はてなキーワード: キロとは
姉が、36才165センチ80キロの酒飲みなんだけど、過去含めて人間ドックで視力とBMIと体脂肪率と腹囲以外全部Aなのが解せない。
なんで肝臓とか血圧とかコレステロールとか悪くないの?おかしくない?しかもギリギリの値とかじゃなくて普通にA判定。例えばγ-GTPは17、血圧は上が110下が70、中性脂肪は110といった具合。
太ってるし酒も飲んでるのに。
私33歳160センチで50キロ前後で酒も飲まないのに、血圧とコレステロール値が高いんだけど。
家系的に高血圧になりやすいから血圧に関してはしょうがない部分もあると思うけど、どう見ても姉の方がデブなのになんで私はコレステロール引っかかったの?
しかも姉は毎年健康。人間ドックの前々日に酒飲みすぎてこたつで寝落ちしたとか言ってる人間なのに。なんで??
思い当たる点があるとすると、姉は肉より魚好きで野菜好きで薄味が好き。そんで、散歩と旅行が好き。休みの日に家にいることがあまりない。
なんでそれで太ってんだって話だけど、幼少期からぽっちゃりだったから一回も痩せたことないと思うし、魚や野菜だけ食べてるわけじゃなく肉も好きだし揚げ物も好きだしチーズとかも好き。在宅勤務の仕事で通勤しないので平日は三食自炊で好きなもの作って食べてる。
たまに姉の家にお邪魔してご飯食べさせてもらうけど、実際姉の作るものは野菜が多いし美味しい。
母が料理上手で、正直どこのお店に行っても母の手作りの方がうまい。揚げ物も、煮込みみたいなのも、なんでもない野菜炒めも、カレーも、パスタも、全部。実家にいたときいつも姉は、手伝ってと言われなくてもキッチンにいて手伝いをしていたので、母の影響がおそらく大きい。
以前姉に作ってもらったミートボールパスタはどこの店で食べたのより美味しかったし、オムライスに関してはお店も母も超えて姉が作ってくれたホワイトソースかかってるやつが一番美味しかった。
昨日はツナとごぼうの炊き込みご飯と、具沢山味噌汁と、菜の花としらすのペペロンチーノ風の炒め物と、手羽元のさっぱり煮だった。美味しかった。姉はご飯は食べずに菜の花と手羽元、豚がない豚汁みたいな具沢山味噌汁の具もアテにして、焼酎の炭酸割りをグイグイ飲んでいた。炊き込みご飯は私の持ち帰り用に二つおにぎりにしてくれて、のこりは冷凍していた。
そんな感じで美味しいものばっか食べてガバガバ酒飲んでるから心配、とか思ってたら私の方が不健康で、解せぬという気持ちでいっぱい。
私の故郷は、海抜六〇〇メートルの丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。
竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。
腹が立つのはフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれにフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。
私は五人兄弟の次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。
その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場を経営し、腕輪やクシを作っていました。
その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区の夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。
工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。
そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。
その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。
戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。
ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。
星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。
こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。
終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシンの注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。
これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。
ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州の炭坑で二ヶ月ほど働かされました。
石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。
そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。
日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死の覚悟で日本へ戻ってきました。
一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社を設立し、自転車のハンドルグリップをセルロイドで製造し、販売しました。
以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。
