はてなキーワード: 博愛とは
近年のヒトラー・ナチスものの映画なんて大体そんな感じじゃん。あと古いとこだと、「風と共に去りぬ」なんてヒロインの家族とか周りの人間は全員KKKだよね。悪漢小説(ピカレスク・ロマン)というのも歴史的に見れば流行ったことあるし、あと、「元敵だった主人公のサポート役」なんかにはそういう存在もいるよね。
まあマジレスすっと、要するに差別主義者って「当たり前にその辺にいすぎる」から主人公属性を持ちにくいんだよね。「その辺にいる普通の人」になってしまう。増田が「差別主義者の主人公見てえなあ」って思うんだとしたら、きっと身の回りに差別主義者がいないんだよね。人ってフィクションには日常と異なるものを求めるから。まあそれは幸福なことだと思うよ。ただ、なかなか人類社会そこまで進んでねーから、そういう作品がまだなかなかメジャーになりにくいんだと思うよ。うん。世界人類に博愛・平等・平和が実現したら、たぶんそういうフィクションが地に満ちるんじゃないかな。
タイトルそのまんま。
恋人のような人は過去何人かいたことがあるけど、最終的に友達みたいになって終わった。全部。
当たり前だ。私が性愛と家族愛と友愛のうち家族愛と友愛しか知らないのだから。
性愛をそれら二つでなんとか繕っているうちにいつも終わりがやってくる。
大学生の頃に私を好きになってくれた人ともやはり結婚しか考えていなかった。
院生の頃も仕事をはじめてからもどの相手とも最初のデートの段階で結婚しか考えていなかった。
正直、それまでのなんやかんやに一切の興味が湧かなかった。
でも根が真面目でかつ博愛主義なので知り合った人には幸せになって欲しいと願っていたから色々頑張った。
恋をしている振りもした。一度も上手くできたことはないのだろうけれど。
恋をしている振りをするために恋愛ハウツー本を読むというあべこべな方法論を採用した。
または情を恋心と勘違いしていたから鬱傾向の強い人と付き合うことも多かった。
そう。
自身に恋愛感情というものが一切ない、ということを受け入れたのはつい最近だ。
はじめての彼女には「俺は初恋ってなかったんだよね」とは言った。そして泣かれた。
けれどそれでもどこか、信じていたのだ。
私は恋をしている、と。
そして情、友愛、そして家族愛を恋心の代用品として使用していたら20代が終わっていた。
迫られたことはある。それでもなぜか手を出さなかった。いや、その時は「なぜか」と思っていた。
今考えてみると当たり前の話だ。性欲がないのだから。
年収 750 万。
東京大学卒。
この情報を使えば婚活すればどうにでもなるのだが、やはりどうにもならない。
恋心も性欲もないのだ。
今、私を好きだと言ってくれている女性がいる。
私はその人と結婚したいと思っている。
でも、恋はしていない。そんな状態の私が彼女をどう誘えばいいのか、それが分からない。
ただそれでもやはり結婚がしたいんだ。
私は人を愛することはできる。
ただその人に対する独占欲が一切なく、その人に入れ込む心情が一切ないだけなんだ。
だから今でも、そう今でも自分がアセクシャルなどとは認めていない部分がどうしてもある。
恋している人を見るとどうしても気持ち悪く感じてしまう自分から目を逸らしながら
せめてホモセクシャルやトランスジェンダーに生まれていれば良かったと何度思ったことか。
自分がそれらではないのか?と疑いひたすら女装をしていた時期もあった。
またはロリータコンプレックスではないかと疑いアイドルを追ってみたりもした。
熟女好きなのではないかと疑い年上にちょっかいを出したりもした。
だから私の知人は、私と主に一緒にいた時期によってどう私の性的指向を把えているかが変わる。
ただそのどれでもなかったのだ。
そしてこの年齢になってやっと受容してしまった。
ただそれでも結婚して、家庭を持ちたい。
グイチャルディきましたか。1802年にピアノソナタ14番《月光》を献呈された女性。ベートーヴェン死後遺言書に書かれた有価証券と共に見つかったミニチュアの細密画に描かれていた人物。1803年に結婚してベートーヴェンとの関係は切れたと思うけど、ここも少しずらしたか。
ふむ話の流れからしてやはり初演だったっぽいけど、初演時点ではもうナポレオンへの献呈はやめてたはず。これは、ベートーヴェン→ナポレオン終始尊敬説を取ってるのか、時間軸を変えてるのか。
