はてなキーワード: 陣痛とは
私の親は、今でいう「毒親」だったと思う。
小さいころから、母親が父親を嫌っていて、昼夜構わず目の前で喧嘩した。父親の声はほとんど聞こえなかったけど、母親の金切り声をよく覚えている。
父親の実家で祖父母と同居していたのだが、そちらとも母親はそりが合わなかったようで、空気はいつも良くない。
母親は、自分のペースや考えていることに合わせないと、その他の意見を総批判。吐き捨てるように批判してくる。
小学生の時、鉄棒の前回りが怖くて出来なくて、やれるまで帰るなと公園に置き去りにされた。夜暗くなるまでやらされたけど(一人で)怖くて出来なくて泣いていた。
母親から褒めてもらったことは覚えていない。けなされた(バカにされた)ことは覚えている。
そしてそんな状態の私をかばってはくれない父親。「お母さんは怖いな」くらいしか言わない。喧嘩せども最終的には言いなり。
喧嘩していた夜は、違う部屋に移って扉を閉めていてもうるさくて怖くて、布団をかぶって「早く終わって」と泣きながら耐えていた。
母親と違う意見を言うと、「~(持論)~じゃない。(当たり前でしょ)バカね」見下す視線付き。
歩くペースや乗る電車など、もう少しゆっくりでもいいじゃないと思いゆっくりしていると、母親はイライラするのか「グズなんだから」「ノロね(ノロマね)」と言ってくる。母親は悪びれもせずに言うが、言われるたび辛かった。
母親から聞く悪口に洗脳され、反抗期もあったせいか父親と祖母のことを邪険にした。母親のことも好きじゃなかったけど。
彼女から愛情を感じたことはない。自分の思いどおりにいかないから怒る。そうとしか思えない言動の数々。
そうした環境が嫌で、高校生の時一度バイト上がりに深夜まで友達と遊んでいたことがある(連絡はいれていたが「帰ってこい」の催促を無視していた)。
家に帰ったら母親に盛大に泣かれたが、私が「兄は遊んでてよくて、どうして私はダメなの」と問い詰めたら何も答えずに「出ていけ」とのこと。多分、兄があまり注意を受けずによく遊んでいること、普段から兄びいきの発言が多いのでイラついていた、それについて問いただしても納得のできる言葉をもらえなかったこと、その辺の複合的な心情が爆発したと思う。
「心配するから」の一言があれば謝るつもりだったが、何も答えてはもらえなかった。
母親は頭ごなしに意見をし、理由を説明しないことが多い。「なぜ?」と問うても「そうだから」と答えになっていないことが多い。
「好きなようにしていい」と私には言うくせに、母親には基本的に逆らわない父親。結局折れる。奴隷。
季節は冬、ラジオの早朝英会話教室みたいのを聞いていたことがあって、ラジオは両親の部屋にあったから聞きに行ってたが、寒いから布団に入れと両親それぞれに言われ、困ってどっちの布団にも入らなかった。その時ほど面倒なことはなかった。最初は良心からだったのかもしれないが、次第に相手に対抗してどっちの布団に入らせるかムキになっていた。くっだらない。
車の免許を持っていない母親は、車を運転することでの疲労や維持する費用やガソリン代のことをまるで考えない。父親は運転するのが好きだったのか、数時間程度なら休憩なしでぶっ続けで運転していた。それをこっちにも要求してきた。疲労感やあなたの足ではないからねとどんなに説明しても理解はしない。
私の出産の時、初孫で浮かれていたのか、次の日にさっそく病院へ。夕方の出産でお風呂にも入れていなく、前日までの長い陣痛で数日まともに眠れていなかったが、まぁ孫に会いたいだろうと12時に来るように言ったが10時に来た。来たら1階まで迎えに行くと言ったが(病院は1階が診察室で2階が病室。お見舞いは基本的に入院してる人が1階まで迎えに行く)そんな早くに来るとは思わなかったからちょうど風呂に入っていた。迎えに行くつもりだったから病室も教えていなかったがアクティブにずかずかと病室を聞いて上がってきていて(1階の受付はほぼ診察の人用でまぁ話しかけづらい雰囲気だったけどそんなの関係ない人なので)、風呂のあと仮眠したかったが叶わず、夜まで居座られ大して眠れず。病院の決まりで子供を抱けない、写真も近くで撮れないと知り露骨にがっかりし、ずっと私の病室で私の見ていないTVをひたすら見ていた。帰れ。
「普通は里帰り出産するでしょ?でもしなかったから、二週間くらい孫ちゃんとこっちおいでよ。行きと帰りは夫くんに車で送ってもらってさ」
その理屈はなんだ。あなたの普通は万人の普通ではない。ましてや私の普通でもない。二週間って別居でもあるまいし通常の家族が「実家に帰るね~二週間くらい☆」な気分でそんなに離れるか。乳児も連れて。私は嫌だ。それに行きと帰りだけ夫を足に使えというのか。結構な距離を。
当然断った。
もういい年だから、親のせいにしてはいけない。自分の意見がないのも、あっても言えないのも、周りに合わせることを第一と考えるのも、決断力がないのも、怒る怒られるということに極端に恐怖するのも、誰かの怒鳴り声でもパニックを起こし過呼吸になるのも。
でも、私は自分の子供をこうにはしたくない。同じ思いをしてほしくない。やっぱり大事だよ、生まれてからの18年あまりは。一生の性格を培う。人一人を歪めかねない。
>マリファナは恒久的に人格に影響を与えると思う?その時限りは除いてね。
酒程度には人格に影響あるとおもうよ
でも人格って何?って思った…
性格ってこと?
