はてなキーワード: 信仰心とは
https://eng-blog.iij.ad.jp/archives/2430
はてブで目に付いたんで読んでたらスラドの記事にも遭遇したんだけど
https://linux.srad.jp/story/18/12/06/0628221/
なんなんだろう、あの連中のLinuxに対するねっとりとしたような愛情というか、ネトウヨの「日本すげー!」と同じ臭さを感じるんだけど、何なのあれ?
動物虐待とそれ以上の対人加害行為との相関については、たとえばhttps://www.mass.gov/files/documents/2016/09/qx/summaryofanimalabuseliteraturefinal.pdfこんな研究のまとめがあるよ。英語だけど面白いから読んでみたらどうかな。
それと動物虐待に罪悪感を感じない人とそれを繰り返す人ではまた違うと思うよ。罪悪感を感じないことは全てやらなきゃいけないなんてルールはないのだから。
たとえば私は信仰心がないから、誰かの墓を踏んづけることに罪悪感は感じないけれどわざわざそれをやろうと思わない。嫌がる人がいるのがわかっているし、やったところで得るものがないしね。
個人的な考えでは社会と動物虐待者のどちらが悪いとか正しいとかいうことを考えてもしょうがないとも思うね。第一、動物虐待に限らず何かに偏執的にこだわるだけでもそれ自体精神病的であるし治療の対象となりうる、それが他人に不快感を与える行為ならなおさら。他人に不快感を与える行為や他人の財産(ペットとか)の損壊を繰り返さないと生きていけないなら、それは不便だし、治した方がいいということになるよね。障害の「社会モデル」みたいなものだけど、まず社会があってそれから障害だとか精神病というのがある。社会で許容されるあり方というものに馴染めないから辛くなるんで、辛くなるから治療しましょうということ。そこでそういう社会が悪いんだ、社会が障害を作り出しているんと考える・言い換えることもできるけど、悪者を見つけ出してもつらさは解消されないでしょう?世間を納得させて風向きを変えられるような論があるなら別だけど(障害の社会モデルが持ち出されるのは大抵そういう論の見込みがあるときだけ)。
それと法律で愛玩動物と規定されている動物を虐待した時とそれ以外では当然法的な扱いが変わってきてそれは不公平に思えるかもしれないけど、法というのはどこまでいっても人間基準のものだからね。本質的には動物のための動物愛護管理法ではなくて、動物愛護しないと傷つく人間・文句を言う人間、それによって乱される社会を守るための動物愛護管理法ということ。だから人間に愛されやすい動物とそうでないものに区別があるのは仕方ないんだよ。そこらで殺されまくってる蚊とかハエとかからしたら腹立たしいだろうけどね。
あんな人間闇鍋のような場所に家具を買いに来る人間なんて果たしているのだろうか?という疑問はさておいて、IKEAに喜ぶ世間を見て、まるで恋人を寝取られたことが判明した夕暮れのようなどこかしょっぱく、やるせない気持ちになったのであった。
IKEAは2020年までに日本国内に14店舗展開する方針だそうだ。
現在IKEAは日本に9店舗。そして現在着工中は10号店のIKEA広島。
になることだろう。
いやいや、ちょっと待ってくれよ。IKEAさん、何かお忘れじゃないですか?
