。
ぼくがここに書けないことも、カウンセリングを通じて見つけ出していくかもしれません。
それと、増田自身も、彼女の話に衝撃を受けてプチPTSD状態になっているかもしれませんし、そのように自覚しておいた方がいいと思います。
つまり、増田にもカウンセリングを受けることを薦めます。彼女を守り続けたいのなら、自分を守る方法を身につけておくのは大切です。
「奇跡」とか言ってるキモい賞賛を見ると「これだから信者は」って言いたくなるのも分かる。ラブレターは一晩寝かせてから推敲しろって(笑)。
でもApple製品好きな人たちがみんな盲目的にミソでもクソでも賞賛してるわけではないし、もちろん単にお洒落なデザインが気に入ってるだけとも違うと思う。
○○ができる機能があればインターフェース等は練られてなくてもよいという人ばかりじゃない。単にMP3が聴けるという点では他のMP3プレイヤーもiPodのも同じ。だからどっちでもいいだろとはいかないんだ。君もリモコンにボタンがいっぱい付いた複雑なインターフェースのAV家電はほめられないだろ?月並みな言い方だけどカタログスペックだけじゃ分からないところが結構重要だと思う。
もちろんその点をふまえた上でもっさり動作とか変な箇所があるならそういう部分は批判して改善に向けていくべきと。売りの操作性がいまいちなんじゃ話にならないからね。
ともかく賞賛であれ批判であれ本当の「断層」が見えてないのが一番まずいと思う。
もし君が音楽を聴く人だったらiPodにたくさん(できれば千以上、たくさん入れるのがキモ)曲をぶち込んで実際に使ってみたらいいと思う。使っってくうちに他のMP3プレイヤーとの違いが分かれば本当の「断層」が見えてくるはず。
正直に言うと自分がそうなんだけど(笑)。(某MP3プレイヤーを使ってたんだけど友達のを見てたら良さげだったのでiPodを購入してみたらはまった(笑)。)