はてなキーワード: 民意とは
日本国に属する上級国民であるはてブの皆様におかれましては足立区民など虫けらの集まりにしか見えず
その中の一人があほなことをいうと足立区全体を一緒くたに見てしまうみたいですがそんなの絶対おかしいよ。あんまりだよ
足立区は滅びよ。以上だ
次の足立区議選挙でまた自民系が勝っちゃって中世国家老害の国というブコメで溢れる
政治家を辞めさせるのは簡単。民意があれば。足立区の民度が問われる。当選率が高いので難しいと思うけど頑張れ
足立区民の総意と思われる。
彼を当選させたことに対して足立区民がどう行動するかしかない。3年もあれば変わるよ。足立区民が本気なら
足立区愛は凄く伝わる
パート1
19秋クール放送タイトルである放課後さいころ倶楽部とライフル・イズ・ビューティフル。
2作の入荷により少しはマシになる傾向が感じられてます。
問題の角川ビデオ系列でも20冬はプランダラや防振り、IDと19年の入荷チョイスに比べてまともなものになりました。
それに、ヴァイオレット・エヴァーガーデン短編映画も入ってきました。
けど、何か寂しい…
どうしてかって?
角川様が恋する小惑星の全国レンタル屋まんべんない入荷を渋って、
それだけでなくポニーキャニオン様もVEGを俺の長い付き合いの木野店様に入れてくれなかったし。
名前すら出したくないしょうもないレベルの作品が入る時には「それを求めるお客様もいるから」とか言って、
人気度高い作品入らなかった時は「需要がー予算がー」などとか屁理屈言うのはおかしいんじゃないんですか?
民意軽視じゃないですか。
4年間に映像ソフト業界様とレンタル屋大元様はどれほどまでの事をして来た?
どれほどまでに俺の行きつけの店のレンタルアニメ新作コーナーを見ることへの恐怖を助長して来た?
民意軽視じゃないですか。
4年間に映像ソフト業界様とレンタル屋大元様はどれほどまでの事をして来た?
どれほどまでに俺の長年の行きつけの店のレンタルアニメ新作コーナーを見ることへの恐怖を助長して来た?
17上半期はけもフレ一期、ガヴリールドロップアウト、小林さんちのメイドラゴン、ひなこのーとが…
下半期はメイドインアビス、宝石の国、ブレンド・S、このはな綺譚、少女終末旅行、
18年はVEG、からかい上手の高木さん、
こみっくがーるず、銀河英雄伝説ノイエ、あそびあそばせ、のんのんびよりばけーしょん、
19年は私に天使が舞い降りた!、えんどろ、
ご注文はうさぎですか?SFY、
そして今年は、恋する小惑星…
ネットで不満を騒いでそれがバズれば
たとえば、ブラック企業告発、保育園に入れない(子育て問題全般)、セクハラ告発、パワハラ告発、飲酒運転などアルコールによる諸問題への規制、増税への反発、増税への反発、増税への反発、などなど(政権の人気に関わる)
2020年のwithコロナ以降も、国民がネットでごねたらお肉券は現金10万円に化け、水商売関係者(水商売で大儲けしてる奴なんて一部、他の仕事に就けない奴が多数)への給付金支給排除も撤回された
生活保護バッシング(弱者への嫉妬)だって、ネットから火がついて片山さつきみたいな議員が動いた結果広がって、いつの間にか国政の一大テーマみたいになってる
つるの氏が犯人を外国人であると推定したことが、外国人=犯罪者であるとの偏見を助長しかねないとの指摘がなされ、
それを軸に、町山氏などのいわゆるラディカル左翼が、つるの氏への大バッシングキャンペーンを実施した。
ツイートを眺めていると、事の顛末の検証もそこそこに、「つるの氏は差別主義者である」という大前提のもと、
国を憂いてみたり、人権だの歴史だの一見アカデミックに見えるよな事を論じている気になってみたり、そんな投稿が目に余った。
そもそもつるの氏がなぜ外国人が犯人であると推定したのか、彼は真に差別主義者なのか、たった彼が投じた2,3のツイートから解明できるはずもないのに、
判別できないからこそ足りない部分は、既に自分が用意した結論に都合がよいように脳内補完して、
「差別主義者」のレッテル張りによる罪人認定を行い、自分が満足するまで非難・攻撃を行って。