2013年の夏頃、大型スーパーCOSTCOの隣にIKEAが出来る、その報せは群馬県内をからっ風のように駆け抜けた。
群馬県民は皆、外国のお洒落な家具屋が来ることを喜んだ。家具なんかニトリで買えるけれど、スウェーデン発祥という響きこそが都会にコンプレックスを感じる片田舎の人間には喉から手が出るほどに甘美で、それはそれはもう飛び跳ねんばかり狂喜乱舞したとか、しないとか。
休日はこぞってCOSTCOに行くのが良い例である。それこそIKEAがCOSTCOの隣に完成すれば、クルマ社会の群馬県民は喜んで金を落としていったであろう。
そう、「すれば」。
IKEA JAPANが土地を買い取ってからもう5年半が経とうとしている。
さて、IKEA前橋店の進捗につきましては、お手持ちの通信機器で画像検索でもしていただけたらと思います。
グンマーのIKEAはこんなもんだって?いやいや、流石に騙されんぞ。
けれど、信仰心の強い群馬県民にはあの写真にはちゃんとIKEAが写って見えるそうだ。
IKEA11号店は原宿駅前のIKEAだろう。ワクワクとIKEAを信じている前橋市民として、どこか心に風穴が空いたような気持ちになったが、これもまた仕方ないことなのだろう。
焼きまんじゅうとタピオカだったらタピオカの方がインスタ映えするし、井森美幸ときゃりーぱみゅぱみゅだったらそりゃきゃりーだろうし。
全てが摂理で、全てが仕方ないことなのだと思う。田舎はいつだって都会に1000歩くらい遅れて歩いている。たとえ先に踏み出したとて、いとも簡単に抜かされてしまう。
世界って結局そんなもんだ。そんな簡単なことすら忘れて浮かれていたのが恥ずかしいとすら思うけれど、今日も明日も空き地にIKEAを夢見続けるのだろう。
ふと、部活帰りに自転車でIKEAにいこうと約束したのを思い出した。
もう制服なんて着れないのだけれど。
今ちょっと流行ってる1時間で人生おわるゲームにもう丸2ヶ月以上ハマっている
ログイン報酬とかデイリーとか一切ないどころか1時間で寿命でPS以外何も引き継がれないけどその潔さが好きで毎日数時間やってる
このゲームのアプリ版が日本で妙に人気になっていて日本鯖だけで8鯖ある(うち4鯖はビギナー鯖)
各鯖の定員は200人で夕方から夜はほぼ満杯 夜中でも150人くらいずつとか余裕でいる
明け方から早朝にかけて人が減ってそこで文明が途絶えがちなので発展してない村に生まれたい人は午前中がいいかもね
日本鯖はそんなだけど他の国の鯖はそうでもなくて例えばシンガポール鯖なんかは常に人が少ないし(20人とか)なんなら中身は日本鯖の混雑に嫌気がさした日本人だったりする
とにかく日本人・日本語話者が多い 他の言語圏の人がやりにくいんじゃないかってくらい
まあこのゲームはもともとPCなので英語圏ではまってる人の多くはPCでやってんのかな?とは思うんだけど
クッキークリッカーもなんだか急に日本であほみたいに流行ったのをふと思い出したので
そういう感じでなんか急に局所的に流行ったゲームが他にもあったら知りたい
ヤギのゲームとかパンのゲームとか壺おじさんとかぼんやりと思い出すけどどこで主に流行ってたのかよくわかんない
はてさ界隈の奴って自分たちは正義だって振りする為に、生活保護を既得権益化してるよね
そうすることで自分たちが弱者を守る正義であることを演出しようとしてる
共産党とかは露骨で生活保護受給者を囲い込んで国がお前たちを殺すぞって脅して信仰心を集めてる始末
BIに移行すれば、今の生活保護受給者だけじゃなくて働いてるのに生活保護以下の生活してる人まで救える
けど、それだと左翼界隈が困るんだよな
はてさって結局のところ自分が正義の美酒に酔いしれる為にかわいそうな弱者を欲してるんだよ
反論出来ないっしょ?
真偽問わず、伝承の中で活躍し確固たる存在となった“超人”たちを英雄という。
人々の間で永久不変となった英雄は、死後、人間というカテゴリーから除外されて別の存在に昇格する。
……奇跡を行い、人々を救い、偉業を成し遂げた人間は、生前、ないし死後に英雄として祭り上げられる。
そうして祭り上げられた彼らは、死後に英霊と呼ばれる精霊に昇格し、人間サイドの守護者になる。
こうであってほしい、と想う心が彼らを形取り、彼らを実在のモノとして祭り上げる。
そこに真偽は関係ない。
ただ伝説として確かな知名度と信仰心さえあれば彼らは具現化する。
魔術師は彼らの力の一端を借り受け、その真似事をこなす程度に留まるのが常だ。
英霊そのものを呼び出して使役する、なんて事は決して出来はしない。
承認欲求がちょっと強めに出たせいでなんだか怪しげなタイトルになったが、残念ながらそんなに波乱万丈な人生を送ってきたわけではない。これは特に何を訴えようというでもなく、しかし書きたい気持ちがあり、それに際して家族以外に自分の名前を出して伝えることについて自分の中で非常に大きな抵抗があるため、匿名で書くものである。ぼくはといえば、普通に公立の小中高校と通い、ふつうに私立文系学部に進学し、うっかり留年などするもののボンボンクラクラとしてのうのうと生き延びている。経済的な不自由もなかったし、就職活動で不利になることもなかった。
