今まではソロでもちびちび楽しめていた。
周りに中高生向けゲームやってる奴なんていないからさ、ソロでずっとやってきてたよ。
リリース半年目くらいから始めてたからさ、割と古参の部類で止めるのももったいない気がしてさ。
超絶爆絶でも無課金用のキャラを育てて頑張れたりしていた、そうやって頑張ってクリアした時の達成感も楽しめる要素だったよ。
無課金でもガチャで良いのがでただけで、これであのクエスト行けると思って喜べたよ。
でもさ、
封印の玉楼ってなんだよ。
周りにガキみたいにわいわいスマホゲームしてる奴なんてなかなかいないんだよ。
でもさ、
ソロでぼちぼち楽しんでる奴もいるんだよ。
やりこんで楽しむユーザーだけじゃないんだよ。
でもマルチでしか楽しめないゲームになるなら残念だけどやめるしかないな。
思えば黒猫もそうだった。
協力プレー(という名のソロ殺し)がでてきてからめっきりログインしなくなった。
ラブライブ!サンシャイン!!ってあるじゃないですか。
主人公の高海千歌ちゃん、先輩スクールアイドルμ'sに憧れつつも、彼女たちのように「輝く」ことなんてできないよ…と悩み続けていたのが記憶に新しいです。
「私ね、普通なの。
私は普通星に生まれた普通星人なんだって。どんなに変身しても、普通なんだって、そんな風に思っていて。それでも何かあるんじゃないかって。
思ってたんだけど。気が付いたら、高2になっていた。」
失礼な言い方ながら、こんな記事を読んでいるあなたのことでしょう。ぶっちゃけそんなに成功した人生を送ってるような方じゃないと思います。
年収が1000万、大切な人がいる、学歴、職歴、持ち家、彼氏彼女、人の価値を人が決める上でのステータスは各々が違います。それが高ければ低い人もいる。その高低で優劣をつけ、普段の生活で「アレよりはマシ」と比較し、なんとか穏やかな生活を送りたいと無意識に思っている。私は22年目の人生で、少ないながらも様々な本やドラマを鑑賞し、そんな人生を送っている人がほとんどなんだろうなと思いました。
年収1000万、大切な人がいる、学歴職歴etc... もしこれを読んでいるあなたが、これらのどれかを実際に所有しているとして、自分のこころに問いかけてほしい。
本当にそれで満足ですか?これまでの人生は胸を張って「満足でした」と即答できますか?
私はできません。
中学でそこそこ勉強を頑張って、そこそこの高校に入り、大学でもそこそこの大学に入り、来たる6月に23回目の誕生日を迎えて23歳になります。
昨年は海外留学も1年経験しました。多くの人とも言語を超えて交流をした気でいます。
来年からは就活が始まります。きっと、そこそこの企業に入るのでしょう。よくわかりません。
前置きが長くなりました。
これを読んでいるそこそこの人生を送るあなたにもうひとつ質問です。
本当に輝いている人をその網膜が捉え、脳裏にその映像が映し出されたとき、人はどうなると思いますか?
