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2020-11-24

ゴーン拘禁違法性についての国連作業部会の指摘について

日本政府中世すぎる。恥ずかしい。

国連の「恣意的拘禁に関する作業部会」に、ゴーンの4度に渡る逮捕長期間拘留違法だという訴えが持ち込まれました。「訴えによると、拘置所内では食事不定期的にしか取れず、ゴーン氏はかなり痩せてしまったとのことです。」みたいな鼻で笑っちゃう訴えもありますが、おおむね正当だとおもいます。同じような容疑で繰り返し再逮捕されて拘束期間が延ばされたとか、読めない日本語供述調書を、その場での口頭の翻訳を聞かされれただけでサイン強制されて、拒むと拘束期間が延びることをほのめかされたとか、自分弁護士相談できるのは平日の昼間だけなのに、取り調べは夜とか週末とか祝日とか弁護士相談できない時間にやられるとか、保釈中も弁護士経由でないと妻に連絡を取ってはならないなんて保釈じゃなくて在宅逮捕だ、とか、まあ近代国家はやっちゃダメだよねって思います

この訴えについて、国連日本政府説明を求めたところ、二か月後に

法律に基づき、個々の事件についてはコメントできない。ただ、一般日本では、逮捕後の拘束期間は裁判所の厳しい監督下にある。

という回答が返ってきました。

国連部会激おこで次のように述べています

日本代用監獄問題について部会が以前に述べたように、法律によって説明できないという主張は十分ではない。この作業部会は、国連人権理事会の決議30.30に基づき、不当に拘束されている恐れがある被害者のために、世界中政府説明責任を求めるために存在している。したがって加盟国には、60日以内に可能な限り詳細な調査を行って部会に報告する義務がある。しかし、日本政府は、部会がこのような説明をしたのちにも、法律に基づき公判中の事件にはコメントできない、という主張を繰り返した。

一応補足しておきますが、国連から情報提供の依頼とその回答はとても重いものです。実際、大量破壊兵器の有無について国連からの問い合わせに十分な回答がなかった、という理由アメリカイラク政府転覆させています。また、自国法律自国が決められるので、「自国法律では説明できないか説明しないよ、ゴメンね」は、回答になっていません。大量破壊兵器の有無について聞かれたときに、「軍事機密から外国人に話すのは違法だよ、ゴメンね」で済まないの同じです。


こんなコメントされてるようでは、国連部会結論日本政府にとって有利になるはずがありません。部会は、ゴーンの国外逃走については評価批判もしないが、それとは独立に、逃走以前のゴーンの拘束が正当かどうかについて判定することは可能だと述べます。それどころか、ゴーンの国外脱出という事件があったからこそ、日本のdaiyo kangokuについての問題あらためて問われているし、部会として判断するのは適切だ、とまで言っています。その後、部会は、訴えは十分にもっともらしいので、訴えが正当かどうかの説明責任は日本政府にある、とします。

結論を述べるにあたって、国連部会

裁判前の拘束は、例外的ものであるべきで、その場合可能な限り短くすべきである

という国連人権規約引用します。そして、ゴーン氏のケースでは、保釈請求が繰り返し棄却された際に理由が述べられないため反論不可能なこと、および、繰り返し行われた逮捕から検察送致までの期間には制度保釈請求すら不可能な点を指摘し、ゴーン氏の長期拘束は法的な正当性がないと結論付け、ゴーン氏の取り扱いを直ちに改善するよう日本政府に求めています



正直、国連部会の主張はぐうの音もでない正論だと思う。それに引き換え、国連人権規約で、逃走の恐れが高い時の拘束は認められており、さらに実際に逃走されているのに、「拘置には法的な正当性がない」とか言われてる日本政府無能の極み。代用監獄続けるなら、せめてその正当性をまともに訴えるくらいしてくれ。ゴーンのケースはこんなにコテンパンにやられるほど日本政府が不利なケースではない。

原文は以下のURLで読めます

https://www.ohchr.org/_layouts/15/WopiFrame.aspx?sourcedoc=/Documents/Issues/Detention/Opinions/Session88/A_HRC_WGAD_2020_59_Advance_Edited_Version.pdf&action=default&DefaultItemOpen=1