人格でいったら精神病治療のための処方薬の方が影響あるとおもう
あと陣痛促進剤はやばかったな、あれは人を殺したくなるくらい殺気立つわ…
>あと依存性が低いみたいに賛成派の人は言うけど、それも話半分だと思う。あんだけ吸いたがるんだからやっぱりある種の依存性はあると思うよ。
酒とかたまに飲みたいなーっておもう人と、毎日飲まなきゃやってられないって人いるじゃん?それと同じに大麻もたまにでいいやって人もいるし、生活に欠かせないっていう人もいるとおもうよ。
中の人が大暴れしてお腹が波打とうが構わずよく眠っていた私が、ついに腹痛で夜中に目覚めた。
妊娠10か月。初めての妊娠。3日前に診察を受けたときは「当分産まれないね~」なんて先生に言われたけれど、痛いものは痛い。
実はここ数日断続的に生理痛のような痛みがあったけれど、臨月になるとよくある現象のようなので、へぇ~と思いながらやり過ごしていた。
昨日の午前中に少量の出血と生理痛のような痛みがあり、病院に電話するととりあえず様子を見るように指示を受けた。
昨日の夜、旦那とおっさんずラブを大爆笑しながら鑑賞して、そのあと旦那とスプラトゥーンをやって、お腹痛いなと思いつつ残り少ない2人だけの土曜の夜を楽しく過ごしていた。
ベッドに入ってすぐ眠ったが、夜中の3時半にお腹が痛くて目が覚めた。
腹痛は1分くらい続いて、そのあとは何事もなかったかのように痛みが引く。
「陣痛」ではなく「腹痛」と書いているのは、初めてのことでこれが陣痛かどうかまだ判断がつかないから。
とりあえず、「陣痛が来たら時間の間隔を計ってください」と病院で言われていたので、時間を計る。
今は陣痛アプリなるものがあり、お腹が痛くなったら画面をタッチするだけで陣痛の間隔を計ってくれる。便利。
今のところ、腹痛の間隔は10分を切ったり切らなかったりする。
念のため病院に電話したら、明確に間隔が10分を切るまで様子を見るように言われた。
もう寝るのはあきらめて寝室を抜け出し、お腹が痛くない合間にこの日記を書いている。
5chに投稿しようとしたら文字数オーバーだったので記録として。
36w入った頃から朝のみ前駆陣痛有り。36w3dでおしるしがあり病院に。経管も平均的で子宮口が開いていないため、お産はまだ先だろうとの判断。
その日の深夜から前駆陣痛が続き、翌日朝再度病院に。張りは弱めなものの、子宮口が2cm開いているということで入院。その日の夕方には更に3cmになっているが、陣痛の時間は不規則。正産期前のため促進剤も使えず、張り止め等を出す時期でもないということで長期戦を覚悟。夫を帰宅させる。
ただ深夜、痛みは順調に増していき、36w5dのAM4時頃には子宮口も5cm開く。8時前に夫が病院に到着。その頃には3分間隔の陣痛でのたうち回る。美味しそうな朝食を夫に託し分娩室へ。それからはスピーディにお産が進む。途中で点滴が正しく落ちてないことがわかりだいぶバタバタする。なんとか点滴を直したところで先生が到着。器具を使って破水させてもらい、数回いきんだ後会陰切開をして出産。最後の方は関係のない点滴を直すために来た看護師さんにも手伝ってもらい、ありがたかった。
早産になってしまい不安に思っていたもののいざ生まれるとほぼ3キロ!予定日まで入っていたら大きすぎて難産だったかもしれない。今のところ健康状態も良く、なんて親孝行な子なんだろうと感動。
また、痛みと痛みの間の時間は冗談を言えるくらい余裕があったことをスゴイと言ってもらえて少し気分が良かった。でもあんな痛い思い二度とゴメンだ。
今日はよく頑張った。明日からも頑張ります。我が子もよく頑張ってくれました。生まれてきてくれてありがとう。
夫、ギャーギャーわめく汚い私に引かないでくれてありがとう笑。引き続き宜しくね。
流産が発覚してから手術日まで4日。その間に子どもは自然に流れてきてしまった。
既に出血が始まっていてこのまま自然に出てくるかもと言われたけれど、前回の流産はまったく出てくる様子がなく結局手術になったので、まさか本当にそうなるとは思っていなかった。
出血し始めて2日後、だんだんお腹が痛くなってきた。常に痛いわけではなく、数分重い生理痛のような痛みがあり、その後10分くらいはなんともなくなる。そしてまた痛み始める。その繰り返し。
次に痛み始めたときにスマホを見て時間を見、続く時間を測る。そして収まった時間と、再度始まった時間を見る。
間違いなく規則正しく痛みがきている。そしてだんだんその感覚が狭まってきている。
医者にお腹がいたいときはもう鎮痛剤を飲んで良いと言われていたので、ロキソニンを飲んだ。生理痛のときは毎月お世話になっている。
