はてなキーワード: 当事者とは
対照用にdeepLの画面で対訳見ながら編集した翻訳用和文原稿も吊っておく (deepLが誤解する場所とか主語を補ったりしないとちゃんとした訳にならんのよ)
ここは原文からニュアンス変えすぎでは等の突っ込みも甘んじて受ける。
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「例の件」に関して、彼らは当事者でもなければ長崎の生まれでも広島の生まれでもないのに語るべきだろうか、という書き込みを目にして、少し自覚したのでどうしても言わねばならないことを言う。俺は長崎の生まれで被爆三世で当事者たちから直接話を聞かされて育ったから言う。俺程度がおこがましいという気持ちはあるけれど、当事者はほとんど残っていないから俺が言う。
長崎ではガキどもは原爆の話を聞かされて育つ。クーラーも扇風機もない真夏の小学校の体育館に一時間近くも寿司詰めにされて、原爆の話を聞かされた。俺にはそれが辛い時間だった。話をする年寄りはもっと辛かったと思うが、小学生のガキにはそんな想像ができるはずもないし、俺だってずいぶん聞かされた話をほとんど忘れてしまった。思い出せるのは精々ひとつかふたつだ。もうひとつ辛いことがある。毎年この時期になると、廊下にはずらりと、他所の地域ならPTAが発狂するようなグロ画像が堂々と貼り出される。最近は、原爆資料館ももうずいぶん漂白され、観覧者がトラウマを抱くような過激で恐ろしい展示は多くが撤去されたと聞く。なので、今も続いているかは知らないが、俺の頃はそこに展示されていた。
小学生の頃の俺にはどうしても直視できない写真が一枚あった。谷口稜曄さんの写真だ。検索すれば出てくる。閲覧注意のショッキングな写真だが、それでもどうか見てほしい。どうしてもその写真の掲示された廊下を通れなくて、その時期はいつだって校舎の別の階を遠回りして、写真が目に入らないよう逃げ出していた。
今は、妹を探すために焼け跡に向かった俺の祖父は、目を背けることも別の道を通ることもできなかったんだなと思う。写真どころか、まだ生きて呻きを上げる人間が山ほどいただろうし、苦しみの果てに事切れた人間はもっと山ほどいただろう。彼は瓦礫だらけの長崎の狭い道を、handcartを曳いて何キロも何キロも歩いて、妹を捜し歩いた。当時の祖父は子供じゃなかったが、当然それと似たような事をしたこどもたちも居た。居ただろうじゃない。居た。俺はその話を本人から聞いたし今も覚えている。幼い兄弟が焼け跡から自分の親父の死体を見つけて、兄弟がそれを焼いた話。薪が足りなくて親父の遺体が十分に焼けず、零れ出た生焼けの脳ミソを見て逃げ出して、それが今生の別れになってしまった話。
俺はガキの頃に聞いたその話をいつまで経っても忘れることが出来ないし、今だって辛くて苦しくて、手が震えて涙を出している。どうしてあの親父の脳ミソから逃げた爺さんは、想像もできないほど恐ろしいトラウマを、一生治らない傷痕をほじくり返して人目に晒すことが出来たのだろうかとずっと思っている。
今は少しだけわかる気がする。
俺が自分のトラウマをほじくり返してでも祖父やあの爺さんの話をせずにいられないのは、彼らの言葉が忘れ去られることに比べれば、この程度の苦しみなど何でもないからだ。俺の手が震えて動悸や眩暈と共に涙や鼻水に塗れることなど、かつて確かにあった途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないからだ。
だからひょっとしたら同じなのかもしれないとも思う。
俺には想像もできないほどの地獄を味わった祖父は、孫が産まれるまで生き、焼け跡で妹の死に目にも会えた。つまり祖父はあの焼け跡で、誰よりも幸福な人間のひとりだった。祖父やあの爺さんは結局のところ、地獄の淵をさまよっていた人間に過ぎないのだ。俺には想像もできないほどの苦痛を味わった人間でさえ想像もできないほどの苦しみが、78年前の長崎には石ころのように転がっていて、誰にも顧みられなかったのだと思う。俺には想像もできない彼らの苦しみは、彼らが目にした無数の途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば、何でもないことなのだ。
