はてなキーワード: 稲田とは
前回、虹とヘビとウナギの話を書いた(anond:20221107182649)が、その際『蛇の宇宙誌』(東京美術)を読み返していたところ、意図せずして漫画『鬼滅の刃』に関連しそうな小ネタを見つけてしまったので、ここで書き留めておくことにした。なお、漫画『鬼滅の刃』のラストに触れているので、未読でネタバレが嫌だと言う人は、この文章を読むのはここで止めにして、まず漫画『鬼滅の刃』を読み終えてからにした方が良い。
どのページを開いても面白い名著『蛇の宇宙誌』であるが、その第4章は、ズバリ「栗花落左衛門(つゆざえもん)の蛇性―日本の水神としての蛇信仰―」と題されている。余計なことを書くのは止めにして、この章の冒頭から引用する。
「栗花落」と書いてツユと読む。栗の花の落ちるころが、ちょうど梅雨の時期になる。それでこの当て字がある。後の兵庫県の武庫郡山田村の原野(神戸市兵庫区山田町原野)、昔の摂津国矢田部郡の丹生山田庄原野村の栗花落(つゆ)理左衛門の屋敷に「梅雨井(つゆい)」と呼ばれる井戸があった。昭和七年ごろまでは、原野には、壊れかけた白滝明神の社祠と、白滝姫の墓という墓石が残っていたそうである。栗花落(つゆ)の井戸は社の前にあった。いつもは水が干からびているが、栗の花が落ちる五月ごろには、こんこんと水が湧き、附近八町歩の水田をうるおすと伝えていた。
(中略)
岡田ケイ(注:彳に奚)志の『摂陽群談』(一七〇一年刊)巻八には、この「梅雨井」のことがくわしく見えている。(中略)地主の姓もツユといい、世間では栗花落左衛門(つゆざえもん)と称したとある。
この不思議な井戸について、栗花落家には伝えがある。始祖の山田左衛門尉真勝は、淳仁天皇(四十七代)の時代に、朝廷に仕えていた。そのとき真勝は、横荻右大臣豊成の息女、白滝姫に恋をする。姫と歌の贈答があって、真勝の真心を知った姫は、その妻になる。やがて姫は亡くなるが、それが五月であった。屋敷の東の境に葬り、叢祠を建てて弁財天をまつった。そこから水が湧き、今に至るまで、その水が梅雨を知らせるという。この弁財天社が白滝明神であろう。
島根県の出雲地方とその周辺には、栗花落左衛門と同名のツユザエモンと呼ばれる蛇の伝えがある。ふだんは岩肌の割れ目などに姿を隠している蛇が、梅雨の期間中には、かならず胴体を現わすという。分布は、出雲から、備後の比婆郡、双三郡、石見の安濃郡、邑智郡一帯と、広島県北部から島根県西部に及んでいる。斐伊川沿いの地方では、これをツユジンと呼んでいる。ツユ神(じん)と解釈しているが、出雲の能義郡ではツユザイと称しているから、ツユジンもツユザエモンからの転訛であろう。
(中略)
蛇はしばしば水の神の姿である。梅雨期に蛇の挙動に注意したのは、稲田を耕作する農民にとって、水の恵みが一番気になる季節だからであろう。(中略)ツユザエモンが梅雨の時期を示すという観念は、水と蛇の違いはあるが、摂津の栗花落左衛門とまったく同じである。
(後略)
―引用ここまで―
引用したとおり、本来の『栗花落』の読みは「ツユ」であって「ツユリ」ではないと考えられる。しかし、摂津の梅雨井があった屋敷の所有者の名前が「栗花落理左衛門(つゆ・りざえもん?)」なのである。これは私の個人的な推測でしかないのだが、竈門炭治郎の彼女・栗花落カナヲの姓を「ツユリ」と読ませる設定にしたのは、作者・吾峠呼世晴による元ネタの示唆なのではないだろうか。
