はてなキーワード: ビジネス書とは
はてなーの皆さまこんにちは。今日も元気にウンコ漏らしてますか?初めて投稿します。
物心ついたころからずーっと気になっていたことがありまして。それはズバリ、「みんな作家の文体をどれくらい識別できてるんだろう?」という問題です。
気になった方は、まずは以下の問題に挑戦してみてください。
★以下の①~④と(ア)~(エ)の文章は、それぞれ同じ作家の書いた別の小説作品から、一部抜粋したものです。①と(イ)、②と(ア)...のように、同じ作者の作品どうしを組み合わせてください。
① そして彼が知ったのは、彼等の大部分が、原発というものの実態を把握していないらしいということだった。どこにどれだけの原発があるかも知らず、それが止まるということはどういうことかイメージできないようすだった。原発が止まっても大して困らないんじゃないかという意見もあれば、ろうそくを買うべきだろうかと異常に心配している声もあった。
② この人は母とは本当にお似合いだ。言葉に表現した瞬間、それが的を射ていても、本当のことを言っていても、なぜか必ず嘘っぽく聞こえ、薄っぺらい印象になる。この人のこの言葉と僕の事実とに挟まれて、僕のあの放火未遂っぽい事件は行き場を失ってしまったようだった。
③ 船長主催の晩餐会は、さんざんなていたらくであった。夕刻から、この時期には珍しい西風が吹き始め、それは次第に客船を上下に揺らした。乗客の中でもとりわけ過敏な者は、晩餐会のための服に着替える前に、すでに船酔いにかかって、各自のベッドに臥してしまった。
④ 札幌の街には今年最初の雪が降り始めていた。雨が雪に変わり、雪がまた雨に変わる。札幌の街にあっては雪はそれほどロマンティックなものではない。どちらかというと、それは評判の悪い親戚みたいに見える。
(ア): 夢の中の俺はまだ子供で野球のバットか何かを捜しに来たのだ。暗闇の中で金属バットが触れ合ってカランコロンと甲高い音を響かせる。俺は広いフロアを見渡す。たくさんの影はしんと静まり返って何も動かない。
(イ): バーは、二階に著名なフランス料理店があるビルの三階にあった。長い一枚板のぶあついカウンターと、四人掛けのテーブルが二つあるだけだったが、いかにも酒を飲むところといった風情で、助成の従業員はいなかった。
(ウ): 三人目の相手は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だったが、彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた。今では日が暮れると誰もその林には近づかない。
(エ): 十九年前にさらわれた赤ん坊がどこにいるかを、早く彼女に教えてやらねばばらない。白血病で苦しむ息子が助かる道があることを示してやらねばならない。言葉を発しようと息を吸い込んだ時、小さな疑問が彼の胸に宿った。それは瞬く間に大きくなり、やがては衝撃となって彼の心を揺さぶった。
・答えは↓
【答え】
①- (エ) 東野圭吾
②-(ア) 舞城王太郎
③-(イ) 宮本輝
④-(ウ) 村上春樹
①: 東野圭吾「天空の蜂」(講談社、2015年、p124、ハードカバー版)
②: 舞城王太郎「イキルキス」収録「パッキャラ魔道」(講談社、2010年、p193、ハードカバー版)
③: 宮本輝「海辺の扉(上)」(角川書店、1991年、p151、ハードカバー版)
④: 村上春樹「カンガルー日和」収録「彼女の町と、彼女の緬羊」(平凡社、1983年、p50、ハードカバー版)
(ア): 舞城王太郎「煙か土か食い物」(講談社、2004年、p117、文庫版)
(イ): 宮本輝「海岸列車(上)」(毎日新聞社、1989年、p162、ハードカバー版)
(ウ): 村上春樹「風の歌を聴け」(講談社文庫、1975年、p77、文庫版)
(エ): 東野圭吾「カッコウの卵は誰のもの」(光文社、2010年、p204、ハードカバー版)
いかがでしたでしょうか?