しかも、そういった攻撃は正義の鉄槌であると信じて疑っていないのがまたやっかいだ。
自分の思想をさもこの世の条理であるかのように、ちょっとアカデミックを気取った書きぶりで、さも自分は常に正しい事しか発言しない知識人であるようにふるまっている。
結局、
②自らが正義を行使していると思い込む事による全能感、自己満足
③同じ思想を持つものと一緒になって行動する事による高揚感、孤独の解消
これらが蜜の味を味わいたいがために、他害行為を正当化しようと、罪人であるとのレッテル張りを行っているのだ。
でも本人にその自覚があるはずもなく、あくまで自分は絶対的な正義の執行者であると思い続けている。
本来すべての人のすべての発言には(私一個人の意見です)という注釈がついているはずなのに、
自分が正しいと思った事は、普遍的に正しいと思ってしまっているのはなんで。
どうして、民意によってえらばれた多数の人の意見の上成立した、政治上の「正しい」を疑うことはできるのに、自分一人が感じた「正しい」を疑ってみようと思わないのかな。
差別が悪い事だとは分かっているのに、人を差別主義者だと一方的に認定して攻撃する事は正しいなんて、そんな理論が正しいってどうして思っていられるのかな。
特に、なんとしてでも自民党を貶めないと気が済まないやつらや、世の中のネガティブな事象をすべて安倍のせいにしたい人間のブコメがトップに並ぶことが増えた。
先日の朝日新聞のアンケートで安倍政権を評価すると答えた人が多数であったことからもわかるけど、今のはてブユーザーの思想は世間から大きく乖離している。
思想が大きく偏ったカルトが大勢を占めることで、はてブというサービスが機能しなくなっている。左が喜ぶ陰謀論が次々とホッテントリ入りし、政治と関係ない記事が全然上がらなくなっている。
ブコメにはいつも、自民党や安倍を憎む声、国民を愚民扱いする低レベルなコメント、いかにも陰キャが考えそうなまったく笑えない大喜利が並ぶ。
ブコメってもともと、記事を見て自分が感じた気持ちと、ネット民の声がどれぐらい同じなのか?または離れているのか?を測ったり、自分とは違うものの見方を知れたりする機能だったはずなのに、今ははてブユーザーの思想がカルトになりすぎて、比較対象にすらならなくなっている。
で、2ヶ月前ぐらいから、はてブを使う回数を意識的に減らしてみた。そしたら、めっっっちゃくちゃネットが楽しくなった。
インターネットの楽しみ自体が、はてブのせいで失われていたことに初めて気付いた。
他のSNSやニュースメディアのコメント欄では、はてブのように馬鹿馬鹿しい陰謀論がトップに来ることはない。
たとえばTwitterでも、左右関係なく馬鹿みたいなハッシュタグが互助会運動でトレンド入りすることはあるけど、それが民意と乖離していれば、ちゃんと反対意見があがってきて、自浄作用が働いている。
例え匿名であろうと、自分の出した意見に対して反論が飛んでくるリスクがあるので、はてブほどカルト化はしない。
最近は、たまにはてなを開いても「この人たちはまだこんなバカなことやってるんだ」と思うようになり、もともとこんなカルト御用達のサービスを使っていたことが恥ずかしいとすら感じる。
産まなきゃ逮捕されるわけでも憲法違反になるわけでも殺されるわけでもない以上、「許されている」と言う他ないでしょ。民意は置いておいて、日本には子を成す義務はないし決まりもない。産もうが産まなかろうが、人権は守られ人生選択の自由は保証される。
産まなきゃ逮捕されるわけでも憲法違反になるわけでも殺されるわけでもない以上、「許されている」と言う他ないでしょ。民意は置いておいて、日本には子を成す義務はないし決まりもない。産もうが産まなかろうが、人権は守られ人生選択の自由は保証される。
政治家になりたかったら、大学を出て少なくとも3年たってからでないとなれない。
今の時代、いくら転職が当たり前になったといっても、それなりに安定した仕事をしているのに、
あえて、超不安定な仕事(しかも、25歳で何の後ろ盾もなく当選する議員なんてほとんどいない)
を選ぶ神経が分からない。
それとも、大学を出てから政治家になるために3年間ニートするか?