そして、鬼殺隊が鬼舞辻無惨を倒した後日談で、伊黒小芭内の遺した愛蛇・鏑丸(かぶらまる)を、栗花落カナヲが受け継ぐ流れになっているのも、水神・雨神である蛇神をツユザエモンと称する歴史的・民俗的事例と関係しているのではないだろうか。
最終的には日の呼吸を使うようになったとはいえ、竈門炭治郎は水の呼吸を使っていたのだから、その彼女である栗花落カナヲが、水神と縁の深い蛇(それも白蛇!)を受け継ぐのは似合っていると思える。
この文を書いている今日、所用で外出した先で雨に遭い、それが止むのを夕方まで待ち、さて自転車で自宅に帰ろうとした道すがら、空に虹(にじ)を見た。
今日の外出先から自宅へと向かおうとすると、ちょうど西から東へ進行する形になる。東の空へと流れ去る黒い雨雲を背景に、色の濃く鮮やかなもの、色が淡いもの、二本の虹が綺麗な弧を描いていた。
その時、私が通行していた自転車道兼遊歩道には、他に散歩やランニングをしている人たちもいたのだが、彼らも私と同じように、虹に見とれたり、スマホで画像を撮ったりしていた。中には「二本の虹なんか初めて見た!」と驚いている人たちも少なからず見られた。虹が二本出ることを知らない人もいるのかと、むしろそれに私は驚いたのだが、のんびりと空を見上げる余裕を持つことがあまり許されない現代人には、仕方が無いことなのかもしれない。綺麗な虹を見たという新鮮な感動が機会となって、彼らが空の気象や天体に関心を持ってくれたら嬉しい。
ところで、二本の虹が出ることを知らないということは、おそらく彼らは二本の虹の名前も知らないのであろう。しかし、虹が二本出ることを知っている人でも、案外その名まで知っている方は少数派ではなかろうか。こんなことを言うと「虹は虹でしょ?区別とかあるの?」と思われるかもしれないが、漢字による呼称は区別がある。
漢字の原型は、殷代の甲骨文字に見ることができるが、その中には既に、虹を表した象形文字を見出すことができる。それは、弓形の弧を描く二本線で描かれており、弧線の両端には口を開いて下を向く頭を持ち、しかも角らしき突起まで見られる。
甲骨文字は占いに関する記録を遺したものであることから卜辞(ボクジ)とも呼ばれ、古くから中国人自身による研究が行われていた。その一つに郭沫若(かく・まつじゃく)の著した『卜辞通纂考釈』があるが、この中で「一つ出た虹を『虹(コウ)』、二つ出た虹を『霓(ゲイ)』と称したものであろう」という説が述べられている。ただし、現在の漢和辞典を引けば、『虹(コウ)』が雄で『霓(ゲイ)』が雌とも記されていて、郭沫若の説とはやや異なる。二本の虹の濃い方を『虹』、淡い方を『霓』として雌雄ペアと見るのが後代の見方である。いずれにしても、卜占の亀甲や肩甲骨に刻まれるような神秘的・神話的存在として、虹・霓は古代中国人の心を捉えていた。
残念ながら、私のデバイスの文字変換では『霓』の文字しか出てこないのだが、本来は『虫』偏に『兒』旁で、ちゃんと『虹』とペアになるのに相応しい形をした文字である。それが現在、雨冠の字形が主流となっているのは、科学的な物の見方をするようになった近・現代人が、この漢字には神話的・呪術的な役割ではなく、気象用語という科学的な役割を担わせるようになったことの反映であろう。
虫偏の字であることからも判るとおり『虹(コウ)・霓(ゲイ)』のことを、昔の人々は、広い意味での『蟲(むし)』の類いと考え、すなわち「ヘビ」の一つと見做していた。これは日本でも同じことで、マムシやフクムシなど「ムシ」の呼び名がヘビには用いられている。『フクムシ(福虫)』というのは、これは穀倉を荒らすネズミなどの害獣を捕食してくれる益獣だからである。『マムシ(真虫)』の真(ま)は、オオカミに冠した神名『大口真神(おほくちのまかみ)』における真(ま)と同じく、強く猛々しい神の名を軽々しく直接的に呼ばないようにするための、一種の忌み名としての尊敬の接頭語であろう。