記憶は人に語られる度にどうしようもなく薄れていく。あの人たちが忘れられることをどうしても許せなかった記憶も、もうほとんど忘れ去られている。78年前の途方もない苦しみはもうほとんどが消え去って、二度とは語り継ぐことはできない。あの原爆で最も苦しんだ人たちは、それを誰に伝えることも出来ないまま焼け跡で腐れ落ちて死んだ。それを自分の目で見た人々も、多くは口をつぐんで墓まで持って行った。僅かに語った人々もほとんどが今や墓の下にいる。
老人たちの言葉と比べて、自分の言葉は何と軽いのだと思う。こんな軽い言葉で語るくらいなら、口をつぐんだ方がマシだとさえ思う。それでも誰かが継がねばならない。俺のこんなにも軽い言葉でさえ、もはやこの世に残された原爆を語り継ぐ声の上澄みなのだと気が付いた。自分のような存在がこれを語ることが許されるだろうかと思う気持ちは痛いほど良く分かる。それでも口を閉ざさないでほしい。語るべきでないと、我々が口を閉ざした結果があれなのだ。
想像もできない苦しみを想像することを止め、他者の苦しみを面白おかしく消費して生きていくことを、俺は時々選んでしまいそうになる。俺がもう声も顔も、言葉さえろくに思い出せない老人たちの、せめて苦しみの想像が残っているうちに、ここに書き残しておく。
翻訳者注記: このポストは、日本のある投稿者が「自分は広島・長崎の出身でもないのに原爆に関する言論について発言する資格があるだろうか」と悩みながら、それでもバービーと原爆の件について発言した投稿に対する返答である。世界に読まれる価値があると考えここに翻訳した。
例の件に関して、当事者でもなければ長崎の生まれでも広島の生まれでもない人間がどうこう、という書き込みを目にして、少し自覚したのでどうしても言わねばならないことを言う。
俺は長崎の生まれで被爆三世で当事者たちから直接話を聞かされて育ったから言う。
俺程度がおこがましいという気持ちはあるけれど、当事者はほとんど残っていないから俺が言う。
長崎ではガキどもは原爆の話を聞かされて育つ。クーラーどころか扇風機もない真夏の小学校の体育館に一時間近くも寿司詰めにされて、原爆の話を聞かされた。俺はとにかくそれが辛かった。
話をする年寄りはもっと辛かったと思うが、小学生のガキにはそんな想像ができるはずもないし、俺だってずいぶん聞かされた話をほとんど忘れてしまった。思い出せるのは精々ひとつかふたつだ。
もうひとう、この時期になると廊下にはずらりと、他所の地域ならPTAが発狂するようなグロ画像が堂々と貼り出される。原爆資料館ももうずいぶん漂白され、観覧者がトラウマを抱くような過激で恐ろしい展示は多くが撤去されたと聞くので、今はどうかは知らないが俺の頃はそうだった。
小学生の頃の俺にはどうしても直視できない写真が一枚あった。谷口稜曄さんの写真だ。検索すれば出てくる。閲覧注意のショッキングな写真だが、それでもどうか見てほしい。
どうしてもその写真の掲示された廊下を通れなくて、その時期はいつだって別の階を遠回りして、写真が目に入らないよう逃げ出していた。
今は、妹を探すために焼け跡に向かった俺の爺さんは、目を背けることも別の道を通ることもできなかったんだなと思う。
写真どころか、まだ生きて呻きを上げる人間が山ほどいただろうし、苦しみの果てに事切れた人間はもっと山ほどいただろう。
瓦礫だらけの長崎の狭い道を、リアカーを曳いて何キロも何キロも歩いて、妹を捜し歩いた。
当時の祖父は子供じゃなかったはずだが、当然それと似たような事をした小学生も居た。居ただろうじゃない。居た。俺はその話を本人から聞いたし今も覚えている。
幼い兄弟が焼け跡から自分の親父の死体を見つけて、自分たちで焼いた話。薪が足りなくて親父が生焼けになってしまって、零れ出た生焼けの脳ミソを見て逃げ出して、それが今生の別れになってしまった話。
俺はガキの頃に聞いたその話をいつまで経っても忘れることが出来ないし、今だって辛くて苦しくて、手が震えて涙を出している。
どうしてあの親父の脳ミソから逃げた爺さんは、想像もできないほど恐ろしいトラウマを、一生治らない傷痕をほじくり返して人目に晒すことが出来たのだろうかとずっと思っている。
