はてなキーワード: やらないからとは
すきえんてぃあ@書け@cicada3301_kig
ひろゆきも暇空茜も「プライドを必死に守るため弱そうな他者を選んで罵倒することで自分を権威付ける」ムーブをやらないから悪印象がそんなないんだよな。過度な自信家だがナルシストではない。
https://x.com/cicada3301_kig/status/1825756508526883028
鉄のカニ🌈@crab_of_steel
西村博之は沖縄の辺野古基地建設反対座り込み、暇空茜は女性支援団体児童支援団体など、それぞれネット民から「胡散臭い」と叩かれやすい大した権力のない人たちを罵倒なり嘲笑なりしておりますが……?特に暇空にタゲられてる学生さんなんてどこが強いんだよ。
目玉付いてるか?機能してるか?
https://x.com/crab_of_steel/status/1825864016901660727
すきえんてぃあ@書け@cicada3301_kig
本書は、3年毎日に連載されている「これはあれだな」の中から選ばれた文章を集め、過失したエッセイです。
「これはあれだな」とはどのようなコンセプトのコラムでしょうか。
何か気になった事件や本、作品などがあったら、それについて書くのが普通ですよね。それだけじゃ面白くないので、過去に同じようなことがなかったかと探し当て、その二つを比べて何が変わって何が変わっていないかを考えるというのがコンセプトです。
つまり、例えば文学作品であれば、文学作品と何かの映画とか、100年前に同じようなことがあったとか、こういう事件があったけど、50年前に全く同じようなことがあったよね、といったことです。だから、ジャンルが違う場合もあって、例えば映画と最新作のアニメでは、これどこかで見たことあるなと思ったら、80年前のあの映画と同じことをやってない?ということです。
パッと5、6個思いついて「これならできそう」と思って始めたんですが、途中で「大変だ」ということに気づきました。少なくとも二つは見つけなければならない作業であることに10回目くらいで気づいたんです。普通は一つの話題で済むところを、必ず二つ見つける必要がある。多ければ多いほどいいんですよ。例えば今と大正と明治で同じようなことがあった、とか。
時代は変わらないね、というのは面白いんだけど、めちゃくちゃ手間がかかる。読み直しを結構確認しなければならないですからね。一応記憶に頼って「こんなことあったな」と思い出しても、記憶も曖昧になってきます。でも、本当にこれ面白いんだと。途中からは大体ストックがあって、これは似てる、逆に今のこれがあれだけど、あれから発想する場合もあるんです。昔こんなのあって、こんな面白いものって今にはないかな、と。
そうやって見ていくと、最近の若い人の旅に出た記録が1000年前の元神尚の記録に似てるとか、1500年前のものとそっくりだ、とか。そういうふうにしていくと、結構いろんな時代に似たものがある。特徴性が被るものがある。だから、時代にそういうものを生み出す必然性があるっていうことを考えると、話としては面白いんで、ただ手間がかかる。
今回本にまとめられたのも、別に今回が初めてではないです。これで3冊目です。毎週締め切りがあると憂鬱になっちゃう。まずこれを見つけるでしょ?で、あれがなきゃダメなので、どんなに面白くても「これ面白いんだけど、ペアになるものがいないよね」ってなると、できない。
そもそも、ご自身の文学作品を作るっていうのも、アイデアを出さなきゃいけない。アイデアはひねり出すんですけど、あれを見つけるっていうのはなかなか難しい。でもやっぱりコンセプトが光ってますね。やっててうまくいったときは「これ、よく見つけたな、自分でも」って思います。
あの、本書の前半では、2022年9月13日のフランスの映画監督ゴダールの死について書かれています。高橋さんにとってゴダールはなぜこれほど特別な存在なんでしょうか?
