はてなキーワード: 男色とは
9/25-9/29、夏季休暇を取得し、憧れの国ドイツへ旅行してきました。
前夜。
トランジットのため成田から北京国際空港へ。海外で初めて口にした食べ物はピザハットのピザ。政治的事情から各SNSにはアクセスできず、乗り継ぎまで人生の貴重な8時間を出国せず空港内で過ごしました。
中国国際航空を利用しました。何故か機内モードでも電子端末は一切電源を消すよう命じられたため、退屈な機内でした。本を読んでは眠くなるため機内ではほぼ寝てました。また機内食はお粗末なもので、一緒に出されるパンやフルーツの方がずっと美味しく感じました。
9/25
フランクフルト国際空港着💢やはりメルケル氏が当選していました。
新秋のドイツは気温10~15度と寒いので、空港から降りてきた薄着の漢民族は凍えていたようです。
ドイツ鉄道が発行している「ジャーマンレイルパス」を事前に購入していたので、ヴァリデーションを済ませフランクフルトからベルリンへ移動。しかしながら自由席も指定席もほぼ満席状態で、後から乗った私は車内で立ち往生してしまうことに。ベルリンまでの移動時間はおよそ4時間半。全日一等席に乗れる権利を有していたのに惨めな旅だと思っていたら検札に来ていた乗務員が空いている自由席を見つけてくれ、さらに隣に座っていたウルリッヒ・ミューエ似のおっさんもスーツケースを上の棚に入れるのを手伝ってくれました。この時感謝の気持ちを述べた言葉がドイツに来て初めて使用したドイツ語でした。
ベルリン。
インターシティホテルベルリンにチェック。このホテルは2日間滞在していた。一人で予約しているのに何故か掛け布団が二つあったのが気に障りましたが快適に過ごせました。いかんせん成田搭乗から今まで風呂に入る機会が無かったので、ガラス張りのシャワー室でシャワーを浴びる。
行ったところ。
ブランデンブルク門。言うまでもなく、ベルリンの壁を象徴する建造物。これを見るためにドイツに来たと言っても過言ではないくらい見たかったもの。なお、この日から8日後に東西再統一27周年を迎えました。東西融合を祝して、記念に橋を架けました。興味深かったのが、門周辺はイギリスやフランス等各国の大使館がひしめき合っていて、門の直ぐわきにアメリカ大使館では警備員が厳めしく立っていたました。そして、『舞姫』で豊太郎が闊歩したウンター・デン・リンデン通り沿いを100m程歩くと今度はロシア大使館が見えてくるのですが、アメリカ大使館の2倍の敷地で厳重な警備と邸宅さながらの荘厳さがありました。当時ソ連が東ベルリンを統治する上で、東側諸国のリーダーたる威信を発揮しようとしていたかがうかがえますね。
次。DDR Museumという旧東ドイツの博物館。じっくりねっとり展示品を舐め回すように見ながら1時間半くらい経ったところで閉館のアナウンスが。まだ全部見終わってないんですが。
アレクサンダー広場のベルリンテレビ塔、に行く前に広場周辺でカリーヴルストを夕食。正直ケチャップは苦手なのですが、これはケチャップと合いますねぇ!!!!これだけでお腹一杯になってしまいました。
テレビ塔。夜景を期待してわざわざ22時に入場したのですが、ちょっと想像と違っていましたね。
2日目。朝から特急に乗ってチェコに行こうとしたのですが寝過ごしました。ただ、片道の移動時間がこれまた5時間も掛かるので仮に朝一の列車に乗っても、宿泊の都合上、日帰りで帰るとなるとろくに滞在できず一日を列車で過ごしかねないスケジュールでもあったので、正直フイにして後悔はしませんでした。
テレビを点けたらチャンピオンズリーグでバイエルンとアンデルレヒトの試合が中継されていました。2-0でバイエルンが快勝していて流石FCバイエルンでした。
昼。電車に乗ってシュタージ博物館へ。これも東ドイツ関係。『善き人のためのソナタ』にも出てきた建物。写真のネクタイは、よく見ると小さな穴が開いていて、この穴を通してカメラで反体制派の行動を盗撮していたというのですから恐ろしい。
夕方。オーバーバウム橋からシュプレー川沿いの「イースト・サイド・ギャラリー」を見学。これも東ドイツ時代の遺産。写真の男性二人(ブレジネフとホーネッカー)が交わしているアツいキスは決して男色を表しているのではなく、共産圏における挨拶の一つだという…。その後はポツダムに移動しサンスーシ宮殿を見学するつもりでいましたが、気付いたら閉園時間が近付いていたため断念。片道1時間の電車を引き返すことに。
