はてなキーワード: 振り子とは
プロジェクトヘイルメアリー、星を継ぐもの、バビロニア・ウェーブ、天冥の標、息吹を読んで、今は果てしなき流れの果に、を読んでいる。
ランキングみたいなものを検索してみても似たりよったりのちょっと古い作品ばっかり
予想を超えるSF読者先輩様方からのコメント、ありがとうございます
自分の考えるハードSFが分からんとのコメントがあったので...
自分にもハードSFが何なのかよくわかってないが、空想科学の裏付け感が強くあるみたいな感じかなぁ
実際には、「読んで面白かった作品の作家がハードSFというジャンルで紹介されていることが多かった」、と帰納的な感覚でハードSFって呼んでるところがある。
星を継ぐものは進化論とかの話で「ああ自分も知ってる気がする!」となりながら一緒に考える気になるのが面白かった。そうなるとミステリー的な楽しさか。
バビロニアウェーブは解き明かすというより舞台装置としてあるって感じだったけど、人間の未知との向き合い方にリアリティとロマンを感じた。
三体は普通に映画みてるみたいだったな。暗黒森林理論とかなるほど感があった。それと、三重振り子的なカオスが天体規模のものに適用されるとこうなるみたいな発想が面白かった。
ブクマの米にもあったけど、天冥の標が他と比べてソフト気味というのもそうだと思う。ただ天冥はサーガ感がすごい良かった、でかい物語感。キャラが分かりやすくて入りやすかった。
息吹は宇宙モノじゃないけど、人の心みたいなのが表れてると感じて、それが良かった。特に息吹は命とは何なのか?を考えさせられた。
実際の科学(あるいは説得力のある架空理論)が下敷きに置かれたファンタジーって、ともすればこの世界もこうなる可能性があるのかもしれないみたいな感覚になることがあって、
そういう物語を経ると世界とか命とか自分について問い直すことがあって、その体験が得難い...自分の求めるSFってハードかどうかに限らずそういうものかもしれません(わかりません)
私は誰の意志で生きているんだろう
私の意志はどこにあるんだろう
精力的に動けたり、
きっと病院に行ったら躁鬱扱いされて、薬漬けだろうな。数十年前と同じように。
カウンセラーは、話を聞くけど、最終的には自分たちのやっている療法の「型」に私をはめ込もうとするだけだ。
結局、誰にも、何にも、できることはない。私もだ。自分をどうすることもできない。もはや何を信じて良いかわからない。
刺ぬ勇気も無い。
私の親は愛情深く私を育てすぎた。
とてもできない。
明日の朝になったら、ギリギリで跳ね起きて仕事に行くだろう。内面空っぽのまま、その日の仕事をこなすだろう。
何も積み重ねることなく、
何も為すことなく、
ただ両極端を行ったり来たり。
問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい 川北 天華
川北天華。当時は進学をめざす高校生。進学は最終目標ではなく過程のひとつだろう。
単語と語法は平易。しかしそれらはすべてべつの何かを表象する。示唆により言外を表象するテクニックは掛詞とよばれるが、この歌は全句が掛詞で構成されさらに全体として言外のなにかを表象する。このため通常の和歌の範疇を超え、たぶんに神話的な雰囲気を持つにいたる。
配置
物理か地学の問題文をなす歌を助詞などを除去し単語をならべその内容を検討。
内容は上記のとおりテスト、光景に二分され、交互にならんだふたつの要素がリズムを形成している。
テスト、光景、ふたつの要素は卑近。受験をひかえた高校生という状況をあてはめると、この世代特有の神話的要素がうかぶ。