その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会からの資金融資は韓国人業者としては第一号だと思います。
一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています。
私は、金属、木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品は世界のブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています。
一九六〇年頃、日本と韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関の祖国産業視察団の一員として、初めて祖国を訪問しました。
懐かしい山河の景色、幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。
その感激もさめやらぬ時、町から一キロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気も水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。
《故郷のために何かしてやりたい》という衝動にかられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして
事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木やスピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。
人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れず世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています。
これまで、通産大臣や府知事、税務署長などの表彰を受け、韓国政府からも国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます。
現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売と韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています。
◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイ・スポーツ用品を製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー・水泳用品を主力としたスポーツ製品を製造・販売し、輸出による外貨を稼いで祖国の経済発展に寄与しています。最近は中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています。
兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。
私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金を支給しています。
その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています。
いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。
振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子供夫婦、韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。
三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。
外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。
私たち韓国人は、税金も人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というものは生存競争のなかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。
私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。
何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。
お前のせいでNPCから情報を聞き出す度に毎回毎回クソガキ茶番ロールが挟まり火消しのために別のキャラが交渉ロールをする羽目になる。
この子クソガキだからすみませーん、じゃないんだよ。協力前提なのに協力し辛いキャラを持ってくるんじゃないよ。
この話の一番の問題点は例えるならマラソンで「自分のスタートラインが約半分の21キロからスタートしてる」ということを理解できてなくて「え?なんで頑張れないの?ちゃんとゴールしようと努力してる?」って世迷い言宣うのがいるからだよ
◇春季教育リーグ ソフトバンク―阪神(2024年3月12日 タマスタ筑後)
4月2日の本拠地開幕戦(対ロッテ)に先発するソフトバンクの和田毅投手(43)が12日、春季教育リーグの阪神戦(タマスタ筑後)に先発。4回8安打4失点。最速は140キロで68球を投げた。
渡辺、原口、島田ら1軍クラスもスタメンに名を連ねた阪神打線。初回に4番井上に変化球を捉えられ先制の適時二塁打を浴びた。
4回は連打と暴投で無死二、三塁のピンチ。6番の栄枝、8番の戸井に適時打を浴びた。毎回走者を出す苦しい投球になった。「何も話せることがないです」と厳しい表情だった。
私は生きている。
それを胸抱えて日々を過ごせば過ごすほど、あれは一体何だったのだろう空を仰ぐばかりだ。