しかし家のリビングには立派に新興宗教のエライ人の格言が額に入れて飾ってあったことも確かだし、実家に帰省してみても父は毎週教会に通っている。具体的にどの程度信心しているのかはよくわからないが、おじいちゃんおばあちゃんばかりの信徒のなかで若手(もう還暦が近いが、若手である)として教団支部の運営にはそこそこ尽力しているようである。
これを書いてしまうとおそらくもうどの宗教かは特定できるが、父の実家の宗教は江戸時代末期にできた神道の一派であるらしく、新興といえどそこそこ歴史はある。宗教の名を冠した教育機関もいくつかあり、そういえばいつかの甲子園にもでていた気がする。
子供の頃はよく教会に連れて行かれた。僕と同じくらい年齢の子供が数人おり、両親やおじいちゃんおばあちゃんが先生のありがたいお説教を聴いている間、僕はゲームを買ってもらえない子供だったので他の子がゲームをしている様子をずっと眺めていた記憶がある。たまにお菓子をもらえたりもした。当然お説教は一言も聴いていないので現在に至るまで全く信心する気持ちはない。大変な親不孝者である。
「普通のこどもは教会に行かない」ということを知ったのは小学3年生のときだった。当時気の迷いで野球のスポーツ少年団に入っていた僕は、あんまり土日の練習が嫌になったので「明日は教会に行くので練習を休みます」とコーチに言った。周りの目が一気に怪訝そうになったのを覚えているし、言ってしまった直後自分自身も「どうやらこれは間違ったことを言ってしまったらしいぞ」ということをすぐ認識したので、それ以来人前で教会の話はひとこともしていない。おかげで土日に遊べない理由を適当に捏造するのがうまくなったものである。
地下鉄サリン事件というのが生まれる少し前にあったらしい、ということを知った時、どうやら自分は少し言動に気を遣わねばならないらしい、と思った。ネットで噂になっているエホバの証人や某学会の信者による迷惑行為が、日本における「新興宗教」のイメージであり、先述したように信仰心のほとんどない僕も「宗教」ときくとやっぱりちょっときな臭い言葉であるように思ってしまうところがある。ところが同時に僕は新興宗教の当事者であるとも言える立場なので、あんまり無邪気な感じにもなっていられないのだ。
ニューヨークに突っ込んだ飛行機の映像を見て宗教が歴史のいたるところで戦争を起こしてきたということを知った時にも、子供心に教会の中に入り込んでいってしまってはいけないのかも、と思った。科学の子であった僕は、やっぱり母の言う「天国で死んだおじいちゃんが見守っている」だとか、神様を信じれば助けてくれる、ということに「ウッソだぁ〜」という気持ちを持っていた。お空の星は核融合炉であり、太陽系があり、銀河があり、宇宙はインフレーションとビッグバンから生まれていた。神の祟りよりプレート・テクトニクスや隕石のほうが怖かった。
ところで、僕はカトリックの教会にも行ったことがある。祖母がカトリックだったので、クリスマスの礼拝に連れて行かれたのだ。洗礼は受けていないので、目の前で配られるパンとワインをただただ眺めるばかりであった。眼の前の人がワインを飲むなり激しく咳き込みトイレに走っていったのを覚えている。たいへん敬虔な信者であったのだろう。僕は激しい修行はおろか正座でありがたいお説教を聴いて足を痺れさせたことすらないので苦しみをもって神に尊敬の念を示すということを全くしたことはないが、もしかしたらそれが心の支えになって、拠り所になって、日々を生きることができている人もいるのかもしれないと思う。なお家には未だに聖書がある。
母は教育の人である。教育を学び仕事にするプロフェッショナルである。親は誰しも自分の子供には人生における様々の試練に負けず強く生きてほしいと願うものであると思うが、カトリックの祖母の影響でミッション系の学校に行っていたこともあるのだろう、心の何処かで神を信じるように幼少期の僕に教えてきたように思う。神は想像を絶する試練を課せられた人々の心をたびたび救ってきたからだ。新興宗教の教会のあんまりにもつまらないお説教のせいで全く僕に信仰心が芽生えることはなかったが、大学で宗教学の授業をとってみたりした今になって、「宗教ってこういう役割があったわけだね」という話をすることがある。流石に現代に生まれて中世のように「本当に」神を信じることはないが、しかし母は未だに「でもなんだか、どこかで信じている」というようなことを言う。
僕はお寺や神社を見て回るのが結構好きで、今年の夏も(オタクの聖地巡礼を兼ねて)下鴨神社に行ったりしている。猛暑の京都盆地の中、糺の森の木々が直射日光を遮り、薄暗くなっている参道はアホほど暑かった。今年は割と苦労した就職活動がどうにかうまく行ったため、賽銭箱に五円玉を投げ「いいご縁がありました、神様ありがとうございます」とお礼を言ってきた。下鴨神社の神様も「縁結びってお前そういうことじゃねえよ馬鹿野郎」とお怒りのことと思う。