『虹(コウ)・霓(ゲイ)』は、両端に頭を持つ怪蛇であるから「それではヘビじゃなくて、むしろ龍とかの仲間ではないか」と言われるであろう。しかし、昔の人々にとっては、家屋の周辺や田畑などで身近に見かける普通のヘビですら、神秘的な存在だったのである。昔の人々にとって、龍(りゅう)/蛟(みずち)etc.と普通のヘビとの間の境界は、我々現代人が考えるよりも遥かに曖昧であったと言ってもいい。足を持たない、もしくは四脚が有っても小さくて目立たない、細長いクネクネとした身体の動物のことを、一纏めの仲間として昔の人々は捉えていたと考えられる。このことを少し頭の片隅に置いてから、以下を読み進めてもらいたい。
「それにしても、虹がヘビだなんて、昔の中国の人たちは面白いことを考えていたものだなあ」と思われるかもしれない。しかし、実は「虹(にじ)=天の蛇」という考え方は、近代化する以前の社会では、地球レベルで広く見られた/見られるものである。そして、それは日本も例外ではない。そもそも日本語の名称『ニジ』そのものが『ヘビ』を意味していたとも考えられている。
日本における「『天の蛇』としての虹」の話に関しては、ロシア人言語学者ニコライ・ネフスキーによる有名な研究をはじめとして、多数の調査研究が為されている。それらから、思いつくままに事例を紹介していこう。
例えば、琉球諸島宮古島では虹を『ティンパウ』と呼んでいたが、『ティン』は「天」、『パウ』は「ハブ」のことである。『ハブ』は『ヘビ/ヘミ』系統の語である。大蛇を表す『ウワバミ』の語に含まれる『バミ』もまた『ヘビ/ヘミ』の転訛であると考えられる。『ウワ(上)』はマ(真)カミの真と同じく、忌み名としての尊敬の接頭語であろう。
宮古島の北にある池間島には、若返りの水についての昔話が伝えられている。欠けて新月となり姿を消し、再び満ちて姿を現すことを繰り返す月。脱皮して不老不死を保つ(かのように信じられていた)蛇。若水とは、神話では月や蛇と結び付けられて語られる、不老不死の象徴である。月と水が結び付けられるのは、潮の干満との連想であろうか。
太古の昔、人間はスデ水(若返りの水)を浴びて脱皮することで、不老不死を保っていた。ある時、天の太陽神が、セッカ(ヒタキ科の鳥類)に命じて、スデ水を月から地上へと運ばせていた。ところが、途中で『アウナズ(虹)』が、スデ水を奪って捨ててしまった(あるいは、スデ水を横取りして使い、脱皮するようになった)。このため、太陽神と月神の怒りを買ったアウナズは、それ以来、太陽の反対側に出るようになったという。
若水物語に登場する『アウナズ』という語は、琉球諸島地域におけるアオヘビ類を指して言う『アウナジ/オーノジ』系統の語と明らかに同じものである。他に、八重山群島竹富島でも『オーナーヂィ』と言うとされる。つまり『天の虹』と『地上の蛇』を、同じ名前で呼んでいたのである。
少し変わったものでは、小浜島では虹を『チネー・ミマンチィ』と呼んでいたというが、これは『ティン・ヌ・ミミジィ(天の蚯蚓[ミミズ])』の意であるという。細長くてクネクネした動物を昔の人々は一纏めに捉えていたという話を、今一度、思い出してもらいたい。
