はてなキーワード: 紙芝居とは
そうなんだよな。
伝説という言葉は、伝わるという単語が入っているように、人伝で流れてくるものだった。
ネットに接続したての仲間内でちょっと面白いことを書いてる人がいると話題になった個人ブログ、怪しい奴らが集うという掲示板、そういう文化の情報が行き交うニュース系個人サイト。
そういった界隈で、「これは凄い」という噂が流れては来るが、実態がよく分からん存在だったのが「エロゲ」だったんだ。
「エロゲ」を伝聞でしか知らなかった背景には、売ってない・買うのが恥ずかしい・そもそも未成年・PCは親しか持ってない・オタク差別がまだまだ強かった、といった多くの理由があった。
まだまだ通信販売についてもどこか皆が距離をおいていた時代、割れツールの情報もあまり出回ってなかった時代に置いて、「エロゲ」は「伝説」の中に存在するゲームだった。
膨らみゆく期待はあるが、たかだかエッチな絵がついてるだけの紙芝居、それもバグで下手すりゃHDDをぶっ壊すような粗悪品が混ざっているものを買うのには勇気が必要だった。
だが、少しずつCDの違法コピーやP2Pといった割れの技術が浸透し、同時にオタク趣味が社会で許される風潮が形成されだしたことで、「伝説」が「現実」へと変わりだす。
そうして黄金期が始まったんだよな。
技術的進歩や文化的な偏見によってエロゲに対して膨らんだ期待値が塞き止められていた時代があって、それが開放されたことで爆発的な流れが誕生してんだ。
なんでエロゲが衰退したのかって言われることがあるが、これはもうエロゲが黄金時代を迎えた理由が「溜め込まれた期待値の爆発」であったことを考えれば当たり前なんだな。
もはやエロゲは身近になりすぎて、個人用のスマートフォンに適当なクレカを登録してポチっとすれば買えちゃうわけだよ。
これではフラストレーションも溜め込まれないし「伝説」だって産まれないわな。
ぶっちゃけVRやVtuberについても同じような側面はあると思う。
技術的な成約と偏見によって塞き止められていたものが開放されたことによる爆発だ。
つうか、全てのブームがそうなのかも知れんな。
その辺は俺は詳しくないので詳しい人が語ってくれー
物づくりをする人の中には、アーティストタイプの人とクリエイタータイプの人がいる。
アーティストタイプは「表現すること」自体に重きを置いていて、
クリエイタータイプは「表現したものを通して人の心を動かすこと、表現のその先」を目指している。
アーティストタイプの人は自己表現が目的だから、評価どころか、誰かに見てもらえなくてもいい、見せるために作っているわけではないという人もたくさんいる。「作ること」それ自体が喜びであり、楽しいのだ。
逆にクリエイタータイプは、他人に見てもらってリアクションを得ることが前提にある。広告やweb、装丁など「デザイン」と分類されるものに携わる人はこっちだ。顧客の求めるものに応え、見る人がどういう気持ちになってほしいかを重視して、ものを作る。書籍として販売されている商業作家もほとんどはこっちだろう。(一人でひっそりと作り続けたものがたまたま誰かの目に留まって商品化されるケースもあるので「ほとんど」と書いた。)
私は根っからのクリエイタータイプで、物心ついた頃から絵は描いていたけれど、ただの絵ではなく「紙芝居」や「絵本」や「着せ替え人形」や「塗り絵」を手作りして他人に楽しんでもらうという、ちょっと珍しい遊び方を幼稚園児時代からしていた。絵を描くこと自体ももちろん好きだけれど、それを見た人が喜ぶ顔を見るのが何より好きだった。
同人誌ではよく、「感想をもらって嬉しいか否か」「いつもどれくらい感想を貰うか」のような、感想についての議論が時折取り沙汰される。
人の目に触れる形で世に出した以上、多少のリアクションは欲しいという人が大多数だが、感想はいらない派も少なからず絶対数存在する。これは前述した二つのタイプがあるからだ。
どっちが良いとか悪いとかの問題ではなく、表現のベクトルが違うのだ。
アーティストタイプの人の中には、他者から(たとえ肯定の言葉であろうと)何かを言われた瞬間に物づくりをやめてしまうという人も稀にいる。自分が一人で作り上げた小さな世界に、知らない人が土足で上がり込んできたような、そんな気持ちなのだろう。感想を送ったらブロックされた、お気持ちツイートを書かれた、という人もたまに見かける。
