はてなキーワード: 真犯人とは
まず、別にドラマに対するヘイトじゃないし、企業努力を否定したい訳じゃないのは分かっておいて欲しい。あと俺はこの件に関してブログの記事とか書いてないから、今書いてる人を疑ったりするのはやめて欲しい。単に感じた変化や違いを書いていくだけだから、意見表明はそこまでするつもりはないです。
エヴァ・すかすか・Undertale・まどマギとかの難しめの作品に昔から「考察」ってあったと思うんだけど、最近話題の「考察ブーム」のメインストリームってそれとはかなり質が違うかもしれないなぁって思った。
昔ながらの考察は知る限りは(さらに歴史の古い評論的なものを除けば)「作品のよく分からない部分を解釈する」ものなのに対して、ブームの中心となっている考察は「作品に散りばめられたヒントから、意図して隠されたものを探す」というものになっている。
こう書いても違いがあまりハッキリしないので例を出すと、例えば「『□□(作中の用語)』は○○という意味で⋯⋯」は前者に、「『□□』という証拠から、次の話で明かされる真犯人は○○に違いない」は後者に含まれる。
ここまでは当然のことだと思うので、それがどんな需要から生まれたものなのか?ということを考える。
まず、「作品のよく分からない部分を解釈する」従来の考察においての需要は当然「作品のよく分からない部分を理解したい」という"単なる好奇心"から来ているんだろうと思う。エヴァなどの難解な作品に触れて考察記事などを漁ってみたことのある方なら分かるだろうが、少なくとも自分にとって考察記事は引っかかりのあった部分を説明して欲しくて漁るものだ。
やる側、つまりそういう記事を書いたり、動画を作ったりする側の動機は単に(例えばキリスト教、哲学などの)知識をひけらかすことだろう。
(たぶん誰にでもある欲だから悪いとは思わない。そういう動機があるからやるのだということ)
対して、新しい形の考察は「次に明かされる真実を描写から予想する」というもので、需要は同様に"好奇心"からくるものだが、「考察をやる側の動機」は別のところにあると思う。
考察ブームを盛り上げている作品は、謳い文句や関連の記事などから「考察ブームを巻き起こし、SNSで話題」らしいとわかる。
つまり、(少し飛躍はあるかもしれないが)「SNSで考察が盛んに行われている」と読み取れるし、実際、ハッシュタグなどでツイートを検索しても沢山のファンが色んな説をツイートしているのが見られた。
(破綻したものはかなりあったが⋯⋯まあ色んな層に広まったということだろうと思う)
また、それ以外に特に謳い文句はない。例えば、エヴァの旧劇は「人間関係」が大きなテーマとして広告(特にポスター)に組み込まれていたと思うが、そういった他のテーマは全く見られない(ディスではありません!念の為⋯⋯推理という形の考察に特化した作品だということです)
ということは、「SNSで考察が行われること」を主軸に据えた作品だということになる。
では、この「SNSでの考察」を行う人の動機はなんだろう?話題になった作品には、色んな学問の知識をひけらかせるような引用は特にないはずだ。
真実だと思うものを予想して、考察として投稿し、当たったら周りに自慢できる。自慢というのは評価されることを前提にやるものだから、承認欲求や自尊心を満たすものだと言える。(世の中は相手を傷つけるためだけに自慢を言う異常者ばかりではないと思うので)
また、次のエピソード(あるいは、他に公式が明示するもの)が公開された後にはアタリとハズレがある以上、戦略のあるくじ引きとして捉えることが出来る。(自分の仮説の前半が正しいとすれば)アタリなら承認という快楽を得られるのだから、こういったものに射幸心を覚えるのは人間なら必然だろうと思う。
以上から、知識を公開する従来の「考察」とは本質的に異なっているのがわかって貰えたと思う。承認欲求 は従来の考察をする人にもあったかもしれないが、少なくともほとんど正答が明示されないのは確かなので射幸心は煽られないはずだ。
「考察」は「難解な怪作を解釈し、他人の好奇心と自分の知識をひけらかす欲を満たす」という従来のものから、「後から正答が与えられる作品において『射幸心から』予想を公開し、正解なら『承認/自尊心』という報酬が周りから貰える」という新しいものに転換しつつあるのだと思う。
SNS時代だからこそ可能な、共感とコミュニケーションをベースにした形態だと感じました。