取り敢えず、私の批判内容を見たい人は「第一章」でページ内検索して飛んで欲しい。
結論だけ確認したいなら、「第三章」でページ内検索をして飛んで欲しい。
そしてやたら上から目線になると思う。
何故かって?ごめんなさい、理由は伏せさせてもらいます。失礼に当たるから。
正直、資本主義や技術崇拝といった思想を持ってる人間からすると、そういう人間がいて本当に嬉しいし今後もそのままで居てほしいからこの記事を読んで欲しくない。貧乏がいるから金持ちがいるのです。
さて、おそらく「上から目線」で「主語を大きく」私が考えてる事・持論を「長文」で投稿するだけでだいたいの人は読まなくなるでしょう。既に閉じたくなったでしょう!!
では、何故書くのかって?それはSNSやネット上の記事を見ていて腹が立ったわけで、それを誰かに伝えたかったからです。度を過ぎた目障りだった。
なお、これを読めば、「サイズ感が合わないから買わない」っていってるやつが、なぜ二度とApple製品を買ってはいけないのか分かるでしょう。そしてiPhone5などを買ったことがあるなら、そのおこないが過ちだったかわかるでしょう。
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まず「iPhoneXsやXrはデカい」「iPhoneSEが一番片手で使いやすいサイズ」は理解出来るし、同意できる。
しかし、そこから「サイズ感が合わないから買わない」という意見や「Appleは需要を分かっていない」という批判に発展するってのは頭の出来を疑います。
「iPhoneXsやXrはデカい」「iPhoneSEが一番片手で使いやすいサイズ」というのが同意できる事には理由がある。その理由は、「片手で使うサイズではないため」だ。
そう、Apple信者の一人である自分ですら、完全にそこは同意できる。iPhoneXをはじめとする新製品には、画面を下に4割ぐらい下げる機能「簡易アクセス」がある。それは一時的なもので「片手で使うサイズ」ではないことは確かです。
では、なぜ「iPhoneXsやXrはデカい」から「サイズ感が合わないから買わない」に繋がらないというかは次の第二章を見て欲しい。
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「iPhoneXsやXrはデカい」から「サイズ感が合わないから買わない」に繋がる意見をいってるやつ対して頭の出来を疑ってる理由を述べる。
まずざっくり言うと、AppleはデカくてiPhoneを落としちゃう利用シーンを考えていないことが、Apple製品から察して欲しい。
なぜならば、ちょっと画面見るためならばAppleWatch使えば良いし、音楽聴きたいならAppleWatchとAirPodsを使えばiPhoneを操作せずに再生できるし、iPadで書いたメモや図をiCloudで同期しMacで続きを進めるという、複数の製品を組み合わせて使うことを想定してるからだ。
それが何を意味しているかというと、「貧乏人やAppleに対する信仰心の足りない人間を相手にしないという意味」だ。
まず、iPhoneは10万/AppleWatchは5万/AirPodsは2万/Macは10万/iPadは10万/を足し算すると「37万」です。適当に税金つけたりして40万としましょう。そしてその40万のサイクルは1年から3年です。
そしてこの40万が高いと感じる人間は貧乏人やAppleに対する信仰心が足りない人間ということです。
では、なぜ「AppleはデカくてiPhoneを落としちゃう利用シーンを考えていない」と察しろと言ったかというと、上記40万を完全に揃えた状態で「iPhoneを落としそう」な状況というのは意外と少ない。お外で立ちながら片手に荷物をもってiPhoneを使いたいシーンとか、電車でつり革に捕まりながら使うとかです。
さて、更に言いますが、上で述べてる40万は最低ラインです。ゲームの最低動作スペックと推奨スペックに違いがあるように、40万は最低ラインです。最低ラインで常時FPS60でるんですかね?笑
その理由を述べる。
まず、Macは持ち歩けるMac book や Mac Book Pro と家で使うiMacと分けるべきです。つまり、10万で買えるのはMac bookやmac miniなので、家で使うならばiMacを買うべきである。(mac miniを選んだらMacbookやPro。)さて、iMacの想定価格は適当に25万としましょう。次に、iPadにはApplePencilを使うとすらすらと書けて仕事がはかどりますし使って行きたいですね1万追加です。(絵師入門KITとしても優秀ですね!)
