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はてなキーワード: オセアニアとは

2020-07-27

ドイツ人ブルマーソ連人のブルマーとなりのトトロパンツ(3)

前回:anond:20200727074508

結果(3) その他の国

http://alger-roi.fr/Alger/enf/ecoles/pages/10_enf_gym_60_lebaz.htm

https://www.alamyimages.fr/la-gymnastique-dans-les-annees-1950-la-formation-des-jeunes-femmes-de-la-gymnastique-avril-1954-suede-image224244117.html (訂正。スウェーデンらしい)

ショーツブルマー確認

http://yofuiaegb.blogspot.com/2016/06/yo-fui-egb-recuerdos-de-los-60-y-70-colegio-material-escolar.html

やや短パンっぽい。

https://www.theholocaustexplained.org/life-in-nazi-occupied-europe/controlling-everyday-life/controlling-education/

かなり現代ショーツブルマーに近い。

中国台湾韓国と、翻訳にかけて体操着検索したが、ジャージ姿しか見当たらなかった。

意外なことに、英連邦共産圏以外にもショーツブルマー存在していた。

議論

調査により提灯ブルマー及びショーツブルマー日本のみならず、ヨーロッパオセアニアにも広く分布していた時代があった。驚くべきことに、ショーツブルマーナチス時代にまでさかのぼることが分かった。

まり規律集団行動を重んじる文化圏の外にも、ブルマー存在していた。つまるところ、ブルマーというのは全体主義産物ではなく、全く別の理由で広まったものと思われる。

女性身体自由に見せる権利の広まりとともに、レオタード水着姿になる自由の一環として、広まったのだろうか。それとも、逆に美しいとされる身体を見せることを強要されたのか。これだけでは判断することはできないし、両者が混在していることだって考えられる。ここまで踏み込むには、私の知識がまったく足りない。

今後の研究

今回、私はショーツブルマー世界的な広がりを確認することができた。しかし、これはあくまでも定性的研究であり、まったくと言っていいほど定量的ではない。すなわち、各地域で、何年から何年までブルマー使用されていたのか、採用された学校は何パーセントに及んだのか、といった情報が完全に欠けている。

それに、ブルマー採用全国的強制されたものであったのか、学校ごとの裁量に任されていたかも明らかにできていない。下手をすれば、上であげた国家についても、私立の数校でブルマー採用されていたにとどまる可能性がある。また、バレーボールの授業のみブルマー着用、というケースも考えられる。もしそれが正しければ、常にブルマー姿だった日本は特異的な地域になる。

また、ブルマーのものがどのような素材で作られていたのかについてもわからないし、どこからが提灯ブルマーでどこからショーツブルマーなのか、明確な基準を以って調査はできなかった。残念ながら、不鮮明な白黒の写真に頼らざるを得なかったためだ。

課題は他にもある。今回、ブルマー存在していない地域をいくつか挙げたが、何かが存在しない証明は非常に困難だ。

加えて、ブルマーがその国にどのような文化的インパクトを与えたかについても不明だ。女性解放シンボルであったのか、フェティシズムノスタルジー対象であったのか、おそらく多数の記事を読まなければならないだろう。例えば次のチェコ動画からは、何かの余興なのだろうか、ノスタルジーユーモアというニュアンスが感じ取れる。

https://www.youtube.com/watch?v=HT0k1Jr8uwM

また、共産圏に多く見られたが、レオタードもまた体育で広く用いられている。ブルマーとは分布が相補的なのか、そこが気になった。たとえば、党大会国民の体育大会かわからないが、多数のレオタード姿の女性が集っている動画が多数あった。

https://www.youtube.com/watch?v=MteXGWpSH9k

長くなってしまったが、今回は以上である。私の研究は、あくまでも大まかな方向性を示したにとどまる。だが、歴史を過度に単純化する考えから少しでも自由になれるのなら、これほどありがたいことはない。