テスト、光景という対極を交互につなぐ構成は内外両極を往還するリズムを生んでいる。対句法ではくくりきれない振り子のようなリズムである。その振り子は往還をくりかえしながら全体をある方向へとすすめてゆく。机上の1枚の切片にしるされた問12という即物的な文言は夜空を数式で描けと命じそのときは下界を無視せよと結ぶ。一枚の切片がもとめる問いは振り子のようなリズムのなかで一瞬にして無限の宇宙へと拡大し発散する。読者はこの内外両面、両極往還のリズム、そして机上のちっぽけな紙片から数式をとおして一気に宇宙にひろがる強力なベクトルによってここちよく翻弄され、さまざまな記憶作用を楽しむことになる。じっさいのところこのリズムとベクトルは、おとなとこども、他発と自発、受動と能動、服従と自立ーつまり境界面を生きる高校生の生活のリズムとベクトルそのもので、それらが作者、あるい読者のこころのゆらぎそのものを表徴する。
問十二
夜空
青
街
明り
良い
各々の単語および叙述は高校生にとって卑近ではあるが軽くはない。試験問題、ふと見上げる夜空、その奥にひろがる宇宙。それらは作者の人生の主要な一部、あるいはすべてかもしれない。ひとつひとつの単語が表層の意味から遊離して現状と行く手の不安、悩み、探求、願望、希望、決意といった、思春期から青年期にかけての心象を表象する。この歌は、読者ひとりひとりに当時の記憶を想起させる力を持つ。
展開は三部で序破急をとる。
テストの問題文からはじまる文章表現はそもそも斬新なのだが、それを体言止めとして何かを宣言している。この宣言は直裁に読者にとどき、読者はこの歌とともに問いに挑むことになる。
十二は天文や暦法と関連がある。詠人だけにわかる何かの符丁かもしれない。だがそんな読み解き以前に十二月は受験シーズンであり、夜空がもっとも冴えわたる季節でもある。受験生たち、あるいはかつての、そしてこれから受験生となる読者たちは、冴え渡る夜空にひろがる大宇宙を仰ぎ何を思うだろう。
この衝撃はじゅうぶんに非凡な序を一気に振り切り読者を天空に打ち上げる。
微分される夜空の青とは何か。
それは学問的対象として規定される夜空であり、それゆえ純粋に観察と探求の対象であり、その分野への進学を目指す詠み人にとって、それは宇宙であり未来であり、そして自分でもあるだろう。それだけではない。その解をもとめる読者じしんの姿でもある。
街のあかりとは成功し定着したものたちの放つ光、そうしたしがらみとははなれた位置にいる受験生にとって、街のあかりは外部か雑音にあたるかもしれないし、いつか自分が再参入する場所かもしれない。
この歌はテストの問題文そのものであり、解答は記されない。作者はこの問いに答えることも思考の過程を示すこともせず、それらすべてを読者に投企している。そのため読者は作者の投げかけた問いの答えを探すことになる。読者は自問し夢み思惟し想像し記憶を想起する。歌を鑑賞することで作者の心象に分け入る作業がいつのまにか自問となり、ときには自分の過去、あるいは未来、そして今この瞬間を投影する。
上記のような構成は、ありていに言えば時分の歌、青春期限定の叙情歌といっていい。さしあたり言語機能の極限をさぐる現代短歌のなかではこうしたテーマははやらない。ではそれだけを根拠にこの歌の価値を限定できるのか。
そうかもしれないが、それで終わりにしてほしくない。なぜなら、こうした心のゆらめきを大切に記憶し想起し記述する行為は自己と世界のはざまから生まれる認識の、つまり哲学と科学の原初のすがたであり、その姿勢が現代短歌の流行からはずれていようといまいといっこうにかまわないから。
結句を復唱したい。
俗世、しがらみ、現実などを表象する「街の明かり」を無視してもよいと歌い上げる。かそけき深き空の青さが真実ならばその対極にある現実など捨象してかまわないとも歌い上げる。
時分の歌かもしれないが、そこに込められたまっすぐに真実を見ようとする迷わない力をわたしたちは大切に保持してゆきたい。なぜならそれはたぶん、うしなってはいけないものだから。