夜。ポツダムプラッツのレストランで夕食。ベルリンのピルスナーを堪能。ドイツのビールは飲めるけど、日本のビールは何であんな苦くて不味いんでしょうか。クネーデルズッペ。ブイヨンベースに牛レバーの肉団子というシンプルなスープ料理なのですが、これが非常に美味しかったです。スープ料理で初めて感激しました。最後にベルリン名物、アイスバイン。塩漬けの豚肉を茹でたもので美味しかったのですが、ボリュームに屈し食べきれずギブアップ。すいませんでした。
帰路。連邦議事堂。丁度議会選挙の直後だったのか館内見学の予約が取れず外から見学。
ホテル内。ビールを飲みながらテレビでドルトムントとレアルマドリードの試合を観戦。やはりピルスナーは飲みやすい!それでいて1.03ユーロ(約137円)という驚きの安さ。なお試合は3-1でレアルがドルトムントをボコボコにしてました。
3日目。6時にチェックアウトを済ませ、西方シュトゥットゥガルトへ。メルセデス・ベンツ・ミュージアムを見学しに。ルイス・ハミルトンは好きじゃないですが、メルセデス・ベンツは好きです。前からSLS AMGやAMG GTのロングノーズのボディが気に入らなかったのですが、300SL等歴代の車種を見ていくにつれてこのノーズが力強さが感じられるようになり好きになりました。あと、AMG GTって写真で見るより意外と車体が小さかったです。
博物館を後にし、ケルンへ移動。2時間程移動してケルンのホテル、マテルヌスハウスにチェックイン。受付は愛想が良く好感を持てましたが、部屋がツインダブルベットで虚しさがこみ上げてきました。加えて、もともとコンベンションホールをホテルにした作りなのか、浴室の作りが人工的でこれまたムードダウン。
ケルン大聖堂。二つのアーチがそびえるゴシック様式のローマ・カトリック教会。ブランデンブルク門と並んで見たかったものその2。駅からライン川を渡った先が撮影ポイントで、道行く外国人のスリの恐怖に怯えながら100枚くらい写真を撮っていました。
夕食。『地球の歩き方』にも掲載されている有名店なレストラン。ここではケルシュという地ビールを堪能。フルーティーな味わいで飲みやすいけど、水だと揶揄されてもいいくらい苦味が薄く刺激が弱い。でもボクは好き。
4日目。最終日。朝食はフルーツポンチばかり食べてました。ゆっくりしてからチェックアウトを済まし、フランクフルトへ。
フランクフルト証券取引所。入口前に雄牛と熊の銅像。ブルベア。DAXは8月以降ずっとブルってやがる!館内ツアーガイドがドイツ語で何を言ってるかさっぱり判らなかったです。取引所を後にし、しばらくフランクフルトの金融街を闊歩してからフランクフルト国際空港へ。ドイツ旅行はこれにて終わり。
魔の5日目。トランジットの北京行の便がまさかの遅延で予定の日本行の便に乗れず。後にトランジットのカウンターに行って出発便を振り替えればよいとわかったのですが、何せ初めての事態でかなりアプセット。何とか便を振り替えてもらいましたが、中国人の話す英語が判らず聞き取るのにかなり苦労しました。
19時頃羽田空港着。成田じゃなくてよかったです。ここでクイズ。東京に着いて一番最初に食べたものは?そうですね、ラーメンですね。
初めて一人で行く海外旅行でしたが、正直旅行というより社会科見学に近いものでした。博物館で2時間も3時間も過ごすのでもし人と一緒に来ていたらうんざりするでしょうし、この点は一人でよかったです。完全に自分の時間が流れていました。
しかしながら、やはりトラブルがある時はやはり一人で対処しないといけないですし、当然コミュニケーションは外国語なので言葉がわからないと辛いものがありますね。幸い身振り手振り肉体言語でも伝わるのでこの点は何とかなることはありますが。意外にも滞在期間中一切日本語を喋らなかったのが精神的に辛かったです。
「時代遅れの笑い」という批判もあるけど、たけしに「こんなネタは他の国なら、ただ事じゃないんだぞ」と言わせたことからも企画側がポリティカリコレクトネスに自覚的であることは伺われる。自覚の上で放映したという文脈から企画側はポリティカリコレクトネスに(挑戦しながらも)反する意図がないことを読み取らなければならない。
スポンサー降板もあったから局側は問答無用で、おそらく反射神経で謝罪したんだろう。しかし企画意図の説明を完全に封殺してなんの掘り下げもなく、謝罪して片付けてしまったのはちょっと放っておき難い。