わりかし重い方なので飲みなれている。だいたい15分くらい耐えれば効いてくる。
今回は陣痛みたいなものとはいえ赤ちゃん自体の大きさは6週目。2cmくらいだと聞いたので鎮痛剤が効くだろうとタカをくくっていた。
いや全然効きませんがな。飲む前が10だとしたら9くらいにはなったけれど全然痛いですねこれ。
世の中のお母さんはすごいな。
布団の上でのたうち回る。脂汗ダラダラ。だめだとは思ってたけれど、耐えきれない痛みに涙目になりながら、収まったすきをみて最強の鎮痛剤であるボルタレンを飲む。
そういえば生理痛を癒やすためにロキソニン飲んでからお風呂に入ったりしてたな、と思い出してお風呂を沸かす。
あとで掃除が大変になるとはわかっていても入らずにはいられない。
暖かい湯船に入るとなるほど確かに少し収まったような気もする。ただやっぱり痛い。のたうち回る場所が布団からお風呂に変わっただけだった。
顔が汗びっしょりで気持ちが悪い。また痛みが収まったすきをついてシャワーで洗顔する。泡立てている間にまた痛み出してうずくまる。
うぐっ!!!!と声が出るほど大きな痛みがきた瞬間、さっと痛みがひいた。
何かが流れ出てきた。
間違いない。これだ。
腹痛はウソのようになくなっていた。
その後手術日に術前診察を受けると、やっぱり赤ちゃんはいなくなっていた。出てきたものを病理検査に出すからと言われていたので私はもってきていた。
先生がそれを見ると、ああこれだね。よくがんばったね。
1番いい形で終われたね。手術をするより自然なほうが体には良いしすぐに子作りできるから。と励ましてくれた。
虚しかった。
1回目の流産はそこそこ自分の気持の整理がつくのが早かった。私の母、祖母、叔母、そして義母も1度は流産経験があったからだ。その話を聞いていたし、流産の確率は15%と結構高いということも知っていた。
不妊じゃないだけいいじゃない、って義母は言った。そうですねと笑いながら私は心の底でどす黒い感情を押さえつけていた。
酷い話だ。
それから1週間経ったけれど私は回復できていない。出血もそれから数日続いたけど止まり、お腹の痛みもつわりも消えたけれど、今回は精神の回復がうまくいかない。
前は手術だったから生まれた赤ちゃんを見なかった。でも今回は見てしまった。完全にトラウマになっている。
暗くなるまで外に出れなくなった。買い物は旦那と一緒じゃないと行けない。妊婦さんや小さい赤ちゃんを見るとその場で泣き出してしまう。
前はそんなことなかった。今回も覚悟してたしまさか自分がそうなると思ってなかった。
テレビやネットで妊娠・出産のニュースを見るとどうしても耐えきれなくなってしまう。
ついには旦那とおしゃべりするのも嫌になってきている。何気ない会話ができない。YesとNoで終わる会話なら声を出さずに済むけれど、他愛もない会話ができない。
LINEでなら話せるので今はそうしてもらっている。
妊娠が発覚してからとても良くしてくれたのに、なんでこうなっちゃったんだ。
私が手術を受けずに終わったことで旦那も喜んでいたし、早く良くなるように家事は代わりにやってくれているのに感謝の言葉の1つさえ出てこない。
夜になると、所詮他人事にしか思えないよね、あの痛みも、あのショッキングな光景も目にしてないんだし、だから普通に笑えるし仕事も行けるしスマホでゲームだってできる。
なんて酷いことばかり考えてしまう。口がきけなくなってよかったのかもしれない。
でもあんなこと私だけで良かった、経験させたくないなとは思うし、そもそも男だからできないし。頭ではわかっているのだ。
もともと不眠気味だったのも加速して今は夜に寝れず、日中細切れの睡眠でなんとかしている。
某所で育児ノイローゼっぽい母親について浮気してるんじゃないかみたいなコメントがされてて腹が立ったので書く。
会陰切開ってご存知でしょうか。私も出産するまで知らなかったので知らない人も多いのではないかと思います。
出産時赤ちゃんがもう出てくるって時に医師が膣と肛門の間(会陰)をピッと切ります。調べたら局所麻酔をしてから切るみたいですが、自分の時は陣痛が痛すぎてなんだかよく分からないまま切るよーと言われてチクっとした感じ。あれそのまま切られたと思ってたけど注射だったのか。
友達は会陰切開が間に合わなくて膣と肛門の境目の深いところまで裂けてしまったらしく、めちゃくちゃ痛かったらしい。そういうことにならないために先に切ります。
無事生まれたら医師が切ったところを縫います。そんで、この後ずっと股がめちゃくちゃ痛い。人によると思うけど私は3週間は痛かった。塗り薬をもらって毎日塗ってたけど、塗るときもおっかなびっくりだった。産後は円座クッションが必須で病院の授乳室にもたくさん置いてありました。産後初回のトイレは恐怖と痛みがすごかった。