応えは、「受け止めきれない」です。
ラブライブ!サンシャイン!!の話に戻りますが、昨日2月25日(土)はAqoursの1stライブが横浜アリーナで開催されていました。
幸運なことに私も参加することができ、座席もセンターステージが近く、トロッコが通る通路真横という最高のポジションで、自分が本当にこんな席に座っていていいのかと思うほど。
はてな匿名ダイアリーで書くようなことでもないですが、私は本当にAqoursのある声優さんと結婚したいと思っています。ガチです。3年以内にLINEアカウントを交換するし、5年以内に結婚する。声優五カ年計画。
そんなことを言いつつも、「やっぱリアルの彼女もほしいよね」という訳で、先日「オタク辞める」宣言を発表したところです。
未だに携帯のアルバムから声優の画像が消えることもないですが、これ以上オタクみたいなイベントに行くのは辞めようという決意。
一方で、「某Aqours声優ちゃんと結婚したら、1stライブの話をされた時に反応に困る。要所要所でポイントを押さえ、共感しないと信用してもらえない。」という推測より、「Aqoursのライブには行こう。あれなら顔も覚えられないし。」という理由で今回のライブに参加した次第です。
結論、甘かった。
一挙手一投足、身体の頭からつま先、手の先の細かいところまで自分でコントロールしつつも、ステージの上で持ち前の若さと経験を武器に誰よりも大きく振る舞う彼女。
普段書かれているブログの文章のように、のびのびとして本当に自由。それでも、時折見せる20歳とは思えない刹那な慈しみの表情。本当に20歳とは思えない。
ライブ中盤。
トロッコを用いた楽曲で、某Aqours声優ちゃんが私のいるサイドへ。残念ながら私がいる方とは反対の、ステージ後方へと私の5m先で舵を切り、網膜がキャッチする彼女はどんどんと離れていってしまいました。
おとなしく切ない曲調だったこと、そしてそのなかでも可憐に踊りながらも私から離れる彼女を見てふと、「あんなに仕草が美しい人類は他にいない、絶対に結婚したい。」と思う。これまで彼女に対して抱いてきた感情で、一番強かった。
「来てよかった。彼女のパフォーマンスを見れてよかった。」そう思っていました。
ここまでは。
2曲目の曲中で、メンバー全員がトロッコに乗り、こちらへと向かって来ました。
私の横には通路、つまりこれから視界に何も遮るものなくAqoursを観れる。ヤバい。死ぬんじゃないか。しかもこの曲だけトロッコのスピードがやけに遅い。めっちゃ真ん前に来るやつ。
そうこうしているうちに、小宮有紗さんを先頭に多くのメンバーが目の前を通り過ぎるものの…私の方向から見えるのは正面ではなく、背中でした。
「それでもやっぱり声優さんってマジ綺麗だな。すげーわ。小宮さんとかあの茶髪どこで染めてんだろ、めちゃ綺麗。」とか油断していたところ、某Aqours声優ちゃんの番に。
「かわいい」
何もできない。
人は無力、何もできない。
あまりにも私の手の届きそうで届かない頭上で輝く彼女の姿を見て、私は何も為すこともできませんでした。
地下ドル現場のオタクみたいに「それ!」って言って指を指せばよかったのか、そんなことできない。思考が追いつかない。
μ'sのときはよかった。ステージの上にはライクの感情はあってもラブの感情を乗せることはなかったから。
南條さんを応援させていただきつつも、ラブな感情が芽生えることもなく、エモい時は「エモいなぁ。すげぇなぁ。」といったところで止まっていた。良くも悪くも。
好きな人がいれば、その動きに魅了され、感情の行き場がなくなる。
それを目の前でインファイト状態でやられたもんだ。無理、輝きすぎ。処理できない。
そしてその瞬間、初めて感じた「ステージ側の人間」と「ファン」の距離。
これまで3年以内にLINE交換したかった私、今思えば本当に甘かった。この両者の距離感を近所にある小川を飛び越えるくらいの難易度だと考えていた。甘い、甘すぎる。
何故なら、ステージで輝く彼女に対して、こちらは何を披露するでもなければ生産してもごくわずかなものしかクリエイトすることのできない「普通の人間」だからだ。