そもそも保毛尾田保毛男というキャラクターの強烈さは、彼がセクシュアルマイノリティーであるからではない。30 年経っても忘れられない強烈さの本体は、彼の「得体の知れなさ」である。
当時ですら時代錯誤の、ポマードで塗り固められた髪。石橋貴明の無駄に良いガタイで派手なスーツをちゃっかり着こなすところから、経済力のある人物であることが仄めかされる(御曹司みたいな設定のようだ)。そして青ヒゲが男性であることを強調しつつ、話し始めるとこれが歯を見せずに上品なお姉様言葉。あらゆる特徴がちぐはぐで、掴みどころがない。
さらに言動から同性愛者であることは明白なのに本人に問いただせば「それはただの噂ですから」と言って否定する、(視聴者は心の中で「そんな訳あるかいな」と毎度ツッコミを入れる、)というのがこのコントのヤマである。
少なくとも視聴者には彼が男色であることが明示されているから、この「ただの噂」という台詞は嘘。つまり素性を明かすつもりのない人物なのだという印象を与えられるため、ますます正体不明の不気味な存在となっていく。
わたしたちはその不気味さと、しかしどうにも悪者には見えないそのチャーミングさとのギャップに可笑しさを覚えていた。この笑いの構造自体はほかのキャラクターにも代替可能なもので、同性愛者の揶揄がこのコントの主旨ではなかった。
主旨ではなかったはずだが、30 年前当時にはポリコレなんて概念はなくて、制作者および視聴者の「同性愛者への無理解」がツカミとして機能していたことも確かである。
偏見や差別はあってならないが、一方で多様なセクシュアリティーの存在を認識し、共存できることを確認する視点も公共電波に課せられた同等に重要な使命ではなかろうか。その視点に座すれば 30 年前には異形扱いだった保毛尾田が、時を経て鬼瓦権蔵(←しかも他ならぬ、こんな昔気質オヤジの権化である…)に扮した業界のドン:たけしとふざけ合いながら銀座を飲み歩くなんて、むしろそれこそ現代が差別のない世界に近づいていることを確認する幸福な画面だった。
ところが今回の説明のない謝罪は、あの銀座の一夜を否定し「今後、セクシュアルマイノリティには特殊な配慮をします。安易に画面に映しません」=転じて、テレビ局が頭を下げて「ホモを映したのはダメだった。これからはちゃんと差別します」と宣言するみたいなおかしなことになってしまっている。チャンチャン、まさにお笑いである。30 年を費やした、巨大なコントのオチが局の謝罪で完成してしまった。これでよいのか。
「部室芸」という表現もあるが、芸もなく、技巧もなく、思想もない。ただ笑わせて、笑った方が強い。それがとんねるずの世界観である。フジテレビが謝罪した日は、ポリコレが部室芸に殴られて「お笑い」になった日として大衆の記憶に留まる。
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
目次 [非表示]
1 概要
1.2 書名の由来
2 脚注
3 刊本
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来[編集]
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。
女の腐ったものかのように、自分は綺麗だと呟いては他人を否定する。
酔っているのだ。
女の代替品でありながら、
https://twitter.com/JD_May05/status/846541990732849152
なぜならば、ウケに回る男は女にモテずに男色に走った者であり、
また男にモテずに女の格好をする事で男を惑わす道を選んだ者であるからだ。
また女からも男からもモテずに女の代わりに女装した男を抱くからだ。
そして、女の子の格好し合ってセックスに興じる行いは最もカーストが低い。
なぜならば彼らは女からもホモからもノンケからも相手にされず、仕方なく自給自足で褒めあえる関係を望んでいるからだ。
男女のセックスを行えず、
男同士の力強いセックスも出来ず、
男の劣情を浴びることも無く、
互いに褒めあう「駄サイクル」の中での自分に酔えるのだ。
そういう場が合っていいと思う。
しかし、カースト最下層の弱者が他人を不細工だの汚いなどよくいえたものだ、
と呆れるが。
彼らは、因果の末に女装レズセックスするしかない、そういう人なのでそういう事を言うのもまた因果なのだ。
自分は男だと言える奴は、
筋肉の躍動と飛び散る血と汗と精液に塗れて、
翌日筋肉痛になるほどにヤりまくれ。
男に生まれた以上は男らしくあれ!