新城島では、虹を『アミ・ファイ・ムヌ(雨を食うモノ)』と呼ぶ。雨が降りそうで本格的には降らない俄か雨で終わる状況を「虹が雨を食った」と言うからだそうである。与那国島には『アミ・ヌミャー(雨を飲むモノ)』という呼び名もある。
虹が喉の渇きを潤すために雨や地上の水を飲みに現れる、或いは、虹が喉の渇きを潤すために雨を呼び起こすという信仰もまた、広く見られるものである。
長野県では、龍が天から水を飲みに降りてきた姿が虹とされ、また、同県更科では「虹は『ジャ(蛇)』の吹く気である」と信じられていた。山梨県西部でも「『ノジ』は蛇の息」とされた。秋田県平鹿では「『ノギ』は吹いた」と表現した。大分県でも、虹が出ると「『ジャ(蛇)』が吹いた」と言われていた。水神としての蛇神が棲むとされた湖沼から天の蛇としての虹が出現して、雨を呼び起こすという話も広く分布していることが認められる。このことから、ネフスキーは湖沼の支配神を指す『主(ヌシ)』も『ニジ』と同一起源ではないかと考えたようであるが、それは流石に後代の研究者から否定されたようである。しかし、湖沼の主といえば大抵は龍蛇なので、語源論としてはともかく、ヌシと虹を結びつけるネフスキーの見方は意外に悪くないと思える。
ネフスキーと同じ頃の時代、宮良当壮という研究者は、虹とヘビ類の方言呼称を分析して「『ニジ』はヘビを意味する語から分化した」ということを立証しようと試みた。ニジの呼び名には『ノジ/ネジ/ヌジ/ヌギetc.』がある。既に上でも紹介したが、琉球諸島地域におけるアオヘビ類の呼び名が「アヲ+(語根)」の形をとっており、その語根部分の変化が『ノジ/ナジ/ナギetc.』となっていて、極めて似ている。そこから、宮良は「『ナギ』が『ウナギ(鰻)』を含めた『ヘビ型動物』の総称であり、そこから『ニジ/ヌギ』などの語が派生分化していった」と考えたのである。細長いクネクネした動物を一纏めに捉えていたという話を、再度、思い出していただけたであろうか。
この宮良説の傍証としては、例えば秋田県ではアオダイショウのことを『アヲノジ/アヲノズ』と呼び、『ノジ/ノズ』は同地域における虹の呼称と共通しているなどといった事例が幾つも見られるので、宮良説はあり得ると個人的には思っている。大蛇を指す『オロチ』という語も、尊敬の『接頭語オ(御)+ロチ(ノジ系統語の転訛)』と考えられる。
とはいえ、現代人の感覚から見れば、特に、生物学や動物分類学の知識を通じて見れば、ヘビとウナギを同類視するという考え方は、なかなか受け入れ難いものと思われるかもしれない。しかし、以下の話を読まれたならば、どうだろうか。
昔の日本人は、雷神に対して信仰を抱いていた。特に農民は、落雷に対する特別な信仰を抱いていた。例えば、岐阜県美濃地方では、稲田に落雷があれば、その場所に注連縄を張って神聖視・聖別した。何故このように稲田への落雷を特別視したのか。それは『稲妻(イナヅマ)』という単語に端的に表されている。イナヅマとは「稲の配偶者」であり、昔の日本の農民たちは、雷神を「稲田神を孕ませる夫(ツマ)」と見做したのである。これは、落雷のジグザグ線が蛇神の顕現と見做されたこと、そして、蛇体が男性器の象徴と考えられていたこととも関係しているのであろう。落雷は豊作の予兆であった。
東北地方には、落雷のあった稲田を神聖視する風習が存在した。例えば、岩手県では、落雷のあった稲田を「お田の神の田」と呼んだり、女性や家畜を入れないようにしたり、雷神と刻んだ石を建てて祀るなどした。