彼女の身振り手振りのひとつひとつには、幼い頃から鍛錬に鍛錬を重ね、養成所に入り私が想像することもできないであろうレッスンに耐え抜き、私の知らない場所と時間にもレッスンをして、私がのこのこと大学でスマホをいじっている時間にもバイトをし、私が暇だ暇だとぐだりながらバイトをしている時間にも練習をしていたその全ての結果が身を結んだオーラを纏っている。
その動きは、私のような普通の人間では手に入れる、意のままに操れるような代物ではなく、それに手を伸ばそうとしても、ホーリーピークという事務所、バンダイビジュアルや子会社のランティスをはじめとして、様々な権利がその手を拒む。
そもそも、何の努力もこれまでしてこなかった普通の人間と、私の経験してこなかったものを多く見て私の頭上で輝く人間が一緒になっていいはずがない。
大学受験の頑張り?留学の経験?そんなものケツ拭く紙にもなりゃしない。
海外留学で得た経験は所詮は蜃気楼みたいなもので、実際に今日あのシーンを脳裏に焼き付けた瞬間、それを受け止めきれることができなかった。
海外で得た経験なんか声優の前では無力だった、何も受け止めきれない、何も理解することができない。そんなもんですよ。
「私ね、普通なの。
私は普通星に生まれた普通星人なんだって。どんなに変身しても、普通なんだって、そんな風に思っていて。それでも何かあるんじゃないかって。
思ってたんだけど。気が付いたら、21歳になっていた。」
今からでも、変われるんでしょうか。
未だにくだらない下ネタを肴に男友達と笑いあえるメンタル中坊な私でも、就職までのあと2年で変われるんでしょうか。
そんなわけで、絶対に一般人ではないであろう、熱愛結婚報道等でよく用いられる「(お仕事の関係者だけど世間で言えば) 一般男性」になりたい、なろうと思います。バンダイビジュアルにでも就職しようかしら。そう思いつつも、帰りの電車で自分の頭上で起きたことがフラッシュバックしてきては、「本当に好きなのに絶対に付き合えない。無理。輝いてるもん。」とこころの下の方の扉を開けた深海へと今宵も意識を沈ませるのでした。
明日から頑張りたい、変わりたい。そう思いつつも、その一歩を踏み出せないまま明日も普通星人として横浜アリーナの1万人以上のファンのうちの1人と化して、流れるビートに身体を預けたまま、明日へと運ばれる電車で気づけば自宅のベッドに全重力を任せて眠るだけなのでしょう。
「某Aqours声優ちゃん、絶対今回のライブで人気出るよね。ライバル増えるよ、頑張って。」
これに関して一言。
それは関係ない。
果たしてそのなかの何人が、今日私が感じたようなキモチを味わうのか。
ひょっとしたら、そのなかには幼少期から彼女のことを応援し、日の目が当たらずよくわからんスマホアプリのCMに出ていたり、ノルマが課された演劇の舞台へと熱心に幾度も通いつめたファンがいるかもしれない。
ありがとうございます、あなたのおかげで彼女の輝く姿を今日拝むことができました。
こんな気持ちになったのは、幼稚園の頃に同じクラスだった知代ちゃん(仮名)を初恋だとするならば、おそらく2度目。
本気です。
彼女の舞台、まだ原石だった頃の彼女を見ているあなたは本当に羨ましい。時間は止められないと知って、君と早く会いたかったよ。本当に早く会いたかった。
所詮はラブライブ!サンシャイン!!という大箱コンテンツの、しかもアニメ放送後からファンになった身。
それでもやらなきゃならない。吐いた唾は飲まない。そこに関しては徹底して彼氏候補ナンバー1の座を意地でも奪いたいと思っています。
満足した人生を送ってますか?という最初の質問から普通の人として生きるまで。
現状、私はそこそこの人生を送っているものの、満足していません。
「幸せは足元に転がっている」
そうです、そんなことは百も承知です。それでも彼女と笑いあいたい、対マンで。サシで。頼むよ。
本当に満足して生活を過ごしたい限りです、過ごすぞ。
そんなわけで、Aqoursのライブが終わった明後日から生きられる自信がないので、どうすれば声優さんと結婚できるのか。「声優さんになる」以外の回答ができる経験談をお持ちの方は是非ともコメントいただきたいです。飲みましょう。