(結局当たり前のことしか言ってない⋯⋯)
Q.犯人が犯行に及んだ理由は明らかだよね?(対象知能指数:IQ 70以上)
日本じゃドクターショッピングは悪いことであるかのように言われがちだったこと、これが全ての諸悪の根源。
ある種の益荒男精神(くそったれ昭和根性論)のようなもので、「一度始めたら続けなくてはいけない」「先生と呼ばれる職業には忠義を尽くさなくてはいけない」「一度忠誠を誓ったものを裏切ってはいけない」などの病理が日本には蔓延してる。
今回の犯人もソレに当てられた結果として、理想の医者を引き当てるまで何回でもガチャを回せばいいことに気づかなかった。
これを引き起こした二次的要因は、「メディアにおけるドクターショッピング批判」「医者全知全能説」「キチガイは黙って健常者の言うことを聞け」「病人は黙って医者の言うことを聞け」などの風潮。
分かるね。
なんもかんもメディアが悪い。
メディアにおいての医療や道徳に関する議論や情報提供は最初のうちは善意を持って行われるが、視聴率重視のために少しずつ歪み最後はテセウスの船のようにまるっと全てが別物へと生まれ変わる。
メディアはね、最終的には悪なの。
裁判長は、確定判決が有罪認定の柱としたDNA型鑑定の証拠能力を事実上否定した
【検証飯塚事件・2.6高裁決定を前に】(中)DNA矛盾捜査足踏み 「科警研」検出、「石山鑑定」不検出|【西日本新聞me】
https://twitter.com/tetsumah/status/112805724647731200
有罪としてきた重要な柱であるT供述は、犯行そのものを目撃した供述ではなく、いわゆる間接証拠です。これに対して、K供述は、誘拐事件の犯行そのものを目撃したという直接証拠です。
「飯塚事件」で第2次再審請求 新証拠は「“真犯人”目撃」証言 | 週刊金曜日オンライン
当時働いていた会社の人たちが昼時いつも車で休んでいる場所に、その日だけ他人の車が停まっていて利用できなかった。翌日、その場所に警察が大勢いた。逮捕された人の車は見た車と違っていた。目撃者の証言はおかしくないかというのは数人の先輩方が話していた
※「ペルソナ4」・「ペルソナ4・ザ・ゴールデン」への大きなネタバレに関する内容しか書いていません。真犯人の名前も書いています。
ペルソナ4に登場する真犯人のキャラクターが、私は嫌いだ。理由もクソもない、普通に殺人犯だし倫理観も道徳観も合わないから嫌いなのだ。
だというのに、ファンや公式の間では彼を許したり「良い人である」とする風潮があるのがまた気に食わない。
ペルソナ4・ザ・ゴールデンでは真犯人である彼のコミュニティにて、多少は可哀想であるかのような描写があるにはあるし、ラストダンジョンの禍津稲羽市でも多少は彼の境遇が如何なるものだったかが語られる。
だが、それらの悲しみが他の被害を受けたキャラクター達の悲しみと釣り合うかどうかを考えると、全くの「否」であると私は考えている。
なぜなら、真犯人である足立透が持っている「悲しみ」というのは、誰もが一様に持っている部分だからだ。
家庭環境の差、能力の差、他人の身勝手に振り回される理不尽。これらは多少の個人差はあれど、全て誰もが一様にぶつかる壁であり、歯を食いしばって乗り越え、耐えている部分なのだ。事実、その辺りはどのキャラであっても似たような局面に遭っていることは、各キャラのコミュニティによって描写がされている。
もし、そういった不幸をただ耐えられなかったするだけなら、「弱かったからだ」と、「強さ」や「弱さ」などの「個人差」で済まされる部分でもあるだろう。
しかし、ペルソナ4においてだけはそれで済まされたりはしない。許されたりもしない。
忘れてはいけない。彼はこの「壁」を「殺人の理由」として語ったのだ。自分が理不尽な目に遭ったから、辛かったから、不幸だったから。それらは「殺人を犯して良い理由」には、決してなりはしない。
確かに足立透の環境や境遇といったものは、多少なりとも可哀想ではあるのかもしれない。
しかし、しかしなのだ。では、そのストレスの捌け口にされ、理不尽に命を奪われてしまった山野アナや小西早紀は可哀想ではないのか?
大切な想い人を奪われた花村陽介は?
足立透が生田目を唆したことによって、巻き込まれる形で命を奪われそうになった菜々子ちゃんと、それを追うために事故で大怪我を負った堂島さんは?
