はてなキーワード: 谷口稜曄とは
In a discussion about the case, someone raised an objection to "someone who was not a party to the incident, who was not from Nagasaki, and who was not from Hiroshima, complaining about it. Seeing that opinion made me aware of my position, so I will say what I must say.
I was born in Nagasaki and am a third-generation A-bomb survivor.
I say this because I grew up hearing the stories of the A-bomb damage directly from those who suffered from the atomic bombings.
I feel that it is unacceptable for someone like me to speak about the A-bomb damage.
However, there are few A-bomb survivors left, so I will speak up.
In Nagasaki, children grow up hearing stories about the atomic bombing. We were made to sit in the gymnasium of an elementary school in the middle of summer, where there was not even an air conditioner or a fan, and for nearly an hour we were made to listen to stories about the atomic bombing. It was hard for me anyway.
I think it was even more painful for the elderly people who told the stories. But I don't think an elementary school kid could have imagined that. I, too, have forgotten most of the stories I was told. I can only remember one or two at most.
Another thing is that at this time of year, pictures of the victims of the atomic bombing are pasted up in the hallways.
In other parts of the country, these are grotesque images that would cause a fuss from the parents who are always nagging about them.
Recently, even the A-bomb museum has become more gentle in its exhibits, and most of the radical and horrifying exhibits that would have traumatized visitors have been removed.
I don't know how elementary schools now teach about the A-bomb damage. But when I was in elementary school, there were photos on display.
There was one photo that I just couldn't face as an elementary school student. It was a picture of Taniguchi Sumiteru(谷口稜曄). If you search for it, you can find it. It is a shocking picture, but I would still like you to see it.
I couldn't pass through the hallway where the photo was displayed, so I always took the long way around to another floor to avoid seeing the photo.
My grandfather was under the bomb and went to the burnt ruins of the bomb to look for his sister. I can understand now that he couldn't turn away or go another way.
There would have been a mountain of people still alive and moaning in the ruins of the burnt ruins. There would have been many more who would have died out in agony.
My grandfather walked for miles and miles, towing a rear wheelchair, through the narrow streets of rubble-strewn Nagasaki in search of his sister.
My grandfather was not a child then. But of course there were elementary school children who did the same thing he did. I am not speculating that there were. There were. I heard the story from him, and I still remember it.
A young brother and sister found their father's corpse in the ruins of the fire and burned it themselves. They didn't have enough wood to burn him alive, and when they saw his brain spilling out, they ran away, and that was the last time they ever saw him again.
I can never forget that story I heard when I was a kid, and even now it's painful and painful, my hands are shaking and I'm crying.
I keep wondering how that old man who ran away from his father's brain was able to expose to the public the unimaginably horrible trauma, the scar that will never heal, even after all these years.
Now I think I understand a little.
Why I can't help but talk about my grandfather and the old man now, even as I remember my own trauma.
Because this level of suffering is nothing compared to their words being forgotten.
It's nothing compared to the tremendous suffering that once existed that will be forgotten, like my hands shaking, my heart palpitating, my nose running with vertigo, and so on.
My grandfather, who went through an unimaginable hell, lived to see his grandchildren born, and met his sister's death in the ruins of the fire.
In other words, my grandfather was one of the happiest people in the ruins of the fire.
My grandfather and that old man were, after all, just people wading in the depths of hell.
I think that the suffering that even people who had experienced unimaginable pain could not imagine was lying like pebbles on the ground in Nagasaki 78 years ago, and no one paid any attention to it.
Their suffering, which I can't even imagine, is nothing compared to the countless, unimaginable suffering they witnessed, which they pretend never happened.
Memories fade inexorably with each passing human mouth. The memories that those people could never allow to be forgotten are almost forgotten.
The tremendous suffering of 78 years ago is mostly gone, never to be recounted.
Those who suffered the most from the atomic bombing died rotting in the ruins of the fire without being able to tell anyone about it.