強い痛みが引いてからも少しの痛みと違和感が続いていて、とてもセックスをしたいとかそういう気分にはなりませんでした。産後のホルモンバランスとか授乳による乳の張りとか他にも理由はあると思うけど。産後は入れるところが痛いんだよってことを伝えたい。
09:30
今朝起きたらまた鮮血のおしるしが出ていた。
前駆陣痛も続いていたから、「がんばっていたんだね。残りはお母さんやみんなでサポートするからね」という気持ちで家を出発。
快晴でとてもいい日。
10:00
到着後の内診でかなり子宮口を強くかき回して刺激され、その刺激で破水。
周りのスタッフさんが若干わたわたする中当人は「ああ、これが破水なんだ……」と思っていた。
そこから、部屋に移動して促進剤投与を始めた。
促進剤は、それによって産まれる、という効能ではなく、子宮を柔らかくして子宮口を緩めてそこから陣痛を呼び込むためのものだそうで、20からstart、120まで上げても進まない人もいるよー、と。
とにかく無事に産まれられれば、と、「何でもいいからお産に繋がりますように」という気持ちでどんどん追加されていく促進剤の値を見ながら過ごしていた。
11:00
胎児の心拍が落ちることが何度かあり、酸素マスクをつけて深呼吸をする時はさすがに緊張した。
でもまた数値が戻ったのを見て安心して「私がリラックスしなきゃ子宮も柔らかくならない」と過ごしていた。
15:00
100あたりまでは前駆陣痛の痛みとあまり変わらなかったけど、そこからは前駆陣痛は越えた痛みが始まった。
17:00
看護師さんに「今日は一旦終わりにして様子を見て明日またやって、経過によっては帝王切開で産んであげることになるかもね」と言われて投与は一旦stopした。
投与してもあまり変わらず、「私が堅いことで子宮口が開かないんだ」「私がリラックスできないから入院の日が増えてお金をかけさせてしまうんだ」と「私のせいだ」の思考が一時止まらなくなって涙が出た。
胎児の心拍が落ちること、胎便が羊水にかなり混じっていること、心拍が急に上がること、陣痛がこないこと、いろんな焦りや不安に対して「母の私が◯◯しないからだ」という思考が出てしまったけど、そんな中でも夫が一緒にいて笑ってくれていることに本当に救われて、いろんな不安もあったけれど1日過ごすことができた。
20:00
母が夫を迎えにきて帰宅。体勢変えたりしながら、落ち着いてから21時過ぎに寝る体勢に。
21:08
何人も看護師さんが入ってきて再度酸素マスクをつけ、内診をしてもらい、「もう赤ちゃんの負担が大きい」ということで、クリニックの先生にも診てもらった上で、緊急帝王切開をして胎児を出してあげることに。
21:32
酸素マスクをつけて深呼吸をして「帝王切開になります、急いでパパを呼んで」と言われ、さすがに焦りすぐさま夫に電話をして来てもらい。
色々なリスクの説明も受けたが、もう皆どうでもよくて、ただただ「無事に産まれられればそれ以外は私の子宮やら体やら命やらどうなってもいいから」という気持ちで、早く外に出してあげてほしくて、急ぎ足でope室に入って横になった。
22:00
何かの数値に対して先生やスタッフの方々が緊張した面持ちで観察して指示を出したり動いたりしていたが、あれはなんだったんだろう。
バタバタが続いてすぐには開始しないことに不安を感じつつ、その間に落ち着いて来て「もうすぐ会えるんだ」「やっと会える、がんばろうね、大丈夫だよ」と幸せな気持ちが高まり、ope開始後も私はずっと笑顔で耳を澄ませ。
麻酔が効いてくると血圧の変化によるのか、頭もぼーっとしてきた。目を瞑ることに吸い込まれるような。
コッヘル、クーパー、などの機械出しの指示でなんとなく何を切開しているのか把握しつつ、足から胸にかけての感覚はもうないのに何か自分の中を弄られているような感触に奇怪な感じを抱きつつ。
22:57
胎児を取り出す時になると胴体を中から大きく揺さぶられ(感覚はないけど子宮を直接揺らされているのはすごくわかった)、少し泣き声が聞こえたのと同時に「おめでとうございます〜!男の子ですよ!」と。
その瞬間ザーッと涙が出そうになったものの、最初の一瞬の後に全く泣き声が続かないので瞬時に不安感に襲われ、産まれた喜びを味わいつつもそれだけの気持ちは束の間、取り上げられてもしばらく泣かない赤ちゃんが心配で気が気でなくなった。
自分からは布で隠れて見えないけど、向こう側で明らかにスタッフさんたちが焦って赤ちゃんの背中を叩いて刺激していたり懸命に気管内の吸引をしていたりしている。
先生も、取り上げた後はすぐに私の縫合に取り掛かりつつも、赤ちゃんを見て緊迫した声色と口調で指示を続ける。