今は少しだけわかる気がする。
俺が自分のトラウマをほじくり返してでも祖父やあの爺さんの話をせずにいられないのは、彼らの言葉が忘れ去られることに比べれば、この程度の苦しみなど何でもないからだ。
俺の手が震えて動悸や眩暈と共に涙や鼻水に塗れることなど、かつて確かにあった途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないからだ。
だからひょっとしたら同じなのかもしれないとも思う。
俺には想像もできないほどの地獄を味わった祖父は、孫が産まれるまで生き、焼け跡で妹の死に目にも会えた。
つまり祖父はあの焼け跡で、誰よりも幸福な人間のひとりだった。
祖父やあの爺さんは結局のところ、地獄の淵をさまよっていた人間に過ぎないのだ。
俺には想像もできないほどの苦痛を味わった人間でさえ想像もできないほどの苦しみが、78年前の長崎には石ころのように転がっていて、誰にも顧みられなかったのだと思う。
俺には想像もできない彼らの苦しみは、彼らが目にした無数の途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないことなのだ。
記憶は人の口を経る度にどうしようもなく薄れていく。あの人たちが忘れられることをどうしても許せなかった記憶ももうほとんど忘れ去られている。
78年前の途方もない苦しみはもうほとんどが消え去って、二度とは語り継ぐことはできない。
あの原爆で最も苦しんだ人たちは、それを誰に伝えることも出来ないまま焼け跡で腐れ落ちて死んだ。
それを自分の目で見た人々も、多くは口をつぐんで墓まで持って行った。僅かに語った人々もほとんどが墓の下だ。
老人たちの言葉と比べて、自分の言葉は何と軽いのだと思う。こんな軽い言葉で語るくらいなら、口をつぐんだ方がマシだとさえ思う。
それでも誰かが継がねばならない。俺のこんなにも軽い言葉でさえ、もはやこの世に残された原爆を語り継ぐ声の上澄みなのだと気が付いた。
自分ごときがと思う気持ちは痛いほど良く分かる。それでも口を閉ざさないでほしい。語るべきでないと、口を閉ざした結果があれなのだ。
想像もできない苦しみを想像することを止め、他者の苦しみを面白おかしく消費して生きていくことを、俺は時々選んでしまいそうになる。
何か起きた時にフェミがどう動くか見てからその逆張りしてるだけなんだな
アンフェの大半って反リベラルで自民支持層、愛国保守層と被ってるけど
原爆茶化した当事者には何の怒りも向けずに「フェミニストは◯◯で〜」みたいな話ばっかしてるもんな
全く間違っている。強盗の例えでいうと、強盗が悪いのに店長が悲しい気もちをぶつけてくるのが問題なのであって、「君にぶつけてるだけ」では解決になってない。強盗が悪いのになぜ悪くない自分が文句を言われなければならないのか。
強盗が悪いとか言っているのって世間一般の話で合って、当事者の話ではない。店長からすると、強盗が悪かろうが何だろうが金品を取られたら困るのだから、強盗に入られないように治安の良い場所に店を構えるなり、入られても警察をすぐ呼べるようにしておくなり、とにかく自分が損しないように対策しておかなければならない。自分が困ることは自分が悪い。
バイトからしても、「強盗が悪い」で結論付けずに、自分が店長に八つ当たりされて困るのであれば、店長に八つ当たりされないようにまともなバイト先を探すなり自分で対策しなければならない。バイトにとっても、自分が困ることは自分の責任である。注意が必要なのは、バイトがいなくなって店長が困るかもしれない…なんてことを考える必要はないことだ。もしバイトがいなくなって店長が困るのであれば、店長は八つ当たりをやめればよい。店長が困らないようにする忖度などバイトはやらなくていい。他人の損は自分の責任ではない。
世間はビッグモーターの話ばかりだけど、タイトルの事件のほうがよっぽど本来大事件なのが世間に伝わってないのおかしい気がする
ビッグモーターのやったことは、保険の不正受給で消費者として当事者になるのは、ビッグモーターで自分の車を扱ってもらってた人たちだけど、NHKの件は国民の大半が当事者なのだぞ?