その人が結婚できるのも、子供を育てられるのも、安定した仕事があってこそ。
それを捨てて、政治家になるという選択を、普通に常識のある大人はできない。
結婚できなかったり、子供がいなかったりして、自分の人生がどうなってもいいという人だけが、政治家になるという選択ができる。
つまり、そういう人間は人生に問題を抱えているので、政治の世界においても正常な判断ができない。
選挙に落ちたら無職になるし、ある程度の年齢以上だと転職もできないし、「政治家」という職業にしがみつくしかない。
そのせいで、腐敗が横行する。
二世議員が多いのも仕方のないこと。
それは親とか先祖が、そういうクレイジーな選択をしてしまったような家で育つから、それがおかしいとは思えなくなる。
そして、それが家業になっていて、支持者もいるので、選挙に落ちて無職になることはないので、ずっと続けられてしまう。
ちなみに、そういう家では一般常識が育たないから、政治の世界においても、民意を反映した判断ができない。
彼らにとっての「民意」とは、自分の周りのイエスマンたちのことだけである。
我々一般庶民が政治的な意思を示すことができるは、年に1回あるかないかの選挙の時だけだけど、
そのときでさえ、うんこ味のカレーとカレー味のうんこしか選択肢がないのは、主にそういう事情による。
SNSとかで政策に対する運動を展開しても、それが実際の政策に反映されることはまずない。
今まで間接民主主義しかできないとあきらめてきたけど、そろそろ直接民主主義ができるかもしれない時代がきた。
政府のどこかにメールアドレスを登録しておいて、官僚が政策を作成して、何か国民に信を問いたいことがでてきたら、
そのメールアドレスにメールが配信される。そこには賛成か反対かを投票でき、意見を述べられるフォームがついているURLが貼ってあり、
そのメールに返信することで、採決ができる。
ざっくりした流れはそんな感じで、細かいところはこれからつめていけばいい。
日本中の意識高い人を集めたら、500人ぐらいはすぐに集まるだろう。
その人たちは日頃普通に社会人として働いて社会的責任を果たしながら、その中で感じたことをもとにして、政策に反映させることができる。
ニュースを見ていると、そんな疑問が浮かぶのだけれど、いくら空気を読まない私だって、それを口に出す勇気はなかった。これは、そんな私が一冊の新書によって、正義のために物を破壊するのにも、道徳的・理論的根拠があるのかもしれない、と知った経緯だ。
増田に入りびたっていると、世の中にはいろいろな立場があって、さまざまな正義があることがわかる。残念ながら、複数の正義の間でぶつかり合いがあることもまれではない。表現の自由と見たくないものを見ない権利で、レスバトルが毎日のように起きている。あるいは、外国人・移民の権利を尊重したら、女性の安全をないがしろにしてしまったケースもある。2015年のケルン大晦日集団性暴行事件なんかがその例だ。弱者をいたわろう、財産はみんなで公平に分けよう。そうした基本的な原理では同意できるのに、個別のケースでは意見の一致が見られることはめったにない。工学部出身の私としては、実験すればすぐに答えの出る理系の学問と勝手が違い、社会の複雑さに戸惑うばかりであった。
そうするうちに、結局のところ正義の根拠ってかなり曖昧でいい加減なんじゃないか、みたいなことを思うようになった。正義の論理的な根拠がわからなくなったのである。もともと正義についてはサンデル教授の本くらいしか読んだことがなく、哲学は専門外だ。
たとえば、大日本帝国が中国北東部に傀儡政権を作るのが悪だとすれば、アメリカがイラクやアフガニスタンを空爆したり、親米政権を樹立したりするのとどう違うのか。アメリカが中東に派兵するのならあまり気にならないが、ロシアがクリミアを占領・併合したときに動揺してしまったのはなぜなのか。本質的な違いはほとんどないのに。
日韓関係だってそうだ。たとえば、国家の間で解決済みであるはずの補償問題を、個人が請求することは可能なのだろうか。それとも、個人の権利が拡大する世界的な流れのなかでは、必ずしも不合理な話ではないのか。大統領が変われば民意が変わったことを意味するので、前政権の約束を反故にすることは許されるのか。
他にも、裁判員制度で、発達障害のある犯人に厳しい判決が下されたことがあるけれど、市民感覚は医学の最先端の知識と乖離していることも多い。専門家ではなく、偏見もある市民を本当に裁判に参加させていいのか、心配だ。
で、直近の例で特に印象的だったのが、冒頭に述べたように、BLMで無残に引き倒される銅像だった。革命直後に独裁者の像が倒されるのには全く違和感がなく、それどころかほとんど何も感じない。しかし、歴史上の偉人がこうして再評価されるのを見ると、これは正しいのかどうか、よくわからなくなった。現代の価値観からすれば、彼らの過ちは確かに明白だが、こうして公衆の面前で侮辱に近い目に合わせていいのか。法の不遡及の原則、という聞きかじった知識を思い出してしまう。