「サチュレーション反応しません」「小さい方に切り替えて」「小さい方反応ありました」「こっちはどう!?」「◯◯じゃないよ、そっちを◯◯して」「◯◯さんこっちきて!」と何人ものスタッフさんが赤ちゃんの方から私の頭上まで動き回る。その間も赤ちゃんは泣き声ほとんどなく、たまに「ふぇっ」と聞こえるか聞こえないかくらい。
赤ちゃんが泣かない。泣かない=呼吸ができない。呼吸ができない=酸素がいかない。酸素がいかない=死んでしまう。
一瞬でそんな考えが脳内を駆け巡り、「私はお腹開いた母でも放っておいていいからみんな赤ちゃんを早く助けて下さい!」と叫びたい気持ちを抑えながらこわくて仕方がなくて、「赤ちゃんは大丈夫ですか」と何度か聞いた以外ただただその場を見守っていた。
そのうちになんだか意識が遠のいていくような感覚から強い吐き気が出て何度か嘔吐し、そこからは遠目に赤ちゃんの様子を見つつぼーっと手術の終わりを待つしかなかった。
私の腹部縫合中、赤ちゃんの泣き声が聞こえない時間。きっと数十分あったかなかったかくらいだったろうけれど、この時間がこの1日の中で一番長く感じられた。私には何時間も縫合されているように感じられた。
私の腹部縫合が全て終わり、ope室を出る時にスタッフさんがぱっと赤ちゃんのお顔を私の方に向けて見せてくれた。
むちむちでまあるくて髪がフサフサでかわいい。濃い顔じゃなくて私似?なんて思いながらope室を離れる。
外では夫と母が待っていたけど、熱発もあったからかとにかく頭がぼーっとして「目を閉じたい、でも赤ちゃんが気がかりだ、でも目を開けていられない」というぼやけた意識で過ごしていた。
時系列はきちんと記憶できてないが、部屋に戻ってから夫と母が荷物を運びつつ座っていてくれて、赤ちゃんの顔の話などをした気がする。
自分で何を話したかよくて思い出せないけど、夫が深く呼吸して緊張していたことはすごく覚えている。
今思うと、私は赤ちゃんのことも考えつつ意識がぼやけていたので、その場を冷静に見れていた夫は本当に不安だっただろう。
術後は姿勢の不快さが強く、度々左右に体位交換をしてもらった。
赤ちゃんを救急搬送することに決まったと先生から話を受け、夫たちは救急車より早く出て向かってあちらで対応すると。
お腹を切った身と言えど、この状況で動けず何もできずに横になっているのが悔しかった。
無駄だとは分かりながらも、麻酔で動かない・司令の伝わらない脚先を動かそうと何度もやってみたけど全く足は動かなかった。私の分まで夫に託して手を握ってお願いした。
夫と母を見送ったら一気に意識が遠のいて来て、そのあとまた夫が来たような来なかったような……
そんな中、救急車に赤ちゃんを乗せる直前に助産師さん(看護師さん?)が赤ちゃんを抱っこして私に会わせに来てくれた。
移動前に目の前で会えるなんて思ってもいなかったから歓喜して一瞬で意識が戻り、赤ちゃんをぎゅっとしてちゅーして「がんばろうね!」とほっぺを撫でて送り出した。
涙が止まらなかった。
24:30
サイレンの音の位置が赤ちゃんと私の距離を表しているから、サイレンが遠のいていくと赤ちゃんとの距離を感じて、ただただ「がんばれ!お父さんもお母さんもいるからね」と祈ることしかできなかった。
25:00
その後また意識がぼーっとして、何度か看護師さんが巡回に来てくれたのもあまり覚えていない……
2時台にiPhoneが遠くに移されたのでLINEを確認できずそわそわ。
体位交換をお願いしたりしながらいつの間にか寝ていた。2時間ほど寝ただろうか。
起きてから夫からのLINEに気づき、赤ちゃんが無事なことを確認して本当にほっとした。
こんなに遅くまで夫と母が対応してくれているとは。本当におつかれさま、ありがとう、それしか出て来なかった。
夫から送られて来た赤ちゃんの写真がかわいすぎて、うるうるしながらしばらくずっと見ていた。
かわいすぎていくら見ても見飽きない。早速待ち受け画面に設定した。
夫がもう帰路にあると分かって安心して私もまた休憩。
でも頭が冴えてしまってもう眠れず……
29:00
巡回の夜勤の看護師さん&助産師さん達が検温や創部の観察をしに来つつ何度も話しかけてくれて、明るく笑わせてくれて元気付けてくれた。
もう麻酔は切れていたので、「どんどん回復して赤ちゃんに会いに行こう!」と勝手にベッド上でリハビリ開始。足の指先から、体幹部から、痛み・貧血・血圧を観察しながら進めた。
外が明るくなって落ち着いて来ると、赤ちゃんが無事に産まれてきたことの安堵感、今生きているのかどうかという不安感が一気に現実味を帯びて心に流れて来て、赤ちゃんの写真を見ながら唇を噛み締めて泣いていた。
