はてなキーワード: 功利主義とは
「自民党支持者=カルト関係者」はさすがに言い過ぎだと思うけど、「自民党支持者=カルトとの関係性すら利権や主義のために肯定する功利主義者」のイメージは強化されるかな。
憂国。
タイトル通りの内容について話していく。
日本ではシュレディンガーの猫と並ぶ有名な思考実験であり、それと比べて随分と簡単な内容なのに本質を理解している人が少ないように感じたのが書こうと思ったきっかけである。
まずトロッコ問題の具体的な内容なのだが…説明するのが面倒なんでwikiからコピペしてくる。
線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。
A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。
というものなのだが、ようするに5人を助けるために1人を殺すか、何もせずに5人を見殺しにするべきか?という2択から選べというやつだ。
まぁ先に結論から言ってしまうと、これは「功利主義」か「義務論(カント主義)」どちらを支持するか?という倫理学の問題である。
倫理学にはいくつかの流派があって、その中に「皆が幸せならそれでいいじゃない」という考えの功利主義と「正しいことは絶対正しいんだよ!」という考えのカント主義が存在する。
功利主義では「1人が死んでも5人が助かるなら幸福の総量は多いんだからそれでいいじゃない」と1人を殺して5人を助けるほうが正しいと考える。
逆にカント主義では「他人を目的のために使ったりしてはいけない」と考えるので、結果的に5人が死のうがそれを助けるために1人を殺すのは悪だと考える。
ようするに功利主義が正しいと思うのなら分岐点のレバーを引いて1人を殺し、カント主義が正しいと思うのなら何もせずに5人を見殺しにするという至極単純な問題なわけである。
くだらない議論だし、功利主義は「最大多数の最大幸福」という基本原理を掲げてるだけでそれが正しいという根拠はないし、カント主義はカントというドイツのおっさんが「目的のために他人を利用するな!」と言ったからそれが正しいとされてるだけで、その正しさにも根拠はない
ただ日本には義務論的な土壌がないので、直感的に5人を助ける方が正しいと答える日本人が多いと思う。
どっかの高校の教師が授業中にトロッコ問題を出して、とある一人の生徒がカント主義の考えを主張したら冗談だと思ったという冗談みたいな話がある。
これを昔、授業でやったら「なぜ助ける必要があるのかわからない。俺は傍観者だから放置して5人が死んでも責任はない。でも切り替えたら俺の責任になる」と言った生徒がいて衝撃を受けた。確かにその通り。「5人の人に感謝されるメリットよりも、1人の遺族に責められるデメリットの方が大きい」と。 pic.twitter.com/BU9tmtMnMU— とある高校教師S (@hellohellock) April 11, 2019
彼はひねくれていたから敢えて俺を困らせようとした可能性は濃厚だけど、彼が本気でそう思っていたのかはさておき、そういう意見が出てくる授業というのは「良い授業」だと思う。周囲も衝撃を受けていたけど、どう受け止めたのかは未知数。それが良い点であり怖い点でもある。授業はまさに生き物だ。— とある高校教師S (@hellohellock) April 11, 2019
仮にも大卒の教員が問題の意義も知らない上に、それを生徒に出題するなんてアホだと思うが、それだけ「トロッコ問題」という名前だけが独り歩きして本質が理解されていない例だと考えている。
ちなみにこのトロッコ問題に関連する事柄があって、5人を助けるために1人を殺しても許される。と考えるならば「5人の臓器移植しないと助からない患者のために、1人の健康な人を殺してその臓器をそれぞれ5人に移植しても許されるはずだ」という論調が存在する。
トロッコ問題では「1人を殺してでも五人を助けるべきだ」と直感的に答えた人の数が多かったとしても、臓器移植の問題になると罪悪感を覚えるのか、五人の為に1人を殺そうと考える人が急激に少なくなる。
トロッコ問題も臓器問題も「多数の幸福のためならば少数の犠牲を厭わない」という功利主義の原理は同じなのだが、前者と後者で人間の善悪の判断は変わってくる。それはなぜだろうか?