これは世代的なもので、僕の世代で芸術、音楽、映画、文学が好きな人でゴダールに影響を受けていない人はいないと思います。
当時はSNSもないし、情報だって今ほどは入ってこなかったから、例えば映画のニュースもなかった。テレビのニュースもやらないから、どこで知ったかというと、映画雑誌とか、映画芸術とか、そういうところにちょこっと載っていて、新作が出たって今だったら全部SNSでお知らせが来るんでしょうが、そういうのがなかった。だから新作が出たって言っても、日本公開がいつかはわからなかった。
僕は映画だと、アートシアターというのに入っていました。60年代、相当幼い時から、そういう会の会員になって、中学入ってすぐそういう会に入った。だから映画もクレイジーキャッツからゴダールまで一緒に見ていました。そもそもそれを分けて考えるのはダサいって感じだった。
しかも極端なことを言うと、芸術ばかり見ていると馬鹿にされるから、逆にクレイジーキャッツとかGSの映画を見ないと恥ずかしいって感じだった。そういう背景の中で、ゴダールの作品はかっこいいと思ってましたね。彼の即興スタイルが特に印象的で、シナリオを書いていかないんですよね。当日、その場でセリフを持っていく。そして基本的に編集で映画を作るというスタイル。
引用が多い。ゴダールの作品は、引用が多くて、ただ引用しているだけのものもある。それはオリジナリティに対する嫌悪なんだと思うんです。オリジナリティではなく引用で作品を作る。だから、過去の世代を否定する度合が一番強いのが彼で、その影響を受けていると思います。
最後の作品についても書かれていますが、イメージばかりが連続してくる、写真がバンバンバンと順番に来るような映画で、画質は必ずしも良くないのに、なんだか異様に綺麗な映像が印象的でした。
どうでしたか?その最終作に対する感想は?というと、ゴダールの作品が好きだなって感じですね。もういい悪いじゃなくて、好きだって感じですね。ゴダールはずっと「映画はテーマがどうとかじゃなくて、90分なら90分、じっとその映画館に座って見ていればそれでいい」と言っていて、ただ画面を見ていれば幸せ、映画ってそれでいいんだ、という考え方を持っていました。
ゴダールは、自分の映画が自殺の映画だと言っていて、主人公が死ぬ映画が多いんです。「気狂いピエロ」もそうだし、「勝手にしやがれ」もそうだし、最後に主人公が自分で目を閉じて死ぬ。あれはすごいなと思う。しかも、あれがデビュー作なんですよ。最後に自分の意思を表現する映画を撮るという意味で、彼の作品は一貫してそのテーマを持っているんです。
「映画史」という映画も撮っていますが、ゴダールという監督は、常に作品と現実の境界を取り払うことを考えていたんです。作品と現実が別々のものではなく、その境界を取っ払って、映画館で観ている観客に語りかけるという姿勢がありました。
映画の中で、主人公が観客に話しかけるというのは珍しいことではないですが、それを堂々とやったのがゴダール。アメリカでも10年くらい前に「ハウス・オブ・カード」とかで流行りましたけど、ゴダールはもっと前からそれをやっていた。それがかっこよかったんです。
また、魚くんの電気映画「魚の子」や、中村喜子の「女と刀」、植物学者牧野富太郎の「牧野富太郎自伝」などについて書かれた箇所を読むと、一つの観念や興味に取り憑かれて、非論理的であろうが、非経済的であろうが、自分の道を進む人が高橋さんの好きなタイプなのではないかと思いました。そういう方にどんな魅力を感じるのですか?
いや、面白いですよ。単純に普通に面白くないですか?ちょっと病的な感じさえありますが、頭おかしいんですよね。でも、そういう人は見ていて面白いですね。付き合いたいとは思わないけど。
でも例えば、魚くんだと、そこに書きましたけど、魚くんも面白いけど、お母さんがすごいですよね。僕も読んで「あ、そうなんだ」と思いました。魚くんの主人公はお母さんなんですよね。つまり、こういう人はいるんですよ、きっと。街を歩いても変な人はいます。変な人はいるけど、大体は困るんですよね。それが普通で、生きる人の知恵です。普通に生きてるとそうなるんですよ。
でも、時々そうは思わない人が出てくる。だから、変な人も大事なんだけど、その変な人を受け入れる人の方が自由だと思っています。お母さんがそうですね。お母さんは自分の息子だけど、そのおかしさを全面的に抱きしめる。
普通、おかしいって言っても結局排除されるか、直されちゃう。「お前、おかしいから普通にしなさい」と。でも、そのおかしさを育てるというのがすごいなと思います。それは他者とか異業のものを尊重するってことなんですよね。つまり、おかしくても存在意義がある。
これは結局、すべての人に存在意義があることにつながるんですけど、普通の人は存在意義があると認められている。でも、おかしな人とか、魚くんならいいけど、例えば身体障害者とか、知的障害者の人たちは見たくないと思うこともある。でも、それでも家族でも受け入れられない人もいる。