それに気づいた看護師さんが私のそばに寄り添ってくれ、スタッフのみなさんが赤ちゃんをその後も気にかけてくれていたこと、その方もお子さんが苦しい状態で産まれて来たこと、昨夜赤ちゃんの直後にもう一人赤ちゃんが病院で産まれて、そのあと陣痛の人が来て不思議とお産が重なったことなどを明るく優しく温かく話してくれた。
「泣きたい時は泣いていいんだから。心配だよね、泣いていいんだよ。」と言ってくれて一気に号泣して、話をして落ち着いた。
日勤に交代する時間帯、夜勤の助産師さんが何人か来てくれて赤ちゃんの写真を見て「母そっくりよね!」「かわいい〜❤️」「がんばるしかないね、赤ちゃんくん!」と声をかけてくれた。それと一緒に絶対安心する温かい言葉もかけてくれる。その度にうるんでしまった。
私は術後あまり痛みを感じず動くのが得意なようで、夜中に自分でクッションを動かして体位交換したり足を動かす練習を始めたりしているのを褒められた。
どんどん動いて行くぞ。
https://anond.hatelabo.jp/20171121162134の増田です。
嫁も出産当日(大半は思い起こしながら翌日)に日記を残していたとのことで。
10:00
この日段階で予定日を10日過ぎていた。これ以上は延ばせないということでクリニックに入院開始。診察中に破水し先生方慌てるものの嫁は平常心。
診察の途中から私も参加、促進剤についての同意書にサイン、入院部屋に行く。
3人部屋だがカーテンで仕切られており、なにより今は私ら夫婦しかいない。
窮屈さはないし清潔感あって居心地悪くない。
入って早々地元訛りの助産師さんから説明、促進剤の点滴開始。まずは20mlから。
11:00
自体は当面は動きそうにないので、ここで一人散歩に出かける。薬局でマスク買ってファミレスでカツ煮定食を食す。アラサー、カツ煮定食のコスパに感動。
途中で胎児の心拍低下による促進剤停止という事態があり飛んで戻る。
12:00
嫁ランチ。野菜カレーとカレイの揚げ浸し、スープ、サラダ、パイナッポー。目を閉じ多幸感に包まれながら食事を楽しむ嫁。
あまりに美味し過ぎたためか完食した嫁、お腹いっぱいになりすぎその後やや後悔したようだ。
13:00
Toco値(なんの値かよくわからなかったが出産までの進行度合いと解釈した)を注視してみたが高い値になっても「生理痛よりはマシ」とのこと。
やはり痛覚は個人差あるのかな。
入院開始時は前駆陣痛が5〜7分間隔だったものがこの時点で3分間隔に。まだまだ笑顔。この時点で促進剤60ml。
14:00
2度目の外出。動けない嫁に雑誌を買おうと近くのコンビニを探す。
地元で有名な産科が近いからか出産関係雑誌が1角を占める。澤穂希表紙が目立つ。
めぼしい雑誌はなくクリニックに戻ると駐車場から車が消えていた。どうやらこの日は通院する人が少ないようだ。
15:00
16:00
18:00
嫁と食べ物縛りしりとりをしたりアキネイターごっこをしたりして穏やかに過ごす。
20:00
面会時間が終わったためお義母さんに送ってもらい一時帰宅。明日再度促進剤投与をする方針になった。
21:32
嫁から電話。胎児への負担を考慮して急遽緊急帝王切開を取ることになったと嫁。
一時的に心拍がかなり下がったこともあり無理はできないという医師の判断だった。
急行。
「ハンカチある?ないなら貸すね。何用かって?出産後に感動した時用よ」とお義母さん。ハンカチを受け取る。
22:00
オペの説明を受けて嫁は早速手術場へ。
元々立会い出産を希望しビデオカメラを持参していたが、使うこともなさそうだ。
廊下でオロオロしながら歩き回る昔ドラマでよく見た典型的なパパっぽい感じになる。
22:17
手術開始。手術室前のロビーにてお義母さんと二人。時間が永遠に感じる。
しかし胎児への負荷が大きかったようで、胎児に呼吸器をつけてなんとか酸素補給をしている状態とのこと。
23:50
手術後の胎児に対面する。
顔が青ざめており、ひゃっくりのような小さな呼吸をかろうじてしている状態。
我が子への最初の声掛けは「頑張れ」だった。
産後の嫁に付き添う。労いの言葉も胎児の容態が気になりトーンダウン。もうここは祈るしかない。
しばらくして先生から緊急搬送を取ることにしたと説明。救急車で隣町の大型病院へ。
25:30
お義母さんの運転が優秀だったのか、救急車より早く着きすぎる。書類を記載して提出。
緊急病院の待合室は独特のピリピリ感があって苦手だ。
この日はなぜかオカマさん(顔以外は限りなく女性に近い)がいて視線を奪われる。
26:23
26:33
カンファレンスルームへ。ここからどれくらい待っただろう……時間が永遠のように感じられた。