高いところにいると遅く感じ、低いところにいると速く感じる anond:20201121194314

最近RCカーレース本番でも車体にカメラを設置することがOKみたいで、YouTubeで見つけた動画を眺めていた。

私はRCカーのようなコントロールが非常に苦手で、例えば初代のバイオハザードみたいなのは苛々してプレイすら無理だった。

同時期のDoomQuakeのようなFPS問題ないのでそればかりやっていた。

世代プレステバイオハザードのような定点カメラタスクをこなして動画を観させられるようなRPGが非常に苦痛であった。

一方で同じプレステでもPsygnosisのWipEoutのような洋ゲーは好きだった。

あと初代プレステ攻殻機動隊は今でも好きなゲームである

これもFPSであるが、日本独自実装の苦労も感じられる素晴らしいゲームだった。

ジャンピングフラッシュ!のようなFPS問題なかった。(ただジャンピングフラッシュ!は退屈すぎた

RCカーに設置したカメラ映像自分には非常に好感が持てた。

これはもうレースゲーである

これなら自分のような人間でもRCカー運転する気になるというものである

そもそも最近ドローンHMDの組み合わせによる運転レース常識になっている。

ただ、これはこれでちょっと怖い。

運転が怖いのではなく、振り向かないと後ろが見えないというのが逆に怖い。

HMDマルチコプター運転して自分に衝突させたり、他人に衝突させるのが怖いのである

個人的には寧ろ定点カメラHMDを使わない操作の方がマルチコプター安心できる。

農家RCヘリコプター農薬散布でもよく事故を起こしているような気がする。

あれは当然、定点カメラであるわけだが、それでも事故るのである

自分ポケバイカートちゃん運転したことがないのだが、あれは速度が数字より速く感じられる。

不思議である

速度的には大したことがないわけで、自動車であれば寧ろのろく感じられるかもしれない速度である

しかし、視点を低くしただけで、地面のアスファルトの速い流れが感じられる。

うっかり転倒したら痛いだろうな、と思うわけだが、こういうヒヤッとする感覚自動車に乗ってるときには感じられないものである

ネットで以下の砲神エグザクソンの1コマを見つけた。

https://pbs.twimg.com/media/C0zntbDUUAAiNBW.jpg

視点が高すぎると時速200kmでも遅く感じられることはありえると思われる。

ガンダムのような巨大な二足歩行は実現がほぼ不可能に思われるが、資源採掘などで使われる巨大な特殊車両

ロケットを運ぶような車両でも乗ればそう感じられるのではないだろうか。

同じように、遅々として進まないように感じられる現状、プロジェクトがあったとしても、

それは高い視点から眺めているからそう感じられるわけであって、

低い視点、例えばそれは泥臭い現場であったり、鉄道であれば線路工事している人達には違う速度で感じられるかもしれない、

そんなことを思ったのであった。

眺める高さ、場所によって、その速度の感じ方は変わるのではないだろうか。

2020-11-23

anond:20201123215110

貰えない。

裁判を起こす事は不可能ではないけど受けてくれる弁護士がいない。

人身事故で死んでも基本的にその遺族は相続放棄するから無理。

鉄道輸送契約目的地に着く事までだから、そこにかかる時間や快適性は契約に含まれない(新幹線とか有料の特急は別よ)。

目的地に着かなくても、振替輸送を利用するか・着かなかった分の運賃を払い戻すか・乗った駅に戻ってきっぷを払い戻してもらうかに同意=きっぷを買うだから嫌なら乗らないしか対抗手段はない。

それか自分が偉くなって国会議員になり国土交通大臣になって変えてくれ。

anond:20201123012701

ポリコレ理由男性向け作品を燃やしに行く女性は多いが、ポリコレ理由女性向け作品を燃やしに行く男性は少ないという違いがあるからダブスタ問題にならない。

増田自身もここで腐フェミダブスタに嫌味言ってるだけで、彼女らの好きな作品をわざわざ燃やしに行ったりしないだろう?