僕も色々調べました。障害がある子供が生まれると、受け入れられる家族と受け入れられない家族がいます。時間をかけて受け入れられるようになる家族もいます。特に父親は最初は受け入れないんですよ。でも、母親はすごいなと思います。お母さんは何でも受け入れるんですよね。
魚くんも牧野富太郎も色んな人が出てきますけど、その面白さとは別に、それを誰が受け入れたのかが重要なんです。牧野富太郎も変人だけど、奥さんが受け入れたんですよね。牧野富太郎は植物愛に没頭する変人ですが、それを受け入れるのは大変なことですよね。
でも、それを受け入れたからこそ、彼の生存が保証されたんです。だから、僕が書いた美方ククスとかも超天才だけど、あれ夫だったら困るよ。でも、受け入れた人がいたから、その生存が保証された。
でも、どうですかね。例えば、牧野さんとか魚くんとか、みんな著名になって仕事に繋がって成功しているけど、そこまでお母さんが考えていたか奥さんが考えていたかは分からないけど、魚くんになれなかった魚くんや、牧野富太郎失敗版みたいな人も絶対たくさんいたはずです。
結局、成功者の影には1000人の失敗者がいると思います。きっとそういう人たちのところにも、お母さんがいたんですよ。でも成功しなかったけど、いいんじゃない、それで。
これでも、親もすごいけど、1000人の失敗した人を見守ってた親がいて、その人たちが不幸だったかっていうと、そうでもない。そういう人たちは必要なんですよ、ということをよく考えますね。
セコさんの漫画「マダムたちのルームシェア」とか、信友直子監督の「ボケますから、よろしくお願いします」、早川知恵監督の「プラン75」など、老いと向き合った作品が多数言及されています。今、世界で最も高齢化の進む国と言われる日本で、高橋さんは何を感じていますか?
自分が年取ってきましたからね。今年で73歳です。もうやばいです。あと2年で後期高齢者です。やっぱり、身体的な衰えを感じます。確実に老いていくのがわかります。それに対して色々と体に気をつけています。
一つは、老いを新しい経験だと捉える感覚です。確かにそうですよね、経験したことないことですから、新鮮です。僕もそうですよ。ちょっと年を取ってきて体が辛くなってくると「こんなの今までなかった」と思うことがあります。
例えば、鶴見俊輔さんという哲学者の方が「限界芸術論」を書かれたんですが、90歳を過ぎて、「今日1日転ばないことを目標に生きよ」と書かれていました。「あ、そういうもんなのか」と思って、わかりました。
転びそうになるんです。僕、スクワットして足腰を鍛えているから平気だと思っていたら、筋肉じゃないんですね。バランスが悪くなっている。神経が悪くなっていて、神経は鍛えようがないから転ぶ。僕は筋力鍛えれば大丈夫だと思っていたけど、そうじゃなかったという新しい発見がありました。
そんな老いを新しい経験だと思って、余裕を持って受け入れることが大事なんです。実際、この国、これは日本だけじゃないと思いますが、68歳、70歳、72歳になると社会の窓が次々と閉まっていく。つまり、色々なことができなくなってくるんです。
例えば、家を借りようと思ってインターネットを引こうとしたら「72歳ですか、ではご家族と契約になります」と言われたんです。「70歳とインターネット契約ができないってどういうこと?」と聞いたら、「こういう決まりなので」と言われて、「おかしいでしょ」と思いました。これってちょっと差別的ですよね。
プラン75もそうですが、年寄りが不要だという考え方があるんですよね。これが寂しいです。今「シルバーデモクラシー」と言われて、年寄りが恵まれていると言われていますが、それは嘘だと思います。年を取ってみたら、社会の窓が閉じていく。シルバーデモクラシーという言い方で、年寄りが恵まれていると若い人に思わせようとしているんです。
でも実際には、全世代がそれぞれ抑圧を受けている。70代以上はこういう抑圧があるけど、20代30代も年金の支払いなど、みんなそれぞれ抑圧されているんです。だから、全世代が連帯しなきゃいけないと思うんです。分断が一番都合がいいから、それをやめるべきです。
僕は政治テーマとして、全世代が連帯すべきだと考えています。知らないかもしれませんが、70歳になったらインターネット引けないんですよ。72歳になったらローンもできないんです。なのに恵まれているなんて、ふざけているとしか思えません。
これは、土線(映画)とかでテーマになってもいい話ですよね。でもそれはなかなか声になりにくいんですよね。40代50代の時には知らなかったけど、68歳70歳72歳で新しい抑圧が出てくるんだな、と気づくんです。
社会ってさ、普通のことは知らせないようにしているんですよね。それぞれの世代とかジェンダーで、社会から抑圧されていることをお互いに調べ合って、連帯しなきゃだめです。
ジャニーズ問題と玉音放送について、高橋さんがテレビ局の幹部たちに「ジャニーズ問題を無視するのか」と質問した時のエピソードについて書かれています。昨年末にジャニーズの性加害問題が巨大なテーマになりましたが、この間、どう感じていましたか?