さてだいたい26万が追加されます。ざっくりと30万が追加された値段としましょう。
つまり、70万が1年から3年サイクルでAppleに支払える人間をターゲットとしてる。
年収300万としたら70万はとても大きいですね?年収700万であればあんまり大きくない気がしますね。1400万であればさらに70万は小さいですね。(税金があるので実際はその2倍ぐらいは欲しいところですが)
つまり、この70万を支払える人間というのは高給取りとなります。
高給取りとなって都内に住めば、都内に住んでいる場合はタクシーを使ったり、なるべく満員電車に乗らないようにしたりという工夫をするでしょう。
つまり、タクシーやハイヤーを使うのであれば満員電車で片手で使う必要が減ります。車に座りながら荷物は横において両手で使えばいいのですから。
以上により、Appleは電車で20分とか30分ならタクシーや車を使うような人がターゲットです。壊れたら買いなおせばいいし、iPhoneでApplePencilを使いたがらずにデカデカと書けるiPad買えばいいじゃんという話でもあります。
つまり、Appleは「iPhoneを単体で利用することを考えてない」「Appleは貧乏人は大切にしない」「Appleは金持ちが満足する製品展開をしてる」ということがわかります。
では、この章の始めにいった「「iPhoneXsやXrはデカい」から「サイズ感が合わないから買わない」に繋がる意見をいってるやつに対して頭の出来を疑ってる」という意見の理由に繋げると、ココまでの思考が時間があるにも関わらずできていない気がするためです。
次の章では、第一章で述べた「二度とApple製品を買ってはいけないのか分かるでしょう。そしてiPhone5などを買ったことがあるなら、その買ったことが過ちだったかわかるでしょう。」って事に関してきちんと理由を述べます。
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iPhone5sを買った時点でAppleの戦略に加担してきています。だってブランド力を付ける、利用者数を増やすということに加担してしまっているのだから。
AppleはAppStoreに上がってるアプリの品質(不具合が発生するレベルやUIの質)を一定レベル以上を常に保っています。そうすることにより、ブランド力が高まるためです。
また、金持ちと貧乏人を含めた多くの人々が憧れるものを持つのがステータスと金持ちは考えます。その憧れる理由の代表には「製品として質が高い」や「ブランド力」といった理由が含まれています。
つまり、新しいiPhoneを買えない貧乏人はただの引き立て役でしかありません。
無課金勢がソシャゲで大切にされる理由に近いです。無課金勢が多いからこそ重課金勢が楽しめるという考え方が数年前の流行りましたね。
貧乏人は既に「欲しいけど買えない」というブランドイメージを付けることを、より一層高めるための人間になっているのです。また金持ちは「欲しいけど買えないものを買えちゃう」というステータスを誇示できて、より憧れに繋げさせてしまってるのです。
第二章までで、「サイズが合わないから買わない」というのは、考えが浅い的なことをいいました。また遠回しではありますが、サイズが合わないから買わないという意見は、いくつもあるApple製品の中でiPhoneしか買わないというポージングでもあると暗示したつもりでもありました。
iPhoneしか買わないということは、Appleのサービスを完全に受けられない状態でもあります。つまり、コスパが悪い状態。サービスに対してではなく、単純に持つことにたいして価値を感じてる状態でもあります。
第三章では、ブランド力や憧れといった点に重点を置いてかきました。
日本においては憧れの他に「みんなが持ってるから持ちたい」という感情も少なからず働きます。憧れのアイドルが持ってるから使いたいという感情もあるでしょう。そういう数多ある理由のどこかにiPhoneしか使わないはずの人間が加担してしまっているのです。
第三章の〆として、iPhoneしか使わない場合は、ブランド力を高めて、より一層Appleが力を付けることに加担していると、Appleは目標に向かって歩むでしょう。つまり、理想に向けての動きを加速させるという事を言いました。(iPhoneを考えなしに、評価し、購入した過去は過ちだと思いませんか?)