Many of those who saw it with their own eyes kept their mouths shut and took it with them to their graves. Most of those who spoke a few words are still in their graves.
Compared to the words of the old men, my own words are so light. I would rather keep my mouth shut than speak in such light words.
But still, someone has to take over. I realize that even my words, which are so light, are only the top of the voices that are left in this world to carry on the story of the atomic bombing.
I know how it feels to think that I am the only one. Still, I hope that you will not shut your mouth. I know that I have closed my mouth because I thought I shouldn't talk about it, and that is the result.
Sometimes I almost choose to stop imagining the unimaginable suffering and live my life consuming other people's suffering for fun.
I am writing this while I still have some imagination of the suffering of the old people whose voices, faces, and even words I can no longer recall.
対照用にdeepLの画面で対訳見ながら編集した翻訳用和文原稿も吊っておく (deepLが誤解する場所とか主語を補ったりしないとちゃんとした訳にならんのよ)
ここは原文からニュアンス変えすぎでは等の突っ込みも甘んじて受ける。
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「例の件」に関して、彼らは当事者でもなければ長崎の生まれでも広島の生まれでもないのに語るべきだろうか、という書き込みを目にして、少し自覚したのでどうしても言わねばならないことを言う。俺は長崎の生まれで被爆三世で当事者たちから直接話を聞かされて育ったから言う。俺程度がおこがましいという気持ちはあるけれど、当事者はほとんど残っていないから俺が言う。
長崎ではガキどもは原爆の話を聞かされて育つ。クーラーも扇風機もない真夏の小学校の体育館に一時間近くも寿司詰めにされて、原爆の話を聞かされた。俺にはそれが辛い時間だった。話をする年寄りはもっと辛かったと思うが、小学生のガキにはそんな想像ができるはずもないし、俺だってずいぶん聞かされた話をほとんど忘れてしまった。思い出せるのは精々ひとつかふたつだ。もうひとつ辛いことがある。毎年この時期になると、廊下にはずらりと、他所の地域ならPTAが発狂するようなグロ画像が堂々と貼り出される。最近は、原爆資料館ももうずいぶん漂白され、観覧者がトラウマを抱くような過激で恐ろしい展示は多くが撤去されたと聞く。なので、今も続いているかは知らないが、俺の頃はそこに展示されていた。
小学生の頃の俺にはどうしても直視できない写真が一枚あった。谷口稜曄さんの写真だ。検索すれば出てくる。閲覧注意のショッキングな写真だが、それでもどうか見てほしい。どうしてもその写真の掲示された廊下を通れなくて、その時期はいつだって校舎の別の階を遠回りして、写真が目に入らないよう逃げ出していた。