あそこにも書きましたけど、僕がちょうどBBCが放送した直後に番組審査員を辞めて、最後の番組で「これはダメだよ」と言ったんですが、沈黙がありました。その後、某テレビ局が漫画問題で騒ぎになって、それを良かったと思って続けました。
でも、やっぱりテレビ局は商業放送だから、視聴率が下がることが怖いんですよね。だから、視聴率が下がる可能性があることはなるべく避けたい。僕は怯えすぎだと思うんですけどね。もうそんなに怖がらなくても、普通の常識でやればいいのに、忖度している。忖度しない方が視聴者の指示を得るんじゃないかと思いますが、なかなかそうはならないんですよね。
今と昔を比較して、昔の方が保守的だったかというと、そんなことはなく、テレビ全体は進化している。ただ、メディアが動画サイトやSNSに壊れていく時にどうするかを同時に考えなきゃいけなくなっているので、やることも多いんです。
だから、僕も言ったんですが、面白い動画サイトの番組はテレビより面白いですよ。テレビのバラエティなんてやめたらいいと思います。個人で作っているものでも、ものすごくよくできた動画番組があるんです。それを見たら、テレビはお金も人もあるんだから、もっとできることがあるはずなんですよね。
Netflixのドラマなんかも面白いですよ。コンテンツの中身も含めて、やれることがあるのにやっていない。同じようなラブコメばかり作って、誰が見るんだろうって思います。
江戸川乱歩の「芋虫」を現代では取り上げることがかなり難しいということについて書かれていますが、以前、マルキ・ド・サドの作品を絶賛されていた話もあります。今の時代の言論の空気感についてどう感じていますか?
メディア、テレビ、ラジオだけじゃなくて、小説も含めて、僕がデビューした頃に比べると、だいぶ書きにくくなっています。例えば「ピエロ」って言えないじゃないですか。今では「ピエロレフ」って言われることがありますが、検索しても出てこない。
一番怖いのはこれですよね。こういう名詞ごと削除されること。ポリティカル・コレクトネスで、こういう言葉を使いなさいというのは一つの考え方としてあるかもしれませんが、元々あった言葉が使えないというのは、歴史の捏造じゃないですか。
今、「ジプシー」って言葉も使えないんです。「ロマ」とか言いますが、これは歴史の捏造であり、存在させないという方向に進んでいるんです。例えば、ゴダールの「気狂いピエロ」も、僕はそれを見ましたからね。でも、「ピエロレフ」って言われてもわからない。
ポリティカル・コレクトネスについては、理解できるところもありますが、理解できないところも多いです。多分、それを推進している人も、やっていて変だと思っているんじゃないかと思います。定義や限度が確定していないのが問題で、空気みたいなものだから。
ポリティカル・コレクトネスの一つの問題点は、日本が元々空気社会だから、空気で決めるというのはやばい。ポリティカル・コレクトネスが空気で決められるようになっているのが、日本の事情なんですよ。
上辺だけの議論が多く、社会的な不正義の問題は見ないで、言葉だけで物事を判断する。ポリティカル・コレクトネスは、社会的な問題を言葉だけで覆い隠そうとしているだけです。
その辺が、日本という国は忖度する社会だから、空気を読めということがずっと言われてきて、変わらなかった。変わるかと思ったら、ずっと空気を読んでいる。片方では多様性を唱えているけど、それは言っているだけで、実際には何も変わっていない。
大杉栄についても言及が複数見られます。思想、生き方、性格、私には高橋さんと似ている印象を受けましたが、大杉栄をどのように見ていますか?
