はてなキーワード: 命題とは
自分が好きなものがマイナーなものにカテゴライズされる傾向は偶然にしろ確かにあるんだろう
逆に言うなら、自分が好きとか面白いと思うものは売れない、疫病神みたいな傾向もあるのかもしれない
そういえば、庵野氏も似たこと言ってたけど、売れるものを作るのが命題だと精神的にキツいかもしれない
自分が反吐が出るほど嫌いでも世間で売れるなら、というのはモチベーションとしては社畜サラリーマンと変わらない
例えば、作品自体には愛はないけど、制作スタイルとかワークフローを構築したいとか、
視点を変えることで選択権のない仕事を少しでも面白くすることはできるように思う
例えばクトゥルーネタを持ってくると売れない、みたいなのがあったけど、
ニャル子で確実にそれは覆された感はある…
え?ニャル子はメジャーではない?
だとすると、それはそれで残念な気もするが、
それよりも平成ライダーとかガンダムではなかったか?という気がしなくもない
クトゥルーネタだと売れないジンクスは、どちらかと言うと映画の話であって、
サム・ライミのキャプテン・スーパーマーケットもその前作も、
最近のCGなりでダンウィッチの怪をやってもいいような気がするんだけど、
そのバックグラウンドというかスターシステムみたいなのが面白いわけだけど
日本のインスマスを覆う影と異なる脚色で、アクションなりエロなりを盛り込めたと思うけど、
あれはあれで、なんか長くない?という気がしないでもなかった
そう考えると、やはりインスマスは佐野史郎のあれがベストであって、
あれを観たのは自分がまだ子供で親戚の家に泊まっていたのだけど、
周囲からすれば迷惑だっただろうけど、テレビの前でワクテカして待機してたのを覚えてる
ネットはまだなかった気がするのだけど、
インスマスをテレビでやるという事前情報だけはキャッチしていた子供だった
佐野史郎もインスマスとか怪奇路線は本人も大好物のはずで、幻想文学が好きなはずだけど、
佐野史郎本人までバッシングされたぐらいだったように記憶している
冬彦さんブームというか、宅八郎と宮崎勤のような偏見や差別をマスコミも醸成してた気がする
結論としては売れる話とクトゥルーネタがまったく相容れないというか水と油なだけなのかもしれない
ラブロマンスな話を考えるとしても、彼女が半魚人とか、不死の恋人が登場するとか、そんな感じだろうか
そもそも、ラヴクラフト縛りみたいなのが足枷になっては良くない気もする
いずれにせよ、基本どうやったってホラーになるんだよなあ
そしてそのブドウ糖原料となる栄養である糖類はたいてい甘いので
砂糖を甘いのやめろという理由でアウトにするならブドウ糖も果糖もデンプン(唾液で即座に麦芽糖ができる)もアウト
はい脳捨ててでなおしてきて
ちなみに甘くない糖類や甘くても人工甘味料(一部のアミノ酸も含む)ではブドウ糖が生成できないよ
そのために味覚が発達したんだからね
味覚に甘みをもたらす食品を禁止するというのはそういうことだろ?
覚悟もなくてやってたの?