こうやって作り手にもタイプが混在していて、かつ「ネット」というそれが表出しにくい状況だと、読み専で感想を送る側のオタクにとっては、送った方がいいのか悩むのももっともだろう。一度送ったら筆を折られたなんて経験があれば、二の足を踏んでしまうのは当然だ。
ここの見極めは大変難しいのだが──反応がいらないという人は、自分の作品の宣伝や告知をほとんどしなかったり、「感想いらないです」と明言したりしていることも多いので、そこで見分けていくしかない。
ただ、製本やグッズ化などなんらかの形にして即売会で頒布している作家に関しては「見てほしい、リアクションがほしい」人が大多数ではあるので、臆することなく感想は送ったほうがいい、と、私は思う。
私は同人では二次創作BL界隈に身を置く腐女子だが、関東のイベントだとだいたい安定して誕生日席、インテだと繰り上がって壁配置になる程度の中堅サークルで活動している。いつも通販・イベント・再販合わせて一作品500〜1000部くらいの部数を頒布しているが、貰える感想は10以下。内容によっては1つしか来なかったときもある。
来ないのだ、意外と。
本を出すときは「受け入れてもらえるだろうか、楽しんでもらえるだろうか」と不安で仕方ないので、最初の一つが来ると心から安堵する。一つ貰えるだけで飛び上がって喜んでしまう。十通も来たら「今日が命日…」なんて思う。描いてよかった、と自分を肯定できる。
私が送らなくてももうたくさん貰っているだろう、なんて思う必要は全くない。貰ってない。感想を送れ。
また、一度送ったからもういいだろう、みたいなことも思わなくていい。好きだと思ったらその度に伝えていい。
貰う数が少ないから、作家側は何度も感想をくれる人を次第に把握する。HNを書かなくても文体でわかったり、「以前〜というような感想を送った者です」とだけ書いてもすぐに思い出せる。
何度もくれる人にはそれだけ愛着というか、親しみのようなものが湧く。この人のためだけに一冊書き上げたい、何かお礼をしたい、スケブを描きたいから一度顔を出して会いにきてよ、と思うことすらある。
この人だけは絶対にリアクションをくれる、という安心感が生まれる。そうすればそれだけ、作り手は本を出し続ける。
感想を送れ。
…とまぁ、送るか否かで悩んでいいのはあくまで趣味の同人界隈の話で、商業作品に関しては100%感想を送っていい。作家に直接送れないときは、amazonや楽天ブックスなど媒介業者のレビュー欄に書くといい。レビューを読んで購入するかどうかの指針にする人もいるからだ。本が売れないと商業作家は死ぬ。感想を送れ。
感想問題が話題になるたびいつも思う、同人作家かつ商業作家かつ商業クリエイターの三足の草鞋を履いているオタクの独り言でした。
そのことを知らされたのは俺が保育園に来て数ヵ月後のことで、その日は何もかもが不自然だった。
保育士の先生は紙芝居の続きを読み聞かせると言って、俺たち園児を物置部屋へと連れていったんだ。
廊下からして人けがなくて暗がりだったから、みんな怖がって通らないようにしていたんだ。
「入る前に言っておきたいことがあるんだけど……この部屋の二階にはね、とっても“こわーいヒト”が眠ってるの」
先生はおどろおどろしく言った。
「そのヒトはね……青白い顔で……牙があって……人間の血が大好物なの」
勿体つけて、重苦しく、先生は“そのヒト”の断片的な特徴を紡いでいく。
園児の一人が声を荒げた。
「そう、ドラキュラ! 彼は太陽の光がダメだから朝は寝ている。でも、あまり騒ぎすぎると……さすがに起きちゃうかもね」
聞き慣れない情報に正直ピンとこなかったけれど、それでも俺たちは震え上がった。
とにかく恐ろしい化け物が、この物置で眠っている。
非現実的で、捉えどころのない存在が身近にいるかもしれないという感覚。
俺たちが怖がるには、それで十分だったんだ。
「さあ! 紙芝居『アリババと350gの野菜』の続き、読んでいきますよ~」
先生は意気揚々と読み始めたが、俺は終始ドラキュラの存在が気になって紙芝居どころではなかった。
結局、モルジアナが熱々の油で野菜をどうするのかは今でも分からずじまいだ。
倉庫室へは、それからも紙芝居の度に足を運んだけれど、俺は何とか卒園することができた。
この話をすると、兄貴は肩を震わせて笑った。
「真顔で何を話すのかと思ったら……それはズルいぞ、お前……」
俺は戸惑った。
せいぜい口元を歪ませるくらいで、それだって手で覆い隠して見えないようにする。