次章の余談では、私がAppleの信者である理由について書きます。(ダイヨンショウだけにヨダン なんちゃって…)
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本文章のハジメに私は「資本主義や技術崇拝といった思想を持ってる」と言いました。
より具体的に言うと、オルタ右翼で新反動主義、実力主義です。知能がある者ほど、人々のまとめ役となるべきと考えてます。例えばスティーブ・ジョブズが生きてれば国王の都市国家(株式国家!)があったらなとか思ってしまうわけです。ひいてはそんな世界に命をかけて自身の都市国家を作れたらなって本気で思ってるわけです。早死にしたとしても。
さて、その思想を持つ私はAppleに対して以下感情を抱いています。
「Appleは知能が低いものを捨てる姿勢を貫いてる」「自身の目標や理想に対して実に頭の良い策略で手を打ってる」「Appleはそのことを表に出さない」「Appleは理想を描くがその実現力をもってる」と考え憧れを感じてます。
普段、私たちが感情的に捨てられないものを捨てる姿勢すら感じれます。その真意を伏せて。
これ、恐怖心すら出るレベルで格好良くないですか? 憧れを感じませんか?
ネオリベは「成長可能性(andムダ排除)」に信仰心を投資し、
リベラルは「同情可能性(andクズ排除)」に感情を投資する。
投資するからには、当然、見返りを求めるし、見返りがありそうな物件にしか投資しないだろう。
昭和の昔、自分がガキだった頃に、通っていた下町の公立小学校に
障害児教育に携わっていた血気盛んな30代の男性教師が新たに赴任してきて
自分のクラスの担任になった。その教師は興奮しやすい熱血派で、女子生徒にも
容赦なく体罰(ビンタ)を行った。ある時は、クラスの女子生徒全員を教室前の廊下に
並ばせ、男子生徒へと同じ激しい強さのビンタを順番にしていった。その直後、
その教師の勘違いで女子生徒たちに非は一切無かったと判ると、すぐに反省と謝罪の
言葉を表明し、女子生徒全員から自分へ一人ずつビンタをしてもらい許しを請う、
というような感情の起伏の大きな人物だった。クラス全員の本心は計り知れないが、
自分が知っているかぎりでは、この教師を悪く評する生徒はおらず、むしろ強く慕っていた。
この教師は通常の学校に勤務するのが初めてで、『障害児たちは必死に生活しているのに、
健康で何一つ障害も無い児童たちが不真面目なことに腹が立ってしょうがなかった』と、
後になってから、なぜあれほど最初の頃は体罰が多かったのかの理由を正直に述べた。
JKの下着、または太ももは、我々の生活におもわぬ幸福をもたらしてくれる。
鬱々と日々繰り返される登校にうんざりとしている時、ふと目を上げればそこには逞しく、そして艶めかしく、スカートからはみ出た足を目にした時、確実に僕の脳味噌にはドーパミンが分泌された。
あれからというものの、僕はあの感覚を忘れられずに、階段を見つけるたびに女子高生は居ないものかと探してしまう。
これほどまでに彼女たちは私の生活に関わり、また私には多大なる幸福感を与えてくれる。
彼女たちを象徴するものはやはりその短いスカートや白いシャツ或いはセーターブレザースクバ等々、挙げればきりがない。
それらが彼女たちの清純さを感じさせ、またはそれらが彼女たちの特別感を醸し出させ、日々の生活に辟易とした者の欲情を誘う。
清純さを振りまけば処女信仰心を煽らせ、また流した汗は美しさへと昇華する。彼女たちの「日常」は我々にとっての「非日常」であり、その「日常」を共有することになれば大きなカタルシスがもたらされるのだろう。
当方高校生なので、合法的に彼女達の笑顔、立ち振る舞いや声を感じる事が出来るのだがもう気付けばすぐに化粧を覚え、男を覚え、酒を覚えてしまい清純さがまるで無くなる女子大学生と生活を共にすることになってしまう。
人類の女性はみなずっと制服を着て、後で振り返ればイタイことを真面目にかつ笑いながらやってて欲しいと思う平成最後の夏休み。