なぜこんな問題を作ったのかといいますと、自分はけっこう文体に敏感な方なのではないかと、密かに感じてきたからです。
同じドラッカーの作品でも、上田惇夫訳の「マネジメント」はすごく好きなのに、上賀裕子訳だとなぜか全然頭に入らなかったりします。趣味で読む本は、好きな著者のおすすめで買ってみたものの、文体が気に入らなくて読み進められないことも多いです。(村上春樹はすごい好きなのに、おすすめのサリンジャー「ナインストーリーズ」は受けつけない、など。翻訳版をよく読む方にはあるあるなのでは)
それぞれの作者ごとに、「この人は勢いがあって脳が活性化する感じ」とか「クールな感じで読んでいても全然感情を感じない」とか「頭の中に繊細で暖かいイメージがふわっと浮かぶ」とか、料理でいう味みたいなものがあります。
小説じゃなくても、エッセイでもビジネス書でも、どんなジャンルにも作者ごとの「味」がある。そして、これはその人の持つ「文体」が決めている部分が大きいと思っています。(本の装丁も全体の1~2割くらいは関係してる気がします。料理を載せる皿によってちょっと味の感じ方が変わる感じ?)
でもこの「味」って、大まかにはみんな感じるところがあるはずだけど、誰もが全く同じように感じていることはあり得ない。みんなで同じ料理を食べていて、「おいしい」「苦い」「熱い」などの大まかな感じも方向性は決まっていても、それをどこまで感じているかは人による。(同じ「辛い」カレーを食べても、人によってピリッとする辛さなのか、喘ぐくらいの辛さなのか、という辛さのニュアンスは異なるはず)
これって料理の味ならみんな共感できると思うんですけど、文章の「味」についてはほとんど議論されない。これって実際はどうなのか、という実験でした。
今回挙げた作家について、個人的に感じる「味」はこんな感じ。(あくまで個人の感想です。前者二人の文体は大好き、後者二人はうーむ。ストーリーはそれぞれ面白いと思います。)
・村上春樹: なんの抵抗もなくすっと頭に入って、胸にふわっと煙みたいに広がって染み渡る。イメージが幻想的ながら、ありありと脳裏に浮かぶ。もう村上春樹っぽいとしか言えない。
・舞城王太郎: 「文圧」のすごさ。リズムと勢いで、パンパン読ませる。胸が暖まって脳が活性化する感じ。文体で読ませる作家。天才。
・東野圭吾: 必要最低限の情報量。情報は伝わるが、感情はあまり伝わってこない。マックのハンバーガーみたいな感じ。
・宮本輝: いいところのお坊っちゃん。淀みなく流れる川のように流麗。美しい文章だが、あといま一歩感情が胸に迫ってこない。脳の活性化がいまいち。
最後までお付き合いいただいたはてなーの皆さん、ありがとうございます!皆さんのやってみた結果は、コメントで教えていただけるとありがたいです。あと余裕のある方、同じような問題作って自分にもやらせて...!!