具体的にやってたことをまとめると、
「経営者数人で法律で認められていない事業に9億使おうとした」
これ、つまり
・会社の経営者が法律違反した(つまり会社ぐるみで法律違反した)
・使う理由は自分たちのリスク回避というあまりにも利己的な使い道
こんなこと、普通の会社がしたどうなるか、自分の会社の偉い人がこれやったらどうなるか、普通の社会人なら理解できるよね?
なんでみんな騒がないの?
役所が使える制度を向こうから教えてくれることは老人介護以外では殆どないと聞く。使える制度について発信している当事者家族や福祉職・心理職をSNSでフォローすると有用な情報があるかも。もうやってたらごめん
兄が反社会性パーソナリティ障害だとおもうんだけど、警察のお世話になるレベルではなく、家庭内暴力を繰り返し、金銭を要求してくるレベル。ADHD傾向があって、衝動的でキレやすい。計画性のある行動ができない。いわゆるグレーゾーン。
母がもう歳なので、この暴れん坊を世話することも限界がきている。
自分が引き継ぐなんてまっぴらごめんなので、地域の福祉課に電話して助けを求めた。
話を聞いてくれるということで、直接話してきたんだけど、結果からいえば、何も解決できなかった。
担当者は、ちゃんと心理カウンセリングの勉強をしているとすぐにわかった。否定もせず肯定もせず、熱心に聞いているようで、共感は示さない。
自分も、兄の様子は子供の頃からおかしいと思ってたので、精神医学に関することは軽く調べているので、兄がなんらかの発達障害、パーソナリティ障害の傾向があるということは確信している。反社会的な行動に関しての良心の呵責がまったく見られない。反社会性パーソナリティ障害の可能性は高いと思う。
福祉課に助けて欲しいと言っても埒があかないとおもったので、嘱託医制度を利用して精神科医にも相談をお願いした。
この精神科医がまたひどかった。
「それは性格だから問題ではない」と言った。いやいや、トラブル起こしてて困ってるといってんだろと。暴力と金銭トラブルがあって、人権で定義されるところの、財産権の侵害と、身の安全を脅かす行為をやってますよと。
社会の中で問題を起こす「性格」であるから、それを「障害」と定義しているんじゃないのかよと。
その後も、その精神科医は、妙に揚げ足取りをしてきたり、こっちを疑うような姿勢でずっと対応してきた。
その精神科医が何を考えていたかはわからないが、自分はもう最初から、福祉につなげないために嫌がらせして追い払うのが目的で来ているとそう感じた。
福祉課の人間は、あいかわらず否定も肯定もせず、話は聞いているが助けの手を差し伸べることは決してなく、こちらが諦めて帰るのをずっとまっていると感じた。
時間をとって話を聞いてもらえたので感謝はしつつ、失意を絶望を感じながら相談を終了した。
こういう、トラブルを抱えている人と、それに巻き込まれてる人を助けようと思う人なんていないのが当たり前だ。
それがたとえ福祉課のケースワーカーでも、精神科医でもそうだ。問題をこっち持ってくんなと考えるのが自然だ。
相手はこちらを、不審者、嘘つき、妄想に囚われた精神疾患者、甘えん坊である可能性から探りに来る。これも精神的にきつい。まず信じてもらえない。
グレーゾーンはその存在の証明も難しい。こっちも頭が良いわけでもないので、自分が抱えている困難を、短時間で人にちゃんと伝えることも難しい。
これは無理ゲーだなとおもった。