と、このように「功利主義」と「カント主義」どちらを支持するか?でなく、その根拠になる人間の善悪や罪悪感の基準はどこにあるんだろう?といった話に繋がる思考実験なのである。
民主政権の海外支援は日本人の血税を使った売国行為なんて叩かれてたが
今回も同様の主張は見かけるが、
「海外支援は途上国を助けるためにやってるんじゃなく、日本の地位を高めるのが目的なんだ」というような擁護が目につく。
岸田がやってるのは人道支援じゃない、下心丸出しの偽善行為だ、との中傷にも聞こえるが、
公的支援は何らかのリターンを見込んだものでなければ許されない、というような、一種功利主義的な価値観だろうか。
すると、下心なく、困っている人を身銭を切って援助するという「リベラル」な支援は、彼らにとって愚行ということになる。
また、この考え方では、公的支援とは支援を一番必要としている者から優先的に、更生公平に受けることのできる「権利」ではなく
権力者が恣意的に、不平等に分配する「利権」である、と言えよう。
いちおうネタバレも若干含む。
立ち位置示しておくと、40代オッサン。オタク趣味はあるけどもっぱらラノベやマンガ方面で、特撮はさっぱり。
邦画の特撮最高傑作はガメラ2であると認定している。ゴジラはシンよりFINALWARSの方がバカっぽくて好き。
ウルトラマンについては、見たことないわけじゃないにせよ「ウルトラマンは喋る」と言われて「そうだっけ?」と思う程度。
ウルトラマンがゴジラと戦った事があるというのと、ウルトラマンが仮面ライダーと握手したことがあるのはトリビアの泉で知ってた。
知ってる怪獣はゼットン、カネゴン、ジャミラ、レッドキング、キングジョー、エースキラー、バードン、バルタン星人、ゴモラ、エレキング、ジャッカル大魔王。
登場人物がウルトラマンやヒロインも含めて何考えてるのかよく分からなかったが、ウルトラマンが献身的に地球人を護ってるのがなかなか可愛い。本作の見所は、このウルトラマンの健気さと言っても過言ではない。
怪獣もキャラ立ってたし、2時間でウルトラマンを登場から退場まで全部やれと言われたら、これは最善に近いのではなかろうか。
カラーマイマーも無いけど、そんなに時間かけずに倒してる事を考えれば、なくてもいいという判断は理解できる。
ザブラ星人やメフィラス星人が、地球で一儲けを企んで結果的に大損して居なくなるのを見ると、なんか日本市場に手を出して損して撤退していく外国企業を見ているようで、なんかゴメンねという気分になる。
日本政府はザラブで痛い目に遭ったばっかりなのにメフィラス速攻で信用しちゃってて、この人達馬鹿なのかな、という気分になった。
不満点を挙げると、ゴジラのときも思ったけど、登場人物がみんなスーツ姿のビジネスマン(官僚をビジネスマンと呼ぶかはともかく)なので、画面超暗い。
ほぼお葬式の色調。
科学特捜隊はオレンジのスーツと銀色のヘルメットで良いと思うだけどね。「いい年してなにあの格好w」という第一印象から、なんかあれが格好よく見えるようになるように活躍させるのが腕の見せ所だろうに、スカした黒スーツで現場に行ってもヘルメットすら着けないのが逆にバカみたいだ。
あと、めっちゃ早口。ペラペラしゃべり倒す漫才のような芸風。もう少し落ち着け。
あと、ロマンス出す気無いのに年頃の男女出してどーすんの。オッサン同士の友情でも濃厚に描いた方がドラマとしてはアリだろう。
あと、本音で喋りすぎ。官僚ならもう少し寝技使え。馬鹿に見えるぞ。
そんなこんなで、怪獣(なんか当て字のやつは白けるだけなんでどうでもいい)との戦いは95点。
総評70点。
1度見るのは悪くないけど、2度見る気にはならない。
ドラマを出すなら、ザブラはメフィラスに倒させるなどして、「悪と功利主義の違いは何か」みたいな所で葛藤を作っても良かったんじゃないかと思う。
以上。
自分が”しっかりした男”になったときに揺らぐ気持ちは少しわかる気がする。
俺はモテるモテないや、社会的に認められるかどうか、で生き方を規定すべきでない、
自分に正直に生きていくべきだと思ってる。