入社して1年余り経つが、同じ日系企業でもこんなにまで違うのかという衝撃が冷めない。
それと同時に、古巣での日々を思い返してその異常性を強く感じられるようにもなったので、俺が所属したブラック企業の特徴を書いておく。
以下の特徴は、俺が所属した3つのブラック企業において気味が悪いくらい似通っていた。そして、巷間ささやかれる「ブラック企業の特徴」でなかなか指摘されないようなものだった。
・離職率が低い
・平均年齢が高い
・イジリと揚げ足取りが凄まじい
・周囲に対するパフォーマンスとして説教したり、恥をかかせたりする人がたくさんいる
・東京一工卒がいない
・やたらめったら「うちの会社は良い人ばかり」と言う人が多い
・最速出世コースに乗るくらい仕事できたとしても学生時代のカースト低そうなタイプの人ならクッソ馬鹿にされる
・本読む人がいない。読むとしても歴史小説か話題のビジネス書(さおだけ屋とかドラッガーとかそういうの)。
・主語を省いて指示を出す人が多い
・新卒社員に対して「あいつは無能。イジっていい笑」みたいなレクチャーが楽しげな雑談という体でまず施される
・めちゃくちゃ怖い人や精神的にダメージ与えるスキルが高い人が格好いい的な文化がある
・パワハラモンスターが全く問題視されない。それどころか「あの人は怖いかもしれないが俺にはめちゃくちゃ優しい」と誇る人すら少なくない
・部署オフィシャルの飲み会が開催される場が学生御用達の居酒屋
単語の意味っていうよりは、「話題」だとか、「語り口」だとか、「文体」を増やせば増えていくと思う。
ネットにはネットの、ブログにはブログの、ラノベにはラノベの、適した文体や話題がある。同様に、理系論文に適した文体、ビジネス書に適した文体、新聞に適した文体、マニア向けミステリにはそれに適した文体や語り口がある。
普段読み書きする以上のものが書きたいなら、普段読まないものを読むのがいい。
私は学生時代の頃から自分自身が『オタク』または『ヲタク』と呼ばれる存在であることを自負していた。
アニメはリアタイ視聴が当たり前、その翌日にはオタク仲間と共に語り合ったりSNSで感想を述べたりするからだ。
PC美少女ゲームは秋葉原のソフマップから、今は亡き紙風船に買い物に行って、神ゲーからクソゲーまで一通り触ってきた。
一時期は本気でシナリオライターとして食っていけるのではないかと夢見る時もあったが、今ではなぜか普通の社会人になってしまった。
学生を卒業して早七年……あの頃、本気でヲタクをやっていた自分がいなくなっている気がした。
翌朝六時から出勤しなければならない事が多かった日々、私が心の支えにしていたのはアニメだった。
その当時、何を見ていたのかはハッキリと思い出せないが、とにかく忙しい日々には通勤途中で見られるVODが超優秀で、スマホから月額400円相当で過去作も含めたアニメが見放題だった。
仕事に忙殺されていたせいか、SNSも頻繁に見ることもなくなった。そのために何人かネット上の友人を失ったが、なぜか全く後悔していない。
その程度の関わりだったと、どこか気持ちが切り替えられていたせいなのだろう。
当然ながら、リアタイ視聴にこだわっていた自分は、気付けばどこかに消え去ってしまっていたのだ。
などと、好きなブランドや絵師の名前は一通りチェックして回る日々も忽然と姿を消してしまった。
新作の量はソフマップが圧倒的だが、旧作だが超名作がぞろりと揃っている『紙風船』が閉店していることを知ったのは今年に入ってしばらくしてからだった。
流石に閉店を知った時にはショックだったが、何よりも驚いたことが『その情報を察知していない自分』だったのだ。
正直に言えば過去の名作をプレイしておらず、自室の押入れに何本か積んでいる時点で、新作を買う気力があまりないのだ。
早く消化したいと思う気持ちと、一週間に一日しか無い休みに美少女ゲームを立ち上げようものなら、何もかもを放り出して没頭する自信がある。
それよりも翌日にまで支障が出てしまう可能性もゼロでは無いのだ。