当事者は結局自己解決する知恵と体力と金が必要になる。しかし、困窮している人間はだいたいこの条件は揃わない。結局そうやって、自殺するか殺人するかって解決方法へ辿り着いてしまう。
今回はこの手のトラブルの当事者になってみて、問題解決の困難さ、福祉、警察のポンコツさがよくわかった。ポンコツというのもよくないか。
今の頭の中はやっぱり、兄の命を絶つことでしか問題は解決できないという結論になり、いやいやそれはダメに決まってるだろう葛藤している。
この思考を繰り返せば、精神的に限界を迎え、頭がおかしくなり、自分が命を絶つというなんとも無意味な解決方法にたどり着くことも何と無く想像できる。
たとえそうなっても、当事者の外側の人はなにも困らない。頭のおかしい社会に害のある人間と、無害だけど社会的無価値な空気人間が二人社会から消えるだけだ。
トラブル抱えた人間は、こっちくんなと追い払って追い詰めていったほうが社会的に合理的選択だ。そして、当事者にとって殺人行為を行うことも合理的選択に思えてくる。
そう考えると、過去に起こった殺人事件などは頭のおかしい人、精神的に弱い人が起こすのではなく、理知的で合理的な選択だったのではないかと思ったのである。
追記:
みんな関心持ってくれてありがとう。もうちょっと戦えるような気がするよ。
コブメと言及見て少し補足する。
・福祉課にやって欲しかったのは、事例と経験を多く持ってるはずだから、この先どうしたらいいのか指導が欲しかった。だから、否定されまくって絶望がデカかった。
・母は痴呆が始まっていて移転が難しいと感じていることと、もう母も心が折られていて諦めちゃってるところがある。暴力による学習性無気力とかカサンドラ症候群とかの状態。
・自分はもう別世帯になっているが、母が老齢で兄の世話が限界にきているので、自分が介入している。ほっとくとネグレクトになると予想してるから福祉に相談にいった。
・兄は精神科へはいかない。暴れている本人は全く困ってないから。これも一部のパーソナリティ障害のやっかいさの特徴。
・警察に突き出すのは、出所後悪い友人を作ってきたり、職につけなくなったり、状況が悪化する可能性があって躊躇してる。家族であるがために戻ってくる。母が縁を切りたがらない。
・自分一人なら逃げる気まんまんで、母をどうするかという問題がある。
・診断名がつくと、俺のような不審者のたわごとじゃなくて権威の言葉になるから、各専門家を説得しやすくなるメリットガある。
匿名じゃないとなかなか相談できない。リアルだとみんな巻き込まれないと逃げていく。俺の人間関係も壊れてしまう。
精神科医が否定ばかりで選択肢をガンガン潰していくのには驚いたし、絶望もしたけど、こうやってたくさんの意見がもらえて、不可逆な決断をするまえにいろいろ検討することができるよ。
ジェンダー論が好きなはてなーは興味あるんじゃないかと思ったため紹介する。
8月11日に日本で公開される映画『バービー』が、アメリカの一部男性の中で波紋を呼んでいる。
(核心を突くネタバレはないけど色々言及あるので、まっさらな気持ちで視聴したい人はブラウザバックしてください。)
バービーランド― そこはすべてが完璧で、毎日がハッピーな〈夢〉のような世界!
ピンクに彩られた世界で暮らす住人は皆が“バービー”であり皆が“ケン”と呼ばれている。そこでバービーと恋人のケンが連日繰り広げるのはパーティー、ドライブ、サーフィン、デート!