おまけ

それにしても、どうして下着同然のショーツブルマー採用されたのか。思い付きでしかないが、ジェネレーションギャップによるものかもしれない。

例えば、「サザエさん」や「となりのトトロ」では、少女パンツ丸出しで駆け回っているが、当時としては性的な含みはほとんどなかったものと思われる。「サザエさん」は舞台博多から東京に移ってから昭和26年以降、「となりのトトロ」は昭和30年代前半が舞台である。おそらく、当時は下着が見えていても、お尻丸出しではないから構わない、という感覚だったのではあるまいか

そして、もしもショーツブルマーが広がったきっかけが東京オリンピックだったとしたら、それは昭和39年前後ことのはずだ。つまり、この戦後まれ大人になった頃である。当時の教師たちが、「サザエさん」「となりのトトロ世代の子どもたちであっただとすれば、ショーツはいているのだからショーツブルマーはまったく恥ずかしいものではない、と思い込んでしまった可能性がある。

一方、それ以降の子どもたちは、下着は見えては恥ずかしいものだという意識に目覚めていた。正確な年代は、「パンツが見える。――羞恥心現代史」に当たらなければならないだろうが、羞恥心世代ごとの差が、ショーツブルマーとその軋轢の遠因なのではないだろうか。

若い世代常識感覚をどうやって上の世代に伝えていくか、これは今の教育界にも通じる問題であろう。

ドイツ人ブルマーソ連人のブルマーとなりのトトロパンツ(1)

導入

前回は、日本のみならずイギリス共産圏にもショーツブルマー存在していたことを実証した。すなわち、日本におけるショーツブルマー誕生は、女子学生羞恥心に対する無頓着さのみからまれものではない可能性を指摘した。

記事では、ショーツブルマー地理的分布について再考し、ブルマー分布日本イギリス旧共産圏にとどまらないことを示す。

なお、外部リンクが多いせいか複数記事に分けなければ投稿できなかった。

仮説

ブルマー制服一種である制服を導入している地域は、どちらかといえば個人自由よりも全体の規律を重んじる文化圏である仮定できる。これは、先ほど言及した三つの地域共通する印象のある点である。よって、この地域の他にショーツブルマー存在している可能性があるのは、イギリスの影響が深いと思われる英連邦、およびロシア以外の共産圏である。ただし、宗教的文化的理由からアジアアフリカはそこから除かれる。すなわち、インド南アフリカ中国朝鮮半島には、ショーツブルマー存在していない、と予測される。また、比較のため、アメリカ西ヨーロッパにおけるブルマーについても検証必要判断される。

検証方法

基本的にはgoogle検索に頼る。たとえば「Soviet Union physical education」「east Germany gym 1970」などのキーワード検索した。すなわち、国名、体育、年代を主な語句とし、それらを適宜組み合わせた。また、それでも見つからない場合は、google翻訳で現地の言葉翻訳することを試みた。

結果(1) 英連邦場合

https://www.alamy.com/stock-photo-1960s-historical-three-school-girls-taking-part-in-a-100-yard-dash-134011104.html

https://i.pinimg.com/originals/57/15/4a/57154a0c2571e2ff19060b6389d11f17.jpg

われわれはすでに、イギリスショーツブルマー存在していることは知っている。また、この国では比較写真が多く残っていた。では、他の地域はどうか。

http://www.sgghs.com.au/our-school/our-archives/archival-photos/sporting-photos/1960-1970

明らかにショーツブルマーである

https://www.youtube.com/watch?v=8L-w3wiQ_jE

https://www.youtube.com/watch?v=6lRvrpuHCF4

(提灯ブルマー?)