そしてウィーンの王侯貴族との会話の中でナポレオンを礼讃するアグレッシブな自由主義者ベートーヴェン(第3番はナポレオンへの献呈をやめるまえの題名は『ボナパルト』だったけどこれは『英雄』になってる。ボナパルトは英雄だよ、という表現か)。
ナポレオンて、いい人?ナポレオン掘り下げの予習はやや足りなかったか。
かつらをかぶらない"芸術家"爆誕。宮廷や教会に雇われずに自立して生きた最初の作曲家ベートーヴェン。
難聴。クララ・シューマンの映画『愛の調べ』(『翼ある人びと』きっかけで鑑賞)でのシューマンの病気の表現もこんな感じだった。実際にベートーヴェンの難聴が始まったのは1796年ごろ、かな。
きましたな。
ゲーテ 「不幸な人間たちが、重荷を背負って喘ぎ喘ぎ世間を渡っていき、それでも例外なく、この世の太陽の光を1分でも長く見たいと願っている」
ああ!月光がウェルテルにつけた音楽になっとる。ピアノソナタ8番《悲愴》は出てこないんか、望海氏2楽章練習してたし弾くと思ってたんだけども。
きた、なんか美しい、構図、なんたってBGMが美しいのもある。
!うつく、し、おんがく。幻想的シーン。でもこれむつかしそうだ。ごめんウェルテルたち全然見てなかった。
シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)。感情の自由と人間性の解放。ロマン主義の先触れ。小説の出版は1774年(ベートーヴェン4歳)。フランス革命より前。
謎の女=死
第2楽章もきたー、はぁ、好き。美しすぎる。
ロールヘン「美しい曲、月の光みたい」
月光ソナタの呼称はベートーヴェンの死後、ドイツの評論家、詩人のコメントに由来。
実際は先に触れたとおりちゃんと献呈している。
映画『不滅の恋/ベートーヴェン』には、難聴のベートーヴェンがピアノに耳をつけて《月光》を弾く非常に美しいシーンがある。グイチャルディとその父親がその姿を覗き見て、その後グイチャルディはベートーヴェンに近づき肩に手を置く。気が付いたベートーヴェンは怒り狂って飛び出す。ベートーヴェンの耳が聞こえていないことがわかったグイチャルディは、翌日ガレンベルク家に嫁ぐ(実際は本作で描かれた通り身分違いのためとされている)。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』は、グイチャルディに捧げるために月光ソナタを作曲しているところで、手塚氏が絶筆(実際は曲は先にあり、献呈は後付けだったとのこと)。
ふむ。ハイリゲンシュタットの遺書(1802)くるか。でももう《英雄》の初演終わってるけど。
ハイリゲンシュタットの遺書は難聴とグイチャルディとの恋愛の破綻に苦しんでる時期に書かれたらしいけど、青木やよひ氏の著書では、失恋しても特にそんなに凹んでなかったとも書かれていた。
王侯貴族の使用人にはならない、と言いつつ貴族の娘ばかり好きになるベートーヴェンね。出会いがないのか、ジュリアン・ソレル的な感じなのか、障害があると燃えるタイプなのか、潜在的に結婚すると創作の妨げになると思っていたのか。
耳が聞こえないって、この静寂か、恐ろしい、と思ったのはここだったかなあ。
【回想】
ベートーヴェンがウィーンへ出るのは1792年。ヴェーゲラーとロールヘンが結婚するのは1802年、ロールヘン30歳のころ。この時代にしては晩婚のロールヘン、実はベートーヴェンが帰ってくるのを待っていたのではないかと青木やよひ氏は推測しているらしい。
ああー、ウェルテルがピックアップされてたのは、、自殺もキーワードだったか…。
ウェルテルと同じ。
嫌悪感って凄まじいもんな
でもまぁ他人を嫌いになるぐらいドス黒い精神持ってるんだから別に差別がどうとか気にしなくていいよ
ただ嫌いになった要因の一つ一つをちゃんと考えて、じゃあこれは平気だな、これは嫌いだけどこれは別にアイツ関係ないなって思えるようになったらそのうちわざわざ嫌いになってる意味合いも無くなってくると思う。
まぁ後『無理』と『嫌い』を一緒くたにしちゃう人もいるから、そこら辺は増田で考えて
嫌いが行き過ぎると無理になるというか、人間全てを受け入れられる程人間の懐って広くないんだから
だったら食べられるものだけ食べられるようにして後は食べなくていいものを避けるようにしておけば、わざわざ嫌いにならなくても、良くなるんじゃないでしょうか。
