はてなキーワード: オセアニアとは
http://alger-roi.fr/Alger/enf/ecoles/pages/10_enf_gym_60_lebaz.htm
https://www.alamyimages.fr/la-gymnastique-dans-les-annees-1950-la-formation-des-jeunes-femmes-de-la-gymnastique-avril-1954-suede-image224244117.html (訂正。スウェーデンらしい)
やや短パンっぽい。
中国、台湾、韓国と、翻訳にかけて体操着を検索したが、ジャージ姿しか見当たらなかった。
意外なことに、英連邦や共産圏以外にもショーツ型ブルマーが存在していた。
調査により提灯ブルマー及びショーツ型ブルマーは日本のみならず、ヨーロッパやオセアニアにも広く分布していた時代があった。驚くべきことに、ショーツ型ブルマーはナチスの時代にまでさかのぼることが分かった。
つまり、規律や集団行動を重んじる文化圏の外にも、ブルマーが存在していた。つまるところ、ブルマーというのは全体主義の産物ではなく、全く別の理由で広まったものと思われる。
女性が身体を自由に見せる権利の広まりとともに、レオタードや水着姿になる自由の一環として、広まったのだろうか。それとも、逆に美しいとされる身体を見せることを強要されたのか。これだけでは判断することはできないし、両者が混在していることだって考えられる。ここまで踏み込むには、私の知識がまったく足りない。
今回、私はショーツ型ブルマーの世界的な広がりを確認することができた。しかし、これはあくまでも定性的な研究であり、まったくと言っていいほど定量的ではない。すなわち、各地域で、何年から何年までブルマーが使用されていたのか、採用された学校は何パーセントに及んだのか、といった情報が完全に欠けている。
それに、ブルマーの採用は全国的に強制されたものであったのか、学校ごとの裁量に任されていたかも明らかにできていない。下手をすれば、上であげた国家についても、私立の数校でブルマーが採用されていたにとどまる可能性がある。また、バレーボールの授業のみブルマー着用、というケースも考えられる。もしそれが正しければ、常にブルマー姿だった日本は特異的な地域になる。
また、ブルマーそのものがどのような素材で作られていたのかについてもわからないし、どこからが提灯ブルマーでどこからがショーツ型ブルマーなのか、明確な基準を以って調査はできなかった。残念ながら、不鮮明な白黒の写真に頼らざるを得なかったためだ。
課題は他にもある。今回、ブルマーが存在していない地域をいくつか挙げたが、何かが存在しない証明は非常に困難だ。
加えて、ブルマーがその国にどのような文化的インパクトを与えたかについても不明だ。女性解放のシンボルであったのか、フェティシズムやノスタルジーの対象であったのか、おそらく多数の記事を読まなければならないだろう。例えば次のチェコの動画からは、何かの余興なのだろうか、ノスタルジーやユーモアというニュアンスが感じ取れる。
https://www.youtube.com/watch?v=HT0k1Jr8uwM
また、共産圏に多く見られたが、レオタードもまた体育で広く用いられている。ブルマーとは分布が相補的なのか、そこが気になった。たとえば、党大会か国民の体育大会かわからないが、多数のレオタード姿の女性が集っている動画が多数あった。
https://www.youtube.com/watch?v=MteXGWpSH9k
長くなってしまったが、今回は以上である。私の研究は、あくまでも大まかな方向性を示したにとどまる。だが、歴史を過度に単純化する考えから少しでも自由になれるのなら、これほどありがたいことはない。
それにしても、どうして下着同然のショーツ型ブルマーが採用されたのか。思い付きでしかないが、ジェネレーションギャップによるものかもしれない。
例えば、「サザエさん」や「となりのトトロ」では、少女がパンツ丸出しで駆け回っているが、当時としては性的な含みはほとんどなかったものと思われる。「サザエさん」は舞台が博多から東京に移ってからは昭和26年以降、「となりのトトロ」は昭和30年代前半が舞台である。おそらく、当時は下着が見えていても、お尻丸出しではないから構わない、という感覚だったのではあるまいか。