そんな完璧な毎日が続くバービーランドからある日ふたりは、完璧とは程遠い“人間の世界”(リアルワールド)に迷い込んでしまう……。
この映画は概ね好評だ。
同時期に公開された『オッペンハイマー』の売り上げを上回っており、それなりにバズっていると思われる。
https://www.tiktok.com/@its.julien.brown/video/7255724744698268954
しかし、映画を視聴した一部の男性が的外れな批判をしており、物議を醸している。
代表的なのがアメリカ人のコメンテーター(39歳男性)で、『バービー』の批評動画でなんとバービー人形を燃やした。
炎上商法を利用しているとはいえ、子供のおもちゃであるバービーをわざわざ購入してドロドロになるまで燃やしたのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=kC4aFx2xiTM
私も映画は未視聴のため想像に過ぎないが、保守的な男性の反感を買っている理由として、
バービーランドはジェンダーバイアスから解放された女性が自立して生活できる理想郷のため、「必ずしも男性は必要ない」もしくは「家父長制は不要」といったニュアンスを含む描写があることが原因だと思われる。
TikTokでもいろんな感想が飛び交っており、保守的な男性の意見に反論する投稿が多い。
映画を通じて、思っていたより男性は「女性への抑圧」に対してかなり無関心・無自覚なことが分かった。
また、バービーランドと現実世界の違いを「男性嫌悪」でまとめる浅はかさに頭を抱えている。
その上、女性に「必ずしも男性は必要ない」と思われると自分の存在価値がゼロに感じてしまうような歪んだ価値観を普段から持っているらしく、価値観を改めないとこの映画を楽しめないことにそもそも気づいていない。
保守的な男性の意見に反論するにあたって、「ジェンダーバイアス」がよく取り上げられる。
女性を古いジェンダーバイアスから解放させると自分の価値がゼロになって困ることを、当事者たちは言語化できていない(もしくはあえて言わない)のだ。
一方で、映画からジェンダーバイアスを取り除くための指標の一つとしてベクデルテストというものがある。以下の項目に当てはまるかチェックするだけだ。
1.少なくとも2名、女性が出てくる。
2.互いに会話をする。
映画業界の男女比率や作品内容にも左右されるので、ベクデルテストが絶対!というわけではないが、4割の映画は「女性は男性の添え物」的な表現がある可能性が高いということだ。
すなわち、女性はフィクションの作品の中ですら抑圧されやすい性なのだ。
一部男性が発狂している中、とある女性が19歳の息子に「ケンについてどう思った?」と聞いたところ「これまでの映画の女性の役割(女性=添え物)を表しているように感じた」と返したそう。
これまでの世代を直すことは難しいけど、これからの世代が『バービー』を理解できたら、きっと未来は明るい。そう思った。
白人も黒人もアジア人も、細い人も太い人も、トランス女性も、みんなみんなバービー!
現実でもそれが当たり前になることを願っている人が、この映画を支持しているのであろう。
まともな男性の割合は数十年前と比べたら増えていそうだが、まだまだだなと思う今日この頃。
面白いかどうか、好きかどうかはさておき、『バービー』が視聴者に伝えたいことを理解できる男性が日本に沢山いることを願う。
話は逸れるが、主役のバービーを演じている役者のすっぴん画像を投稿し「彼女は10点満点中5点だ」と外見を評価したツイートが炎上した。
https://www.insider.com/tiktok-leads-backlash-to-men-calling-margot-robbie-looks-mid-2023-7
このように女性の外見だけを見て点数をつける男性がいるのは世界共通であり、彼らは insecure men (自分に自信がない男性陣)と呼ばれている。
恋愛語りで10年くらい流行ってる、「過去の恋愛は男はファイルで別名保存、女は上書き保存」のことが、女当事者としてまじでわからん。
いくら恋人が替わっても、過去の恋愛の写真は大事な思い出だから全部残すし
当時の恋人が撮ってくれた私の写真や動画は、愛する人に向けた笑顔とか、状況の幸せに溢れてて我ながらめちゃくちゃ可愛い顔してるから
現在の恋人にも、昔の私!って言って見せちゃう。ピン写真なら。
過去の男に連絡も数年に1回はしてしまう。基本的には1人が大好きな私は、恋人関係になるくらいの相手だと趣味や嗜好が非常に合って楽しかったからわざわざ交際して一緒にいたわけで、久しぶりに会ってもやっぱり楽しい。会ってない期間の積もった話も楽しい。そして少し邪な気持ちもあるから、やれるもんならやる。それはよくないけど。
過去に最高に愛してて今でもより戻せるもんなら戻したいと思ってる人がいること。
現実的には今の恋人とおそらくこのまま結婚するし、そうしたいと願ってるけど、別名保存してるから、たぶんこのまま過去の男たちと不定期なやり取りはする。
それとも、隠してるの?