この岩手県をはじめ、東北地方には「ウンナン田」と称する水田の事例が見られ、これは「落雷のあった水田」であり、しかも「鰻(ウナギ)の姿が見られる水田」のことであるとされる。ウナギが住める水田は、水温が比較的高く、良い水田だと考えたからともされる。落雷後の水田でウナギを目撃したことで、農民たちは「雷神が水田に棲み着いて、良い水田に変化した」と考えたのであろう。しかし、それだけではあるまい。
今では、落雷が豊作の予兆であるという考え方は、単なる非科学的な迷信ではなく、それなりの自然科学的な根拠があったと知られている。農作物の稲だけに限らず、植物の生長には、窒素肥料成分が不可欠である。大気中には気体の窒素が大量に存在するものの、それらは化学的に安定な窒素分子の状態で存在しているため、そのままでは植物も栄養素として利用できない。ハーバーボッシュ法による大気中の窒素を人工的に固定する方法が確立し、窒素肥料の大量生産が実現するまでは、大気中の気体窒素を、植物が栄養素として利用できる窒素化合物の形に化学変化させることができたのは、マメ科植物の根に共生している根粒菌を除けば、雷による空中放電だけであった。おそらく、落雷が起きた水田の周辺では、雷の電気により生じた窒素酸化物の影響で、稲の発育が良かったのだと想像される。それを見た農民たちが、経験知として「落雷=豊作の徴」と語り伝えたものが、ウンナン田なのであろう。
最後になるが、もしも『ナギ』系統の語がヘビ型動物を指すという説が真実であるとすれば、そこからどうしても思い浮かべてしまうのが、インドから東南アジア地域に広く分布する蛇神『ナーガNaga』の存在である。果たして、ヘビの古い呼称の一つである『ナガムシ(長い蟲)』の『ナガ』は『ナーガ』と関係があるのか。水の中にいる長くクネクネしたヘビのような身体をした動物ウナギは、もしかしたら『オ(御)+ナーガ』からその名が付けられたのか。
妄想は尽きない。
今回の内容は、この本の受け売りである。とても面白い名著なので、是非、図書館などで一読することをおすすめしておく。
栗花落カナヲと蛇の話⇒anond:20221108215545
この論は一見弱者の味方をしているように見えるがそうではない。強者のための理論だ。優生学を否定する物も人間には優劣があるということを理解している。きっと、その人たちは北川景子や天海祐希を観れば美しいと思い、アインシュタイン稲田を見ればブサイクだと思う。東大や京大は駅弁大学より賢いと疑わない。(同時にごく一部の例外が居ることも否定しないだろうが)大谷翔平や藤井颯太が一般人よりも優れていることを否定できない。
ではなぜ多様性を否定するのか。ずばり、強者生存のために弱者が必要だからだ。弱者でももしかしたらパンデミックが発生したときに抵抗性を発揮してくれるかも知れないし、彼らがいる限り、自分たちが淘汰されるリスクを回避できる。仮定の話をしなくても、トラック運転手、土方といった底辺の仕事をするための奴隷として弱者は必要だ。そのために弱者が不幸な人生を歩もうが知ったことではない。
結局、優生学論者も否定論者も「人間社会は優れた物の幸せを守るためにある」という思想の本質は変わらない。前者は「強者の幸せのために弱者を淘汰する」のに対し、後者は「強者の幸せのために弱者を保護する」と手段が対照的なのだ。
人の見た目の話になるとすぐルッキズムだ!って言う人増えたじゃん?
そりゃあさ、本人にはどうしようもない先天的な部分で人をああだこうだ言うのはよくないと思うよ?