そう思ってから未だに一本も消化できていない時点で、自分は本当にヲタクだと呼べるのか、という自信が薄れつつあった。
職場の人に「休みの日は何してるの?」「趣味ってなんかやってる?」と聞かれる事が増えてきた。
「いやぁ、趣味という趣味は無いんですが、読書とカラオケぐらいですかね〜」
私はへらへらと愛想笑いを浮かべながら答える事が多くなった。
当然カラオケが趣味と言っても『ヒトカラ』が当たり前である私だが、社会人ともなると「友達と行くの?」と勝手に都合の良い質問をしてくれるので、肯定するだけで「社交的な自分」を伝える事が出来る。
まぁ、学生時代の友達と一緒にカラオケに行けばアニソン縛りが当たり前、ヒトカラでは上司にもウケるように昭和歌謡曲などもフォローしている。
誰かと歌う事が当たり前だから、一人でもカラオケに行って練習するという習慣が、学生の頃と比較すれば異常なまでに人との関わりを意識してしまっていることに気付かされる。
学生の頃は誰かと歌うのが面倒だから、自分一人で自由気ままに振る舞えるヒトカラが良かったのに、今では予行演習じみたカラオケになっていた。
読書だって、ラノベしか読まない私からすると『ビジネス書』『一般文芸』など読むはずが無いジャンルも、上司や取引先との会話の中で趣味の話題になった際「この作品って知ってる?」というフリに対し「芥川賞を受賞された作品ですよね。私も読んでますよ」という返しが出来ればポイントが稼げるのだ。
仕事で後輩が出来た際にも、ビジネス書の受け売りを酒の席でわざとらしく言ってドヤ顔もしちゃったりできるのだ。しまいには「もっとアンテナを広げた方が良いよ」なんて言っちゃったりするのだ。
でも、意識高い系の後輩が出来た際にはバッチリ効果が出てしまって、ちょっとだけ成績が伸びてしまったもんだから読書も幅広く読むようになってしまった。
私が学生時代の時は『アニメはリアタイ』『ゲームは好きなジャンルから総なめ』『SNSで情報共有』が当たり前だった、陰キャ街道まっしぐらだった人間。
性格などに関しては変わることは無いのだが、友人を見ると『好きなジャンルを深掘りしているタイプ』であるのに対し、私は非常に浅い。
その代わり、あまりにもニッチな話題でなければ、ある程度の話題に関してはコメントで打ち返せるほどのボキャブラリーは充実している。
アニメをたまにしか、好きなジャンルしか見ない人間もヲタクと呼べるのか。
ゲームも今は一切しないが、昔やってた経歴からヲタクを自称できるのか。
予め言っておくと、オタクを自称したいとか、オタクのプライド云々が言いたい訳では無い。
そんなもの、そこらの犬にでも喰わせてしまえば良いと思っているくらいだ。
私が言いたいことは自分でも名乗れないほどに『ヲタク』というアイデンティティが失われてしまうことで、自分は一体何者なのだろうか、という疑問が残されてしまう。
別にオタクであろうとなかろうとどうでも良い。ただ、友人たちの目からは『ヲタクである自分』というフィルター越しに私が見られている気がしてならない。
もうとっくにそんな姿は存在しないと言ったとしても、私はいつまでも『ヲタクである自分』で物事が進んでしまうのだ。
仮に『ヲタクである自分』が手放せたとしても、今度は『ヲタクではない自分』がどんな存在なのか、皆目見当もつかないのも空恐ろしい。
結局、私がヲタクであることを証明できるように、自らの手でヲタクという生き方を捨てきれないだけなのだと思った。
本当にヲタクであることを辞めてしまったら、どうしようもなく薄っぺらい、何も無い人間になってしまうような気がして怖いだけなのだと思う。
そういうのビジネス書でよく見るやん
わざわざ説明するまでもないと思うが、用は知識ばっかりで行動が伴わない人の事だ。
読書趣味の人は、読むだけではなく実際に行動しよう。という意味は理解しているし分かっている。
ビジネス書なら主に会社で行動すればいいし、健康方面の本なら読んだ事を実践すればいい。
パッと思いつくのは、こういう風に読んで思った事や、書いてある事のまとめを書く事。しかしこれ意味あるか?