「音の速さを86人で可視化する」「パラボラアンテナで大量のボールを跳ねさせる」とかは明確に面白かったんだけど、「(空気圧で)力士を持ち上げる」「(イカダで)象を持ち上げる」「(大量の卵で)ラクダを持ち上げる」「(電磁力で)人を持ち上げる」「(摩擦で)力士を持ち上げる(二回目)」「(梃子の力で)70トンのトレーラーを持ち上げる」「時速100kmの車で慣性の法則」「時速140kmの車で慣性の法則」「時速50kmの車で慣性の法則」「時速100kmの振り子を作る(だけ)」とか、ネタとしては面白くないけどスケールだけで強制的に絵面を面白くしようとする感じとそのためにとんでもない予算がかかっていることを考えるとあんまり素直に楽しめないのがうーんってなった
安倍晋三という人は非常に凡庸で、具体的な政治指針もなく、しかしその時その時の流れに上手く乗ってなんとなく生き残るタイプの政治家であった。
それは彼が一番最初に脚光を浴びた北朝鮮協議と拉致被害者帰国の時もそうであったし(彼はそれまでに北朝鮮問題に深い興味を示したという記録も伝聞もないが、以降はずっとあの青リボンをつけている)、
その注目度から幹事長に大抜擢され、官房長官、さらには首相にまで上り詰めた。
しかしその政策は小泉政権を継承したもので、彼の独自性はほとんどなかった。もっとも前任者があまりにも政治家として強い個性の持ち主だったということもある。
だが、政府・自民党ともに彼にその統率が取れていたとは言いがたく、政治家、とりわけ首相の適正には疑問がつきまとった。どうにかまとめ上げられたのは、自民党になんとなく漂う保守思想とそれを具体化した「美しい国」という空虚なスローガンがあったからだ。
だがあいまいとした政治思想だけで日々の政治が回るわけもなく、様々な政治問題が噴出。現役農水相の自殺などというトップクラスの政治暗部が明るみになったところで、参院選敗北。自身は病に伏して一度表舞台を去ることとなる。
1度目の華々しい舞台は、あまりにも役者不足、という結末に終わった。
だがそこで政治生命が終わらなかったのは、血統のなせる技と祖父譲りの悪運なのか。
民主党政権が機能不全に陥ったところをとどめを刺す形で震災発生。この社会不安から生じた反民主・2000年代回帰の流れ(いわば振り子運動である)に乗る形で、周囲の反対を押し切って総裁復帰・そして首相に返り咲く。
そして今日再び病に倒れる形での辞任を表明した。
この第二次政権ははたして、どんなものであっただろうか。まだその総括は出来ないかもしれない。
政権成立直後、目に見える形で株価はバカみたいな上がり方をした。株価先導の形で企業業績は回復し以降6年景気を押し上げた。大量の金を市場に注ぎ込む金融政策は一つ結果を出したとは言える。
しかし結局くだんの3本の矢は揃わずじまいで、このコロナでこの政策はいよいよ手詰まりである。
これも含め、本来であれば政府政権与党一丸となって一環した指針の下、さまざまな政策を大きく動かさなくてはならなかったが、結局政権初期以外そういう形はほとんど見られなかった。
結局のところ、安倍晋三首相は同じことを繰り返しただけではなかったのだろうか。首相として各所への人選は悪くなかったが、配置した人材をほとんどコントロールできず適切な機能を与えることが出来なかった。
本来であれば各省の歩調を合わせ利害関係者の調整を行うべき内閣官房(官邸)は、各職が見えない権力を握る中、政府内のただの権力装置に成り下がり、効率的かつ効果的な施策の支障を来すまでになった。
首相本人が制御を行うでもなく、その権限を適切に行使することなく、その権力装置自体が権威化して好き勝手に行動してしまう。第1次と第2次の問題点の違いはそこに突き詰められそうだが、それは結局、共通して安倍氏本人が役者不足であったのだろうという印象だ。
あまりにもなにも背景が見えない凡庸な彼の素は結局、政権交代直前野田元首相との党首討論の時のあの、終始自分の判断を先送りし他者に判断をゆだねる彼だったのではないだろうか。
最近、ノーコードが流行っていますね。誰でもコーディング不要でWebサイトやアプリが作れちゃう。
中には、それで収益を上げている人もいるようです。