https://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/edmonton-grads

パンかどうか微妙なところである

https://www.bing.com/images/blob?bcid=S.73gWzTdZYBAvcmeCbO.xP7TFmv.....7g

https://www.bu.edu/bridge/archive/2004/02-06/bu-yesterday.html

ほとんど短パンである

北米では短パンだが、一方オセアニアではショーツブルマー存在していた。

続き:anond:20200727074508

2020-07-09

anond:20200709054650

その三種類は使ってないからはわからんが、〇〇Payの中途半端な感じはわかる。

欧米オセアニア寄りのタッチクレジットもっと推進した方が良かったと個人的に思う。

2020-07-06

とある生物の生息分布図とコロナ低死亡率地域が一致する

みたいな研究は無いのかね。

アジア人免疫説は、日本から世界各地に派遣されている駐在員の発症や、

そもそも武漢人が悲惨なことになっている上、オセアニア地域の低死亡率が説明できないか否定される。

中国人旅行客が事前に軽症コロナバラまいた説なら、中国と時差の少ないオセアニアにも旅行客が居たから成り立つ・・・

かと思いきや、イタリアとかも中国人旅行者めっちゃ多かったらしい。

日本人の民度が高い、マナーが行き届いてる、という言説は、そもそも信じがたいところではあるが、

日本人の大半は手袋をする習慣がなく、手すりやつり革を素手で触りまくっていることから、不潔すぎて的外れ

2020-06-09

anond:20200609072943

チベットウイグル人権問題黒人が声を上げた事があったっけ?

アジア人に対する非アジア人による差別批判した事があったっけ?

オセアニア地域での先住民に対する民族浄化政策問題視した事は?

そもそも白人黒人問題奴隷貿易に端を発するものであって、日本はもとよりアジアには全く関係の無い話だよな

黒人アジア人差別してる側だろ

この問題日本人が関わるのは馬鹿馬鹿しいと思うけど

2020-06-05

でもオセアニア=アジア日本>>>>欧米って順で民度が表れてるとしたら確かにめっちゃ面白くないですか

2020-05-25

いくらなんでも

コロナ世界中流行りだした時は日本対策欧米と比べてダメダメ無能無能ってさんざん言ってたのに

死者数がそういった国々と比べて少なく抑えられたまま収束に向かおうとしている時になったら急に

"アジアオセアニア比較すれば日本ダメ"とか言い出すの都合良すぎない?

2020-05-24

anond:20200524031711

日本を含めて、近隣アジア諸国オセアニアコロナの死者が少ないのは、

去年の時点で中国人旅行者が、まだ毒性の低い頃の新型コロナウイルスバラまいたからだよ。

普通風邪として、皆、弱毒性新型コロナ感染していた。

2020-05-18

ブクマカ馬鹿

何故かこの話題欧州人種の多いオーストラリアニュージーランドも含めアジアオセアニア全体で死者が少ない事実が隠され、我が国日本コロナ死亡率がワースト1位であることも言及されない

嘘なのに星が250も付いているのがウケる

アジアオセアニアの中で日本コロナ死亡率がワースト

という都合の悪い真実

みたいなのが最近トレンドなのか。

2020-04-16

このままどうにかアビガンとかが支給されるようになるまで

ちまちま自粛というやり方で死者数4桁いかないまま推移させられたら

オセアニア東方面のアジア以外壊滅みたいな状況になってて

欧米圏が担うはずだった需要をこっちで賄うというような特需が生まれたりしないだろうか

そうなればいいのに

2020-03-12

anond:20200311201100

なぜ、アジアからヨーロッパアフリカオーストラリア中南米にまで

世界古代神話伝承にはもれなく「巨大な爬虫類」(竜、大蛇)が出てくるのか?

通説では恐竜絶滅は約6500万年前、原始人類の発生は50万年ほど前だが

それでもやはり、「超古代人は恐竜を見たことがあるんじゃないの?」

「でなけりゃユングが言うところの集合無意識(←眉唾)かあ?」と

俺は10年以上前からずっとこれが気になって仕方ない

虹蛇伝承なんて遠く離れたオセアニアアフリカの両方にあるんだぜ

中米には実際にケツアルコアトルがいたし(←命名の順序が逆だ)

2020-02-19

スウェーデン人「どうして日本人北欧区別がつかないんだい?」

イケアは、スウェーデン発祥で、ヨーロッパ北米アジアオセアニアなど世界各地に出店している世界最大の家具量販店世界的にブランドが浸透している。家具にはそれぞれスウェーデン語の名前がついている事が特徴。郊外に「イケアストア」と呼ばれる大規模な店舗を構える方法で展開している。 ウィキペディア

anond:20200219120412

2019-12-12

世界を五つのエリアに分けるとしてどこがいちばん強いと思う?