今は、妹を探すために焼け跡に向かった俺の祖父は、目を背けることも別の道を通ることもできなかったんだなと思う。写真どころか、まだ生きて呻きを上げる人間が山ほどいただろうし、苦しみの果てに事切れた人間はもっと山ほどいただろう。彼は瓦礫だらけの長崎の狭い道を、handcartを曳いて何キロも何キロも歩いて、妹を捜し歩いた。当時の祖父は子供じゃなかったが、当然それと似たような事をしたこどもたちも居た。居ただろうじゃない。居た。俺はその話を本人から聞いたし今も覚えている。幼い兄弟が焼け跡から自分の親父の死体を見つけて、兄弟がそれを焼いた話。薪が足りなくて親父の遺体が十分に焼けず、零れ出た生焼けの脳ミソを見て逃げ出して、それが今生の別れになってしまった話。
俺はガキの頃に聞いたその話をいつまで経っても忘れることが出来ないし、今だって辛くて苦しくて、手が震えて涙を出している。どうしてあの親父の脳ミソから逃げた爺さんは、想像もできないほど恐ろしいトラウマを、一生治らない傷痕をほじくり返して人目に晒すことが出来たのだろうかとずっと思っている。
今は少しだけわかる気がする。
俺が自分のトラウマをほじくり返してでも祖父やあの爺さんの話をせずにいられないのは、彼らの言葉が忘れ去られることに比べれば、この程度の苦しみなど何でもないからだ。俺の手が震えて動悸や眩暈と共に涙や鼻水に塗れることなど、かつて確かにあった途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないからだ。
だからひょっとしたら同じなのかもしれないとも思う。
俺には想像もできないほどの地獄を味わった祖父は、孫が産まれるまで生き、焼け跡で妹の死に目にも会えた。つまり祖父はあの焼け跡で、誰よりも幸福な人間のひとりだった。祖父やあの爺さんは結局のところ、地獄の淵をさまよっていた人間に過ぎないのだ。俺には想像もできないほどの苦痛を味わった人間でさえ想像もできないほどの苦しみが、78年前の長崎には石ころのように転がっていて、誰にも顧みられなかったのだと思う。俺には想像もできない彼らの苦しみは、彼らが目にした無数の途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば、何でもないことなのだ。
記憶は人に語られる度にどうしようもなく薄れていく。あの人たちが忘れられることをどうしても許せなかった記憶も、もうほとんど忘れ去られている。78年前の途方もない苦しみはもうほとんどが消え去って、二度とは語り継ぐことはできない。あの原爆で最も苦しんだ人たちは、それを誰に伝えることも出来ないまま焼け跡で腐れ落ちて死んだ。それを自分の目で見た人々も、多くは口をつぐんで墓まで持って行った。僅かに語った人々もほとんどが今や墓の下にいる。
老人たちの言葉と比べて、自分の言葉は何と軽いのだと思う。こんな軽い言葉で語るくらいなら、口をつぐんだ方がマシだとさえ思う。それでも誰かが継がねばならない。俺のこんなにも軽い言葉でさえ、もはやこの世に残された原爆を語り継ぐ声の上澄みなのだと気が付いた。自分のような存在がこれを語ることが許されるだろうかと思う気持ちは痛いほど良く分かる。それでも口を閉ざさないでほしい。語るべきでないと、我々が口を閉ざした結果があれなのだ。
想像もできない苦しみを想像することを止め、他者の苦しみを面白おかしく消費して生きていくことを、俺は時々選んでしまいそうになる。俺がもう声も顔も、言葉さえろくに思い出せない老人たちの、せめて苦しみの想像が残っているうちに、ここに書き残しておく。
翻訳者注記: このポストは、日本のある投稿者が「自分は広島・長崎の出身でもないのに原爆に関する言論について発言する資格があるだろうか」と悩みながら、それでもバービーと原爆の件について発言した投稿に対する返答である。世界に読まれる価値があると考えここに翻訳した。
例の件に関して、当事者でもなければ長崎の生まれでも広島の生まれでもない人間がどうこう、という書き込みを目にして、少し自覚したのでどうしても言わねばならないことを言う。
俺は長崎の生まれで被爆三世で当事者たちから直接話を聞かされて育ったから言う。
俺程度がおこがましいという気持ちはあるけれど、当事者はほとんど残っていないから俺が言う。
長崎ではガキどもは原爆の話を聞かされて育つ。クーラーどころか扇風機もない真夏の小学校の体育館に一時間近くも寿司詰めにされて、原爆の話を聞かされた。俺はとにかくそれが辛かった。