フィーッス
本日は日本において政治を考える日、スイカの日、ニキビケアの日となっております。
政治を考える日は田中角栄がロッキード事件で逮捕された日を由来にしてます。
金を積んで礼儀さえ重んじていれば何とかなった時代の奴ですね。
いやまぁそんなことないと言いたいのですけれど、つい最近あんな会見を見ましたからね。
金があっても、礼儀がないならどうしようもないんです。
何より、金がないのなら礼儀ぐらいは見せつけなきゃ誰もそんな人の下では動きたくないんです。
俺ならこんなのの下で働くのはこんなのに馬鹿にされてるみたいで嫌だなぁと思ってしまいます、ほぼ無職みたいな人が言うのも変な話ですが。
まぁ、やってきたことがエグすぎるからやめようとしたら何されるかわかんない、って言われたらそれまでです。
ということで本日は【元気な挨拶よいか】でいきたいと思います。
発達障害も自閉症もメンヘラも認知度があがったと同時に人格破綻者には何でも「発達障害?」ってコメントつくようになったよなあ
漫画でネグレクトをしていた母親の描写に「発達障害か知的障害だ」ってコメントがあってそしてそれに大量のいいねがつく
過干渉の毒親の描写に「統合失調症」って診断名つけてる人もいたりな(こっちもいいねがつく)
嫌悪感を持つ登場人物は全部障害持ち、病気持ち認定って当事者に物凄い失礼だと思うんだけど何で漫画にコメント欄をつけるようになったんだろうな
ニュースのコメント欄なら返信で異論が出ていたりするけど漫画のコメント欄って承認欲求の塊の0:00コメントがいいねを攫うから、ただの差別意識丸出しコメントが上の方にバーンと乗ってるんだよなー
当方、ヨーロッパ某国にいるので、先日クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を視聴することができた。
同日公開だった方向性の全く違う『バービー』との造語がミームになるなど、英語圏を中心に話題になっているが、『オッペンハイマー』は原爆開発のマンハッタン計画を指揮した物理学者の伝記映画であるため、日本での公開は未定であるという(しかも8月が近いこの時期なので)。
ネタバレ等は気にしないで書くので、情報を入れないで視聴したい向きは注意されたい。
戦中の原爆開発まで、戦後の赤狩りによるオッペンハイマーの失脚、さらにその後のストラウス(オッペンハイマーへの個人的因縁から裏で糸を引いた人物)の議会公聴会だ。
また、最初のマンハッタン計画までを除けば、基本的に法廷劇である。
当方は英語のリスニングに慣れているとは思うが、聞き逃した事柄もあった。日本語字幕で見ればこの苦労は少なかったかもしれない。
さらに3時間と長い。劇場は結構混んでいたが、途中で携帯を見たり同伴者と話したりするガキ共もいた。
映画的なクライマックスは、一応ロスアラモスでの原爆の爆発実験に置かれており、中盤に訪れる。
これによってオッペンハイマーはプロメテウスとなり、世界に滅亡をもたらす「死」となる。
オッペンハイマーはこの後苦悩し、戦後の水爆開発に反対し、それが戦後の公職追放の憂き目を見る仇となる。
日本人として気になる広島・長崎の描写は、直接行うことは避けられている。