部屋には山ほどの赤ちゃん関係の本が。その中には「赤ちゃんの死を乗り越える」というタイトルのものもあり思考のネガティヴループが加速する。
気づいたら私もお義母さんも文字通り祈るポーズをとる。ただただ生きていてくれ。ネガティヴモードを振り切ろうと廊下を散歩する。
27:30
病院の看護師さんに呼ばれて私一人でNICUへ。熱を計り徹底的に手を洗い清潔な状態で入室。
胎児は全身を管に繋がれながらもさっきより顔色のいい状態でスヤスヤ寝ていた。なんと可愛い寝顔だろう。
全体的にむっちりしていて丸顔で。天使ってほんとうにいるのだなと確信した。
「触ってあげてください」と看護師さんに促され頭を撫でる。剛毛で真っ黒でややパーマ。これはお母さん似かな。
よく頑張ったねと声が自然と口から漏れた。看護師さんも笑顔だ。
息子は「胎便吸引症候群」により体に強く負荷がかかり、更に肺炎を併発させて窒息ぎりぎり手前状態だったという。
クリニックの先生の緊急搬送判断(別のお母さんがその時間に手術予定だったが、我が家を繰り上げで対応して下さったよう。感謝しかない)、
大型病院のベッド空き状況/立地……などなど様々な幸運が重なったことによって生きることができた息子。
まだ頑張るところだがまずは人生のスタートラインに立てたぞ。本当によかった。
27:50
NICU責任者の先生から契約書類の説明を受けサイン。息子の名前を初めて書面に記す。出生届よりも先に書くことになるとは。
「**(名前、産前にもう決めていた)っていい名前ですね!私の親友が同じ名前なのですよ。いいやつでね……」と先生。この人は信頼できるとなんとなく感じた。
具体的な検査結果は翌AM11時に説明させてくださいと先生。先生も寝る時間がほとんどないじゃないですか……おつかれさまです。
看護師さんから書類を受け取ったのち「忘れてた!」と息子の写真を渡してくれた。
「処置中は目を開けてて「ここはどこなんだろー」って周りをキョロキョロしていたんですけどねー」と目をつむった胎児写真を説明する看護師さん。
ここにいる人はみんな味方だ。
28:30
安心感からか涙が滴り落ちる。自身がめちゃくちゃ強張っていたことにやっと気づく。
iPhoneを起動、嫁と使っていた妊娠/出産情報管理アプリを開くと表紙が親子3人になっていてまた涙。
「ハンカチ、ここで使うべきなんですかね」と涙を拭いた。
その後息子2ヶ月弱の入院を経て帰宅、順調に成長し、障害もなく元気に育ってる。
私:30代前半、初産のため実家に里帰り中、9ヶ月に入るまでフルタイム正社員で働いていて現在産休中
母:60代前半、昨年超初期のがんが見つかり手術入院し半年ほど自宅療養、今は通常生活を送れている、自宅で一日3〜4時間程度仕事をしている
妊娠を伝えた時、母はとても喜んでくれたし、里帰り出産したいと言ったら二つ返事でOKしてくれた。
今から孫の世話をする気満々ではりきっていて、とてもありがたくて嬉しいのだけど、昨年手術入院した影響か、私が想像していたよりも体力が落ちていて、わりと頻繁にしんどい、身体のどこどこが痛い、食欲がわかない、などと言う。
しんどいと言う割には毎日とても几帳面に家事をやっているし、スーパーに一日3回くらい買い物に行ってるし(最寄りのスーパーは品揃えが悪いだの肉がまずいだの言ってわざわざ遠いスーパーまで行っている)まるで手抜きという言葉を知らないようだ。
実家を離れてかれこれ10年近く経つ娘が久しぶりに帰省しているので、余計にがんばってしまうのかもしれないが、私はそんな母を見ていてとても気疲れしてしまう。
赤ちゃんが既に3000gを超えていてかなりおなかが大きいため、私自身は皿洗いか掃除機をかけるくらいしかできないのも歯がゆい。
母は100%善意でやっているし、どちらが悪いという問題ではないけど、本当に疲れる。
孫が生まれる前からそんなにしんどいと言っているようでは、生まれてからもっと不規則で大変な生活になるのに大丈夫なんだろうか…と心配になる(※産後1ヶ月検診までは実家にいる予定)
自分ならこうするけどな…とか、しんどいなら仕事が休みの日にちゃんと休養をとればいいのに、とか、例えばネットスーパーを利用してまとめ買いする等何かしら工夫して家事を簡素化するとか、やれることはあるだろうに…と、見ていてそんなことばかり考えてしまう。
母はそこそこ柔軟な性格なので提案したら聞いてはくれるだろうけど、長年主婦としてやってきた母なりのやり方があるだろうし、口出しするのは何だか違うような気がしている。
そんなもやもやした気持ちでいたらおなかの赤ちゃんにも良くないと思うけど、なかなかうまく気分転換できない。最近は晴れた日に散歩に出かけるのが楽しくて仕方ない。