「何がそんなにおかしいんだよ」
「いや、そのつもりで話したんだろ」
「そのつもりって何だよ」
「ん?」
「は?」
「ドラキュラがいるってのは、ガキを怖がらせて静かにさせるための作り話だろう。あの頃のお前が真に受ける分には可愛いもんだが、今のお前が言うとさすがに……可哀想になってくるぞ」
けれども、兄貴の言い方には向かっ腹が立った。
「ドラキュラを見たこともないのに、何でウソだって決め付けるんだよ」
「見たことないから、いないって言ってるんだよ。お前だって見たことないくせに何を根拠に信じてるんだ」
俺は反射的に噛み付くが、マトモな反論は何一つできなかった。
「千歩譲ってドラキュラがいるとして、それが一介の保育園で眠ってる意味が分からない。そんな場所で紙芝居を読み聞かせる先生のメンタルどうなってんだよ」
「ぐう」
ぐうの音を出すのでやっとだった。
「そこまで言うなら証明してやる! 神妙に待ってろよ!」
たまらず啖呵を切って、俺は家を飛び出した。
極端にモデル化すると 雑魚戦xN→ボス戦 のなかで上限のある資源(HP、MP、アイテム……etc)をやり繰りして何処で資源を集中させて突破するかというパズルゲームなのである
雑魚で資源を使いすぎるとボス戦で火力がなくて詰み、雑魚で資源を使わなさすぎると突破できなくてボス戦にたどり着けない、的なジレンマを試行錯誤で解消するゲームなのだ
しかしながら、ストーリー偏重キャラ偏重の制作がまかりとおり、おっしゃるとおりのヌルゲーからのゲー無となっているものが多々あるのはそのとおりである。
そういうのやりたいなら電子紙芝居形式で充分なのだ……避けられない動画弾丸はいらないのだ……
こういうリソース管理を主体においたゲームはインディーズでポチポチでてきたね
Slay the Spire とかDarkest Dungeonとか
なるほど丁寧にありがとう。
紙芝居とか、引きやバストアップだらけとかじゃなければ結構見れるタイプだから、機会あったらまずざっくり見てみるわ。
金ぶっこんで作画の質だけでも限界突破してれば「内容はアレな作画アニメ」と評価を割り切れるぶん楽なんだろうな。
crybabyはストーリーに関して「原作を初めて読んだときの衝撃を超えるものを作るのはどんな天才にも無理」と完全に割り切って見れたのも個人的にデカかったわ。監督がどう料理してアニメにするのかに集中できた。
完全アニメ化と謳っていたから、原作完全再現と勘違いして不幸になってしまった人がいたのは良くなかったと思うが、あれ自体はとても好きな作品だよ。
BL作品って一部の、それこそ本当にジェンダーや生き方の問題に切り込んだ作品やフリーダムな感じの話を除くと、基本的に属性や展開が決まってることが多いんだよね
そういう話は展開が容易に分かるけど楽しく読める
こういうものを例に出すのは恐れ多いんだけど、なんだろう、展開の分かっている水戸黄門を楽しみに見るみたいな感じだと思う、たぶん
あるいは歌舞伎とか
キャラクターの「役」が、「悪代官」「ヒーロー」「お調子者」「ヒロイン」に分かれていて、必ず仇討ちをする、みたいな
受けとか攻めってたぶんBLっていうフィクションにおける型、つまり装置であって、キャラクター自体がその型と同化して作られているものだと思う(まあ二次創作の妄想は知らんけど)
受け攻め撤廃を改変するっていう意見に反対の声が多いのはそういうところにあるんじゃないかな
そのことについて「キャラクターを人間扱いしないなんておかしい」と捉えるか「BL作品はたいてい日常とは切り離された紙芝居みたいな世界観なんだから現実を持ってきてもしゃあない」と捉えるかは人それぞれだと思うけどね
毎回作るものは紙芝居。選択肢はどれを選んでも大して変わらない。
ここが『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』をリメイクすると聞いた時、がっかりした。
5pb.が携わるだけで質が悪くなるというイメージしか無いからだ。
案の定、出来上がったものは平面で質感のないペラペラなキャラクター。
良かったのは、98版(修正済)の旧版がプレイできることだけだった。
まあ、それもフォントがおかしかったりしたもんだが、それでも旧版がプレイできたのは大きい。
『これだけ』は評価できるが、それ以外は論外だった。
最初から基盤ができていても台無しにするというのは、もはや天才的だろう