しかすると、ある日増田書き込みを真に受けたソーシャルジャスティスウォーリアーやこのネタnoteYouTubePVを稼いで儲けようと考える不届き者がたくさん出て来て燃え出すかも知れない。

初期2ch嫌韓ネタ在日ネタ参加者ネタジョークでやっていたと思うけど、そのうち真に受けた者や真に受けた者相手商売できると気付いた者が出てきて、在特会嫌韓本ブームが起きたみたいに。

増田も続けていれば報われる日が来るかもね。

11/25追記

ツイッターオタク界隈へ。「二次創作してほしくない自称漫画家」の正体を教える

https://anond.hatelabo.jp/20201125173611

ここで言及されたので……

私はトラバ元の記事https://anond.hatelabo.jp/20201123012701)や「二次創作してほしくない自称漫画家」の記事を書いた人とは別人です。「腐フェミ」という言葉トラバ元で使っているのに合わせただけです。

その中の記事の何本かを書いたとブコメしているmemorystockさんとも別人なので、memorystockさん(と私)が嘘をついていなければ、「チキ増」の中の人は3人以上いるということになるでしょうか。

話は変わりますが、「twitterBLポリコレ論争が面白すぎる」や他に何本かホットエントリーに入った「BLポリコレの両立不可能性」をテーマにした記事を夏頃にしつこく増田投稿していた人とトラバ元は同一人物な気が私もしています

BLポリコレの両立不可能性」は私も漠然と思っていたので、「自分曖昧アイデアがはっきり言語化されていて感心した」というありきたりな感想ではありますが、あなたの一連の記事はとても面白かったです。応援しています

さあ今月もやってまいりました支払い週間であります

さあ君はドルチェアンドガパーナを手にすることが出来るんでしょうか

僕には不可能です

2020-11-21

anond:20201121215952

現実に今の日本では個人核兵器を持つこと自体は法的に可能なのではないかと。たぶん。  (技術的・経済的にほぼ不可能であるとしても)

anond:20201121115655

つーか21世紀になって差別が残ってるの見りゃわかるだろ。

差別がある社会の方が発展して生き残ってきたのさ。

差別生存に有利で、差別をする人が淘汰されず差別をしない人が淘汰されてきた結果よ。

平等社会を作ったらどうなるかと言えば、数世代で他の国との競争に負けて崩壊するだけ。

差別のない社会は持続不可能

弱者男性の性欲をどうやってなくしていくか

無理バーの件で自明になったのは少なくとも弱者男性が性欲を持っていれば必ずトラブルになると言うことだが、

からといって「救済されたければ弱者男性は性欲をなくせ」と言ったところで到底不可能であることも確かだろう。

弱者男性から性欲をなくしたい」と弱者男性自身が考えた場合でも、性犯罪でもしないかぎり科学去勢による治療もありえないだろうし

弱者男性から性欲を奪った方が幸福だとして科学去勢を率先して行うような世の中にもなり得ない。

そもそも性欲をなくしたところで弱者男性を救済できるかどうかもわからない…

どうすりゃいいんだ!?

どうして個人核兵器を所持してはいけないの?

核抑止論を突き詰めていけば全人類核兵器を配布すれば世界平和になると思うのだけど、どうしてそういう議論にならないのだろうか

不可能から」という理由以外で教えて欲しい。

この辺のフェミ議論

本当に不誠実だと思う。

表現規制フェミニストは求めていない 堀あきこさんインタビュー

https://wezz-y.com/archives/74048

法的規制には反対だ、と言う一方で、その表現性差別"的"だ、という批判を連発する。

何を言ってるんだろう?もしそれが明白な差別であるなら即、法で規制するしかない。

そこはリベラル矜持があるので、性差別"的"などと言ってお茶を濁すのだが、

そもそもそれが性差別"的"であるという根拠すら極めて曖昧である

その表現により「女性」が人権侵害されている、と言うが、そんな主体なぞ成立するものか。

韓国朝鮮人は目が細い/エラが張ってる」のように対象を明示すれば完全に差別だよ。

しかし、グラビアアイドル二次元キャラクターに対し、勝手に「女性」で括ることが、いかご都合主義で、暴力的なことか。

から性的消費とか搾取とか、さら曖昧言葉を使い煙に巻く。

「"女性性"が何か別のものに利用されている」という断定は、「女性」というフィクション仮定した場合に「なんかそんな風に感じる」というレベルの話に過ぎない。

女性」というフィクションから、何かを奪うことな不可能だ。

それは、単にその表現に対する嫌悪感だよ。それ以上でもそれ以下でもない。それは決して差別ではない。

本来、その表現不快です、ああ確かに公共の場では不快に感じる人が多いかも知れませんね、で終わる話である

それを、「不法」のニュアンスを込め、強制力を得るべくマウントを取ろうとした結果ひねり出されたのが「性差別"的"」や「性的消費」という言葉だ。

まりにも無理が多すぎる。

差別のない社会とは一定被害を甘受する社会である

そういう発想だからTERFにもなるんだろうな……といろいろ納得してしまった。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1625581