話をする年寄りはもっと辛かったと思うが、小学生のガキにはそんな想像ができるはずもないし、俺だってずいぶん聞かされた話をほとんど忘れてしまった。思い出せるのは精々ひとつかふたつだ。
もうひとう、この時期になると廊下にはずらりと、他所の地域ならPTAが発狂するようなグロ画像が堂々と貼り出される。原爆資料館ももうずいぶん漂白され、観覧者がトラウマを抱くような過激で恐ろしい展示は多くが撤去されたと聞くので、今はどうかは知らないが俺の頃はそうだった。
小学生の頃の俺にはどうしても直視できない写真が一枚あった。谷口稜曄さんの写真だ。検索すれば出てくる。閲覧注意のショッキングな写真だが、それでもどうか見てほしい。
どうしてもその写真の掲示された廊下を通れなくて、その時期はいつだって別の階を遠回りして、写真が目に入らないよう逃げ出していた。
今は、妹を探すために焼け跡に向かった俺の爺さんは、目を背けることも別の道を通ることもできなかったんだなと思う。
写真どころか、まだ生きて呻きを上げる人間が山ほどいただろうし、苦しみの果てに事切れた人間はもっと山ほどいただろう。
瓦礫だらけの長崎の狭い道を、リアカーを曳いて何キロも何キロも歩いて、妹を捜し歩いた。
当時の祖父は子供じゃなかったはずだが、当然それと似たような事をした小学生も居た。居ただろうじゃない。居た。俺はその話を本人から聞いたし今も覚えている。
幼い兄弟が焼け跡から自分の親父の死体を見つけて、自分たちで焼いた話。薪が足りなくて親父が生焼けになってしまって、零れ出た生焼けの脳ミソを見て逃げ出して、それが今生の別れになってしまった話。
俺はガキの頃に聞いたその話をいつまで経っても忘れることが出来ないし、今だって辛くて苦しくて、手が震えて涙を出している。
どうしてあの親父の脳ミソから逃げた爺さんは、想像もできないほど恐ろしいトラウマを、一生治らない傷痕をほじくり返して人目に晒すことが出来たのだろうかとずっと思っている。
今は少しだけわかる気がする。
俺が自分のトラウマをほじくり返してでも祖父やあの爺さんの話をせずにいられないのは、彼らの言葉が忘れ去られることに比べれば、この程度の苦しみなど何でもないからだ。
俺の手が震えて動悸や眩暈と共に涙や鼻水に塗れることなど、かつて確かにあった途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないからだ。
だからひょっとしたら同じなのかもしれないとも思う。
俺には想像もできないほどの地獄を味わった祖父は、孫が産まれるまで生き、焼け跡で妹の死に目にも会えた。
つまり祖父はあの焼け跡で、誰よりも幸福な人間のひとりだった。
祖父やあの爺さんは結局のところ、地獄の淵をさまよっていた人間に過ぎないのだ。
俺には想像もできないほどの苦痛を味わった人間でさえ想像もできないほどの苦しみが、78年前の長崎には石ころのように転がっていて、誰にも顧みられなかったのだと思う。
俺には想像もできない彼らの苦しみは、彼らが目にした無数の途方もない苦しみがなかったことにされるのに比べれば何でもないことなのだ。
記憶は人の口を経る度にどうしようもなく薄れていく。あの人たちが忘れられることをどうしても許せなかった記憶ももうほとんど忘れ去られている。
78年前の途方もない苦しみはもうほとんどが消え去って、二度とは語り継ぐことはできない。
あの原爆で最も苦しんだ人たちは、それを誰に伝えることも出来ないまま焼け跡で腐れ落ちて死んだ。
それを自分の目で見た人々も、多くは口をつぐんで墓まで持って行った。僅かに語った人々もほとんどが墓の下だ。
老人たちの言葉と比べて、自分の言葉は何と軽いのだと思う。こんな軽い言葉で語るくらいなら、口をつぐんだ方がマシだとさえ思う。
それでも誰かが継がねばならない。俺のこんなにも軽い言葉でさえ、もはやこの世に残された原爆を語り継ぐ声の上澄みなのだと気が付いた。
自分ごときがと思う気持ちは痛いほど良く分かる。それでも口を閉ざさないでほしい。語るべきでないと、口を閉ざした結果があれなのだ。
想像もできない苦しみを想像することを止め、他者の苦しみを面白おかしく消費して生きていくことを、俺は時々選んでしまいそうになる。