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2017-10-29

travel note

9/25-9/29、夏季休暇を取得し、憧れの国ドイツ旅行してきました。

前夜。

トランジットのため成田から北京国際空港へ。海外で初めて口にした食べ物ピザハットピザ政治的事情から各SNSにはアクセスできず、乗り継ぎまで人生の貴重な8時間出国せず空港内で過ごしました。

中国国際航空を利用しました。何故か機内モードでも電子端末は一切電源を消すよう命じられたため、退屈な機内でした。本を読んでは眠くなるため機内ではほぼ寝てました。また機内食はお粗末なもので、一緒に出されるパンフルーツの方がずっと美味しく感じました。

9/25

フランクフルト国際空港着💢やはりメルケル氏が当選していました。

新秋のドイツは気温10~15度と寒いので、空港から降りてきた薄着の漢民族は凍えていたようです。

ドイツ鉄道が発行している「ジャーマンレイルパス」を事前に購入していたので、ヴァリデーションを済ませフランクフルトからベルリンへ移動。しかしながら自由席指定席もほぼ満席状態で、後から乗った私は車内で立ち往生してしまうことに。ベルリンまでの移動時間はおよそ4時間半。全日一等席に乗れる権利を有していたのに惨めな旅だと思っていたら検札に来ていた乗務員が空いている自由席を見つけてくれ、さらに隣に座っていたウルリッヒミューエ似のおっさんスーツケースを上の棚に入れるのを手伝ってくれました。この時感謝気持ちを述べた言葉ドイツに来て初めて使用したドイツ語でした。

ベルリン

インターシティホテルベルリンにチェック。このホテルは2日間滞在していた。一人で予約しているのに何故か掛け布団が二つあったのが気に障りましたが快適に過ごせました。いかんせん成田搭乗から今まで風呂に入る機会が無かったので、ガラス張りのシャワー室でシャワーを浴びる。

行ったところ。

ブランデンブルク門。言うまでもなく、ベルリンの壁象徴する建造物。これを見るためにドイツに来たと言っても過言ではないくらい見たかったもの。なお、この日から8日後に東西統一27周年を迎えました。東西融合を祝して、記念に橋を架けました。興味深かったのが、門周辺はイギリスフランス等各国の大使館がひしめき合っていて、門の直ぐわきにアメリカ大使館では警備員が厳めしく立っていたました。そして、『舞姫』で豊太郎が闊歩したウンター・デン・リンデン通り沿いを100m程歩くと今度はロシア大使館が見えてくるのですが、アメリカ大使館の2倍の敷地で厳重な警備と邸宅さながらの荘厳さがありました。当時ソ連東ベルリン統治する上で、東側諸国リーダーたる威信を発揮しようとしていたかがうかがえますね。

次。DDR Museumという旧東ドイツ博物館。じっくりねっとり展示品を舐め回すように見ながら1時間半くらい経ったところで閉館のアナウンスが。まだ全部見終わってないんですが。

アレクサンダー広場ベルリンテレビ塔、に行く前に広場周辺でカリーヴルストを夕食。正直ケチャップは苦手なのですが、これはケチャップと合いますねぇ!!!!これだけでお腹一杯になってしまいました。

テレビ塔。夜景を期待してわざわざ22時に入場したのですが、ちょっと想像と違っていましたね。

2日目。朝から特急に乗ってチェコに行こうとしたのですが寝過ごしました。ただ、片道の移動時間がこれまた5時間も掛かるので仮に朝一の列車に乗っても、宿泊の都合上、日帰りで帰るとなるとろくに滞在できず一日を列車で過ごしかねないスケジュールでもあったので、正直フイにして後悔はしませんでした。

テレビを点けたらチャンピオンズリーグバイエルンアンデルレヒト試合が中継されていました。2-0でバイエルンが快勝していて流石FCバイエルンでした。

昼。電車に乗ってシュタージ博物館へ。これも東ドイツ関係。『善き人のためのソナタ』にも出てきた建物写真ネクタイは、よく見ると小さな穴が開いていて、この穴を通してカメラ反体制派の行動を盗撮していたというのですから恐ろしい。