そしてこの問題は今だけではなく、これから両親が老いていく上でずっと続くということもわかっている(つもり)
予定日まであと約2週間。今すぐにでも陣痛が来てくれないかな、早く産まれてほしいな、と毎日思っている。
今はただ、元気な子を産んで、早く自分の家に帰りたい。
小学生の頃から同世代の異性に興奮して、対象はそのままに自分だけが歳を取っていった。中高生になって回りが恋愛を始める頃でも、同世代以上の女性には興味もわかなかった。自分が人とは違うかもしれないと感じ始めた頃から、周囲が女優やアイドルの話で盛り上がる中、怪しまれないように好きでもない誰もが好きそうなアイドルの名前を出してはその場をしのいでいた。社会に出てからも、表向きはどこにでもいるような流行りの女性が好みだと吹聴しては、周囲には絶対に気づかれないように振る舞い続けた。
自分が理想とする相手とはまともな恋愛やセックスまでのプロセスが通用するわけがない。だから行為に至るためには痴漢か強姦という選択肢しかなかった。もちろん実際にそんなことをしてしまったことなんかない。そうならないために、漫画やそれ風のAVなどで処理をしてきた。
そんな自分にも、子供がほしいという願望はあった。それは間違っても性処理のためというわけではなく、純粋に自分の子孫を残したいという願望だ。適齢期を過ぎかけたころ、見かねた親から提案された見合いに乗っかってすんなりと結婚し、さらに何事もなく子供まで授かることが出来た。見合い相手のことは好きでも嫌いでもなかった。ただ、子供を生んで育ててくれそうだという理由だけで結婚した。性的にも全く興味は沸かなかったのだが、お互い未経験同士だったこともあり気持ちが一向に高まろうとしないことを緊張という言葉で置き換えることができたのは幸いだった。
妊娠後、数回目の通院で生まれてくるのが女の子であろうことがわかった。このときは正直不安になった。この子が程よい年齢に至った時、自分からの愛が親からのものであり続けられるのだろうか。自分の子を自分の子として見続けることができるのだろうか。出産が近づくにつれてその不安は強くなる一方だった。そうしていよいよ出産の日。陣痛より前に破水してしまったことで慌ただしいままに病院に行き、そのまま大騒ぎのうちに産声を聞くことになった。あまりの忙しさと、陣痛促進剤によってあれよあれよと野生を露わにし始める妻を前に、つまらない不安を思い返す余裕などなくなってしまっていた。
看護師の大げさに芝居がかった「おめでとうございます。」という言葉とともに、赤黒い顔に拭いきれない鮮血が着いたまま精一杯に泣き叫ぶ赤子が手渡される。両の手でその重さを実感した途端に、全く意図していなかったにも関わらず目から涙が溢れた。自分の命をかけてでもこの小さな命を守らなければならない。そして、自らの命を危険に晒してまでこの生命を産み落としてくれた妻に対して、いままで持ち得たことのないような気持ちが沸き上がってきたことがわかった。
その日を境に、自分を苦しめ続けてきた児童性愛願望はさっぱりとなくなってしまった。むしろ自らの娘がそうなってしまうことを想像しようものなら胃袋ごと口から嘔吐してしまいそうな焦燥感に駆られるようになってしまった。自らの子供を愛するという気持ちは自らの娘を性の対象として見てしまうかもしれない不安をいとも簡単に一蹴してしまうものだということがわかった。それから数年経ち、娘は小学校に通うようになった。娘の周りには、かつて自分の欲求を刺激してやまなかった年頃の女子たちで溢れている。しかしそれを目の当たりにしても、かつてのような邪な衝動は一切湧いてくることはなかった。むしろ自らの娘を見るのと同様に、彼女らが安全に、健全に育つことを願うようになってしまった。
自らの性的嗜好を棚に上げるつもりはない。しかし、自分の性的対象は気付いたときにはすでに決まっていたものでコントロールできるものではなかったのだ。今だに過去の自分を憎む気持ちとどうしようもなかったと同情する気持ちとが葛藤を続ける日々を送っている。世の中の同じような境遇の人間に自分と同じことが当てはまるかはわからないが、少なくとも児童性愛に対して嫌悪感が芽生え始めていることは確かだ。かと言って自分が普通に女性を愛せるようになったかと言われるとそうではない。いうなれば、児童性愛がなくなると同時に性の対象そのものがなくなってしまったのだ。自らの遺伝子を受け入れ命をかけてまで産み落としてくれた妻には今でも変わらぬ感謝と、一緒に生活をしてくれる家族としての深い愛情がある。しかしそれ以外の感情が一切湧き上がってこない。そのことを妻はこれからも受け入れ続けてくれるのだろうか。