こういうメーカーなので、何を出してもペラペラ紙芝居しか出来ないし未だに学習できないというのも天才的だ。
例えばラノベのADVを制作したとしても、基盤は出来ているのに、ただ読むだけのADVとも言えないものが出来上がる。
サウンドノベルとも言えない代物だ。
なんで出来上がっているものを、陳腐なものに仕上げるのかが分からない。
紙芝居にミニゲームが付いた程度で何度も発売延期していた代物だ。
グループ・ユニット名は「仮面舞踏会」とか「笑わないからスマイル(ペコ)」とか「マスク・ド・アイドル」とか、命名センス無いから考えるのやめた
コスは基本はクール系・ゴシック系とか、そんなかんじ、笑わないからそういうのが似合うかなって、これもセンス無いのでスキップ
「笑わないアイドル」なので、とにかく人前で笑顔を見せないことが絶対、ユニット内の鉄の掟
10代前半の女の子を模した人形(という謎設定)がクールな無表情を貫き歌って踊る様はまさに偶像、畏敬すら覚えるその姿にファンは夢中になるのは必定
しかし、その人形の中身とて実際はどこにでもいる箸がローリングで爆笑な(おおよそ)10代の女子達ですから、絶対に笑わないという保証はない
というか絶対どっかで笑う、確実に笑う、俺ですら笑う
だからといって彼女たちが「笑ってはいけない」という鉄の掟を破ってアウトーでいちいち罰としてお尻を棒で叩くわけにもいかない
なので次のルールを追加
彼女たちに「仮面」を常時持たせ、その仮面を被っているときだけは笑っても良いとする
初期案は仮面ではなくて目の部分だけ開けた麻袋を考えて、ギャップ萌えにしようかと思ったが「流石にダサい」と思い泣く泣く変更
仮面を被ることで逆に、クールな無表情アイドルとしての「仮面を脱ぐ」という意味を持つ
仮面被ったら、爆笑良し、大声良し、下ネタもまあ良し、節度を持って
あくまで「笑わない」というのは「仮面を脱いだ」姿の場合でのみ、仮面をかぶればそこには普通の可愛いカッコした女の子、まさに一度で二度美味しい()
仮面を脱いでいるのに笑顔を許されない、つまり「仮面を被って」本性を隠しているという、本末転倒的な矛盾性もまた一興
バラエティ番組に呼ばれても大丈夫、芸人さんが笑かしに来ても対応できる
でも「仮面」はあくまでも緊急事態における救済であり、なるべく仮面を脱いだ状態をメインにしないと顔商売として流石にマズいわな
仮面の使用は節度を持って、過度な乱用を防ぐため、メンバーは基本笑わない子をメインに据える
普段笑わない子が笑いに耐えてるその姿がギャップ刺さるんじゃない?
できる限り笑うな、笑い顔を見せるな、メディアに見せるな、という強い掟の建前、週刊誌で「激写!未成年飲酒!笑わないアイドルが衝撃の笑顔!」と報じられることも期待しつつ…
上記の仮面をMCに被せればええやん、っておもったが、あくまで緊急事態、なるべくかぶせたくないなあ
ということでグループ内に「ある役職」を作ることで、それが解消されることが期待される
「道化」は他のメンバーとは一線を画し、いつ何時も笑って構わない、明るく振る舞う、という役職である
別にバカを振る舞う必要はないとおもう。スポークスマンや紙芝居師みたいな感じを考えてる
そうやって無口でダウナーで落ち着いてしまいそうなグループを掻き回す役目を担うことで、アイドルとしてのバランスを維持できるのではないか
「道化」はちゃんとアイドルの一員の女の子ではあるのだが、衣装が他のメンバーと異なる、ダンスの振付も他と違う、
(大所帯なら10人につき1人の割合で充てるが、同じ舞台には1人までとかの制約)
サッカーのキーパーやバレーのリベロ的な役割みたいなのをアイドルに、という考えなのだが
この役職、頭良くないとできない、目立ちすぎるとファンから反発食らう、メンバー内からも一目置かれ、「道化推し禁止」ルールできるかかもしれない
その分目立つ。流石にセンターはグループの顔になるので笑わない子のうちから選出したいが、そのグループの裏の顔となるだろう
というか他のアイドルグループも「メインの子」と「裏メインの子」っていうのがおおよそいるような気がする
それを公式にやるってのが、今回提案した新規性なのかもしれない
「笑わないアイドル」というメインストリームの歴史を紡いでいった際に、
「唯一笑うことの許されたアイドル」としての歴史にとても貴重な価値観と重要性が結びつき
語彙がなんかそろそろやばくなったので、妄想はここで終了した。