あと動物は基本的に差別するように出来てるから、じゃないとゴキブリや排水溝走り回ったネズミに指食われてもニコニコ笑って生きなきゃならなくなるだろ
8 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ ff01-1cJe)[] 投稿日:2021/01/12(火) 11:01:15.63 ID:e9gt8cx+0 [1/15]
バカのために言っておくけど
704 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 7fae-YVFe)[] 投稿日:2021/01/12(火) 12:59:43.92 ID:xADvWr1u0 [2/2]
には二つがある
まず、ネトウヨの場合には「差別は悪であり、世の中から無くさないといけない」という
そんでは本題に入るわ
「国が差別を禁じないといけない」「なぜなら、人民の正義を国は執行する義務があるから」
そうなるとフランス型なら、法律ではトランプの煽動表現を禁じたり、ナチス礼賛を禁じるわけだ
昔は違って自主規制だけで対処してたんだけど、在特会問題やネトウヨ問題で、人権救済の制度を作らないといけなくなったからね。
一方、アメリカは
「差別は悪い事で禁じないといけないけど、禁じるのは当然、俺らが自分たちですべきだ」
「国ではなく、俺たちが俺たちの正義や一般意志を執行すんだよ」
てことね
「民で対処をする」
つまり
「あ、こいつ差別主義者だわ」「俺らの共同体や組合・団体から追放するわ。だって俺らの自由だし、それが俺らの価値観だし」
「私の所有するアパートに、差別主義者なんか、住んでてほしくないわ!2週間以内に出ていって!」
とかの権利があるわけ
そうやってレイシストはNBAから追放されたり、大学や企業からも追放できるわけ
そうなると、アメリカ型なら
「トランプの表現をアメリカtwiiter社は赦しません」になるし
許せば、凄まじい、消費者団体・市民団体が本気の圧力をtwitter社にかけるわけ
まぁ日本にもフランスにも、アメリカにもトランプは居場所はないよ。
で、今回は
意見表明の自由を制限する行為は「法に基づくべきだ」とドイツのメルケル首相。
EUの公聴会はアメリカに先駆けてtwitter社やyoutube車を何度も呼び出してる。規制圧力としてね。
件名のような気持ち (注:正確には 「コンピュータ支援などを使ってもいいから、自分の心の中のイメージを思い通りに絵で表現するような体験をしてみたい」 というような気持ち) を知人に話したところ、それは生業として絵に関わっている人(知人はそうであった)にとって侮辱であり、唾棄すべき考えである、というような答えをもらった。
たしかに知人相手に、絵を例に挙げてしまったのは、いささか無神経であったかもしれない。
しかしながら、いくら議論をしても、私はこの気持ちがなぜ否定されるべきものなのかわからず、知人もなぜそのようなことをして嬉しいのか理解できない、という平行線だった。
私の主張をまとめておきたい。
以下、それに対する知人の考えを、断片的にではあるがまとめておく。
ただし、私の乏しい理解度により、知人にとっては不本意な内容になっているかもしれないことは承知願いたい。
これに対する私の考えはこうである。
後者に関しては私もそう思う。体験提供においても、単なる一方的な映像提示でなく、自分が起こしたアクションが世界に影響を与えて返ってくる、というインタラクションが大事だと思う。
とりあえずこれで終わりにしたいと思う。多分この会話は、上記に書いていない導入の部分から、すでに互いにすれ違いがあったような気もする。
私は最後に、知人に対して、絵を例にあげてしまったことを詫びた。
私自身も、絵や美術的なことに関して憧れがあったが、他のことへの鍛錬を積む代わりに、絵には何もしなかった経緯がある。
それによって成したものもあり、現状に納得はしている。
それでも素晴らしいイラストなどをみると、もし私もこのように、心の中にあるイメージを思い通りに絵にすることができたら、どんな気持ちになるのだろうか、と淡い不真面目な憧れを捨てずに持っていた次第である。