脳細胞はブドウ糖しか栄養にできない ならば まず脳で考えるのをやめてもらうことになります
この命題の中に増田の書いた理屈↓が省略されてるのを読み手に想像させるのは無理でしょ。つーか俺は無理だわ。
そのりくつはおかしい と言って差し支えないレベルと思うし、控えめに言っても、論理が飛躍している。
そしてそのブドウ糖原料となる栄養である糖類はたいてい甘いので
砂糖を甘いのやめろという理由でアウトにするならブドウ糖も果糖もデンプン(唾液で即座に麦芽糖ができる)もアウト
はい脳捨ててでなおしてきて
ちなみに甘くない糖類や甘くても人工甘味料(一部のアミノ酸も含む)ではブドウ糖が生成できないよ
そのために味覚が発達したんだからね
しかもそれだけの理屈を並べても、こちらの理屈への返答としてはいまひとつだし。なぜ「そして」できれいにつながると思ってるのか謎。
https://anond.hatelabo.jp/20210403004144
丁度良いタイミングはてブにこんな記事がトピックに入っていたので追記的なものをば。
「フェミニズム叩き」「女性叩き」で溜飲を下げても、決して「幸せにはなれない」理由
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81804
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/81804
まずはっきり言っておきたいのは「アンチフェミ=非モテ」ではないということ。
どちらもフェミニズム(フェミニスト)を批判すると言う部分があるので同一視されがちではあるけれども、前者は前回述べた通りフェミニズム(フェミニスト)による保守的な抑圧行動に対する批判であるのに対して後者は自分に獲得されることを許さない女性及びそれを肯定するフェミニズムへの批判なのだ。
何年か前にエマ・ワトソンが男らしさというジェンダーロールに押しつぶされる弱者男性にジェンダーロールに囚われないでという言及をしたことがあった。それに対してそんな事言っておまえはイケメンと付合ってるじゃねえかという批判をしていた人達が居た。私もこの件をまとめたTogetterの記事のコメ欄でそういう輩とさんざんやり合ったのだけれども今にして思えばアレが弱者男性(KKO)論者だったのだろう(当時から弱者男性やKKOと言う言葉が流通していたかは覚えがないけれども)。
当時何故彼らはそんなにも女性を獲得することを自己の命題としているのだろうと思ったものだけれども、昨今の弱者男性論の盛り上がりを見るにうっすらと理解できるようになった。彼らは強者男性というジェンダーによってフェミニズム的に批判されるにもかかわらず実際に強者男性としての利益(女、金)を得ていない、つまり強者男性という枠組みの中で人並みに満たないものであるという自認があるから殊更それに拘り追い求めるのだ。
そして自分を男性的利益を得ていない自分達を強者男性として糺弾するフェミニズムを憎みそれに同調して利益を得ている女性をも憎むのである。
選択的夫婦別姓や「呉座先生事件」関連のエントリ・ブックマークコメントをみつつ連想したこと。
呉座先生の個別の失言は、まあ擁護は難しいしするつもりもないが、リベラルを自称する界隈の先鋭化が気になってしょうがない昨今。
最も気になるのは、保守派の主張を全面的に不合理なものとしてバッサリいく態度。
一見不合理かもしれんけど、保守思想というのはそもそも現状維持が基本姿勢で、その背景は「経験と歴史の尊重」「人間理性に対する懐疑」にあると思ってる。
これ自体はリベラルの根底にある理性の信奉と根っこでは矛盾しないはずで、「歴史に耐えた制度にはなんらかの合理性があるはず」と考える態度は、科学的に見ても「合理的」でしょうに。
まあ政治思想の理念的な背景は明るくないのでこれくらいにしとく。
リベラル勢に聞いてみたいのは、
例えば選択的夫婦別姓が成った後に、一族や天皇制といった概念が希薄化し、日本の民族性や文化を愛する人々が少数派になったとき、彼らをどう扱うつもりなのか、ということ。
他者の自由を阻害しない範囲で思想信条の自由は尊重されるべしというのが、リベラルの基本理念だと思うんだけど、マイノリティになってから初めて尊重します、っておかしくね?
現状において支配的な思想信条が、女性や性的少数者の自由を侵害しているという主張はわかるし、それを解消すべく制度設計を行いましょうというのもわかる。
でも、「現状の戸籍や姓・婚姻制度にも機能と利益があるはずで、性急な改革は伝統と文化を損なう可能性がある」という反論をバッサリシャットアウトするのはダメだ。
現状の被害者と同レベルとまではいかずとも、理解を示して妥協点を探るべきでしょう。
少なくともその伝統を拠り所にしている人々がいて、あなたがたは、かれらを「少数派」にしうる政策を支持しようとしているんだから。
想定問答をあげておくと、
「選択的なんだから問題ないだろう」というのがまず返ってくる反応だろうけど、保守派は「文化や伝統」を問題にしているのであって、選択肢が発生すること自体に対するデメリットを危惧している訳だから、
「姓が別になった程度で文化は損なわれない」という反論もありえる。ここは保守側の仮定なので一定妥当である。「文化」の定義がカバーする範囲が広すぎるので合理的な説明が難しい。
でも、自分の祖父祖母世代とのコミュニケーションから、保守派の心情を勝手に代弁するなら、もう彼らは相当に妥協しているし戦線を後退している。
「日本文化は米国文化に塗りつぶされ、最後の一点で耐えている」という世界観を現代の高齢者世代は持っている。
(親父がネトウヨにいつのまにか傾倒していたなんて話がよくあるが、それもこの流れの一旦だと思うし、呉座先生も高齢者ではないが歴史学者としてこういう流れに影響を受けていそうな気がしている)
彼らの世界観からすれば、今も米国文化によるマイルドな同化政策は続いているし、それは一面では事実でもあるだろう。
かれらの青春時代にはリベラルなんて影も形も無かっただろうし、「家を継ぐことが至高命題」として育てられた彼らが、生きているうちにここまで世界が変わるなんて思いもしなかっただろう。
それは同情すべきこと・尊重すべきことではないのか?