そして、もしもショーツ型ブルマーが広がったきっかけが東京オリンピックだったとしたら、それは昭和39年前後のことのはずだ。つまり、この戦後生まれが大人になった頃である。当時の教師たちが、「サザエさん」「となりのトトロ」世代の子どもたちであっただとすれば、ショーツをはいているのだから、ショーツ型ブルマーはまったく恥ずかしいものではない、と思い込んでしまった可能性がある。
一方、それ以降の子どもたちは、下着は見えては恥ずかしいものだという意識に目覚めていた。正確な年代は、「パンツが見える。――羞恥心の現代史」に当たらなければならないだろうが、羞恥心の世代ごとの差が、ショーツ型ブルマーとその軋轢の遠因なのではないだろうか。
前回は、日本のみならずイギリス、共産圏にもショーツ型ブルマーが存在していたことを実証した。すなわち、日本におけるショーツ型ブルマーの誕生は、女子学生の羞恥心に対する無頓着さのみから生まれたものではない可能性を指摘した。
本記事では、ショーツ型ブルマーの地理的な分布について再考し、ブルマーの分布は日本、イギリス、旧共産圏にとどまらないことを示す。
なお、外部リンクが多いせいか、複数の記事に分けなければ投稿できなかった。
ブルマーは制服の一種である。制服を導入している地域は、どちらかといえば個人の自由よりも全体の規律を重んじる文化圏であると仮定できる。これは、先ほど言及した三つの地域に共通する印象のある点である。よって、この地域の他にショーツ型ブルマーが存在している可能性があるのは、イギリスの影響が深いと思われる英連邦、およびロシア以外の共産圏である。ただし、宗教的・文化的な理由から、アジアやアフリカはそこから除かれる。すなわち、インドや南アフリカ、中国や朝鮮半島には、ショーツ型ブルマーが存在していない、と予測される。また、比較のため、アメリカや西ヨーロッパにおけるブルマーについても検証が必要と判断される。
基本的にはgoogle検索に頼る。たとえば「Soviet Union physical education」「east Germany gym 1970」などのキーワードで検索した。すなわち、国名、体育、年代を主な語句とし、それらを適宜組み合わせた。また、それでも見つからない場合は、google翻訳で現地の言葉に翻訳することを試みた。
https://i.pinimg.com/originals/57/15/4a/57154a0c2571e2ff19060b6389d11f17.jpg
われわれはすでに、イギリスにショーツ型ブルマーが存在していることは知っている。また、この国では比較的写真が多く残っていた。では、他の地域はどうか。
http://www.sgghs.com.au/our-school/our-archives/archival-photos/sporting-photos/1960-1970
https://www.youtube.com/watch?v=8L-w3wiQ_jE
https://www.youtube.com/watch?v=6lRvrpuHCF4
(提灯ブルマー?)
https://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/edmonton-grads
https://www.bing.com/images/blob?bcid=S.73gWzTdZYBAvcmeCbO.xP7TFmv.....7g
https://www.bu.edu/bridge/archive/2004/02-06/bu-yesterday.html
まず五大洲「ヨーロッパ」「アジア」「アメリカ」「アフリカ」「オセアニア」として、
アジアはひとまとめにすると強すぎるので「東アジア+中央アジア+東南アジア」と「西アジア+南アジア」に分けて、
ヨーロッパ…近代に覇権を握っていた古豪であり、現代でも隠然たる力を持つ。
東アジア+中央アジア+東南アジア…中国を盟主として日韓を左右に従え、世界の工業力を牛耳る。
西アジア+南アジア…人口を抱えるインドと石油を握る中東のコンビ。核保有国が多いのも見逃せない。
アメリカ…世界最強国アメリカのワンマンチーム。南米諸国はサッカーが上手い。
アフリカ+オセアニア…連合してもまだまだ弱そうだが、元・棄民と元・奴隷の雑草魂で頑張ってほしい。
戦ったらどこがいちばん強いと思う?