自分から危ない目に遭いに行った直斗は多少別としても、実際に被害に遭った彼らの方がずっとずっと可哀想なのではないのか?
そしてその一連の流れを見て、被害者達を嘲笑っていた足立透は、本当に「可哀想」か?
メインキャラクターとなる特別捜査隊の面々は、普段の明るさと高校生特有のエネルギーによって誤魔化されがちだか、実際のところ「殺人事件に巻き込まれた被害者の会」でもあるのだ。終盤に至っては大切な従姉妹を殺されかけ、それを追って叔父が大怪我を負ったことにより、主人公ですらその被害者の一員となってしまう。
犯人に殺人の理由を問うた時、大切な人を奪われ、そして大切な人と自分の命すら奪われかけた面々からすれば、殺人の理由を「私が不幸だったせいです」「私を不幸にした周囲が悪いのです」などと宣われてしまえば、「ふざけるな」以外の言葉があるだろうか。
犯人に対し憤りを覚えこそすれ、共感をするような場面では絶対にないと思うのだが。
しかし、ファンや公式の間ではなぜか共感や許すような雰囲気が漂っており、私個人としては物凄く納得が出来ないところである。
接客中、説教大好きクレーマーから度々「自分だけが不幸とか思わない方がいいですよ」などど言われる時がある。
いや、知ってるし。今を一生懸命生きてる人間が、色んな人と接する以上、苦労が無いわけが無い。
それを知らないのは、単なる世間知らずだ。
医学生物学論文の70%以上が、再現できない! | Vol. 10 No. 11 | Nature ダイジェスト | Nature Publishing Group
心理学の研究結果、6割以上が再現不可能 検証調査 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
[B!] 足利事件菅家さんが刑事補償請求 再審無罪で8千万円 - 47NEWS(よんななニュース)
福島章教授が足利事件の精神鑑定録音テープを破棄した心理 : 少年犯罪データベースドア
松木 洋人
大貫 挙学
「所謂変質状態ノ基礎状態テアル生来性神経衰弱症」「表面柔和ニ見イナカラ内心即チ無意識界ニハ残忍性『サディスムス』的傾向ヲ包蔵シテ居リ両極性相反性ナル性格的傾向ヲ顕著ニ示ス」と鑑定した
1952年 5月31日 控訴審終了。Nに懲役15年の有罪判決。
1981年 4月27日 青森地裁弘前支部で一審終了。Nが部分勝訴。
事件あるところに法医学ありと、東大法医学教室の歴史の中で、数え切れないほどの鑑定書が作成され、法廷で証言がなされた。
松山事件、下山事件、財田川事件…。戦後の再審、無罪事件を中心に、東大法医学教室の事件簿から"恐るべき証人"の声を聞く。
第3章 下山事件
第7章 DNA鑑定
追記:最後まで見ました。我慢してみるほどではなかった。途中で切っててもよかった普通の話。どんでん返しみたいなおちはない。全ての謎が繋がるみたいなこと言ってるけどタイムスリップした理由とかの説明も完全にぶっ飛ばし。別にシナリオが超面白ければぶっ飛ばしてもいいけど、それほどでもないって感じで。わざわざ時間かけて見なくてもよかった。
ストーリー構成いいと思うけど、なんか演出とかが間延びしててとりあえずテーマソング流せばいいだろうみたいな雑な編集になってる
見ててテンポが悪い
キャラも全般的に情緒不安定で前頭葉使ってないチンパンジーみたいな知能の低い行動が目立つ
追記:
なんか話がちょっと進むたびに、キャラの演説タイムがしょっちゅう挟まって最高にかったるい
みきお犯人説信じてもらえないくだりあるけど、首しめの跡が子供の手の大きさとか、ユースケ突き落とした目撃者いるのとか、証拠や証言あるのになんで無視しているのとかも、んなわけねーだろ感が強い
追記:
あー、うん。主人公の心が死んだけどお腹の心は幸せな人生を送るから、なんかテセウスの船的に心の人生まるっきり変わりつつも幸せになるからオールオッケーみたいな落語みたいなオチなんだろうって想像してたら当たった。当たるのはいいけど、別にカタルシスないし想像外のどんでん返しで、気分アゲアゲーって感じも微塵もない。はぁそうっすか。暗いの印象。
うんハッピーエンドでよかったね。