まず五大洲「ヨーロッパ」「アジア」「アメリカ」「アフリカ」「オセアニア」として、

アジアはひとまとめにすると強すぎるので「東アジア中央アジア東南アジア」と「西アジア南アジア」に分けて、

かわりにアフリカオセアニアが弱いので連合させよう。

ヨーロッパ近代覇権を握っていた古豪であり、現代でも隠然たる力を持つ。

東アジア中央アジア東南アジア中国盟主として日韓を左右に従え、世界工業力を牛耳る。

西アジア南アジア人口を抱えるインド石油を握る中東コンビ核保有国が多いのも見逃せない。

アメリカ世界最強国アメリカワンマンチーム。南米諸国サッカーが上手い。

アフリカオセアニア連合してもまだまだ弱そうだが、元・棄民と元・奴隷雑草魂で頑張ってほしい。

戦ったらどこがいちばん強いと思う?

2019-08-15

語学学習の基本その2

anond:20190814072129

ネイティブ信仰についてー

日本人無意識に抱えている、ネイティブスピーカーへのあこがれは

ときには、動機付けになるが、多方、語学学習阻害要因にもなりうる。

とくに、ネイティブ並みのコミュニケーション能力を目指す考え方は

恥ずかしがり屋の日本人にとっては害悪ですらある。

恥ずかしい発音をしたくない、文法含め、間違ったことをいって恥をかきたくない、という心理

どれだけ機会損失につながっているか実践訓練を妨げているかからない。

特に日本人同士では顕著だ。日本人同士で「あのさ、お前何言ってんの?」とは絶対に思われたくない心理

なので、例えば、自分よりも会話能力が上回っていると感じた日本人とは自然と会話自体を控えるようになってしまう。

一方、留学したり海外旅行では、日本人視線を感じないことも多いため、堂々と間違えることができる。

留学時、なるべく、日本人と接しないようにした、と告白する人が語学を身に着けていくのはそれなりの理由がある。

最近フィリピン留学などが流行しているようだが、これは、非ネイティブという利点を有効活用できてよいと思う。

ネイティブ並みを目指しているひとにとって、未熟な言葉ネイティブと会話するよりも恥ずかしさは少ないはずだ。

そのうちに、経験や機会を阻害していた自分自身のネイティブ並みへのこだわりも消えていくかもしれない。

藤子不二雄Aの観察眼

忍者ハットリくんマンガ道などで知られる藤子不二雄A。そのなかに「添乗さん」という作品がある。

これは1970年代高度成長期上り詰め、一般日本人海外ツアー旅行に行き始めた時代を背景に

添乗員の悲哀を通じて、人々の海外旅行観をコミカルに映しとったた名作だ。

この作品は、個人的には同氏の最高傑作ひとつだと思っている。

見開き2ページで構成された、この小噺集のなかにとあるエピソード

ネイティブ英語を鍛えてきたと自負するおっさんハワイ行の機内でドリンクを注文する場面が登場する。

添乗員に対して「キミィ。英語のわかるスチュワーデスを呼んできてくれたまえ」といって、やってきたのは

いかにもアメリカ人女性っぽい乗務員

彼女に対しておっさんが注文を試みる。

しかし「スカッチャンドワーラー、プリーズ」と話しかけるものの、

「パードン?」と返され、理解されない。

かねた添乗員さんが、スコッチを欲しいと言っています、とコソっと耳打ちすると

「オー、スコッチ・アンド・ウォーターオーケー」といって、おっさん語をようやく理解できてスッキリした表情。

その直後におっさんがいうオチ捨て台詞が秀逸である

「全く!英語のわからないアメリカ人は困ったものだね!」

その他のエピソードでも藤子不二雄Aの観察眼はいろいろと鋭い。

当時は、「百万人の英語」のハイディ矢野などを通じて、リエゾン重要性を洗脳されていた時代である

英語を使って20年近く仕事をしてきた私の経験からいうと、

試しにネイティブ発音マネしてかっこつけて話そうとすると、通じないことが多かった。

特にネイティブ話者とは十中八九通じなかった。

恐らく、ニューヨーカー発音南部なまり西海岸英語オセアニア系、ブリティッシュ英語、これらをジョークとして使い分けられる程度の能力があれば

相手に応じて、発音コントロールができて、通じるようになるような気がしている。

えてして、ネイティブ多様性理解できず、山形弁をマネしようとして失敗しちゃってる奴が大阪で話をしているようなものである

しかし、それはあたか大阪弁と山形弁を使い分ける変なガイジンなんであって、何を目指しているのか、という自問自答になるだろう。

https://anond.hatelabo.jp/20190815122152へ続く

2019-03-03

anond:20190303110722

南アフリカ協定国ではないですね。

一般的にはオセアニア北米でしょう。

私なら若い日本労働力をコキ使いたい日本企業に行きますね。

2019-01-22

anond:20190122135551

彼らは彼らで、オセアニア白人文化原理主義に基づく価値判断基準一貫性を保っているところがあるけどね

イスラム原理主義一貫性と同じぐらい一貫していると思う

2018-10-08

みんな日本語学術言語としての重要性を軽く評価しすぎ

この件.

https://togetter.com/li/1274544

査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.

何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国韓国でも,文系研究業績の大半は自国語だから

文系研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準から

インドサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育英語でやっている国や,ツバルナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)

そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.

そもそも社会学には膨大な日本語研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書からから日本語で一通り揃うようになっている.

自国語で用が足りるんだから論文執筆言語自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.

イギリスアメリカ学者英語で書き,フランス研究者がフランス語で投稿し,ドイツ博士ドイツ語で教授資格申請論文審査を受け,ロシア院生ロシア語で報告している中で,なんで日本教授日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.

これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって歴史学だって文化人類学だって文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌日本語で書かれている.

そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.

世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.

もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究あなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧学者と同じようにアフリカフィールドワークをし,日本語西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.

あるいは,ヨーロッパ歴史を知りたいと思ったとしよう.あなた造作もなく,フランスドイツイギリススペインロシアや,そしてチェコポーランドポルトガルボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本歴史学の積み重ねてきた問題意識接続されている.

それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語文法記述した本も,ヨーロッパ小国言語の音声を論じた本も,中東言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EU制度アメリカ大統領選挙,韓国歴史認識ロシア愛国主義湾岸諸国君主制,どれも日本語最先端研究が読める.

こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.

とあるアジアの国に行ったとき書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジア言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧から翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.

あるいは,ヨーロッパ小国書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラペラ入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.

たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパアフリカ社会ラテンアメリカ先住民近世朝鮮史東南アジア政治についての最先端研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.

私の感覚だと,英語網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.

カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカまれ英語ネイティブ白人であってもだ.ザマーミロ.

というか,実は文系分野に関しては英語網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人カタルーニャ言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.

なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブ西アフリカ地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパ前近代研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.

この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語最先端研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しか文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端研究の全てが英語提供されるわけではない.

なので文系では,英語理系ほど特権的地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.

というわけで,文系研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).

別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウント和文論文勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルール文系押し付けないでいただきたい.

私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.

文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本コンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパアフリカ部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリアハンガリー舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.

別に文化に限ったことではない.政治経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダ虐殺スレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解やすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域専門家が書いた本や論文和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史理解する助けになるだろうか.欧米フェミニズムについて日本語研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.

すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.

日本人は恵まれ研究蓄積にあまり無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.