差別反対を主張していた人がこんなにもあっさり差別的発想に転んじゃうのって、やっぱり本質的に「差別のない社会」がどういうことか理解できてなかったんじゃないかな。

差別というのは、「○○人の血は汚れている」のような根も葉もない生理的嫌悪感に基づくものから、「○○人の犯罪発生率は高い」という統計的事実に基づくものまで色々ある。

アメリカでは黒人犯罪率は他の人種と比べて高い。だから、もしも「社会多数派にとっての安全」を「差別の解消」よりも上位に置くのなら、黒人ばかりを狙って職質をかけたりするのは合理的な行動ということになる。それによって黒人の手になる犯罪が未然に防がれるのなら、社会はきっとより安全になるだろう。

別の例を挙げてみると、キャリアの途中で退職したり長期間の休暇を取ることの多い人びとを職場から排除すれば、組織効率性は上がるだろう。原理主義者によるテロが頻繁に起きている宗教信者入国拒否したり、彼らを集中的にスクリーニングすれば、多くの人がテロから救われるだろう。そして性犯罪加害者になることの多い人びとを子どもと関わる職業から排除すれば、子どもの性被害の数は大幅に減るだろう。

問題は、それは差別だということだ。そのような対応差別であるため、批判され、場合によっては法規制もされる。差別自由民主的社会にふさわしくないものであり、この社会からなくしていくべきである

逆に言えば、差別のない社会とは、一定被害を甘受せねばならない社会だということでもある。

事前に黒人犯罪者や退職者の多い属性テロリストの多い宗教信者排除することは差別である。それを突き詰めた結果として、黒人犯罪者によって金銭を奪われたり、会社の業績や病院労働環境悪化したり、狂信的なテロリストの仕掛けた爆弾で死傷したり、子ども学校性的虐待を受けるかもしれない。

もちろん犯罪者は裁かれるべきであり、彼らを無罪放免しろと言うつもりはない。だが、一定数このような被害効率性の低下が出ること自体は、差別のない社会が甘受すべきコストということになるだろう。属性に基づく事前の排除スクリーニング拒否するというのはそういうことなのだから

私は差別に反対するので、それによって自分旅行中に強盗に遭おうがアメリカ警察黒人を狙い撃ちにするのは間違っているし、仮に自分業務に支障が出ようが特定属性の人びとに対する就職差別は許されるべきではないし、もしもテロによって家族を失ったとしても特定宗教信者だけをスクリーニングするのは道義的正当化できないし、たとえ自分の娘が学校トイレに連れ込まれ乱暴されたとしても、教員やその志望者が能力ではなくジェンダーセクシュアリティによって選別されるようなことはあってはならないと考える。

差別は、場合によっては問題解決のための手っ取り早い手段になり得る。だから差別の解消を主張するというのは、実はとても覚悟のいることなのだ。

その覚悟を持っていなかった人たちが、時と場合が変わるとあっさり差別主義者に変貌してしまうのは驚くべきことではない。女性差別とさんざん戦ってきたのに、今「安全」を掲げてトランスジェンダー排除しようとしている人たちがその典型だろう。

私たちは、差別に反対する覚悟を決めるべきだ。たとえそれによって不利益被害が生まれても、それでも差別を許してはならないと言うべきなのだ。そのような覚悟のない反差別は、いずれあっさりと差別主義に転ぶ可能性を秘めているのだから

追記

理論的には完全な監視社会、例えば全員の脳内チップが埋め込まれてて犯罪行為を始めると即電撃で無力化する社会では差別もないし被害も甘受しなくていいし法的自由保証されるのではないか

マジレスすると完全に外形的な条件から「何が犯罪で、何がそうでないか」を決めるのは理論的に無理。なぜなら、理論的には、ある行為犯罪かそうでないかは事後的にしか評価され得ないので。