真犯人別に未来から来たパラレルワールドの心じゃなかった。こっちの方が良くない?とんでもないエンディングっぽいことを言われてたから超期待して見てたんだけど普通の話だった。あっそって感じ。別に悪いドラマじゃ無いけど、俺がわざわざ見るようなものじゃなかったな。
結局、首しめの跡が子供の手の大きさとか、ユースケ突き落とした目撃者いるのとか、証拠や証言を無視した件ってただの整合性が取れない脚本のやらかしだったっぽいし
年代物の車集めたりとか演技とかカットとか丁寧に作られたドラマだけど別に特別面白いもんでもなかったかも
世間の評価が高すぎる。これに尽きる。事前に用意したハードルを完全に下回ってて、はあそおっすか、的な感想にしかならんかった。
サイレント・トーキョーがNetflixに来ていたのでぼーっと眺めていた。
点数は甘め採点で、邦画では高めの2.5点くらいつけていいと思った。
ちなみに一個前に見た邦画は犬鳴村で高めにつけて1.5点くらいの作品だった。ゴミ。
エンタメとしての一番の見せ場である渋谷大爆破シーンは「日本のCG技術はハリウッドの30年前にすらまだ追いついてないのか」とがっかりさせられる出来ではあったが、それでも「渋谷でガチモンの爆破テロが起きてパリピのアホどもが吹き飛ぶ様を見せてやるぜ!」という意気込みは伝わった。
少々物足りなくはあるが「見どころ」がちゃんとある邦画はそれだけでえらい。
贅沢を言うなら、あそこだけディズニーのMCUのチームに金払って頼めんかったか。
ハチ公がレゴブロックみたいに粉砕したシーンは大爆笑してしまった。
原作を読んでいないのでそことの違いは比較できないが、脚本面では粗が目立った。
スポットライトが当たる登場人物が多く、それぞれの描写が不十分であるため誰にも感情移入ができない展開が続く。
特に、いちおうメインヒロインということにされている広瀬アリスが「友人がやめておこうと言っているのに爆破テロ予告現場に引っ張っていく」「離れようと何度言われても無視してどんどん近づいていく」「結果的に爆破テロに巻き込まれて友人が瀕死の重傷を負う」「病院ではぐれた友人をほっぽり出して容疑者に会いに行って激しく糾弾する」という、なんやこの女舐めてんのか死ねとしか言いようがない行動を取っていてホンマにヘタクソやなとため息が出た。
他にも邦画特有の回想シーンの使い方がヘタクソ問題も各所にちりばめられている。
が、そんなことがどうでもよくなるくらいウンコなシーンがある。
「意外な真犯人」が「実行犯」と二人で車で逃亡する。書いてある通り二人はグルで「意外な真犯人」が実はすべての絵を描いて裏で糸を引いていましたという展開になる。
そして、車で逃亡中に真犯人が実行犯に対して「今回の動機」を熱弁する。
その内容が「渋谷吹っ飛ばしてめちゃくちゃ死傷者出すほどのもんかなぁ」ってなるのは、まぁ、作品自体が渋谷を吹っ飛ばすというところからスタートしているからしょうがないのかなと1000歩譲って納得するとして。
ちょっと考えてほしい。
真犯人と実行犯はグルなのだ。当然、実行犯は真犯人の思想を理解したうえで犯行を行っているし、それがうかがえるシーンもちゃんとある。つまり、実行犯は真犯人の動機なんてとっくのとうに知っているし、共感もしているはずなのだ。
その実行犯に対して真犯人がさも「決意してお話しいたします」みたいな感じで動機を熱弁するのは明らかにおかしいのだが、脚本家はそれに気づかなかったのだろうか。
もちろん、その「熱弁された動機」こそが「この作品で最も伝えたかった事」であろうことは容易に推察できる。「作品で最も伝えたかった事」を登場人物にペラペラペラペラ熱弁させること自体がウンコオブウンコなのは言うまでもないが、それでも、もうちょっと自然にやれなかったのか。
こういう「ドラマとして一番大事なシーン」でこんなしょうもないヘマをやらかすからいつまで経っても「邦画はレベルが低い」と言われるんじゃないか。「作品のテーマペラペラお喋りウンコ」と「なんでそこで喋るねんウンコ」のダブルウンコでクラクラしてしまった。
最近、「人権感覚のアップデート」とか言われることが多い。しかし、人権思想は短く見積もっても200年~300年以上の歴史があるので、過去もアップデートがあったのは間違いない。
人権思想の走りと言うべきもの。いわゆるマグナ・カルタや権利の章典などで人権思想の基本となる考えが整備されていった。