大杉栄は、日本でも代表するアナキストですが、やっぱり感じがいいですね。友達になりたいなと思う。問題はいっぱいありますが、女癖が悪いとか、迷惑な部分も多いけど、その一方で愛すべき点がある。だから、あの人は人たらしなんです。
例えば、子育てをしていたんです。普通、政治的な人は政治活動はするけど、家のことは見ない。でも、大杉栄は、伊東のと結婚して子供が生まれたら、赤ん坊の選択をしたり、オムツを変えたりしていた。嫌じゃなくて、それが好きだったんです。
彼の中では、夫婦や男女の形は形式じゃなくて、対等であって、子供だから自分が Permalink | 記事への反応(1) | 08:25
いやほんとに。
そんでそれを子供に教えて覚えるか?っていうと…なかなか難しい。
たまにできる子もいるけどあれどうやって教えるんだろな…?って思う。
うちの子もロングにはしたくないんだけど櫛を入れさすだけでも毎朝言ってもやらないから母がやるしかない。
あとなぜか後頭部を刈り上げろとうるさい。
美容院いこか?って言うと美容師さんにそんなこといえないから母がやれと。
いや無理です…どうやってやればいいかわかんない。
「現実的な選択肢は自民党しかない」とか寝言ホザいて政治に背を向けた有権者の自業自得じゃん。
こうやって「簡単に現状をひっくり返す策があるのにやらないから野党はダメ」みたいな寝言を言う自称現実派ってマジで笑える。
元増田の主張してる事って「自民党の猿真似しろ」ってのと同義だよな
裏金なんかに手を出さず、それでいて自民党すら打ち出せない有効な政策を掲げて、口汚く罵るゴミクズに優しく対応してくれるだけで良い、とかか?
寝言は寝て言えって話だよな。
自民党は泥にまみれることも仕方ないが、それ以外の党は泥にまみれてはならん、みたいなヤツほんと多いね。
都知事選にしてもそうだけど、各候補の施策をキチンと把握してた都民どれだけ居る?
各政党の掲げる政策をキチンと把握して、問題があったら罵倒ではなく真っ当なフィードバックを政党に対して返してる有権者どれだけ居る?
「政治家に責任感を求めるなら、まず有権者が責任感持てよ」って話。
政治家だけのせいにしてる限り何も変わらん。
成人式に行かなかった。
成人式に行くことに特別な意味を感じていない。家族みんなそう。確か兄も行ってなかったと思う。親にも「行く?」「めんどいしいいかな」「そう」くらいのものだった。
成人式に行けなかった、振袖を着られなかった、それが今でも引っ掛かっている系の話を聞くたびに、世間ではそうなのかって驚く。
成人式に特別な意味を感じたことなかったし、ていうか何をするところなのかも知らない。
すごく明確な思想で行かなかったわけでもないから、友達に行く?って聞かれた時は迷ってるって答えてたけど、本当に行ってたら多分パーカーにジーンズみたいな格好で行ってたと思う。
成人式に行けない、振袖を着れないことはとても惨めなことだっていう感性はどこで身につけたの?みんな。
「花火大会行かなかった」くらいの感覚でいるから、成人式行ってないんだーって言うと「あっ……」みたいな気まずい顔をされるのがとても不思議だ。
(追記)
こんなに反応があってびっくりしてます。
やっぱり自分は今でも人よりだいぶ抜けていたり苦手なことが多いので、しっかり勉強してきた人、きちんと仕事をしている人を本当に尊敬しています。文章も下手で恥ずかしい限りです。
大学入学前までは自分とその人たちの違いについて考えると消えたくなり、無気力になっていましたが、大学に入ってやりたいことを見つけて進むことができ、今は自分ができることをやるしかないと思うことができています。
ただ実務的な部分を評価され講師にはなったものの、自分のような人間が指導者の立場としてここにいてよいのか?ということについてはかなり自分でも思っているところで、匿名での授業アンケートを行ったり、他の先生に授業を見てもらう機会があった時には問題がないか伺ったり、かなり気にして見るようにしています。(評価されなければすぐ辞めるつもり)
紹介きっかけで採用試験を受けることになりましたが大学側は面接や書類選考できちんと採用を行っていたと思いますのでそこだけ追記させてください。
(追記おわり)