アインシュタイン稲田とか、こんなこと言っちゃあれだけど手の施しようがないブサイクだよ。
それを、あいつはブサイクだからダメ人間に決まってる!とか言い始めたらどうしようもない。
ただ、服装がダサいとか髪型が変とか、それは本人の考え方次第でどうにでもなるじゃん。
少なくとも、その場で必要とされる服装なり髪型なりを考える能力のない、劣った人であることは事実なわけよ。
そこでどっちの話もルッキズム!とか言われても、いや全然違う話だよね。
人の行動をルッキズムに基づくものだって言うのは、要はその人を差別主義者扱いしてるってことでしょ?
そういうこと言ってる人達が、人の見た目ってそもそもどういうものなの?ってのを日頃から考えてるようには思えないんだよな。
ろくに考えたことのない話題を使って人を差別主義者呼ばわりなんて、よくできるよ。
それとも俺の考えがおかしくて、人の見た目からは一切どんな情報も読み取れないはずなのに、俺が勘違いしてるってだけなのか?
もう何がなんだかわかんね〜
お笑いオタクとそれ以外でけっこう感想の分かれる大会かもしれない今年。
ネタは言うまでもなくどれも素晴らしかったので、ネタ以外の感想を書きます。
時間も20分程度だしほとんどボケしろもなく淡々とした抽選会だった。グダることなく短尺で華麗なモノボケを繰り出したヨネダ2000が抽選会のMVP。
去年の反省を踏まえて夕焼け小焼けタイムを設けた今年。爆発した組も多く、見応えある戦いだった。中でもM-1の歴史に残るであろう狂気の捨てネタことからあげ4を繰り出したさや香は平場も100点の出来だったと思う。ということでさや香二人にMVP。
トップにモグライダー、二番手にランジャタイと地下の風変わり初決勝組が早々に消化されてしまい、彼らのインパクトが薄まったのが残念だった今年のM-1。8組目からは錦鯉→インディ→もも→インディ→錦鯉とお祭り騒ぎのバカたちが初決勝の20代を取り囲む地獄の出順で、ももがインパクト残すのも不可能になってしまった。笑神籤って恐ろしい。
とは言え客はしっかり暖かく、平場でも何度も拍手笑いが起きていた。中でもランジャタイの暴れっぷりを会場全体が今か今かと待ちわびている空気は画面越しにも伝わるほどで、映っていない時でも彼らの名前が上がるたびに確実に笑いが起きていた。M-1の熱血ショー化を全力で拒否し、あらゆるボケしろでボケまくり、名誉の最下位を獲得して存在することそのもので大会を盛り上げたランジャタイが文句なしのMVP。
今年は大反省会と打ち上げは省略。これを書き始めた2018年は直後に暴言騒動があり、王者の霜降りはおろか敗者復活戦や本線の平場で爪痕を残した芸人たちがまったく顧みられないことに不満があった。順位が振るわなかった芸人たちが反省会や打ち上げで必死で取り返そうとする姿を自分なりに記録したかった。なので売れっ子や高位者よりもまだ知名度が低かったり、目立たなかった組を重点的に取り上げたつもり。
しかし反省会も打ち上げも当時のようなカオスさはなくなり、きちんとした「番組」になった。もう福徳が5位なのに準優勝ばりの号泣する姿も、滑り倒した川瀬が死にそうになる姿も見られない。なのでわざわざ記録する必要性を感じなくなった。
2018年の平場で金属が注目されてライブやテレビの出番が増え、翌年は錦鯉、去年はランジャタイとキュウがその枠になった。敗者戦まで来なかった組も予選で注目されればどんどん売れるようになってきている。書き始めた頃はM-1に出ていない中堅芸人がラジオで感想を話す程度だったのが、今は出場者本人がYouTubeで「平場で誰々が面白かった」と話すようになっている。ネタの順位だけが重要じゃないと多くの人が理解している今が本当に嬉しい。そういうわけで、これを書くのは多分今回が最後になると思う。来年書きたいことが出たらわからないが、とりあえず。もし読んでくれた人がいたらありがとう。これからもM-1とお笑いを楽しんでいこうな。MVPとか偉そうでごめんね。
錦鯉、本当におめでとう!