しかし、罪の意識に苛まれる主人公が投下後にロスアラモスの職員を前に演説する際、喜びを口にしドイツに落としてやりたかった(オッペンハイマーはユダヤ人)と盛り上げながらも、皮膚がポロポロと崩れ落ちる幻影を見せる(これは『はだしのゲン』での描写が思わず想起された)、職員向けの広島視察報告会で残虐な写真を想像させるリアクションを演じさせる、という程度は行っている。
などと軽い調子で話し合う場面は生々しい。
僕は被爆地出身ではないし、広島に高校の修学旅行で一度訪れた程度なのだが、上述の演説中のフラッシュバックの場面では、被爆者が受けた残酷な苦悩を思い、思わず涙がこぼれた。
これはアメリカ人が憎いとかどうのという話ではなく、(戦後も含めた)歴史という大きな対象と個人との対比に心が動いたという話と言えようか。
あとちょっと思ったのは、爆発前のカウントダウンはAVのJOIみたいな効果がある。
個人的営為の究極であるAV鑑賞と、大衆娯楽にする装置であった映画館での映画観賞との接続は興味深い。
アメリカ合衆国の原罪のようなものも、映画に盛り込まれている。
まず、ロスアラモス研究所を作った砂漠は原住民の土地であり、オッペンハイマー自身が戦後にインディアンに返せと言う台詞がある。
原住民から取り上げて作った研究員の居住空間は、まるで西部劇の舞台である。
ガランとした土埃舞う道、左右に並ぶ木製の建物。
妻がシーツを取り込む場面はフォードにありそうだし、ロスアラモスに引っ越してきたオッペンハイマーの妻はサルーンがあれば完璧ねと言う台詞もある。
事程左様に西部劇的な舞台が用意されるが、アメリカ合衆国が西部劇で描いてきた神話や、その自警的な暴力性と法による支配との相克は、これまで様々な映画で繰り返し取り上げられてきた主題である。
この映画でも、原爆を無事作り終えて職員に肩車されるオッペンハイマーの背景には、星条旗がはためく。
オッペンハイマーはナチズムへの反発から、アメリカ軍の原爆開発をリードする役目を引き受けた。
科学と政治の関係というテーマは、コロナ禍での専門知の活用、学術アカデミーの問題、そして2011年の原発事故など、日本でも問題になってきた。
この映画のテーマはもちろん原爆というプロメテウスの火である。現代的なテーマである。
しかし今一度思い返してみると、科学、共産主義、資本主義の関係にも踏み込まれているのではないかと思う。
科学の進展と共産主義は切っても切れない関係にある。ソ連は科学を推し進め、オッペンハイマーもマルクス主義(科学的社会主義)に興味を持つなど、科学者も共産主義で楽園が訪れるのではないかと期待した。
しかし共産党による独裁となったソ連は崩壊し、その混乱を収めたプーチンがウクライナに核の脅しをかけている。
では資本主義の勝利かと言えば、その限界が指摘されて久しい。アメリカ合衆国は共産主義への恐怖から赤狩りを進める。さらに戦争に勝つために原爆まで作ってしまった当事者である。
この映画は、冒頭で述べたように3分の2が赤狩りに関するものである。
原爆の映画ではあるのだが、共産主義と科学に関する映画と考えることもできよう。
3時間という長尺の映画であるが、これだけ多様で重層的なテーマを盛り込み、商業作品にしたクリストファー・ノーランと製作チームの意欲は素晴らしい。
しかし、あくまでもアメリカ国内の話であるという感じもする。ソ連、そしてヨーロッパや中国の動向も薄い。
そして日本では、まずもって娯楽作品ではないから、商業的成功は見込めるのかは分からない。