夕方オーバーバウム橋からシュプレー川沿いの「イースト・サイド・ギャラリー」を見学。これも東ドイツ時代遺産写真男性二人(ブレジネフとホーネッカー)が交わしているアツいキスは決して男色を表しているのではなく、共産圏における挨拶の一つだという…。その後はポツダムに移動しサンスーシ宮殿見学するつもりでいましたが、気付いたら閉園時間が近付いていたため断念。片道1時間電車を引き返すことに。

夜。ポツダムプラッツレストランで夕食。ベルリンピルスナーを堪能。ドイツビールは飲めるけど、日本ビールは何であんな苦くて不味いんでしょうか。クネーデルズッペ。ブイヨンベースに牛レバーの肉団子というシンプルスープ料理なのですが、これが非常に美味しかったです。スープ料理で初めて感激しました。最後ベルリン名物アイスバイン塩漬け豚肉を茹でたもので美味しかったのですが、ボリュームに屈し食べきれずギブアップ。すいませんでした。

帰路。連邦議事堂。丁度議会選挙の直後だったのか館内見学の予約が取れず外から見学

ホテル内。ビールを飲みながらテレビドルトムントレアルマドリード試合を観戦。やはりピルスナーは飲みやすい!それでいて1.03ユーロ(約137円)という驚きの安さ。なお試合は3-1でレアルドルトムントボコボコにしてました。

3日目。6時にチェックアウトを済ませ、西方シュトゥットガルトへ。メルセデス・ベンツミュージアム見学しに。ルイス・ハミルトンは好きじゃないですが、メルセデス・ベンツは好きです。前からSLS AMGやAMG GTのロングノーズのボディが気に入らなかったのですが、300SL等歴代の車種を見ていくにつれてこのノーズが力強さが感じられるようになり好きになりました。あと、AMG GTって写真で見るより意外と車体が小さかったです。

博物館を後にし、ケルンへ移動。2時間程移動してケルンホテルマテルヌスハウスチェックイン。受付は愛想が良く好感を持てましたが、部屋がツインダブルベットで虚しさがこみ上げてきました。加えて、もともとコンベンションホールホテルにした作りなのか、浴室の作りが人工的でこれまたムードダウン。

ケルン大聖堂。二つのアーチがそびえるゴシック様式ローマ・カトリック教会ブランデンブルク門と並んで見たかったものその2。駅からライン川を渡った先が撮影ポイントで、道行く外国人スリの恐怖に怯えながら100枚くらい写真を撮っていました。

夕食。『地球の歩き方』にも掲載されている有名店なレストラン。ここではケルシュという地ビールを堪能。フルーティーな味わいで飲みやすいけど、水だと揶揄されてもいいくらい苦味が薄く刺激が弱い。でもボクは好き。

4日目。最終日。朝食はフルーツポンチばかり食べてました。ゆっくりしてからチェックアウトを済まし、フランクフルトへ。

フランクフルト証券取引所。入口前に雄牛と熊の銅像ブルベア。DAXは8月以降ずっとブルってやがる!館内ツアーガイドドイツ語で何を言ってるかさっぱり判らなかったです。取引所を後にし、しばらくフランクフルト金融街を闊歩してからフランクフルト国際空港へ。ドイツ旅行はこれにて終わり。

魔の5日目。トランジット北京行の便がまさかの遅延で予定の日本行の便に乗れず。後にトランジットカウンターに行って出発便を振り替えればよいとわかったのですが、何せ初めての事態でかなりアプセット。何とか便を振り替えてもらいましたが、中国人の話す英語が判らず聞き取るのにかなり苦労しました。

19時頃羽田空港着。成田じゃなくてよかったです。ここでクイズ東京に着いて一番最初に食べたものは?そうですね、ラーメンですね。

初めて一人で行く海外旅行でしたが、正直旅行というより社会科見学に近いものでした。博物館で2時間も3時間も過ごすのでもし人と一緒に来ていたらうんざりするでしょうし、この点は一人でよかったです。完全に自分時間が流れていました。