英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代日本医師ドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語外交学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのとき現在私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位貶める必要はないと思う.それは私たち社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから

最後に.

どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語しか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.

追記

英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。

日本国内の、査読なし論文が実績になる分野の教授たちによって、査読された研究にも何らの価値も感じない。

anond:20181008221502

id:bocola 自分でも言ってるように査読しなの問題査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。

arXivのない世界からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.

事前の査読は,論文信頼性担保するための手続きひとつであって,それが欠けている「からダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマン査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.

私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近文系査読重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないかダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメ論文は後発の研究によってちゃん批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系ローカルルールで事前の査読必須なのはよくわかったけど,そのローカルルール文系敷衍されても困る.

id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。

私もオタクですが.

追記

続きは anond:20181009084352 anond:20181009213503 で.

2018-08-23

anond:20180823011645

それ伝統刺青入れてるオセアニア先住民日本に来たときに言ったらヘイトになりかねないぞ。

実際温泉入浴問題でそういう方向に燃えかけてる。

オセアニアの変なタトゥー白人客に言うならまだ許されるかもしれないけど、マイノリティ方面刺青イジリは危ない。

2018-07-07

死刑反対論

私は死刑反対論者だ。

しかし、他の人が言うような人権云々を訴えるつもりは毛頭無い。

単に犯罪者に罪を償わせる観点から言えば、終身刑こそが死刑以上に重く、適切な刑罰であると考えているからだ。

そもそも死刑が最も重い刑罰だと言う世間認識理解できない。

人間死んだらそれまでだ。死ねばただ肉塊が残るのみである

刑の執行は長くても数時間からないだろう。それで犯罪者自身の罪は消える。

いや、道徳的には消えないのだろうけれど。

死んでしまった以上、犯罪者にそれ以上の刑罰を求めることも与える事も出来ない。

死刑はその人の命をもって罪を償う行為である

言ってしまえば、それで終わりなのだ

どんな重罪を犯したところで、犯罪者の命一つを差し出せばそれで終わりなのだ

果たしてそれで良いのだろうか。私は違うと思う。

話を戻そう、私は終身刑こそが最も重い刑罰だと考える。

自由を絶たれ、希望を絶たれ、日々惨めさを噛み締めながら、ただ老いて行くだけの人生を送らせる事こそ重犯罪者必要過程ではないだろうか。

ジョージ・オーウェル1984ウィンストンスミス最期想像して欲しい。

なぜウィンストンは反逆の事実を持って即処刑されなかったのか。

それは心が屈していなかったかである

反逆心を抱えたまま処刑することの無意味さを、

己の罪を認め、悔い改めながら死を受け入れることにこそ意味があることをビッグブラザー理解していた。

今日オセアニアでは人々はニュースピークダブルシンクを通じ認識操作されるため、禁止命令をされる前に、すでに党の理想どおりの考えを持ってしまっている。

党の考えに反した者も、最終的には「自由意思」で屈服し、心から党を愛し、党に逆らったことを心から後悔しながら処刑される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/1984年_(小説)#ダブルシンク/


人類にとって死は究極の逃避行なのだ。重犯罪者にしてみれば尚更である

それをみすみす彼らに差し出す事は、彼らを苦しみから解放する事は、

果たして正しい選択なのだろうか。

犯罪を犯した犯罪者死刑にでもなれば世間はさぞかし溜飲が下がる事だろう。

世間の溜飲を下げる目的であれば、それがショーであるならば、私も死刑は正しい選択だと考えている。

しかし、罪を償わせることを目的にしているのであれば、死刑不適切刑罰であると言わざるを得ない。

犯罪者は、死刑によって、

自らの罪を悔い改める前に、自らの命と引き換えに、自らの罪から逃避できてしまう。

いや、我々が逃避させてしまっている。

今、再び死刑制度が注目を集める今だからこそ考えるべきだ。

我々の凝り固まった思考を捨てなければ、喜ぶのは彼らである

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