「日本の文化もできるだけ維持し継承します、そのうえでみんなが活躍できる社会にしていこうとしてるんです」と、言い方だけでも寄り添ってあげようよ、という主張は、トーンポリシングとして糾弾されるべきことなのか?
自分自身は、ムラ社会の嫌な面を経験してきているので、家を継ぐべしというような思想は消えていいと思っている。
一方で、ムラ社会の最後の世代になるであろうジジババが寂し気に「私は親にそう教育され家を守ってきたしそれを誇りに思ってきた、子に受け継ぎ家を守りたかったがもうあきらめている」と語るのを聞くにつけ、かれらに「わきまえたマイノリティ」の像を重ねることもある。
(まあかれら自身は保守政党に投票するだろうが、世代が変わればいずれムラ社会は解体されるだろう)
ムラ社会は総論として害が大きいと思っているが、それでも私の原風景は「田舎のばーちゃんちでジジババに載せてもらったトラクターからみた風景」であり、自分はそれを享受しながら、自分の子世代にそれを残せないことの寂しさや後ろめたさも感じている。
なんというか、そういう対抗派閥に対する共感・配慮なしに、一方的に断罪する論調は、先鋭化が行き過ぎているし、リベラルが根底に置く理念と矛盾していると思う次第。
https://www.ajimatics.com/entry/2021/03/22/174633
これについていたブコメ
id:versatile 「実数の中には、「2乗して0になる数」というのは0しかありません」の証明ってどうやるの?
メタブを見に行ったら、そういう数が存在した場合は逆数をとると矛盾が引き起こせるよっていうスマートな背理法が書かれてたんだけど、これはかなり危うい議論に見える。
というのも、その議論は0でない実数は必ず逆数が取れるよねっていう前提を所与のものとして扱っているわけで、じゃあその「0でない実数は必ず逆数がとれる」って命題はどうやって証明するのという話になる。
そんなの当たり前の話じゃないかと感じられるかもしれないが、我々の証明しようとしている「二乗して0になる数は0以外にない」という命題も同程度には当たり前のことであって、つまりこれは当たり前から当たり前を示す、基礎論的なところの問題なのである。
こういう議論では、話の土台が何より重要で、よく知られた性質の中でもどれは使っていいのか、どれは使ってはいけないのか良く整理してから始めなければいけない。
なぜなら証明済みの性質を贅沢に使って基礎的な部分を証明してしまうと、その元の議論のほうの前提に実は今証明している命題が間接的に入っているんだよということになりかねない。
だから、「当たり前のものを示す時」には、議論が「逆流」しないか十分気にする必要がある。
で今回の問題が具体的にどう引っかかっているかと言うと、実数には有理数という土台があって、有理数は整数という土台から作られている。
ここでもし、「二乗すると0になる0でない数a」が【整数の中に】含まれていると、有理数上で、(1/a)*(1/a)の答えが定義できなくなってしまう。
そうなるとそもそも有理数上の掛け算の定義が壊れているということなので、実数の構成どころの話じゃない。
つまりこの掲題の疑問は有理数に掛け算構造を与える際にこそ気にすべき問題なのである。
逆数という概念は掛け算の成立後にようやく有効になる話であって、その前段階にあるはずのこの疑問に対して逆数の性質を使ってしまうのは若干論点先取というか、真芯を外している回答のように思う。
もちろん実数の話であるからには土台にある有理数の基本的な性質は所与のものであるという考え方も間違いではないけれど、それはこの疑問の「心」が見えていないんじゃないかな。
で実際どうやって証明すべきかというと、まずは上述のように【整数で】この性質を示すべき。
もっと言うと整数の土台には自然数(ここでは0を含む)があるので自然数上で非0×非0が非0になることを示す。
そうして得られた性質を整数、有理数、実数へと順々に拡張していく。こういう流れになる。
自然数上での証明は、0でない自然数には前者関数Preが適用できることを用いて、
a*b=a*Pre(b)+a≧a>0