家も消え、土地も消え、人も消え、思い出になる前の記憶さえ消えた。
死体が浮く街を歩いた。水が引いたら、何キロも先にある同級生の卒業証書が自分の家に流れ着いていた。やれることをやるしかないと笑えば、時折鳴る着信から友人や恩師の訃報が届く。
偶然誰かに会えたなら、そこでようやく互いに安心できた気がした。会えたら生きてる、会えないなら死んでいる。そんな日々が続いて、誰かに会うのも嫌になりかけた。
仮設安置所に踏み入れば、眼下に真新しい棺桶が広がる。途方もなく、隅から隅まで、ボーリング場だったらしいその場所に、四角い木の箱ばかりが広がっていた。そうして、端から端まで歩いた。知っている名前が無ければいいのになんて考える前に、知ってる名前ばかりが並んでいた。私に楽しさを教えてくれた人も、私にいじわるした人も、私が優しく出来なかった人も、ちゃんと名前が書かれていた。この光景は、何だったんだろう。何を恨めばよかったんだろう。それを自分に問うてしまったら、その答えは「そのうち会える」と機会を先延ばしにしていた自分を恨むしか他にないのに。これは一体、何なのか。誰かに答えてほしかった。
私は生きている。私はその選択肢を選び取った。そのせいで、私が座るはずだった場所に座った誰かが死んでしまった。私は怖かった。初めて行動の取捨選択で見知らぬ誰かと命のやり取りを終えてしまったから。私はそれがすごく怖かった。こうして文字にできるまで今日までかかってしまった。手など合わせられない。自分が死んでいたら、死なないはずの子がいたはずなのだ。私は怖かった。これは何なんだろうと。親にも友人にも、この恐怖だけは一生言えないままだと気づいたときにはもう、何も出来なかった。私は今でも地震の揺れや津波よりも、それがとても怖い。きっとだれも私を責めてくれないのだから。
3月10日のことを想う。読んでいた小説も、私の名を呼ぶ祖父の声も、適当に送り出してしまった父の背中も、履いていた靴も、カサついた母の手の温かさも全部全部全部鮮やかだ。
3月11日のことを想う。年上のお姉さんがくれたアーモンドチョコの美味しさも、避難所の床の冷たさも、満点の星空すらも、全部全部鮮やかだ。
私はこれを、死ぬまで思い出にすることは出来ないのだろう。
そうして私は生きていく。
・「腹も身のうち」 食欲にまけてむちゃ食いすんなということわざ これ以外としられていないようだ
・「ごまの3つハネ」 フライパンで炒るときは弱火でじっくり、3粒がハネたら火をとめてよし。焦げやすいのがちょうどパリパリに仕上がる。ちなみにポップコーンも油多めで弱火、三つはねたら蓋する(密閉しない)のがよい感じ
といったところで今日は鶏皮揚げの話をする
・生鶏皮
うちで鶏胸肉とかから剥いだやつ、あるいは生で売ってるやつは
魚焼き器の穴の開いていないトレイに、身についてたほうをしたにしてひろげて焼くとまあおいしい
生のせいか油もジュージューとよくおちる(が揚げにくらべると落ちきってはいない)
なぜ身についてた方をしたにするかというと、皮目を下にするとよくくっついてはがせなくてちぎれるのだ 油の出も悪い なぜかずっとこっちにして苦労してたわ
味付けは塩で十分だが塩胡椒でもわさび塩でもすきなようにすればいい うちはヌチマース(細かい塩)つけてる
・市販の加熱鶏皮
ぱりぱりに揚がってるやつはクソ高い九州からの串焼きくらいしか全国区ではみかけない
実は20キロくらい先にあったチベットカレー屋がチーズナンと鶏皮揚げのテイクアウトをしていてこれがかりかりにあがってうまかったのだがちょっと事情がかわっていけなくなった
たまに鶏皮の揚げ油が酸化しててまずくてクドかったりしたけど冷やすようになってからはおいしかったので残念である
・市販の鶏皮の再加熱
カリカリにしたいんよ だけど味のタレにからめてあるもんだからもう焦げるわ焦げるわ地獄の景色
スチームオーブンの「手羽先揚げ」メニュー これを全部やるとやりすぎ 開始3分でいい、ゴマの三つハネの気持ちでちょっとじゅーっといったらもうよしとする
また焦がしちゃったよ
焦げは体によくない……
一応自社ビルで、原則出社ありでデスクワークをしているのだが、
それに今千葉東方沖で地震が多発しているのもあって、距離はあるが揺れやすいのかと考えていたのだが、どうやらそうではなく
会社の前の通り(30キロ制限)を車が通るとか、強風とかでも容赦なく揺れている。
この程度で揺れているので5分に一回は震度1程度の揺れがあるような状態だ。
秘書に聞いたところ、この前の能登半島での地震の後から揺れもひどくなった気がしますねと言われた。
大きな地震が来たらいっぺんに潰れそうだし、毎日ちょっとずつ揺れて集中できないし、かといって現在転職を考えている状況でもなく。
声優のビジュアルが求められるようになり、SNSで私生活を小出しにするまでが商材になり市場は拡大した。
そんなものは機械で打ち出せば何百メートルでも何キロでも飛ばせる
人々は競技者に付随するロマンと文脈とストーリーに価値を見出す
適応できた奴が生き残る
絵師は成果物の技工で、その中ですべてを表現し、そこに価値がある
うまい飯が食いたけりゃ知恵を絞れ
少なくとも上手に絵が描けるだけではもはや無価値だ、諦めろ
絵師の相当数が不要になる、さっさと転職するか、知恵を絞った生き残り策に掛けるか
でもこれお前らにだけ降りかかった不幸じゃねぇよ
港には大量の港湾労働者が働いていたが、コンテナとICTの発明で駆逐された
業界の変化と斜陽を指くわえて眺めるだけでは愚痴愚痴駆逐される
無駄w
ニンニクはわけて皮剥いて3キロ冷凍してある(芯がぬいてあるのとぬいていないのがある)
いい歳して結婚してない人は問題あるって言うけどその通りなんだろう。
異性でいいなって思う人、大体結婚してるもんね。
自分のこと書き出すとそんなにヤバ物件じゃなさそうなのに未だ独身ってことは、性格なのかなやっぱり。
会社内で見つけられればよかったけど気づいた時には周りはもう結婚してた!