歴史を主にした仕事をしている人や、学生などなら役に立つから意味はあるだろうけど、私はただの社会人の一般人。
アウトプット、つまり書き上げる工程まで趣味じゃないと一々やってられなくなりそう。なんなら歴史や古典なら分かりやすく纏めた本なんて割とあるわけで。
フェイク野郎でも偽物でも凡人でもワナビでもなんでもいいんだけど、つまり世の中の大半のお前らの為に今日は文章を書く。これは仕事や趣味や生産やら表現やらその他あれこれに応用の効くやつだから一度読んでおいても損はないはずだ。これは本物になりたいけれど本物になれない、お前のようなどうしようもないボンクラの為に書いているので心して読むように。
こんなものを読んでいるお前のことだから、結果を出したい評価されたいと死ぬほど思っていながら現状はどうせさえねえし腐ってるし、そんな自分が嫌だけれどそんな状況から抜け出せずにいるんだろう。そんなお前がまずすべきことは、全力で負けてくることだ。全力で負けてない奴は、自分に言い訳を残している状況だ。「自分だって全力でやれば」とかなんだかんだ言って死ぬまでやらないクソ野郎だ。可能性なんか残らないくらいに、もしかしての一発逆転も不可能なくらい徹底的に負けてこい。そもそも「あいつは天才だから」とか「才能が」とか言い訳をする奴はだいたい全力で負けてない。いわゆる天才と言われる奴と同じだけ努力をして負けてからしかその言い訳はしちゃいけない。それどころか全力で負けるにはそれでもまだぬるい。天才の10倍やってみて、10倍以上の差を付けられて負けろ。実力に見合っていないそのクソの役にも立たないプライドを捨てろ。そこがお前のスタートラインだ。どうやら100倍以上の差がある、ということをまずは体で受け入れろ。そこからようやく凡人の戦いが始まる。
天才には、本物には、俺たちが持ち得ない狂気が存在する。あいつらはA=CどころかA=Fくらいのところに、ノータイムで、感覚で、息をするように簡単に辿り着く。俺たちには決して真似ができない。狂気を持ち得ない俺たちフェイク野郎の唯一の武器は理性だ。この誰もが持ち得る当たり前の頼りない、その理性だけがお前の頼れる唯一の武器だ。それだけを頼りにお前はやっていくしかない。A=Fだと天才は一息で結論を出すが、俺たちは地道にやっていくしかない。A=B,B=C,C=Dというように拙い理性で繋いで行け。俺たちは飛べない。一歩一歩地面を踏みしめて、一歩一歩確かめながら歩いていけ。そこがお前の強みだ。本物がなにも考えずに超えていく壁を、お前は本物なら超えていくはずだと考えて、理性で超えていけ。本物を真に理解できるのは本物だけだ。大丈夫だ、壁を超えることで、お前は壁を超えることができた人間として評価される。
ここで明るいニュースだ。いわゆる本物は、天才は、滅多にいない。業界や分野にもよるだろうが一流と評価されている上位10%の人々がいたとしたら、せいぜいその中で本物は1〜3%くらいだ。一流の残りの7〜9%は本物ではない、お前と同じ偽物だ。必死で本物に挑んで負けたお前にならわかるだろう。お前みたいなコンプレックスまみれで、自信がないけどそんな自分を曝け出すことすら怖くて、自分のことは棚に上げて人の悪いところにばかり目がいってしまうお前になら気づけるはずだ。あいつらもお前と同じ人種だ。ここでもう一つの明るいニュース、だいたいにおいて評価する側、つまり客は素人だ。お前と同じ完全に本物でも天才でもない、当たり前のつまらない人間だ。これも本物には持ち得ないお前の強みだ。人と違わない自分を恥じるな。人と同じものを好きな自分でいい。自らの大衆性、俗物であることはとても大きな武器になる。大衆は天才を真には理解できないが、俗物でフェイク野郎のお前のことは大衆は理解できる。仲間だからだ。お前がうまいと思う料理はだいたいみんなもうまいと思うし、お前がいいと思うものはだいたいみんなもいいと思うんだ。そこも大きな足掛りになる。