しかしながら、やはりトラブルがある時はやはり一人で対処しないといけないですし、当然コミュニケーション外国語なので言葉がわからないと辛いものがありますね。幸い身振り手振り肉体言語でも伝わるのでこの点は何とかなることはありますが。意外にも滞在期間中一切日本語を喋らなかったのが精神的に辛かったです。

また行きたいですね。今度はルフトハンザ航空の直行便ファーストクラスで。

2016-12-04

死の収容所へ 2

http://anond.hatelabo.jp/20161204224426

強制連行

 全ヨーロッパユダヤ人ドイツ領ポーランド絶滅収容所移送する−これは、途方もない作戦である遂行にあたっては詳細な計画、広域にわたって組織化された設備施設、そして輸送補給宿営のための大がかりな兵站機構必要だった。連行作戦にはドイツの広範にわたる政府機関組織が巻き込まれている。ハイドリヒが作戦の指揮を執り、1942年5月の彼の暗殺後はハイドリヒの後継者帝国中央保安局エルンストカルテンブルンナーがこれにあたった。あらゆるSS機関支配地域の様々な民間権威ドイツ国防軍、そしてナチ衛星各国政府連行作戦に動員された。特にドイツ鉄道組織連行されたユダヤ人集団絶滅収容所まで輸送する手段提供し、強制連行に加担した。次のことは特筆に値するであろう。何よりも軍隊鉄道必要としていたにもかかわらず優先順位を記したナチリストによれば、ユダヤ人鉄道輸送の割り当ては、軍隊のそれよりも優先されていたのだ。

 全ヨーロッパからユダヤ人連行するということは当然、5つの絶滅収容所に彼らが到着するということでもある。列車同士の「かちあわせ」を防ぐため、正確な時間割必要となった。時間割りにあたっては、それぞれの収容所絶滅施設能力考慮に入れなければならなかった。ガス室があるといっても、全員を短時間でガス殺できない収容所列車を付けるわけにはいかなかったかである

 ユダヤ人連行秘密裏に進められたので、大がかりな隠ぺいと偽装工作が行われることになった。連行される人びとに対しては、東方のどこかへ労働に行くのだという情報が流されていた。このためポーランド在住ユダヤ人ソ連領内のナチ占領地域に連れて行かれるのだろうと考え、他国ユダヤ人たちはナチポーランド労働のために送られると信じていた。ナチは、嘘がほころび連行不審感や不安感を持たれないよう、念の入ったことをした。 連行の途中あるいは収容所到着後何人かに対して、故国に残した家族あてに葉書を書くよう強要したのだ。家族が受け取ることになる葉書にはこうしたためてあった−「自分たちは元気に生きている。ここはただの労働収容所で、快適だ」− 差出人は数時間後にはもう生きてはいなかったのだが。

 強制連行の手順と方法は大体決まっていた。連行が迫っているという噂が数週間前から広まることもあったが多くの場合連行命令は予告なしに突然執行された。連行される人びとに与えられた猶予はきわめて短く、2、3時間かあるいは数分だった。まず、ユダヤ人たちは家を出て指定された場所に集合するよう命じられた。集合場所は大抵駅の近くだった。所持品は手荷物以外許されず、彼らは自分財産ほとんどを置き去りにするしかなかった。手荷物の重さは一人当り10~15キログラム制限されることもあった。荷物の中身は主に衣服、炊事用品、寝具などだったが、そこには仕事に使うための道具類も加えられていた。働きに行くだけだと信じていたかである

 重い荷物を背負い、包みを抱え、子どもも年よりも、ユダヤ人たちは駅までの何キロもの道のりを行進させられた。年寄り病人が荷馬車やトラックで隣村から運ばれてくることもあったが、行進は基本的には徒歩だった。行進から脱落した者はその場で射殺され、歩けない病人や隠れていた者も同様に見つかり次第射殺された。複数の小規模ゲットーで同時に連行が行われた場合、それぞれのゲットーの人びとは一つの集団にまとめられることもあった。こうした集団の隊列は長さ数キロメートルにも及んだ。天候は考慮されなかった。凍てつく冬の雨の中、焼けるような夏の太陽の下、隊列の行進は絶えることがなかった。

 
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