意識のない他人の服を無理やり脱がせて体を触る行為は準強制わいせつかもしれないし救命措置かもしれない。他人の腕にナイフを刺すのは通り魔かもしれないし壊死性の毒があるクモに噛まれたので毒を除去しようとしているのかもしれない。子供を連れて遊園地に行くのは子守かもしれないし誘拐かもしれない。大量の宅配ピザを注文するのはパーティーの準備かもしれないし業務妨害かもしれない。カレーを食べるのは食事かもしれないし相手を油断させて毒入りカレーを食わせる計画の一環かもしれない。ファイティングポーズを取った男に蹴りを食らわせるのは正当防衛かもしれないし誤想過剰防衛かもしれない。これらの行為が行われた瞬間にチップ犯罪かどうか判定するのは不可能

っていうか、他人から受け取ったキャッシュカードでカネを引き出しただけで刑務所に入ってる人は何人もいるわけで……

仮に外形的な基準じゃなくて「今自分犯罪を犯そうとしている」という意思基準にするとした場合、「嫌だとか何とか言ってるけど部屋までついてきたってことはセックスする意思はあったんだろ、嫌よ嫌よも好きのうちって言うしな、グヘグヘ」みたいな発想の人がいたらどうなるのか、ということになるので、チップを利用した犯罪抑制はどちらにせよ無理。何が犯罪で何がそうでないかは、ある行為が行われてから人の手によって評価され、判断されなければ理論的には決まらない。

ブコメ加害者個人排除する場合最初の一回の被害は防げない”。その理論でいくと、差別される人種なり宗教は1回以上の被害が起こったので差別され始めたのでは?つまりどちらも根本解決にならないと思う。

根本にわかってなさすぎて頭が痛い。人種集団宗教信徒は「個人」じゃないだろう、という話なんだけど。

今、目の前に一人の黒人がいるとする。名前を仮にボブとしよう。黒人が他の人種集団に比べて犯罪率が高いという統計的事実はある。だがボブが犯罪者かどうかはわからない。ボブがもし犯罪を犯したのなら刑に服すべきである。だがボブが犯罪を犯すまでは彼は無辜市民なのであり、黒人からという理由でボブだけ集中的にスクリーニングされたり職質されまくったりするのは不当な差別である。ボブが強盗なり殺人なりの犯罪に手を染めてはじめて彼を犯罪者として扱うことが許容される。

逆に言えば、我々は、ボブを事前にスクリーニングして強盗殺人被害者をなくすことよりも、たとえ強盗殺人被害者が出たとしても、ボブを人種に基づいてスクリーニングしないことを選ぶべきなのだ

女性早期退職する確率が高いが、ではどうせ無駄になるのだからと目の前の花子にろくにキャリアも積ませなかったり昇進させなかったりするのは正当か。宗教テロを起こすイスラム教徒大勢いるとして、では目の前のアブドゥルにだけ警察尾行がついたり空港差別的な扱いを受けるのは正しいか性犯罪者の多くは男性だが、では資格能力もあるのに目の前の太郎保育園採用しないのは許されるのか。

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格のものによって評価される国に住むという夢である」とかつてキング牧師は語った。私はその理想を信じている。そのために生じるであろう被害よりも、なおその理想は重いのだと信じる。それが差別に反対するということだろう。

「無症状者にPCR検査しても感染は抑えられない」ということが未だに分かってない人は今までなにやってんの

PCRは結局、治療クラスター発見隔離手段であって、毎日全ての人間PCRをやることは不可能である。未だに、PCRを無症状のすべての人にやればいいと思ってる人がいることに驚く。

anond:20201121010617

通じない人には通じないんだろうけど 人の外見で好き嫌いを述べるなと 

外見だけじゃなく頭の善し悪しみたいな部分でも言うなって言ってたよね

属性すべてについて評価するなってことだよね

まり人の属性に付いて何も語るなってことだよね

純粋他人権利侵害だし、実現も不可能だと思うけど頑張ればいいんじゃない

2020-11-20

anond:20201120223103

それは国のためになると信じて法案通してるので

国が滅んでもいいなんて立法技術的にも精神的にも不可能だろうし

憲法違反可能性すらあると思います

2020-11-19

anond:20201119165958

3という数字意味は無いと思うけど、基本的には小分けにして食べた方がいいとは言われるね。理由としては血糖値の急上昇・急低下を避けるためとか色々あるけど、基本的に生き物はエネルギーを貯蔵するようにできてない(脂肪の消費は最後の手段)から、「貯め食いは不可能」と思った方がよさそう。