道徳的には、人種差別は絶対的な悪である。しかし、それに抗議する過程で必ずしも公共のものを壊す必要はないのではないか。撤去を求める署名運動を起こせば十分なのではないだろうか。銅像を破壊する意図は正しいが、間違いなく違法な行動だ。違法であるならば、BLM運動の正当性に傷がつくのではないか。結局、正しさには根拠などやはり存在せず、その場の大衆の熱狂しかないのではないか。そんな次々と浮かぶ懐疑に苦しめられた、反差別運動に対しての恐怖まで感じるようになってしまった。
そんな自分に困惑しつつ、久々にリアル書店に足を運ぶと、「あぶない法哲学」という新書を見つけた。法哲学の本らしい。つまり、どうして法律や道徳が正しいのかを理論的に分析する学問だ。
これだ! と私は膝を打った。私のもやもやはこれで解決するかもしれない。早速購入し、一気に読了した。著者はオタクらしく、ところどころ漫画やアニメのたとえが出てくるのでわかりやすい。しかし、レベルを下げたり読者に媚びたりするようなことはしていない。そして、実在の事例や過激な思考実験を見せることで、常識を疑ってかかることを、私に教えてくれた。
この本で学んだ重要な概念として、法実証主義と自然法論がある。
法実証主義というのは、ざっくりまとめると、法律が正当性を持つのは、定められた手続きに従っているからという理由しかなくて、そこに道徳的な価値判断は介在しない、というものだ。そして、どれほど内容がおかしな法律であっても、正当な手続きで撤廃されない限りは、それは守られるべきものだ、とする。
もう一つの自然法論は、大まかにいえば議会で定めた法律よりも優先すべきルールがある、というものだ。さっきと違って道徳がかかわってくる。もちろん、人間の良心や常識は、時代や地域で一貫したものではありえない。しかし、法律が追い付かないほど変化の激しい現代にあっては、法が整備されていない状態での一つの指針・根拠とすべきではないか、と著者は述べていた。
ここで大事なのは、法律を正当化するのは手続きのみであり、それが人道に則っているかどうかは、実は関係がない、という考え方が存在することだ。
ソクラテスの最期はよく知られている。アテナイの若者を堕落させたという不当な罪を着せられ、死刑となった。弟子たちはソクラテスに逃亡をすすめた。というか、当時は死刑判決を受けたらその都市国家から逃亡するのが当然だった。しかし、ソクラテスはあえてその判決に従った。悪法であろうともそれを守る義務がある。私はここで死ぬ。悪法を制定した市民はその結果を引き受けよ。ソクラテスは命を賭して法を制定した市民たちに、自分たちがどれほど愚かな法律を無自覚に作ってしまったか、を訴えたのである。
一方で、市民的不服従という考えもある。キング牧師はアラバマでの激しい抗議活動のゆえに逮捕された。彼の方法は、多くの人々の抗議の模範となった。つまり、自分が良心ゆえに受け入れることのできない法律は自覚的に破るが、国家を尊重しているという姿勢を示すために、甘んじて法の罰も受ける。これを繰り返すことで、逮捕している国のほうがおかしいのでは? と多くの人が考え、行動するようになる。確かに法律を破ってはいるが、法律に従って罰を受けることで、遵法とは別の手段で正義への敬意を示しているわけである。
道徳とは関係なく、法律を制定することは可能である。そして、不正な法律や、放置された不正義に抗議する手段として、法律を破るという方法が理論化されている。よって、違法な手段で正義を追求することは可能である。この結論は、良くも悪くも定められた手続きを重んじるタイプの私としては、非常に大きな驚きであった。
人種差別に抗議する方法として、銅像を引き倒すのは、確かに器物損壊罪だ。しかし、それが正しいと考える人々は、単純な感情で動いている暴徒とは限らない。正しいかどうかはともかく、彼らの立場をサポートする理論化された法哲学が、実際にあるのだ。
自分は、法学部の一年生が学ぶことを、この年齢になってやっと知ったのだろう。だが、こうして知識が増えたことで、自分の感じていた違和感を少しだけ言語化できた。今後は、何らかの形で国際法とその背景の思想について学び、先ほどの例に挙げた、大国の軍事行動の背後にある理論を理解したい。
本論では法律の有効性に対して一定の疑問を投げかけているが、積極的に法律を破ることを推奨する文章ではまったくない。また、法に関しては無知も同然なため、誤解があるかもしれない。ご指導ご鞭撻のほどを乞う。
かつて私たちは「異性に裸をみられたら恥ずかしがるように」と教育をされて育ってきたけど、
その想定の中に LGBT はなかった。相手が実はホモセクシャルだったら、トランスセクシャル同性だったら、その時点では未だシスジェンダーだったら… どう感じるかは人それぞれ。色んな感じ方がありうる。だけど、与えられた教育を鵜呑みにして、自分の中のあいまいなコーナーケースを整理せずに放置して、結果でき上がってしまったナイーブな価値観の示すままにナイーブに反応して他人を傷つけてしまう、という振る舞いを、正しいなどと擁護することはできない。
この先、何に恥ずかしがるべきかの価値観はアップデートされていく必要がある。
前回同じような質問があったとき、はてなブックマークの民意は「カミングアウトしないで風呂や旅行を共にするのは友人への裏切り」だった。2019年のことだったと記憶している。