いわゆる「国家からの自由」と平等。政府が令状なしに逮捕したり、法律の規定や裁判なしに刑罰を与えたり、特権階級をもうけたりすることを禁じた。
いわゆる「国家への自由」。要するに参政権。必然的にこれもついてきた。
人権における画期的なアップデートである「国家による自由」が実装された。19世紀末~20世紀前半に成立し、これにより近代的な人権制度が一応の完成を見たといってよいだろう。
単に自由なだけでは恵まれない人が割を食うばかりになるので、生存権、教育を受ける権利などのように最低限保障すべき権利を規定し、政府が施策により実現することを義務とした。もちろん、これが特権であり平等性に反するという主張もあったが、現実に劣位に置かれている人を、平等な水準にするということで理論的な解決を見た。
「かわいそうな人」の権利を守るために、そうではない人の権利を制約しようと言う思想。
アンチファによるヘイトスピーチ規制の主張や、フェミニストによる表現規制の主張、性犯罪に対する要件の緩和や厳罰化などが人権3.0。
しかし、これは当然に、権利の制約になるので、人権1.0と真っ向からぶつかることになる。
もちろん、人権1.0でも、他人の人権を侵害する行為は禁止する(=政府が処罰する)ことはできる。殺人を行う自由という人権は認められない。
しかし、これは同時に、他人の人権を侵害したことが明確に立証できないことは禁止(=処罰)できない、ということと等価である。これを問題視する向きが人権3.0を主張し、人権1.0を攻撃している。
今日の、立憲民主党本多議員の離党騒動はまさに、この人権1.0vs人権3.0という問題である。人権1.0の立場に立てば、明白な権利侵害があることに対して「のみ」規制されるべきと考える。だから、様々な限界事例を例示して、規制の問題点を指摘する。対して、人権3.0の立場に立てば、明白な権利侵害があるかどうかはっきりしない事例でも、加害者の処罰が漏れることが到底許し難い。これに対して人権1.0の立場からは「十人の真犯人を逃すとも 一人の無辜を罰する勿れ」「刑法典はならず者の権利章典である」といった原則が掲げられ、被害者やその周辺の感情に寄り添わないことが美徳とされる。
増田は、この人権3.0へのアップデートを、バグが多く、危険なものだと考えている。罪刑法定主義や法の適正手続きといった手法、権利の衝突の解決手段としての公共の福祉、明白かつ現在の危険、こういったさまざまな近代的な人権と法制度に基づく道具立てとコンフリクトをする思想は、最早、人権とは呼べないだろう。単なる魔女狩り裁判を正当化し、フォークデビルを火あぶりにする、俗情との結託である。こんなものは、全く「立憲主義」などではない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/df29e9572122441a6f2f91351de7bb7eb84144f8/comments
両方が死んでいるのを良いことに都合のいいストーリーを記者とコメント欄の両方が作っている
俗に言う「酒鬼薔薇事件」=神戸連続児童殺傷事件から24年が経過しようとしている。
掻い摘んで言うと、
第三の事件では一人の児童が殺された、と言う連続殺傷事件だった。
民事裁判による損害賠償請求に応えるには、印税をもって対応するほか成すすべがないと、
酒鬼薔薇の弁護人が、海外ではそのような事が行われていることなど、その両親に説明したらしい。
被害者の意向がどうかは不明だが、その印税は被害者に支払われたと言われている。
刑事裁判での判決=刑は温いとか、母親は印税で家を建てたとか言われているが、
最も理解できないのが、少年A≠酒鬼薔薇で、あの事件は冤罪であるというものだ。
声明文は少年Aに書ける文章ではない(少年Aの国語の成績は2で、それほどの文章は書けない)、
物理的な証拠は見つかっていない等々、確かに疑義が残る部分は或るからだ。
それについては弁護人や、少年Aの通っていた小学校の校長等の言い分もかなりあるようだ。
自分が犯人ではなくとも、犯人扱いされることが愉快だと思ったのか、
もう面倒だからどうでもいいと思ったのか、辻褄が合うように、
警察で誘導されるがままに自白したのは何故だったのか、本当に真犯人だったのか、
真実は闇の中だ。