一方で↓みたいな話も最近出てきたみたいなので、まあ「諸説ある」くらいに思っておけばいいんじゃないか。

https://tokusengai.com/_ct/17308868

(マクロファージが云々ってことで研究データのものがまだ足りない状態だろうし、信用しすぎない方がいいとは思うが。)

しかし「健康にいいか、悪いか」なんて生活全てを総合した結果なので、食事ひとつで決まるものでは無いのは確か。

anond:20201119211744

一人の人間だって成長して経験を重ねて考え方や思想価値観ポジションが変わってくるもんなのに

集団に対して一貫性を求めるなんてどだい不可能なんだよ。あらかじめ方向性が決まってる集団ならともかくさ。

そんなことをあげつらって何か言った気になるのは、脳に靄がかかってる系暇人だけに許された所業なんだ。

anond:20201119131431

仮にそういうキモい構成で社内システムを組んだとして、それは「誰」がメンテナンスするんだ?

たぶん言い出しっぺの増田メンテが回ってきて毎日残業になるだろうな。

んで、周囲はそういうのを全く理解できないので、なんで増田残業多いの?と責め立ててきて、いやになった増田退職してメンテ不可能システムけが残される。

日々の業務は「それ」で回ってて、追加機能とかの要望もあがるが当然ながら誰にもサワレナイ。

んで、どうにかしれくれって外部のシステム会社相談にくるが、元々増田残業代程度でメンテしてたので信じられないくらい低予算で言ってくるし、素人がつくったものほど闇が深いから誰もやりたがらない。

という未来しかみえないw

人にぶつかったことがない

真正から行きあった人と連続して同じ方向に避け合い、お互い半笑い会釈をして立ち去る奴は何回もやったことがあるんだが、思いっきりぶつかったことは思い返すと一度もない気がする

みじろぎしててちょっと当たるとか、荷物にかする程度ならあるが、真正からぶつかったことがない

なんでだろう?

田舎から

九州のド田舎ではたしかに人とぶつかることが物理的に不可能と言ってよかった(いないから)

でも今は三大都市圏に住んでるし、それなりの人混みを歩いたりもするしな

東京じゃないか

人間と正面からぶつかったりするのは頭の狂った性格の悪いクズ東京蛮人だけなのかも?

・男だから

でも男でもぶつかるときはぶつかるよな

・ナメられないか

俺はチビだし筋肉もないからこれは怪しい

でもいつも浮浪者みたいな服で寝癖もボサボサだから、逆にこいつはヤバそうだからぶつかるまいと思われてる可能性はある

完璧文章存在しない。完璧絶望存在しないようにね

 上記台詞村上春樹風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリ村上春樹記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど

 タイトルで述べた台詞村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレなだけの台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキストタイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。

完璧文章などといったもの存在しない。完璧絶望存在しないようにね。(『風の歌を聴け』より)

 昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている

小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)

 完璧文章とは何で、完璧絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。

 つまり文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまりもっと言うならば自分意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。

 とは言え、何らかのエゴ文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり人間文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章自己エゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴ小説小説たりえるための何かを、文章文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔ものでさえあるということなのです。

 あるいは、完璧文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。

 ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧文章などといったもの存在しないのです。完璧絶望存在しないようにね。

 伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というもの存在しません。仮にそんなもの存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己存在がこの世において断絶してあるということです。自己存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。

「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分感情を、自分エゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。

 自己がそこには混入しており、エゴ文章を汚濁させているからです。

 伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。

 でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分感情を伝達することなく、何一つ自分エゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧文章である筈です。

 そして、それは同時に、明白に絶望なのです。

 誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなもの存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧文章であると同時に、完璧絶望表現ということになるのです。


 して、結局のところそんな文章存在するのでしょうか。

 そう、存在しないのです。そんな、完璧絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧文章は、完璧絶望存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅表現することは、不可能からなのです。

 あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧絶望存在する時、完璧絶望存在否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。

 だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまり自分真実を混入してしまうのです。そこには、表現不可能性ではなく、表現不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。

 つまり完璧文章といったもの存在しないのです。完璧絶望存在しないようにね。

2020-11-18

不況風俗ってよく考えたらよくわからない心理

リーマンショックの時もコロナ禍の現在共通して用いられる俗説として「不況下では風俗嬢の質が上がる」というものがある

これは要するに不況下では多くの女性失業して生活に困窮し、彼女達が風俗業に参入することで風俗嬢の総数が増加するに従って容姿に優れた風俗嬢の数も増加する、というプロセス表現している俗説だと考えられる