その態度でも、能力や縁で評価してもらえる世界に居るから、なんとかやっていけてるけど、
そうじゃないところで生きていたときは、まるで棒でつつかれ続けるような気分だった。
こうすればカッコいいだの言われて服を変えたり小物を変えたり、
あるいは、相手の恥にならないように髪を切ったりして、それが喜ばれたりしたら、
あー、一番近い人でもそう思うなら、俺の生き方が間違っていたのだなぁと、
急に功利主義に傾いてしまうかもしれない。セックス嫌いだから浮気はしないと思うけど。
お互いの寝ぐせを手櫛で整えるような相手とばかり生きてきたが、
正解だったんだなぁと思う。
(参照:「優生学について知りたいのに、誰にも聞けない」https://anond.hatelabo.jp/20220120142843)
つまり最近進撃の巨人でジークが主張してるエルディア人安楽死計画(エルディア人の断種)なんかは反出生主義というかもろ優生思想な訳ね
https://anond.hatelabo.jp/20220121151104
行為者(ジーク)が「対象(エルディア人)が苦しんでいるのは生まれてきたからで、生まれてこなければ苦しまない。対象の苦しみを失くしてあげよう」と思っているならそれはその対象について「反出生主義」(対象がそれを望んでいるという意味ではない)。
断種の対象を疾病または災禍ととらえて「対象者が今後生殖をおこなわなければ(対象者以外の)人類がより良いものになる」というのが「優生思想」。これは断種「されない側の視点」の話で実行者の真意がどこにあるかとはまた別の話。
まあどんなに理想的に聞こえる理屈をこねまわしても断種対象者以外のホンネは個人的な妬み恨み復讐メシウマ優越感または自分がその対象になりたくないという恐怖だったりするわけだ。そしてその行為の対象がマイノリティーの場合「対象者自身はどう考えているか」はあまり考慮されない。というか相手の立場になって考えられれば初めからそういう発想は出てこねーんだ、そもそも。
いや違うな。
それが対象にとってどういうことか分かってるから自分は嬉しいし自分にはされたくないし、でもそいつらにはそうしてもいいという理屈を小賢しくひねくり回すわけだ。「社会のタメですー(笑)」とか言って。
人間の中からケモノが顔を出せば理屈は喜んでシッポを振ってついてくる。
無意識にしろ意識的にしろホンネをゴマ化す(ヘ)理屈を自分で唱えてりゃまだいい方で人口のうち多数を占める愚民は「これは社会(国家・世界・人類)にとって良いことなんです。あなたに損はないですよ」と言われりゃさも自分は正しいことをしてやってるんだというドヤ顔で他人を踏みつけ自分の動物的な感情を充足させ、勘定は政府やら世間やら他人に回す。自分には何の才能もなく何の努力もしなくてもたまたま多数側に生まれただけで他人より優れていると思い込めるんだからそもそも文句はないが、ひょっとしたら何割かは「社会が良くなる」というお題目を本気で信じているかもしれない(それは自らの優越感を意識していないという意味ではない。社会のためはオレのため、二方三両得ってだけの話だ)。
「ミンシュシュギ」のオダイモクも愚民が唱えりゃただの多数決の独裁になる。「自由で平等」なのは多数派の間だけでそのうえ独裁者は「多数」だからそのうちの誰一人として自ら責任は取らない。「衆愚に生まれて安心安全」システムだ。
本当の「民主主義」は「多数決」とイコールではない。民主の「民」は多数派だけでなくすべての少数者ーー病人かタワキ違いハク痴外人アイの子こども年寄り男女女男童貞オタク売タその他ーーも含めて全員自由で平等でなければいけないし、民一人一人は全員が自分自身のそして社会の「主(あるじ)」として全てのことに責任を負わなければならない。代議士はあくまで民の「代表」でありその責任は最終的に民全員に帰する(だから代議士は民意に従う責任がある)し、少数者(マイノリティー)だけにババを引かせるやり方は民主主義ではない。