という感じで示せる。(もちろんもっと厳密にやるけどね)
整数は自然数のコピーを貼り合わせてできている。自然数上での非0×非0=非0という性質から、整数上でも容易にそれが示される。
有理数は整数の分子分母のペアに約分という同一視を入れてできている。ここでも整数上の非0×非0=非0の性質を簡単に有理数上に拡張できる。
最後に実数は、有理数の無限数列を極限の考え方で同一視してできるので、有理数上の性質をうまく実数上にも持ってくることができる。
概要だけざっくりだけどこれを組み立てれば疑問への回答になると思う。
(道筋だけ最後まで立てられることがわかったら途端に興味を失うやつ)
【追記】
文章が長ったらしくて申し訳ないけど、やっぱ伝わってないね…。
前半部は、「当たり前のことを証明する時には当たり前の前提を無批判に使っちゃいけない」ってことを言ったつもり。
ブコメで貰ってる「両辺をaで割って〜」っていうようなのも、実は割り算の存在が無意識に前提とされているけど、零因子があるかないかっていうのは【割り算の構成のためにこそ】必要な話なんだ。
だから「割り算というものが存在する」って無邪気に考えることすらもこういう問題では危険だよと言いたかった。
さて、今年度の7月に適応障害と診断を受けてから8ヶ月の時間が経ちました。
この8ヶ月の中での変化や、心や気持ち・環境との対峙の仕方などについて書いてみたいと思います。文脈が崩壊したり、段落のつながりが見えなかったりしたら、ごめんなさい。
【読んでくれると嬉しいなーという人】
1、診断の効用と注意点
診断が下ったことで、自身の状態が外部のストレス環境に大きく依存するということがわかりました。環境によって波は大きくなったり小さくなったりしますが、そういった波とうまく付き合っていくための方法を獲得できました。もちろん、まだまだ未獲得だったり、未学習な部分も多いですが。
(これについてはあとで詳しく書きますね)
一度自身の精神的にきつい状態を認めて病院に行き、診断をもらうということは、”病理”の世界に立ち入るということなのだと思います。
そうなったときに、一点不安だったことが、自分のアイデンティティの根っこを「病気」に持っていかれるのではないかということでした。つまり「病気だ」というラベルを自分自身につけて剥がせなくなるということです。これはメリットもデメリットもあることだと思います。
例えば、症状がひどかった当時は、診断書をかばんに入れて持ち歩いたりしていました。おそらく当時を振り返るに、自責傾向の強い自身にとっては、「自分は病気だ」とラベルを貼ることが唯一自分を責めないための手段だったのだろうと思います。「がんばらないと自分の価値がない」という精神的シャカリキさから、「もうがんばらなくてもいいんだ」という気持ちへ、診断を機にやっと切り替えることができた感じですね。診断の力はすごいです。
また、適応障害を機に、調べたり本を読んだりすることで、自分の認知がかなり歪んでいるということにも気づくことができました。(「認知の歪み」は過去記事にもある通り、去年の7月に「みんな私のことが嫌いなんじゃないか」などの考えのことですが、これは日常のささいな他人の言動を捉えるときにも適応されるので、取り組むことは一定重要な課題だと思います)。これは一朝一夕では解消されないので、なかなか苦労していますが、長期的に改善できるといいなと思います。
③別の病気への移行
適応障害はストレス環境により症状が出てしまうという一過性のものなので、ストレス環境から身を離せば、症状がなくなります。ただし、うつ病(恒常的な)だったり双極性障害にも移行するということもあり、ちょこっと注意しなきゃいけないな…と思っています。
この移行は、診断をきっかけに起こることなのかわからないですし、ごく個人的な所感なのですが。あまりに病識が強くなりすぎた場合に、「ほかの病気のこの側面も自分の状態にあてはまるんじゃないか…」と強く思いすぎることにより、自分の不安定な状態を強化していく…というサイクルに入るんじゃないかなと思います。ここについては、ちょっと個人的に思うところもあるので、また別の記事に機会を見てまとめます。