しかし、これに俺は納得がいかない

不況になると多くの女性生活に困窮することは了解できる

男女ともに平時より増加するだろう

まして非正規の多い女性男性以上に失業状態に陥り易いのではないか

しかし、何も風俗業に参入することはなくないか

ここでいきなり風俗業が現れることが俺には理解できない

なぜ失業したら風俗なのか

俺が失業したらまずどうするか考えてみる

まずは失業保険の受給を考えるだろう

そして失業保険の受給可能だったならば失業保険が下りることを見込みつつ、不可能だったならば再就職するまでは現金収入が断たれることを覚悟しつつ当面の出費については貯金を切り崩しながら生活を行うだろう

そして再就職の為に就活エージェントハローワークを駆使して就活を行うだろう

↑見てこれ、風俗の風の字も出てこない

これ自分女性だったとしても同じ事すると思うんだよね

失業した!風俗行こう!って思考が出てこないんだよね

もちろん更に闇の深いケースも想定してみた

例えばカードローン等で借金があったり、当面の家賃光熱費等を支払えるだけの貯金も持ち合わせていない場合である

その場合、俺だったら借金については債務整理念頭法テラス等にまずは相談に行くと思う

任意整理の見通しが立たないor借金が途方もない金額だった場合には自己破産選択肢に入ると思う

その場合生活保護を申請すると思う

家賃に関しては図々しいけどまずは交渉すると思う

日本では居住権ってかなり強いらしいか

そして住む家を失った場合には、まずは実家への帰省友達への寄生を考える

それらが駄目なら生活保護を申請すると思う

光熱費が払えないケースってのは1万2万も捻出できないレベル貧困状態ってことだと思われるので、真っ先に生活保護を申請すると思う

↑やはり風俗の風の字も出てこない

しか現実として不況下では風俗業へ参入する女性は増えるし、風俗嬢レベルも上がると伝え聞く

女たちよ、なぜ風俗へ行くんだ

anond:20201118040213

ない。ガチャパチンコがなくならないのと同じで、なくすことは不可能

より面白いものを与えるぐらいだろう。

法規制根拠がない。

スパチャに重税をかけるのはありかもしれんが、公平性観点から微妙

から方法はない。

anond:20201117194326

昔は子供教育なんて上流階級以外はしなくてよかったし、生活って言ったってスマホだのインターネットサービスだのに金払ってなかったし海外旅行なんて俺の親は新婚旅行以外で人生で一度も日本を出たことがないって感じだったしな。結局のところ持続不可能なほどに庶民生活水準が上がってしまったんだと思うわ。

完璧文章存在しない。完璧絶望存在しないようにね

 上記台詞村上春樹風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリ村上春樹記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど

 タイトルで述べた台詞村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレだけれど適当台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキストタイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。

完璧文章などといったもの存在しない。完璧絶望存在しないようにね。(『風の歌を聴け』より)

 昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている

小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)

 完璧文章とは何で、完璧絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。

 つまり文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまりもっと言うならば自分意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。

 とは言え、何らかのエゴ文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり人間文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章自己エゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴ小説小説たりえるための何かを、文章文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔ものでさえあるということなのです。

 あるいは、完璧文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。

 ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧文章などといったもの存在しないのです。完璧絶望存在しないようにね。

 伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というもの存在しません。仮にそんなもの存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己存在がこの世において断絶してあるということです。自己存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。

「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分感情を、自分エゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。

 自己がそこには混入しており、エゴ文章を汚濁させているからです。

 伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。

 でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分感情を伝達することなく、何一つ自分エゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧文章である筈です。

 そして、それは同時に、明白に絶望なのです。

 誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなもの存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧文章であると同時に、完璧絶望表現ということになるのです。


 して、結局のところそんな文章存在するのでしょうか。

 そう、存在しないのです。そんな、完璧絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧文章は、完璧絶望存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅表現することは、不可能からなのです。

 あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧絶望存在する時、完璧絶望存在否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。

 だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまり自分真実を混入してしまうのです。そこには、表現不可能性ではなく、表現不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。

 つまり完璧文章といったもの存在しないのです。完璧絶望存在しないようにね。

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