この論は一見弱者の味方をしているように見えるがそうではない。強者のための理論だ。優生学を否定する物も人間には優劣があるということを理解している。きっと、その人たちは北川景子や天海祐希を観れば美しいと思い、アインシュタイン稲田を見ればブサイクだと思う。東大や京大は駅弁大学より賢いと疑わない。(同時にごく一部の例外が居ることも否定しないだろうが)大谷翔平や藤井颯太が一般人よりも優れていることを否定できない。
ではなぜ多様性を否定するのか。ずばり、強者生存のために弱者が必要だからだ。弱者でももしかしたらパンデミックが発生したときに抵抗性を発揮してくれるかも知れないし、彼らがいる限り、自分たちが淘汰されるリスクを回避できる。仮定の話をしなくても、トラック運転手、土方といった底辺の仕事をするための奴隷として弱者は必要だ。そのために弱者が不幸な人生を歩もうが知ったことではない。
結局、優生学論者も否定論者も「人間社会は優れた物の幸せを守るためにある」という思想の本質は変わらない。前者は「強者の幸せのために弱者を淘汰する」のに対し、後者は「強者の幸せのために弱者を保護する」と手段が対照的なのだ。
すばらしい!中学生が夜中の3時に書いたような名文だ