ただ、ガートナーのハイプ曲線で見ると、今ノーコードは流行期だと思います。
なので、これから反動期がやってきて「やっぱノーコードはダメだ!」という時期がやってきます。
なので、少し気が早いけど、ノーコードの次に流行りそうなモノを予想したいと思います。
私はノーコードの次にクラウド開発環境が流行ると思っています。
今って殆どの場合、ローカルでターミナルやVSCodeを立ち上げて開発しています。そ
れらを全部SaaSが提供するサービス上で開発する流れがくるんじゃないかと思っています。
私が思うに、開発環境って全然クラウドネイティブじゃないんですよね。
プログラミングをやるためには、ハードウェアもちゃんとしたものを揃えないといけません。
少し前、メモリ16GB以下のPCだと人権がないというツイートがバズっていました、まだまだハードウェアに依存している部分が多い感じです。アプリ開発だと、未だにPCとスマホをケーブルで接続するか、同じネットワーク環境に接続する必要ありますしね。
そこで、もし開発環境がクラウド化してSaaSとして使えるようになれば、ハードウェア的な問題には悩まされず、家ではノートPC、移動中はスマホみたいな感じで開発できるようになる時代がくるかもしれません。
https://speakerdeck.com/twada/understanding-the-spiral-of-technologies
こちらのスライドは、 Developers Summit 2018 でベストスピーカー賞を取った和田卓人さんのスライドです。
技術の変化は流行り廃りの振り子のように見えて、実は螺旋状に進化しているということが書いてあります。
このスライドでは、集中と分散が例として上がっていますが、ノーコードにも同じことが言えます。
実は、数年前にノーコードによく似たMDAという技術が登場したりしました。
登場した当時は今のノーコードっぽい持ち上げられ方をしていて、エンジニア不要論がでたりしてました。
しかし、残念ながらMDAは開発の主流になることはありませんでした。
ツールが高いなど、いろいろ敷居が高かったことが原因だと思います。
じゃあ、ノーコードはMDAと何が一番違うのかというと、SaaSとして提供されていることだと思います。
誰でも、そのサイトにアクセスして、アカウントさえ作れば、開発をスタートできます。料金も無料から初められるものが多いです。この手軽さが、MDAにあったエンプラ感を解決し、今のノーコードの流行を後押ししてるんじゃないかと思います。
先程の技術の進化は螺旋理論で行けば、ノーコードで取り入れられたSaaS化の流れが、今のコーディング環境に取り入れられる未来も想像しやすいと思います。
ネットに繋がりさえすれば、すぐにどの言語でも開発をスタートすることができるようになれば、多くの人にプログラミングの門を解放すると思います。
先日、GitHubがオンラインエディタとしてVSCodeベースのエディタが使えるようになることを発表しました。
すでに、GitHubはActionやPagesなど、ビルド環境やホスティングのサービスを展開しています。
そこに、エディタも登場してきて、いよいよGitHubだけで全てが完結してきそうな流れがでてきました。
オンラインのプログラミング教育サービスのPaizaやProgateもクラウドで開発環境が用意されブラウザでアクセスするだけで、すぐに使えることを売りにしています。
この流れで、toB向けの開発環境も、どんどんクラウド化していくんじゃ何でしょうか?
近い将来、GitHubのアカウントさえ開設したら、アプリやWebサービスの開発から公開まで行える時代がくるかもしれませんね。
今のノーコード系ツールって、コーディングは不要にしたかもしれないけど、設計力は求められるんですよね。
むしろ、ノーコードでアプリを作るほうが、実装のサンプルが少ないぶん、普通のプログラミング言語より、設計力求められるんじゃないでしょうか?