日本人の無意識に抱えている、ネイティブスピーカーへのあこがれは
ときには、動機付けになるが、多方、語学学習の阻害要因にもなりうる。
とくに、ネイティブ並みのコミュニケーション能力を目指す考え方は
恥ずかしい発音をしたくない、文法含め、間違ったことをいって恥をかきたくない、という心理が
どれだけ機会損失につながっているか、実践訓練を妨げているかわからない。
特に日本人同士では顕著だ。日本人同士で「あのさ、お前何言ってんの?」とは絶対に思われたくない心理。
なので、例えば、自分よりも会話能力が上回っていると感じた日本人とは自然と会話自体を控えるようになってしまう。
一方、留学したり海外旅行では、日本人の視線を感じないことも多いため、堂々と間違えることができる。
留学時、なるべく、日本人と接しないようにした、と告白する人が語学を身に着けていくのはそれなりの理由がある。
最近、フィリピン留学などが流行しているようだが、これは、非ネイティブという利点を有効に活用できてよいと思う。
ネイティブ並みを目指しているひとにとって、未熟な言葉をネイティブと会話するよりも恥ずかしさは少ないはずだ。
そのうちに、経験や機会を阻害していた自分自身のネイティブ並みへのこだわりも消えていくかもしれない。
忍者ハットリくんやマンガ道などで知られる藤子不二雄A。そのなかに「添乗さん」という作品がある。
これは1970年代、高度成長期を上り詰め、一般の日本人が海外ツアー旅行に行き始めた時代を背景に
添乗員の悲哀を通じて、人々の海外旅行観をコミカルに映しとったた名作だ。
この作品は、個人的には同氏の最高傑作のひとつだと思っている。
見開き2ページで構成された、この小噺集のなかに、とあるエピソードで
ネイティブ英語を鍛えてきたと自負するおっさんがハワイ行の機内でドリンクを注文する場面が登場する。
添乗員に対して「キミィ。英語のわかるスチュワーデスを呼んできてくれたまえ」といって、やってきたのは
しかし「スカッチャンドワーラー、プリーズ」と話しかけるものの、
見かねた添乗員さんが、スコッチを欲しいと言っています、とコソっと耳打ちすると
「オー、スコッチ・アンド・ウォーター!オーケー」といって、おっさん語をようやく理解できてスッキリした表情。
その他のエピソードでも藤子不二雄Aの観察眼はいろいろと鋭い。
当時は、「百万人の英語」のハイディ矢野などを通じて、リエゾンの重要性を洗脳されていた時代である。
試しにネイティブの発音をマネしてかっこつけて話そうとすると、通じないことが多かった。
恐らく、ニューヨーカーの発音、南部なまり、西海岸の英語、オセアニア系、ブリティッシュ英語、これらをジョークとして使い分けられる程度の能力があれば
相手に応じて、発音のコントロールができて、通じるようになるような気がしている。
えてして、ネイティブの多様性を理解できず、山形弁をマネしようとして失敗しちゃってる奴が大阪で話をしているようなものである。
しかし、それはあたかも大阪弁と山形弁を使い分ける変なガイジンなんであって、何を目指しているのか、という自問自答になるだろう。
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.
しかし、他の人が言うような人権云々を訴えるつもりは毛頭無い。
単に犯罪者に罪を償わせる観点から言えば、終身刑こそが死刑以上に重く、適切な刑罰であると考えているからだ。
そもそも死刑が最も重い刑罰だと言う世間の認識が理解できない。
刑の執行は長くても数時間かからないだろう。それで犯罪者自身の罪は消える。
いや、道徳的には消えないのだろうけれど。
死んでしまった以上、犯罪者にそれ以上の刑罰を求めることも与える事も出来ない。
どんな重罪を犯したところで、犯罪者の命一つを差し出せばそれで終わりなのだ。
果たしてそれで良いのだろうか。私は違うと思う。
自由を絶たれ、希望を絶たれ、日々惨めさを噛み締めながら、ただ老いて行くだけの人生を送らせる事こそ重犯罪者に必要な過程ではないだろうか。
ジョージ・オーウェル1984のウィンストン・スミスの最期を想像して欲しい。
なぜウィンストンは反逆の事実を持って即処刑されなかったのか。
己の罪を認め、悔い改めながら死を受け入れることにこそ意味があることをビッグブラザーは理解していた。
今日のオセアニアでは人々はニュースピークやダブルシンクを通じ認識が操作されるため、禁止や命令をされる前に、すでに党の理想どおりの考えを持ってしまっている。
人類にとって死は究極の逃避行なのだ。重犯罪者にしてみれば尚更である。
それをみすみす彼らに差し出す事は、彼らを苦しみから解放する事は、
重犯罪を犯した犯罪者が死刑にでもなれば世間はさぞかし溜飲が下がる事だろう。
世間の溜飲を下げる目的であれば、それがショーであるならば、私も死刑は正しい選択だと考えている。
しかし、罪を償わせることを目的にしているのであれば、死刑は不適切な刑罰であると言わざるを得ない。
自らの罪を悔い改める前に、自らの命と引き換えに、自らの罪から逃避できてしまう。
いや、我々が逃避させてしまっている。