在学中にはFラン大学って言葉はあまり意識してなかった気がする。スマホもまだそんなに普及してなかったし。卒業後Twitterを見てたらFラン大学一覧みたいな画像には必ず自分の出身大学が載っていたので、自分はFラン大学(といわれる学校)の卒業生なんだ!とびっくりした。
•大学どこ?って聞かれて答えても相手はほぼ知らない。毎回気まずい。
•入試ほぼ全員受かった
•1年の最初に「大学のやり方」みたいな授業があり、レポートの書き方や提出期限をすぎるとだめなことなど教えてくれた(この内容で単位もらえる)
•外国語の授業をとらなくてもよかった(かわりに国語の授業?があった気がする)
などなど。
自分は高校の勉強に全くついていけてなかったので、簡単な入試や、大学のやり方の授業などめちゃくちゃ親切に感じて、初めて学校っておもろい!と思った。苦手な英語の授業で当てられて恥を書くこともなくて、かなり精神状態がよくなった。
高校在学中の自分はかなり落ちぶれているという認識で、周りからもそう思われてだと思う。赤点だったし成績は最後から数えて20番目とか。不良じゃないのに、学校にも毎日いるのに勉強できなくて鬱っぽくなってた。
でも大学は毎回出席して課題を出せば優等生、さらに教授とコミュニケーションを取ったり積極性があればすぐクラスの上位にいけるので、自己肯定感が育った。課題についてやり方がわからなくても、聞けば教授が親切に教えてくれるのでかなり助かった。(多分慣れっこなんだと思う)
ここで初めて「がんばるのっておもろい!」となった。
インターンも誰もやらないから応募したら希望したところに受かるし、図書館の希望図書(欲しい本をリクエストして、通ったら買ってもらえる)もほぼ自分しか出してないようでかなりの冊数買ってもらっていた。
就職活動ではFラン大学ということもありESが全然通らないという苦しさを味わうけど長くなるので省略。自己PRは大学でのインターンやコンペなどの活動のおかげであんまり苦労しなかった。それでも就活はかなり難航したし、することもわかっていたのでここはかなり早い段階から就活専用の塾にいったり対策していた。それでもだいぶ泣いた。
結局地元の中小企業に内定をもらって、10年ちょっと勤めた。最後の年収は600万くらいで、実家にいてお金が貯まりがちだったけど家にいれる以外使い道もそんなにないので投資信託に入れていた。
大学の教授がみんないい人で、SNSや年賀状のやりとりが今も続いており、会社を辞めた時に声をかけてもらって今は講師として働いている。講師になってわかったけど教授のみなさんめちゃくちゃ高学歴。大学の教授やからそりゃそうか…だから在学中質問してもみんなわかりやすくいろいろ教えてくれたんだな。
今はあまりお金にも困っていないし、ありがたいことに周りの人もすごく優しいし、あの時この大学に入学してほんとうに人生変わってよかったなぁと思っている。大学在学中に、やりたいことも好きなことも見つかった。
XでFランは無くすべきという意見を見るたびに、救われた自分のような人もいるんだけどな〜と思うので書いてみました。
個人的には受験というシステムや偏差値の高い大学が合う人間ばかりじゃないと思うので、自分にあったとこに行くのが大切かなと思います。
Fランの中でもここに決めた理由はオープンキャンパスで学生たちがたのしそうだった(出し物とかいろいろしてくれた)みんな仲良さそうだった、教授たちが優しく真面目そうだった(not無気力感)などなどでした。
文章書くの下手なので読みづらくてごめんね。
あのPVがマズイというのは分かるけど
「そういう意図は全くなかった」
って言ってるのに
自分の意見ありきでPVを隅から隅まで調べ上げて証拠としてでっち上げてる
そういう風に見ればそういう風に見えるっていうだけ
もし仮にそういう意図があったとして、金かけてPVを作って全世界に公開してコカコーラとタイアップとかあり得ないでしょ
どういう考えしたら「確信犯だ」ってなるんだよ
って聞いたら9割ぐらいは偉人って答えるような教育がされてきているわけで
そういう環境の中で育ってきてああいうPV作るのって別に全然あり得るわけで
ただ周りの人間が「これはマズイんじゃない?」ってしっかり言えるべきだったと思う
まぁアーティストの行動を制限するってのはあんまりやらないからしょうがないと思うけどな
とにかくこれはマズイPVだったけど削除されて謝罪もしたので話題としては終了、でいいんじゃないの
逆にそれで終わらせない人は何をしたいのか分からん