2、波とうまく付き合うためのあれこれ
①感情を記録する
「muute」というアプリを用いて感情とその日にあった出来事を記録しています。記録することでよかったことはまだよくわからないけれども、2ヶ月くらいやってみた所感として「気分がいい時には記録つけない」「気分が落ちすぎていても記録つけられない」ということ、軽くしんどい時には記録を取れます。記録を見返すことで、「何がきっかけで落ちることが多いのか」を把握することができます。あと、アプリのデザインがかわいい。そして、毎週AIからの「ニュースレター」が届くのが嬉しい。
もうちょっと重めの出来事を整理するのために「認知行動療法アプリ」というアプリを入れています。これは割とがっつりと書かなきゃいけなかったり、アプリのデザインもあんまりかわいくなかったりするので、個人的には使いにくいなーと思うんですが、ちゃんとやれるならよいと思う。私は一度だけ、先月末に仕事であった出来事を振り返るために使いましたが、頓挫しました。認知行動療法を一人でやりきるのは、結構エネルギーがいるので、信頼できる人と一緒にやれるといいかもです。だれか一緒にやろう。
②依存先について
どっかの大学の熊谷先生は「依存先を増やせ」ということを常々から言っていますが、その通りです。依存できる場所は分散し、相談の内容もそれぞれに分けられると超ベスト。これは相手のためでもあるし、自分のためでもあります。
ざっとあげると、「母親」「病院」「社内の相談窓口(キャリアセンター、こころの相談センターなど)」「仕事の同僚」「退職した元同僚」「パートナー」「知人」「元劇団の人たち」などかな。大学とか会社とかなんらかの組織に属している人は、組織のリソースはガンガン使った方がいいです。これ読んでいる人に学生さんがいたら、とりあえず健康センターとか保健室とか、なんでもいいから、お茶しばきに行く感覚で軽めのノリで一度はいっとくことをおすすめします。相談のハードルを元気なときに下げておくことも大事です。
個人的な話に戻ると、最近は友人との接触頻度を増やすことに意識を向けています。例えば、「ゲームやるだけの仲間」に入れてもらったり、過去の大学の友人に気軽に話せる場(「mocri」というアプリ)を持ったり、「〇〇の会」と称してエネルギーのある時には知人を家に呼んだりしています(例、「私たちのためのバレンタインの会」など)。対面で会うのは結構エネルギーいるから、そのときにはオンラインの手段もまぜこぜにしながら、ぼちぼちね。
あと、予定の管理がなかなかできないので(当日体調が悪くなったり、コンディションが悪くなるということが結構ある)、気の知れた人には「波が読めないので、当日連絡するか、遊びをやってることだけ教えてもらえたら当日調子がよければ行く」というふうに事情をつけて話しています。
③過敏さとの向き合い方
今「HSP」なんて言葉が大流行しており、書店での平積みも凄いことになってますが、「過敏さといかに向き合うか」という命題は、特性によりけりでしょうが、「すぐ疲れちゃう」と感じている方にとっては、とても大事です。情報の取り込みすぎは、疲れちゃうから制限しながらね。私の方法を載せておきます。
【音】
音への過敏傾向のために「耳栓」はマストです。トイレやキッチンの換気扇や冷蔵庫の「ブォーン」という音が気になった時には情報取り込みすぎのサインだと思っています。
最近耳栓が役に立ったのは、水族館のイルカショーに行った時でした。意図せずスピーカーの真ん前に席を陣取ってしまい、生の音に触れた時には頭が割れるかと思ったので、よいしょとつけました、危機回避成功。あとは最近は電車ですね、地下鉄とJR快速は要注意。窓が開いていて大変に脳みそに音が突き刺さってくるのでイヤホンもしくは耳栓マストです。
【光】
これは入社当時から苦労していたのですが、白熱電球が大の苦手でして。白熱電球の下にいるだけで、パフォーマンスが低下することがわかっています。だから、なるべく太陽光を取り込んだり、廊下の光だけで部屋の中は電気を消したりと、いろいろ工夫をしています。前の教室とかだと「電気ついてるけど消そうか?」とか「窓のある部屋がいいですよね」とか、スタッフみんなが配慮してくれました。感覚はひとそれぞれだから、しんどいときにはちゃんと言えることが大事です。ちょっと勇気いるけど。