今どきは、どの言語でも少しググれば、やりたいことを実現する方法はでてきますしね。
なんというか、今のノーコードは、NewsPicksの記事がでたあたりから、バズワードになっちゃった気がします。
「コーディング不要でアプリが作れる!」という言葉だけ一人歩きして、プログラミング能力自体が不要と勘違いさせちゃってます。
たぶん、もうちょっとしたら「コーディング不要」につられてやってきた大量の人が「やっぱダメじゃん」って言い始める時期が来ると思います。
多くの人は、アプリやWebサイトを作る設計力は持ち合わせていないと思うので...。
次にノーコードが流行り始めるとしたら、設計も面倒見てくれるようなツールが登場するころだと思います。
そのときに、ノーコードいう名前か、別の名前で呼ばれているかはわかりません。
というわけで、ノーコードの次はクラウド開発環境が来る!という予想でした。
もし、この予想を信じてくれる人は記事を「いいね」してくると嬉しいです。
最後に、ノーコード自体は、多くの人にアプリ&サービス開発の扉を開かせる大変素晴らしいツールだし、無料で始められるので、気になっている人は片っ端からやってみることをオススメします。
それでは。
国立新美術館の「古典×現代2020」に行ったんだけど、現代美術ってつまんねえなといまさら。
菅木志雄
宣伝動画で「来る人は美術館に石ころがあると考えませんから」なんて言っているけど、感覚が半世紀くらい遅れてんじゃないのこの人。いまどき美術館に石ころがあった程度で、なんも思わんわな。それとも現代美術ファンは、美術館に石ころがあったらびっくりするの? そんなんだったら、徳川美術館で水石「夢の浮橋」見たら、腰抜かしてしまいそうだな。まして国立新美術館は美術館ではなくて、美術館を詐称する展示場なんだが。
いい写真だと思うよ。インスタで流れてきたら迷わずいいねを押すだろうね。その程度。
棚田康司
円空と並べて展示してつらくなかったのかな? 作品の持つ力の差が歴然と感じたが。まあ、本人やファンが満足ならいいけど。
皮緞帳は粗大ごみにしか見えんかったというのは置いておくにしても、刀剣とのスケールの差が大きくて「組み合わせた壮大なインスタレーション」と感じ取るのは難しいな。現代美術ファンは器用だ。なお刀剣展示の照明ダメじゃね。刃文見える?
田根剛
中では唯一作品を展示していなかった。仏像展示の演出のお仕事。動く照明と録音された声明だけのインスタントでチープな演出。本物の宗教儀式が、さまざまな工夫を凝らして神秘性を演出しようと努力しているのに比べれば、子供だましみたいなものだ。
おもしろいパロディではある。こっちはツイッター映えか。アニメーションは途中までしか見てないから何とも言えない。
印象うすい
さすがに力のある作品で見応えがある。ただ、「針のない時計は〇〇(忘れた。時間の超越とかそんなんだった気がする)を意味します」みたいな作品解説を読んで、深いなあなんて思わなきゃならないとしたら、俺には現代美術は無理だ。
古典の方は見応えあるよ。念のため。
【追記】
「古典×現代2020」について、古典側も含めて、もう少し詳しく書いてみる。
仙厓の作品は掛軸1つ。円相図といって単なる○が書かれている。○には悟りや真理、仏性、宇宙全体などと宗教的・歴史的にいろいろな含意があるようだ。添えられた賛がいい。「これくふて御茶まひれ(これ食ってお茶を召し上がれ)」。
洒脱だねえ。かっこいい。この作品初めて見たんだけど、賛を読んで、ふわっと心が軽くなるような感じがして、ああいい作品を見たなあと。
それに比べて菅の作品。それっぽい思わせぶり以上の何かだとは思えないな。解説聞いたら納得や感動するの、これ?