本物ではないのに一流と評価されている人がいる一方、お前はただのワナビ、意識とプライドだけ高いフェイク野郎だ。そこの違いは単純で、要は偽物として出来が悪いからだ。これからお前がしていくことは、偽物として精度を上げていくこと、それだけでいい。一流とされる人たちでもお前は偽物と気付けたはずだ。そこに違和感を感じることができたはずだ。そういった違和感を、間違いを、一つ一つ潰して本物らしくなっていけ。本物ムーブをできないお前は一つ一つ覚えてやっていくしかない。本屋のビジネス書コーナーの新刊の内容を見てみろ。どこかで聞いたことがあるようなことばかりしか書いていない。あいつらも本物の言葉を学んでそれっぽいことを言っているだけで、少なくとも本を出せるくらいの評価をされている。つまりはそういうことだ。偽物として一番の評価を目指せ。最終的にはお前が偽物だと気付けるのは本物だけになる状況を目指せ。そうなるともうお前は世間から見たら立派な本物だ。偽物には、フェイク野郎には、それなりの戦い方がある。
お前がフェイク野郎と言われるのは単純に精度が低いから、という話をした。しかし誰だって最初は下手くそだしにわかだし新参だし初心者だ。その時にお前が取るべき姿勢だが、あくまで謙虚に誠実に、真摯でなくてはならない。あれこれ言ってくる外野にではない。お前が評価されたいそのなにかに対してだ。周りに何か言われた時にビッグマウスを叩いて結果を見せるというやり方には憧れるのはわかる。でもお前は凡人だし偽物だ。そんな逆境を跳ね返せる力もない。全力で負けた時に無駄なプライドもしっかり捨てられたはずだ。本物じゃないお前がギャラリーを敵に回すのは得策じゃない。それは全てを黙らせる実力を持っている者だけに許されることだ。あくまで謙虚にやっていくしかない。お前はどうせ性格が悪いから世の中の大半は馬鹿だと思っているだろう。その通りだ。俺もお前も馬鹿だ。馬鹿のくせに馬鹿に馬鹿にされて怒るのはあまり得策ではない。叩かれた時の立ち回りで評価を上げろ。馬鹿なお前だからこそ馬鹿の気持ちがわかる。馬鹿の気持ちも馬鹿にしかわからない。お前の強みはわかりやすさだ。お前は馬鹿で凡人だから、お前の作るものは基本的にわかりやすい。大丈夫だ、やれるはずだ。
ここまで言っても、ここまでのことがわかってもできない奴もいるだろう。できない奴が大半だろう。頭では理解できても理性的に動けずにそのままなんにもならないまま終わっていくだろう。お前にもひょっとしたらお前にしかない才能があって、お前のまま輝けるステージがあるかもしれないな、確かにそれは否定できないし、そんな物語は魅力的だ。それでも現状から判断するとらお前が輝きたいステージと輝けるステージは別の可能性が高い。見つけるのはなかなか大変そうだ、人生をかけて見つけることができるといいな。そんなお前に一つの提案なんだが、本物にはなれない、どこまでいってもなにも生み出せない消費者のお前にも、いいお客さんになることはできる。ここまであれこれやったり考えたりしたお前には本物のことが理解できるはずだ。本物も天才も、客が、ギャラリーがいないと成立しない。消費者がいないと生産者もいないようなもんだ。何者にもなれなかったお前にも、1番の客になることはできる。この場合の1番とは1番お金を使う、みたいなことではない。1番本物の気持ちを理解して寄り添える、誠実な客ということだ。本物は、天才は、常に孤独だ。理解してくれる消費者は心からの支えだ。偽物で何も生み出せなかったお前も、本物を支えることができる。消費者のお前の消費活動も込みでの本物の生産活動だ。誠実な客として本物を支える幸せもある。ここまであれこれ悩んできたお前は好きなものに誠実に向き合う幸せを噛みしめることができるはずだ。