男は男らしくそのままでやりまくれ。
女の真似をしても偽物でしかない。
男はより男らしくなる事ができる。
いや、見初められたあとに身分ロンダリングが行われるわけだし。
今回は思いつきばっか書くので、あんまり本気にしないでください。
日本語の「信じる」「信仰する」という言葉は重いと思っている。
自分の神に対するスタンスは、(本当はいるかどうか良く分からないが)①いてくれたら良いな、②いる方に賭ける、③いてくれなければ困る、という幅で気持ちが揺れ動いている状態だ(その理由は以前書いた)。
「信」という漢字は「人」+「辛」+「口」の組み合わせから成るという説があるらしい。
ここで、「辛」は入れ墨に用いる針の象形で、入れ墨による刑罰を示す。「口」は誓いの文書を表す。
この説によれば、「信」という言葉は「その発言に嘘があれば、受刑することを前提に誓う様」を意味するとのこと。
他方、英語の"believe"は、allow(受け入れる)を意味する"be"と、to hold dear(愛しく思う)を意味する"li"から成るとのこと。
この説によれば、"believe"の意味は「対象を受け入れて愛しく思う」というところか。
これらの説が本当なのか文献を当たってないので分からないが、もし本当ならば英語の方がしっくりくる。
聖書の文言というのは非常に抽象的で、中には矛盾するように読める個所もある。
そのため、人生で直面する問題に対して聖書の規定を適用しようとする際、人によって全く違う結論が導き出されることがある。
このことが顕著に顕れるのが同性愛の問題で、①同性愛は全面的に罪だよ説、②欲求を持つのはOKだけど行為に及ぶのは罪だよ説、③ノンケの人が男色に走るのが罪なだけで生まれながらの同性愛者は罪ではないよ説、等々、バリエーション豊かな議論が展開されている。
(ちなみに自分は、どの説に立つにせよ、自説をもって他人〔同性愛者〕を裁くことは「人を裁くな」〔ルカ伝6-37〕に抵触するのでイカンと思っています)
また実際にも、(a)同性愛を罪と考えて信仰に励む同性愛者、(b)同性愛を罪と考えず積極的に差別と偏見と闘う同性愛者、のどちらも間違いとは言えないだろう。
そうなると聖書解釈というのは単なる主観の表明じゃないのか、客観的に正しい解釈というのはないのか、という疑問が湧いてくる。
この問題を考える際に参考になる議論として、法律学で似たような議論がある。
議論状況は泥沼に陥っている上に難解なのでとても要約なんてできないのだが、論者で議論が一致している点として「裁判官は法律家としての直感で結論を決めており、法解釈はそれを検証・正当化するために用いられる」ということが挙げられる。
このことから、法律家はこの「法律家としての直感」を育てることが肝要であるとよく言われる。
大事なのは「キリスト者としての直感」を、信仰と聖書研究を通じて育てることであり、聖書解釈はその直感を検証・正当化するために用いるものなのではないか。
上述した同性愛の問題でいえば、①同性愛者が直面する問題点、苦悩などをよく勉強したうえで、②キリスト教的な価値観に照らして直感で結論を出し、③それを聖書の規定に照らして検証・正当化する、というプロセスになる。このプロセスを経た結論は、いずれの立場にせよ、聖書的と言える(と勝手に思っている)。
なお、「法律家としての直感」の土台には、無神論と(マルクス主義的な理解における)資本主義がある。
「キリスト者としての直感」の土台には、キリスト教的な価値観(人間は堕落しているという人間観、成功より正義を重んじる姿勢、死後の世界の肯定、愛)がある。
「〔パウロ〕の手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(ペテロ後書3-16)
「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(テモテ後書2-15)
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(コリント前書2-14)
#ブコメ返信
・いつもありがとうございます。教理問答買って読んでみます。今は詩篇を読んでいるのですが、終わったらコリント前書も読もうと思います。