これ間違ったこと言ってないよな?🤔
集英社の人間が非公式と偽りながら東映作品を貶した事は許されないとして、ワンピース含む東映アニメーションに不満を感じている自分としてはよくぞ言ってくれたと内心思っている。
有名な話だけど東映はTVシリーズ1話の作画量に総カット数約300、平均約3000~3500枚という制限をつけている。
ソース:http://www.style.fm/as/05_column/tsujita/tsujita05.shtml
http://www.toei-anim.co.jp/sp/ee_cgmovie/interview/004.html
3000枚というのは「当たり回」の話で実際はこれを下回ることもある。
そしてこれを上回ると「やりすぎで怒られる」
長峯:(省略)スタッフ一同『ドラゴンボール超』という作品をつくる喜びを感じてくれて、最終回に向かってテンションが上がっていったようです。本来は3500から4000枚位の動画枚数でTVアニメ1本を作るのですが、最終話は倍ぐらい使ったようです。「倍ってなんだよ、すげーな」って (笑)。動画枚数は制作費オーバーに直結するので厳しく管理するものなんです。僕なんて昔、『おジャ魔女どれみ』で4000枚位使って先輩の監督に怒られて泣かされたことがあります。最近は東映アニメーションもやるときはやるようになりました。
「激しく動かないが毎週安定したクオリティ」と言えば聞こえは良いが現実は「激しい動きも無いしクオリティは平凡でスケジュール優先の子供向け玩具販促アニメ」だからな。
ドラゴンボール超といえば初期の作画崩壊+ストーリーが映画の焼き直しという二重苦でファンにも呆れられていたよね。
作画自体は未来トランクス編辺りから改善されていたのに「超=作画が酷い」という認識で止まっている人が多いあたり、それ以前に視聴切りした人が多いんだろうなぁという感じ。自業自得だけど。
「動かないならせめて綺麗な止め絵」「演出やストーリーで補間」が理想だけど…
原作通りにやっている間は良い。動く紙芝居付きドラマCDだと思えば見れるから。
でも急に入るクソみたいなアニオリはなんだ?面白いと思っているのか?原作への理解不足としか思えないストーリーの破綻、キャラの性格崩壊、設定の矛盾、原作者が知らない敵との戦い等々…
特に酷いのが劇場版。100%純粋なアニオリでネタにもならない。劇場版ワンピースだって尾田栄一郎が関わってようやくまともになっただろ?そりゃ原作関係者もクオリティが低いと言いたくなるわ。
さすがにここまで酷いアニオリは最近は無いか、アニオリでも作者が関わっているパターンで許すしか無いんだけど、アニオリ嫌悪の原因に東映作品があるって人も多いんじゃないか?あとぴえろ。
原作に追いつきそうだからとか人気だからとかで50話も100話もやるようなスタイルそのものが古い
長く続けば良いってもんじゃないだろ。終わる時に綺麗に終わらせろよ
最近は思い出補正や原作人気もあって過去作品の再アニメ化してるけどさぁ、実際どうなん?
例えば鬼滅の刃が東映制作でヒットしていたか?ハイキュー、ヒロアカ、ジョジョが続いていたか?
自分はこれらの作品に東映が関わらなくて良かったとしか思わん。トリコやワールドトリガーの二の舞ににならなくて本当に良かった。
東映版Kanon、AIR、CLANNADの評価はどうだ?なんで二作目は京アニで作り直したんだ?
バスターコールに関わった集英社の人間はこそこそ隠れて増田みたいな愚痴を言わず、はっきり公式の場で言ってやればよかったのに。お前のところが作るアニメはつまらないって。
なんのために買ってたんだろう
遊んでいて楽しめる時間の長さ=コスパの良さで考えると、ネット対戦出来ない時代の格闘ゲームって圧倒的にコスパが悪かったよな
NPCをひたすらサンドバッグにするだけで楽しかった?それならもっと面白い一人で遊ぶのに特化したアクションゲームでいい
しょぼい紙芝居みたいなストーリーモードのために買ったの?だったらもっとストーリー重視のゲームでいい
ハイスコア狙いプレイ?キャラ萌え?設定資料集モードみたいなのが見たかった?
そういえば昔は家庭用専用でボスキャラや隠しキャラが使えるとかあったなぁ
(追記)
「いつか友達ができた時に遊ぶために2P用コントローラを買ったけど、一度も使う機会が無かったからオークションに出品した」人が居たじゃん