自分に都合がいいことを聞いた瞬間に思考を停止する低級な動物が多用したがるキメ文句のひとつににベンサム(1748 - 1832。イギリスの哲学者・経済学者・法学者。功利主義の創始者)による「最大多数の最大幸福」という言葉があるが、これは「個々人の幸福の総和を最大にするのが正しい行為・政策である」という意味で(愚民がそうであってほしいと願うような)「多数を幸福にするためなら少数を不幸にしてもいい(そうすれば幸福な人数が最大になる)」という意味ではもちろんないし「少数の不幸は多数のメシウマ」を肯定するものではない(当たり前だ。普通にサイテーである)。個々人の幸福の総和を最大にするにあたってベンサム自身は「個々人が幸福を追求できるように法律で私的不可侵領域を定める必要がある」としている。ようするに「たとえ多数派がそうすることで幸福を感じるとしても他人の私的なことに手出し口出ししてその人を不幸にしちゃいけませんよ」ということだ。たとえば自分が幸福になるために自分が結婚したりしなかったり子供を産んだり産まなかったりするのは正しいが、自分が幸福になる(感情的にも経済的にも社会制度的にも)ために他人に結婚させるさせない・子供を産ませる産ませない権利は誰にもありませんよ、ということである。
この「他人」がマイノリティーであっても当然全く同じことでたとえ「同性カップルは結婚しても子供が生まれない。税収が減る年金が高くなる国が(:読み:「オレが」)損する」と思っても自分が結婚したい時に結婚して制度上の優遇を受けられるなら他人に同じことを禁止する正当性はない。「結婚はするが子供は作らない」のは同性カップルに限った話ではないし、それでも制度上の優遇が不当だと思ったら結婚に付随する優遇措置は一律に廃止すればいいのである。少子化が問題であるなら公的な扶助、優遇措置は既婚未婚ジェンダー性指向等いかなる属性にも関係なく実際の出産または養育の実態に対して行うべきだ。
生殖というのもまた自らの生存に次ぐ(どちらかと言うと結婚制度よりもなお)私的な不可侵領域であるがこれを本人ではなく誰か他の人が「おまえは生殖してもいい。おまえはダメ。社会のタメだから(笑)」とやるのが優生思想である。特定の人たちを(未来の)社会から「居なくすれば」社会はもっといいものになるらしい。しかし居てもいい人間いけない人間を本人の都合以外で選ぶ社会はすでに民主的な社会ではない。
社会のメンバー全てに平等の権利を認めた結果として社会に何らかの不利益が生じた場合、民主的な社会ではその不利益は全てのメンバーに平等に配布されなければならない。利益は多数派だけに分配し不利益はマイノリティーだけに分配(またはその逆)してはいけない。個人の幸福の総和は全ての人の幸福を高め全ての人の不利益を削減することで得られなくてはならず、不利益を一部少数者に集約した上で「[その少数者の属性]なんてこの社会には存在していない」ことにして残りの幸福だけを勘定してはいけないのである。それが「民の一人一人全員が社会の『主(あるじ)』として責任を負う」ということである。
もちろん「民主主義」というのは人間の価値観のひとつであり宇宙の絶対法則ではないので他者に由来する不利益に対して責任を負うことを一切拒否するのも個人の自由であるが、その場合民主主義社会によってもたらされる幸福の方も全て自ら辞退するのがフェアな態度であろうと思う。民主主義社会において多数派に属することの恩恵は(本人が自覚しているいないにかかわらず)計り知れず、本来数的にもその影響力も取るに足らない少数者・社会的弱者にイジワルするためだけにその恩恵を手放すというのも到底得策とは思えないが、けだし度し難きは小人なり。生まれつき享受している恩恵というのは本人には認識できないものなのかもしれない。
功利主義的に命を切り捨てるって話なら、命が大事ってのはまやかしになるってことだ
だから、命が大事だから冤罪による死刑の可能性があるから反対とか
命が大事だからコロナ対策ではロックダウンでもして経済より命を優先しろとか
全部まやかしですよねって話だよ
車の使用は認められるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう?