最後に少しだけ綺麗事を書く。ここまで書いても結局響く人には響くだろうけど、結局はほとんどなんにも変わらないだろう。それでも俺は凡人のフェイク野郎の偽物の、お前たちのことを愛おしく思う。何も生み出せずに悔しく思いを抱えて生きているお前たちに少しだけ綺麗事を言う。何も生み出せないお前の何者にもなれなかった人生も、立派な物語でお前の生み出したものだ。それを少なくとも、お前だけは消費しているはずだ。お前はお前の為だけの生産者でも消費者でもある。他の誰にも誇れることではないが、お前自身には誇れることではある。1人でこっそり胸を張ってもいいとは思うし、そんな生き方を俺は美しいと思う。俺もお前もちっとも冴えねえしどうしようもないし日の目も見ずに評価もされないけど、それでも明日もなんとかやっていこうな。おしまい。
読みたい本が無くて3ヶ月ほどで解約したんだけど、好きな漫画雑誌がKindle Unlimitedで毎月読めることがわかって再度契約した。
こうなれば自分にとってはほとんど定期購読みたいなもんで、読まなきゃ損!元を取らなきゃ損!って気持ちが無くなったので良かった。
大抵は古くてビミョーな漫画か、流行りな漫画の一巻だけとかなんだけど、
たまにあれっと思うような当たり漫画が全巻読めてよい。
昔流行ったビジネス書籍とか自己啓発本の類も読めて飽きない。仕事は楽しいかね?とか、初めて読んだ。多分読み放題じゃないと読まなかった。
書店では買わない、もしくは恥ずかしくて買えないけどちょっと興味がある、ぐらいのジャンルの本が色々つまみ食い出来るのもいい。
異性のファッション誌とかね、
じゃあKindle Unlimitedを万人にオススメするかっていうとまずしないんだけど、
読みたい本や雑誌がたまたま対象になってるとか、とにかく活字に飢えてて読み散らかしたいんだーって人はとりあえず無料期間だけでも試してみてもいいかも、ぐらいの感じです。
Twitterアカウントは実名になりアイコンは本人画像になった。
八重洲ブックセンターで開かれるイベントに参加するようになった。
noteを書き始めた。オンラインサロンとかにも参加しているんだろう。
そういうこともあるだろう。
いわゆるインフルエンサーに憧れて,新しい生き方を標榜する人びとは腐るほどいる。
後ろのソファに置いてあるiPhoneを手に取ってTwitterで「お金2.0」とか「hogehogeをアップデート」とかで検索したら5秒で見つかるはずだ。
知らんけど。
でも,僕の大切な友人が,かけがえのない人たちが,そんな腐るほどいるであろう人びとのコピーアンドペーストみたいな発言をし続けることはどうにも耐え難い。
もちろん,彼らの生き方だし,彼らの考えることなのだから僕の口をはさむ余地はない。
分かっている。でもどうにも耐え難い。そんな気持ちで今文章を書き殴っている。
彼らは(僕らは),偏差値が高くも低くもない地方の国立大学で同じサークルに在籍していた。
みなさらなる地方から出てきて下宿をしていたので,口実を見つけては(あるいは口実などなくとも),酒を飲んだり,タバコを吸ったり,深夜アニメを観ながら麻雀を打ったりした。
彼らはみな何かを考えていたし,自身の哲学を持っているように見えた。
僕はあまり友人が多くなかったし,地元にあまりいい思い出もないので,彼らとの時間こそが僕にとっての青春時代だったのだと思う。
願わくば,彼らにとってもそうであって欲しい。
彼らはみな優秀だったし,特に就職活動で苦労することもなく大企業に内定した。
僕は就職活動をしなかったので詳しいことは分からないが,当然の結果だと思う。
魅力的な人間が正当に評価されたことは自分のことのように嬉しかった。
そして,僕らはそろって卒業し,僕は別の地方へ,彼らは東京へと転居した。