下方婚も考えるけど甲斐性を求めてしまうのと、相手側はプライド拗らせないのか?が気になる。
前にアプリで会った人に聞かれてボカしながら答えたら引かれたのが2回くらいある。
年齢性別→30歳、女
実家→まあまあ太い
子供→欲しい
好きなタイプ→歳上(見た目によるけど10個上くらいまで全然)、教養がある、鼻が高い、自分同等の年収がある(もしくは見込みがある)、身長はどうでもいい、バツイチOK(子持ちはやだ)
仕事も趣味もあるし1人でも生きていけそうって言われるけどそんなことない。苦楽を共にするパートナーが欲しい。
アプリ再開するかー。
好きになるまで時間かかるタイプで、アプリで告白されても付き合ったことないんだけど、みんなNGが無かったらとりあえず付き合う感じなのかな
プライバシーのためか、体重は一切考慮されずに身長のみで演じる技やポジションが決められていた
私は小6の時点で160センチ以上あり、クラスの女の子の中で一番背が高かった
体格は超ガリガリで、その頃は40キロあるかないかくらいだったと記憶している
私はもちろん肩車の下だったが、私の上には私よりずっと重い子が乗った
とてもとても辛くて大変だったが、多感な時期の女子同士、「重い」だの「私の方が痩せてるのに」だの言えるわけがなく、歯を食いしばって必死に耐えた
ピラミッドでは下の段の真ん中だった
とっさに「いたーい!」と大きな声が出た
そばで見ていた隣のクラスの担任が「うるさい!」と私を一喝した
あまりの痛みに泣いていたが、「うるさい」「練習の邪魔」「泣いても治らない」と叱られ、どうにもできなかった
信頼している自分の担任に助けを求めたかったが、離れたところで男子の技の監督をしていたので声をかけられなかった
私の足を踏んだ子も最初はごめんと謝ってきたが、その先生の様子を見て徐々に「なんなのこいつ」というような態度に変わっていった
泣きながら足を引きずる私を見て、保健委員の子が気にかけて保健室に連れて行ってくれた
今となっては、足を踏まれて痛い時にどうすれば良いかなんて小学生が分かるわけないのに何故聞いてきたのだろう、と思う
モゴモゴと困っている私を見て、保健委員の子が「骨折してるかもしれないから病院でレントゲン撮ってもらおう」と言ってくれた
その子が誰だったか、もう卒アルを見ても思い出せないのが悲しい ありがとうね
しばらくして、お母さんが迎えにきてくれて、病院に行った
人生で初めてのレントゲンを撮って、足の指の骨にヒビが入っていることが分かった
包帯でぐるぐる巻きになった私の足を見ても、隣のクラスの担任は何も言ってこなかった
最近の小学校関連の嫌なニュースやSNSの反応を見て、ふいに呼び起こされた嫌な記憶
2年前のクリスマス、深夜腹痛で目が覚めた。
今日これで生まれたらイエス・キリストと同じ誕生日かー、じゃあ名前はあれかな、とか考えて気を紛らわせた。
入院したまま年が明ける。
転院の可能性もあったけど何とか落ち着いた。
ほっとしたのも束の間、ある朝起きたら体重が1キロ増えていた。
手足もパンパンに浮腫んで血圧も高めで、なんとここに来て妊娠高血圧症候群を発症。
でも妊娠高血圧症候群を発症した頃からお腹も張らなくなってきた。
張り止めも徐々に減らしていき、1ヶ月ほどで退院できた。
でも出社は控えるように言われたのでそのままなし崩し的に産休に入ることになった。
1ヶ月ぐらい過ぎた日の朝、トイレに行ったら便器が真っ赤に染まっていた。
お腹も痛くなってきたし医師の判断でこのまま出産することになった。
なったんだけど微弱陣痛で陣痛が遠のいて痛くなくなってしまった。
なかなか破水しなくて医師が「じゃあ破水させます」と言った瞬間に破水した。
慌てて夫に連絡し陣痛に耐えながらその時を待っていたら胎児が降りて来られないとのこと。
去年のことを思い出したので記念に書いてみた。
政府は27日、車両総重量8トン以上の中型・大型トラックの高速道での最高速度を、現行の時速80キロから90キロに引き上げる政令を閣議決定した。人手不足が懸念される「2024年問題」に対応するため、トラック運転手の残業規制が強化される4月1日に施行する。
警察庁が設置した有識者会議の調査によると、18~22年に起きた大型トラックなどの高速道での人身事故は1927件で、03~07年(4037件)からほぼ半減した。一方、現在の車両は03年に装着が義務づけられた速度抑制装置(リミッター)の上限である時速90キロを前提に設計されている。このため最高速度の規制を90キロ超に緩和しても、既存車の改良では対応できないことも明らかになった。