川内の写真は数が多くて辟易した。いちいちつきあってられんわというのが1番の感想。前回インスタ云々と書いたけど、でかく引き伸ばした写真とかもあり、それはそれででかい会場で展示する意味はあるのかもしれない。ただちゃんと選抜してくれ。花鳥画の方は6幅なんだよ。
花鳥画の方で目を引いたのは、森蘭斎筆/梁田象水賛の牡丹図(神戸市立博物館蔵)。背景に大きく描かれた太湖石は伝統的な描法。手前の牡丹は西洋画の影響をうかがわせる陰影がついている。でありながらうまく調和していると思う。おもしろい。賛は読めんかった。誰か教えて。
棚田の作品には全然目が行かなかったんだよなあ。円空いいなと思ってただけだった。荒々しさというか生々しさというか、そういうのがいいよね。というわけで、棚田作については何も言えない。
いちおう言っておくと、もともと円空あんま好きじゃなかったし、今回で好きになったというわけでもない。それでも円空ばっか見てたのだ。
mitimasu 冷たいドブをさらって原石を見つけるのが楽しくないなら向いてない/刀剣は手に取って角度を変え光の当て方を変え…という見方ができない以上、どこの展示もそんなもんだと思うけど?国立新が特にひどいのか知らんが
刀剣の展示は、1つ1つに小さなスポットライトが当たっていて、それを刃文のところに乗せるように見ると刃文が浮かび上がるようになっているのよ。そして横にスライドしながら刃文を見ていくと。刀剣博物館でも東博でもなんでも、刀剣展示ってのはそういうもの。
今回の展示ではそのスポットライトがなかったはず。だから見えない。
ひょっとしたら俺が見落としていただけなのかもしれない。また、刃文の見えない展示もありだよねってことなのかもしれない。いずれにせよ、日本刀にそれほど興味ないからなんでもいいんだけど。
会場内で配られていた「アートのとびら×作品リスト」なるガイドブックに、別の機会での皮緞帳の展示の写真が載っていて、それで見るとこの作品なかなかよさげなんだよなあ。ライティングが異なる。あと中央にぶら下がって振り子のように揺れていた首がないのがいいのかな。
そのガイドブックには、「同じ部屋に展示されているのは、美術品としてケースに入れられている刀剣です。刀剣はかつては武器、または切る道具でもありました」とある。これ書いた人って、刀剣の展示を見て、自分の体が切られるようなぞくぞくする感覚を味わったことがないのか。もうちょっと古典の作品としっかり向き合おうよって思う。
前回子供だましだと書いたけど、ツイッターみると評価高いのよね。意外だ。
他の作家と違って、この人は作品を制作せず、仏像の展示演出を手掛けている。演出手法は光と音で、具体的に言えば動き変化する照明と録音された声明だ。
立体物の屋内展示で照明が固定されているということに以前から不満がある。屋外ならば太陽の位置で影の付き方が変わって見え方が違ってくるからね。たとえば上野の国立西洋美術館に行く楽しみの1つが、今日はロダンの地獄の門がどんな表情を見せてくれるのだろうかということだったりする。
だから今回の田根の試みのうち、照明を変化させる、動かすという点自体は評価したい。ただその変化のさせ方や動かし方については、もう少し考えがあってもよかったのかもしれないと感じた。
正面下方から照明を当てる瞬間があるけど、これはいい、というか正しい。お堂に安置された仏像は、下の方に置かれたロウソクの火に下から照らされる。だから仏師もそれで映えるように仏像を作っているはずだから。しかし、仏像の周囲にいくつかのピンライトがあって、それが上下に等速度直線運動してるってのはどうなのって思った。
まあ、しかし照明の方はまだいい。音の演出の方はちょっとひどいのではないか。録音された声明をスピーカーで流しているんだけど、音響についての工夫がまったくないのね。仏像に向かって右手、部屋の奥の方にスピーカーがあってそこから流れているんだなってのがわかる。どこからともなく聞こえてきて展示室内を包み込むような感じに聞こえるとかそういうの全くないの。音響について完全になめてる。