【睡眠】
ストレスサインとして「悪夢」と「途中覚醒」は念頭に入れておいています。キャパシティを超えるストレスを受けた時って、交感神経優位な状態で睡眠に入ってしまうことが多いので。交感神経鎮めてから入眠する(お風呂に入ったり、湯たんぽ使う)などがベストですが、極度に疲労しているとそれもできにくいと思うので、お薬の相談もできるといいかなと思っています。自分はまだ眠剤は使用していないですが、場合によっては。
【教えて】
スマホとの距離感は、今試行錯誤です。依存気味なので、いい方法あったら知りたいです。
【その他】
鬱の状態のときの衝動性は怖いなとも思うんですが、早く通り過ぎるものに吸い込まれるってのは、本当にあるのね。だから「ホームの端っこにはいかない」「赤信号の時には道路のキワに立たない」ことは普段から意識をしたいものだなって思います。
3、最後に
新年度が始まり、社会人4年目になる4月に向けて、近況報告がてら書いてみたいという思いで書き始めましたが、波と付き合うための手立てやアウトプットできることがなかなか増えていて、自分でも感心しました。
こないだ見た映画で「いいなあ、君は私とは別れられるけど、私は私とは別れられないんだよ」というセリフがあって、「あーその通りだなー」ってぼんやりと思ったんですよね。そうそう、別れられないなら仲良くする方法を探すしかないのです。死ぬ勇気もないので生きるしかないんですが、穏やかに生きられるための方法や環境をゆるゆる作っていきたいものです。
↓はおそらく盛山直太朗なんだけど、実際にゲームと関係のない職種でゲーム作ったことがあることを嬉々として話始めたら相手が営業であれエンジニアであれ「よかったね、バイバイ」ってなるの、みんなわかっとらんのか…?
https://togetter.com/li/1680197
ゲーム系を作ってる会社の面談なら分かるよ。そうでない会社のIT部門として、
・まず面談を受けに来ている会社にどれだけ興味と関係性があるのかをアピールしろよ
を命題とする中で「ゲーム」がどれだけ関係性のあるものなのか。開発技術者の面談にしても求められるスキルセットや方針に対して「ゲーム」がマッチングすることは極めて少ないぜ?
「科学的判断」という言葉に何とも言えない気持ち悪さを感じる。
調べてみると、論理学における「judgement」の訳語として「判断」という言葉を使うこともあるらしい。まあそう言われると納得もする。
しかしここで言う「判断=judgement」とは、「命題の真偽を判定する」ことを指すのであって、決して「今後の戦略の選定」を指しているのではない。
その意味では、少なくとも「ワクチンの接種を推奨する」ことは「科学的判断」ではない。(念のため、私個人はワクチン接種推奨派である。)
「ワクチン接種は生存率を高める手段として有効である」までが「科学的判断」であり、「だからワクチン接種を推奨する」以降は「政治的判断」である。
「科学的判断」という言葉を好んで用いる人々が、そこを区別できているようには思えない。
このような重箱の隅を突くような議論を持ち出すと、「ワクチン反対派に味方するのか!」と言われそうだが、そうではない。(もう一度言うが、私個人はワクチン接種推奨派である。)
この例に関しては、科学的判断の後にシンプルな「功利主義」を援用すれば「ワクチンの接種を推奨する」という「正しい」結論が導かれるから、たしかに細かいことを気にする必要はないかもしれない。
しかし、そうではない場面は世の中にたくさんあるだろう。
例えば、ある特定人種の犯罪検挙率が有意に高いという動かぬ事実を前にして、あなたはどのように「判断」するだろうか?
ここでの「科学的判断」とは、「ある特定人種の犯罪検挙率が有意に高い」までである。
そこから安易に「だから特定人種を排除してもよい」と「判断」することは、いわゆる経済的差別と呼ばれるものである。