はてなキーワード: オイル臭とは
http://blog.lalamiamor.net/entry/2018/06/13/115748
上を読んで、なんだか暗い気持ちになったというか、途中で苦しくてやめてしまった。
こういう問題はあらゆる病気、障害に起こって、例えば私は歯が異常に柔いらしくひどい虫歯に年中なるんだけども(前の虫歯が次の虫歯を引き起こして治療が間に合わない)そんな軽い問題すら、それによって起こる金銭的な問題を誰かが保証してくれるわけでないし、それをもってして私を怠惰な人間と判断する人がいるという障害を生み出す。すくなくともこんな状態で誰かといちゃいちゃするつもりもないので恋人はできないし、口臭を気にする人とは話すことも許されない。私のポケットにはミントタブレットと口臭予防薬が常備されている。すべての歯をセラミックに直すとしても、そのお金をどこから捻出するのか。私は私の口臭を気にしないような、ぶっとんだ人たちと仕事をするしかなく、今はそれを受け入れて何とかしのいでいるけれど、それに耐えられる精神力を持たなかったときは、本当に儲からないような仕事しかできなかった。実は、この口臭というのは、うまくごまかす方法があって、それはタバコを吸うということだった。タバコの強いにおいに紛れれば私の口臭は誰も気にしないという算段で、これが実際あたったわけだが、こんな話はどうでもよい。
つまりは、障害に対する解決策はあるのだという話で、これが語ってしまえばごまかしだとしても、運用上は確かにうまくいったりするのである。で、それを実現するのに、ひとりで何とかなればよいが、そうでないときは、他人の助けを得なければならない。この助けというのは全力でなくてよい。
たとえば私の場合、口臭を気にしないという態度でいてくれればいいのだ。実のところにおいの問題は例えばインド人のヘアオイル臭にもつながってくる問題で、相手の臭いを気にしないというだけで海外の文化理解にもつながる行為である。あるいは体質的にげっぷが出やすくなっているだとか、そういう人にも助けになる。それくらいでいいのだ。もちろんどうしても気になるのならそれでいい。そうであれば、嫌な顔をしない、というのでもいいのだ。それもむつかしければ、そういう人にネガティブな感情を抱かないというのでもいい。それも無理であるのなら、ただ近寄らないでほしい。
よきサマリア人のたとえはよくできていて、教えの内容としてもわかりやすいし、みんながうっすら幸せになる。簡単に言えば、あなたは救える範囲で救えばよいのだということで、その範囲は自身で決めてよいのだ。しかしこれは、ある人にとっては厳しい教えになるかもしれない。逆に言ってしまえば自分でできる範囲を認めなければならないからだ。それは弱さや責任を認めるということである。
例えばカップルが路上で痴話げんかを起こしていて、それが暴力につながりそうな場合、あなたはどうするべきか、力の強いであろう方を殴って倒す?警察に通報する?それとも見なかったことにする?いずれもあなたの置かれている状況においてできる範囲であれば問題ない。しかし、その結果は誰もしらない。その結果殺人罪で起訴れることになろうと、カップルのどちらかが死のうと、あなたはできる限りのことをしたのだ。それ自身を何人たりとも責めるべきではない。
より言ってしまえば、善きサマリア人により善くなるよう求めるというのは、みんなが大好きな言葉で言えば呪いである。
口臭の話にもどって申し訳ないが、口臭に関する知識を得たとしても、本人の口臭は改善しないし、ある人の臭いに対しての嫌悪感は薄れない。それはわたしが納豆をどんなものか理解しても苦手なのと同じだ。口臭が出る人間がいるのであれば、当然口臭が嫌いな人間もいるのである。それは認めなければならない。もっとも必要なのは口の工事をするためのお金で、お金を与える非営利団体があったり、そこに寄付する人があればよいのだ。多くの人は、なんとなくな気持ちで100円を寄付すればそれでうまく回るはずである。でもそれはむつかしい。世の中にはなんとなくで100円寄付するほど余裕のある人間は少ないからだ。しかし、それすらしょうがないことなのだ。
口臭の例えがピンとこないのであればホモオダホモオ問題だってそうだ。ああいう、ゲイの記号化は問題だといっても、実際そういうゲイがいたときに、それはホモオダホモオ的ゲイの否定につながる。あれについては、単純にああいうゲイでない人もいるのに、そういうステレオタイプを適用されるのが不快であるという表明で十分だったのである。つまり必要なのは、ホモオダホモオ的ゲイ以外のゲイについて知るガイダンスだった。いや、その考えすら疑う余地はあって、もっと単純に私はそういうゲイではないという表明かもしれないし、私はホモオダホモオ的見た目であるがゲイではないという表明かもしれない。いやいや、それすら疑う余地があって、もっともっと簡単に「なんかちがう」という言葉だけですんだのかもしれない。私たちは常に傲慢の気がある。いやいやいや、その傲慢の気という考えも、より善きサマリア人を求める姿勢なのかもしれない。いやはや、これはずいぶん苦しい考えで、善きサマリア人のたとえにもどれば、実際はここまで悩んで発話する必要はないのだと思う。すでに私たちは苦しいのだから。
とにかくできる範囲でいいのだ。一神教の話を持ち出してなんだが、捨てる神あれば拾う神ありだ。私たちは結果にコミットしなくてよい。神である必要はない。できれば拾う人でありたいという気持ちで十分なのだ。だってそれで機能する社会というシステムがあるのだから。
私たちは社会には所属しているが、私自身が社会ではない。その社会だって枠組みでしかない。
私たちは、個人で人を助け、それが無理ならば、社会というシステムに乗っかって人を助け、それが無理ならば、なんだろう、もっと大きな仕組みに従って助ければよい。それが善意であるし、その姿勢が大事なのだと思う。むしろ問題なのは、善きサマリア人に対してもっともっとと求めてしまう気持ちだったりする。その気持ちはわかる。わかるのだが、できるのであれば、その気持ちはしまっておくほうが、きっと苦しみは少ない。
だから私たちは、望むべき助けがある場合に、他人を責めるのでなく。助けるっていいね!と提案すべきなのだ。しかし、この文章も押しつけがましく。その実行は本当にむつかしいこととしか言いようがない。
ちなみに重くなってしまうかもと思って表明しなかったが、私は発達障害でバイセクシャルでパニック障害もちで何より口が臭い。プライドが高く臆病で死ぬこともできない間抜けで、今もゴミだらけの部屋の隅っこで体育座りをしてキーボードを打っている。それでも、誰かに助けてもらったり、親切にしてもらうことがあるから、こんな安い、なんの助けにならない文章を書いているのだと思う。これが私の醜くつたない処世術なのだ。