さらに言うと、仏像の展示位置が低いと思う。立って見ると正対するほどの高さ。一般に仏像は高い位置に据えて、仰ぎ見るもの。その下からの角度で見て映えるように造られているはず。この仏像の一番映える角度がどのあたりかは知らない。しかし今回正面から見て違和感を覚えたから、下からの方がいいと推測する。そういった点、たぶんこの人なにも考えてない。
出品しているのが大きく2種類で、うち1つがアニメーション。これは半分くらいしか見てない。なにも惹かれるところがなかった。
もう1つは、冨嶽三十六景のパロディ「ちょっと可笑しなほぼ三十六景」で、いくつかの作品を元ネタの北斎作と並べて展示していた。
北斎の冨嶽三十六景は三十六景といいつつ、追加があって全部で46図ある。一方パロディ版が全部でいくつあるのかしらないけれど、きっちり36ではないからなのか「ほぼ」とついている。三十六景といいつつ平気で10枚追加したあげく、三十六景のまますました顔をしているところの江戸っぽさ(前近代っぽさ)と、きっちりでないので気になって「ほぼ」とつけてしまう現代っぽさの対比が興味深い。
それはさておき、このパロディけっこういいのだ。うまくて唸らせるし、おもしろくて笑わせる。
でもね、「和紙にインクジェットプリンタ」なんだよ。実物見る意味なんて全くないからね。前回「ツイッター映え」と書いたのはそういう意味も含んでいる。なんつーか、いろいろ退化してるね。
伝統×現代アートという切り口から、伝統的な作品の「もの」性を再発見していく展覧会だと思いました たとえば皆川明×尾形乾山の展示を見て、私は初めて乾山の器の「素材」を認識しました そうか、これは焼き物だったんだ!という新鮮な驚きがありました
ちょっとびっくりしたよね。乾山見て焼き物だとわからないような〇〇〇がありがたがってるのが現代美術ってことなのかな。
このコラボレーションは2種類に分けることができて、1つは独立ケースに乾山作が収められており、その上に大きく平たい円筒状の布(皆川作)がぶら下がっているというもの。6セットあった。これは両作を同時に視野に納めるのが難しく、あまりうまくいっていないように思えた。
もう1つは、小さな様々な端切れが継ぎ接ぎされた数メートルはあるかという布の上に、ところどころ乾山作の陶器陶片が置いてあるというもの。ごちゃごちゃしたものの上だと乾山は映えないなというのが感想だけど、皆川明、というかそのブランド「ミナ ペルホネン」は明らかに自分がターゲットではない(というかそもそも初めて聞いた)ので、これが素敵だという人がいるなら、その感想についてどうこう言うつもりはない。
乾山の作品では「色絵石垣文角皿」(京都国立博物館蔵)がお気に入り。モダンな味わいがある。かわいくてすてきだ。
この展覧会に行った理由は蕭白。蕭白が4作出てたら行かざるを得ないよね。で、行ってみたら現代美術作品がつまらなくて、ひどい言い方だけど抱き合わせ商法にあったような気分になったわけ。
新出の游鯉図の眼がリアリティあって見事だった。群仙図屏風(東京藝術大学蔵)が、個人的に蕭白と言えばこうのって作品で大好き。
宣伝動画のなかで横尾は、人間の本質・魂の表現が蕭白の作品の中にこめられた重要なメッセージで、現代人が見失ったものだみたいなことを言っているんだけど、これ賛同する人ってどれだけいるんだろ。まったくピンとこない。
行ったよ。特に第1部はすてきだなと思う絵が多かった。ただ基本的に個展っていまいちよね。いろんな人の作品が見れた方が楽しいな。そのなかに数点ドイグがあったら、より魅力を感じたかもしれない。個人詩集よりアンソロジー読んだ方が楽しいし、好きな詩がより映えるよねみたいな感じ。個展だとその作家をどのように位置づければいいかもわかりづらいし。いまああいった絵を描きつつ評価されているというのは、いったいどういうことなんだろ。
yama_bousi 現代美術で自分が好きな人は、淺井裕介氏、高松和樹氏、蔡國強氏、ちょっと古いのではキースへリング、藤城清治氏、あとドールの世界とか凄いなあ、と思う。現代美術とは違うがぴろぴと氏は大好き。