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
人命第一を謳うこの社会で便利だという理由で人が死ぬ原因となる車(装置)を許容するのはおかしい、という話かと思いますが
大多数の利便性を優先して、人命軽視を許容しているのではないか、という話になると思います。
一旦この解釈が正しいとすると
ブコメに多くあったメリットデメリットの話は若干回答がずれている、というかあまり良い回答ではないでしょう。
実はこの話、科学技術を世に出す際に倫理的に何が求められるのか、という話でもあり、
大学で科学技術と倫理(技術者倫理)という教養として習う範囲でもあります。
と言うわけで、ここでは科学技術と倫理の観点からなぜ許容されるのか話をしていこうと思います。
と、本題に入るまえにブコメで多くされていた
メリットが大きいからリスクが許容される、つまり最大多数の最大幸福であるという話について触れて起きます。
この様な功利主義的思想は局所適用にはあいますが、社会システムに適用されると非常に危険です。
言い換えてしまうと多くの人が益を受けるから少数者は被害を受けても構わない、という全体主義的システムになりかねないからです。
銅山から流れる鉱毒のせいでそこらへんに住む人は甚大な被害を受けるけど、
国家全体から見れば利益が多大なので仕方ない、みたいな話に繋がってしまいますよね。
なのでデメリットに対してメリットが大きいから、だけだと間違いを産む可能性がありあまりよくないということになります。
では次に本題の、人を死なせることはこの社会において許可されていないのになぜ人を死なせる可能性のある車が許されるのかの話をします。
シンプルに言ってしまうと人を死なせることと人を死なせる可能性がある、というのは大きく違うから、という話なんですが
車増田氏としてはそれに対し可能性があることを認識してるのであれば未必の故意いえるのではないかと考えているんじゃないかなと思います
これに関してはマックスウィーバーが著書「職業としての政治」で述べた心情倫理と責任倫理という考えが役に立つと思います。
心情倫理とは結果がどうあれ正しいと思うことを行動することで
ドイツ観念論のカントの「定言命法」に近く、物事がうまくいったとしても動機が不純なものであれば善としない考えです。
一方、責任倫理とは動機がどうあれその行為が不幸の結果を及ぼすことを予見できるのであればそれを避けるための最善の努力をし、
その結果を負わなければいけないという考えです。
ウィーバーはこの2つの倫理を兼ね備えることが政治家としての不可欠な資質としましたが、技術者倫理としてもこの思想は適用できます。
技術者として製品を世に出す際、その製品が世間をよりよくするものを目指すべきでありかつ
その製品の持つ機能が直接的に危害を及ぼすことがない様に想定できうる限りの防止策を講じるべきである、という考えです。
多分ですが、日本の車メーカーに車を作る理由を問い合わせた際に「弊社の利益さえ上がればいいと思っています」なんていうところは
基本的にないと思うんですよ。
内心はどうであれ、車の製造が利用者の利便性/快適性をあげるという公益性を目的にしているということを言うのではないかと想定してます。
そして実際、機能の研究開発の期間もさることながらテスト期間も相当長く、真冬の北海道に持っていって
寒冷地テストしたり、砂地や泥を用意してそこに突っ込んでスリップテストしたりと
事故を起こさない、人命を守るためのテストをすごいしているんですよね。なので大体開発に5年程度かかります
そしてメーカーだけでなく行政も運転免許という適正審査や安全講習、
小学生児童に対しても交通安全講習会も行い、技術と社会規則の両輪から事故を未然に防ぐ努力をしているわけですね。
つまり、車の利用に関しての「直接的な結果」として人命への被害を避けるための「最善の努力」をしている、とも言えるのです。
そして皆が交通安全規則を守り安全運転をすれば突発的な災害等が起きない限り人命を損なう様な事故は起きないだろうというところまで
この「最善の努力」を「完全に避けなければいけない」としてしまったり「間接的な結果」も責任としてしまうと
言い換えると企業がリコール訴訟を受けた際、事故と直接的な因果関係がないことはもちろんのこと
「最善の努力」をしていたということとが必要になると言うことでもあります。
(アメリカでプリウスが訴訟になった際、そこら辺が焦点になったと聞いています)
つまり、メーカー及び行政がさまざまな手段で事故を防ぐための策を講じてる事実があるので
当初の
人命第一を謳うこの社会で便利だという理由で人が死ぬ原因となる車(装置)を許容するのはおかしい、という意見に対する回答としては
人命に対するリスク対策を社会コストとして払っており、そもそも人が死ぬことを許容はしていない、ということになります。
というわけでまとめます
1. 危険性を伴う製品に関し、メリットデメリットの観点だけだと公害を許容しかねないのでよろしくない
2. 建前とは言えメーカー・行政の両輪で理論上事故が起きない様にする施策を打っており人命軽視しているという認識は間違い
ということになります。
念のため付け加えますが、努力しているから問題を起こしていい、責任がない言うわけではなく、
その開発当時にしりえる知識、技術を元に最大限の努力をしたかが問われるため「最善」と表現されます。
言い換えれば公知の知識の対応を怠った場合などは懈怠責任をとわれます。
つまり今後、科学技術の発展に伴い、危険運転でもリカバーする技術が発明されたらそれも実装が必須になっていくと思います(昔はエアバックとかなかった)
どうでしょう?車増田氏のどこで線引きをしているのか、という問いに対して回答になりえたでしょうか?
あと、死刑の話を絡めて聞いていますが、その話は犯罪者の更生の話や社会から外れてしまった人格をどう扱うかという話なのに対し
車社会の話は公益性を持つが危険性を伴う科学技術とどう付き合って行くかと言う話で根本が違うため
その話を混ぜると複雑になりますし長くなるので省きました。