最後に、これは特に知人には言わなかったが、アートやスポーツなども、「そんなふぬけた考えは侮辱だ」などと言わずに、「あなたは私のそこが楽しいと思ってくれるのね、ありがとう」という風に、博愛的に受け入れてくれる心があってほしいな、と思った。
多分消す
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当事者アピールのために先に自己紹介させてもらうと、俺はギリ健男性だ。
ギリ健って言っても変な自称発達とかではなくて、数年前にカウンセリング系の施設で専門職の人から3時間くらいかかるちゃんとした検査を受けて、その結果、「正式な認定を出せる医療機関で検査を受ければ、医者にも依るけど高い確率で軽度発達障害として認定して貰えるだろう」と言われている。
ただ、社会的に発達障害者として認定された上で生きることのデメリットも考慮して、結局認定は受けなかったので、あえてここではギリ健と名乗らせてもらう。
「生きづらい人のために」と謳いながら属性で線引きするのかとか、『発達障害男性出禁』ではなく『女性限定』にするべきだったとか、無理バー側の態度・対応なんかに対する批判はまあ納得できるんだけど、『発達障害男性』をターゲットから外したことそのものが批判されている現状が、俺は生きづらい勢の人間の一人としてかなり良くない流れだと思っている。
この手の生きにくさを抱えた人のための支援や互助系の組織・団体って、抱えているモノの重みや本人の気質・属性がその団体とマッチしているかの相性がものすごい大切なんだよね。
俺も検査受けた後、人に薦められて、お金払って専門家から支援を受けるような施設の体験に参加したり、当事者間での交流目的の集まりに顔を出したりしたことが何度かあるんだけど、それらはどうももっと症状の重い発達の人が集まるところだったようで、残念ながらそこから生き方の知見を得ることも、傷を舐め合える仲間にも巡り合えなかったって経験がある。
一口に生きづらいって言ってもその実態は千差万別で、加えて俺たちみたいな人間は往々にして人付き合いが下手な人間が多いから、マッチしない人間同士が集まってしまうと悪い空気になりやすい。
というか、それで実際に問題が起きたのが人生無理バーだったんじゃないかなと思う。
こういう集まりはターゲティングをしっかりする、悪く言えば特定属性以外の人間を切り捨てることが本当は必要不可欠なんだよ。
そこをリベラリスト気取りが唱える絵空事の平等や博愛で荒らされると、ハッキリ言って誰も幸せになれない。
彼らの指向は分かりやすい弱者や被害者の保護に向いているから、それに従うならまず基準を一番重いモノを抱えている人に合わせられるのかな?
そうなったら、俺みたいな半端な症状の人間が真っ先に居場所を奪われそうだ。
切り捨てを免れてた発達障害男性にしたって不幸になるだろうな。
出禁にせざるを得ないと思われているような場所に無理矢理ねじ込んだところで、そこで発展性のある救いを得られることなんてまずあり得ない。
本来いるべきでなかったところに入り込んでしまって、ダラダラと時間を浪費するだけになるだろう。
生きづらい勢をみんなゴチャ混ぜにして集団に包摂しようとしたら、きっとみんながみんな不幸になる。
安い綺麗ごとを吐いて気分が良くなりたいだけじゃなくて、発達障害男性の居場所がないということを本気で問題視しているのなら、本当の意味で発達障害男性のためになる居場所を作ってくれよと言いたいし、まあ大多数の人はそんな思いはないだろうから、それならせめて当事者のためにならないお仕着せの理念だけを叩きつけるのはやめてくれと思う。
人生無理バーに関しては対応のマズさで火を広げたことを思うと個人的にはあまり良い感情は持てないが、ただそういう存在があると知った時、俺は正直希望みたいなものを感じた。
専門家がやっているようなちゃんとした組織って大体、発達障害なら症状の重い人を対象にしているところが多いから、案外、半端なボーダー層ほどそういう集まりと縁が持てないって問題があるんだよ。
人生無理バーはぬるい意識のくせにご立派な理念を掲げていたから燃えてしまったけど、そういうぬるさみたいなのがもしかしたらそういう層の救いになるんじゃないかなと思った。
まあ、俺は男だから人生無理バーは無理だけど、似たようなところで自分とマッチしそうなところがあったら行ってみたいとくらいには思えた。