はてなキーワード: やらないからとは
高校ん時行った家庭科の強制ボランティアで、人が話してる時には相手の目を見ろって注意された。社会性に関する指摘においては非常に素直なので、それ以来かなり意識的に実践してる。
10年近く経った今でもまだ慣れない。ゲームで水中入った時の酸素ゲージみたいにストレスがキューーーッッッと上昇する。適宜目線を下げてゲージを回復させないと無理。
必ずしも目を見なくとも鼻の辺り見てればいいとかネットで見てそれも実践してみるけど、あんまり変わらんような気もする。
胸元開き目の相手だとあんまり目線を下げてもアレなので、回復度の低い首か顎辺りまでしか行けなくて疲れる。おれは性欲を隠すのがカッコいいと今でも全然思ってるし、チビ(事実)とか陰気(事実)とか言われても別に構わないけれどガッついた人間だと思われるのは嫌だ。
常日頃からしっかり目線合わせてたら気が狂うので面接とかタイマンの面談とかの場でしかやらんけど、常日頃からやらないから慣れないんだろうなと思う。
個々人でそれほど
大きな差があるわけではない。
大抵は
出来る出来ない
ではなくて
の問題だ。
(どんな勉強法でもいい)
誰だって喋れるようになる。
言い方を変えると、
たまにホッテントリに英語の学習法が出てきても、それをやることはない。
ホッテントリにあがるくらいだから、それなりに関心は集めるがやらない人のほうが圧倒的に多い。
やらないから出来ない。
これは何だってそうだ。
一般に単純作業と呼ばれるものでの成果はこれがもっと顕著になる。
じっと我慢強く、「やる」ことが出来れば、その作業の成果は大きくなる。
しかし、出来ない、いややらない。
やることができない。
これがつまり才能がない、ということだ。
いや、もちろん正確には違うし間違っている。
本当の才能というのは、やってやってやってやってやってやってやってやって、さらにやって
それでも出来る出来ないの差が出るものが才能ということだ。