卒業後も出張や帰省やその他もろもろの用事で近くに行ったときには連絡を取るし,酒を飲みながら,コーヒーを飲みながら色々な話をする。
彼らは相変わらず魅力的な人間だったし,仕事の話も僕にとっては新鮮で興味深い。
僕は彼らのことが本当に好きだし,匿名のこの場では,恥ずかしげもなく親友であると言いたい(もちろん実際にあって確かめ合うようなことはしないので実際のところは分からないが)。
繰り返すが,彼らの生き方に僕が直接何かを言う権利などありはしない。
SNSの使い方というのは非常に難しい。
僕は母親とTwitter上で相互フォローなのだが,ある時を境に母は政権批判のリツイート以外をしなくなってしまった。
彼女には彼女なりの思想があるのだろう。何かを言うことはできない。
彼女のTwitterアカウントは数年前から僕のミュートリストの中にある。
思うに,誰もが言いたいことや考えていることがある。
しかし,咀嚼して,飲み込んで,消化してしまう前に色々なものが燃え尽きてしまうのだ。
一瞬で燃え上がり,そして燃え尽きてしまう情報について考える時,僕は大気圏で煌々と輝くスペースデブリを想像せずにはいられない。
そんな時に目に飛び込んでくるキャッチーなフレーズはあたかも答えを与えてくれるように思えるのだろう。
僕自身にも思いあたる節がある。
話が逸れてしまった。
大学時代の彼らの話は未消化で,拙く,青臭かった。
でも,決して誰かのコピーアンドペーストではなかった。
一切の出典のない話はこの世に存在しない。
でも彼らの話は本物だったし,彼ら自身だった。
そんな彼らの話が僕は好きだったし,僕自身もずいぶん恥ずかしい話をしたような気がする。
変わらない人なんていないのだろうが,そう思える。
だとしたら,僕の感じる嫌悪感の正体はアウトプットの方法にあるのだろう。
情報を噛み砕いて,飲み込んで,消化する。そして何らかの形で放出する(あるいは排泄する)。
この一連の作業に必要なものは枠組みだろう。フレームワークなしで人間は論理だった話をすることはできない(もっと言えば論理的思考も)。
いわゆるインフルエンサーは,旧来のフレームワークを貶しながら「新た」な,「多様性」の名の下に画一的なフレームワークを提供する。
では、そのグローバルな新しい世界を受け入れたビジネス書に何が書かれているかというと、究極的には自己啓発的に「がんばれ」としか言っていない。
しかし、現在の東京は、シリコンバレーでも深圳でもない、世界の中で2周遅れた街になっています。
東京にはグローバルな情報産業のプレーヤーとして誇りを持てる環境は全くなくて、そこで生まれる言葉は非常に貧しい。
もちろん、東京にもポジティブにもがいている個人はたくさんいますけど。やはりこの現状では「がんばれ」くらいしか言うことがないのだと思うんです。
(https://www.asahi.com/and\_M/articles/SDI2018071041031.html])
ビジネス本批判なのだが,いわゆるインフルエンサーの発言もこれに近いものだと思う。
絶望的な現状を(現在の枠組みを)冷笑的に貶め,インターネットとSNS,テクノロジーが新しい生き方を生み出す!と声高々に宣言する。
ではどうしたらいいのか?がんばれ。動け。ポエムを大さじ2杯ほど。
結局のところ,枠組み「っぽいもの」以上が与えられないままアウトプットのフェーズにたどり着いてしまう。
インフルエンサーの人びとは「がんばって 」それなりの成功を納めたからインフルエンサーたり得るんだろう。
ただ,彼らの何百倍もの人びとが同じように失敗し続けている。
結局のところ,誰も何も分かりはしないんだろう。
僕はウィナー・テイク・オールでばらまかれ続ける虚無を嫌悪し続ける。そして、僕の好きな人びとに薄っぺらな言葉を吐かせたことを悲しく思う。
僕の友人たちは成功するかもしれない。
あるいは失敗するかもしれない。