あと、本当に最後の曲が終わってアドレナリンが出まくってたのか、一目散にステージからセンターへと俊足で駆け抜け、おまけに自分の腰の高さまでありそうなくらいにモンキージャンプをしてけらけらと最後まで満面の笑みを見せた彼女。
4時間にも及ぶステージ。映像なんかがありつつも、やっぱり3時間くらいはステージで歌って踊っているわけで。
いくらダンスが好きだ、愛してると言いつつも、本当に他のメンバーを置いてきぼりにするくらい、アクセルベタ踏みで最高速度を叩き出せるあのスタミナは心底恐れ入った。
3時間のライブをして、普段トレーニングをしてるミスチルの桜井和寿さん。
彼もライブ中によく走るけど、彼女のようなスピードを出しているところは見たことない。おまけに、彼女は3時間のアクトを踊りきった後。
マジで怖かった。アドレナリン出まくってたんだね、表情からでもわかったよ。マジでテンション高かった、やっぱかわいい。
マジで身体のラインが出ていたので本当に辛かった。アイドルといえど、公衆の面前で身体のラインを出すのはやめてほしい。
本日ハマのステージで素敵なパフォーマンスを見せてくれたAqoursのメンバー18人の皆様。そして想い人の某Aqours声優さん。
仕事に対する情熱は無いけど、趣味に対する情熱は寝る時間を割いてでもある。
事あるごとに自分へのご褒美をする。
嫌いなところはたくさん浮かぶのに、好きなところが出てこない。
いつから嫌いになったのか考えた。
なぜ離婚しないのかも考えた。
でもその勇気があるなら別れた方がいいのかもしれない。
でも死ぬのは怖い。
あらゆる恐怖は死にたくないということだというから仕方ない。
ジェットコースターのような人生の方が楽しいってのも楽しければ楽しいと思う。
今乗っている得体の知れないものはちっとも楽しくない。ただ怖いだけ。
死ねばいいのにって本当に酷いなって思うくらい思っている。
出かけて帰って来た時に、『なんだまだ生きてんのか』と平気で思うし、向こうが出かけて帰って来た時に『ちぇっ死なずに帰って来やがった』と思ってしまう。
深夜になっても帰ってこなかったことがあって、もしかして本当に死んじゃったのではと思った。
そう思ったら焦ったし、震えた。どうしようって。
生きててほしいのか死んでほしいのかわからなくなった。
でも死んでどうしようはこれからどうやって生活していくのかってことだから、自分のことしか考えていなかったかもしれない。
その時『やった』と喜んでしまった。
なのに自分は涙が出た。
よくわからないだろ。
自分もよくわかっていない。
くっそつまんねえ
田舎だが公園や神社、郵便局が多いのでポケストップには困らない
だが出現するポケモンが
一週間やってこれはクソすぎんだろ
新しく出現したのが
これはつまんなすぎる
レベル5になったのでバトルしよう!とか言われても
「まだお前は弱いから戦う権利はないよ!おとといきやがれ!」みたいな門前払いである
ポケモン捕まえた後に何すんのかも謎だし
こんなつまんない、何もやることのないゲームのために去年の夏あんなにバカ騒ぎしてたのか
こんなつまんないゲームのために死んだ人がいるのか
いたたまれなさすぎる
去年の夏にポケモンgoでバカ騒ぎしてた周りの連中はポケモンgoが日本上陸した二ヶ月後には皆飽きていた
あのバカ騒ぎは一体なんだったんだ?
いい記事なのだが、いくつか反論や補足が必要だと思ったので書く。
このGPLのコンパイラとはGNU bisonやGCC(GNU Compiler Collection)について指しているのがほぼ明確なのでそれらについて書く。
確かに著作権法を元にしたライセンスは、ソフトウェアの出力結果に対してソフトウェアの著作権ライセンスが影響しないと解釈するのが妥当であるというのは正しい。
ただしこれは"著作権ライセンス"に限った話である、つまり著作権ライセンスでは不可能な制約がEULAなどでは課すことが可能であるということを意味する。
詳しくはGNUの書いた記事の"契約を元にしたライセンス"という項を読むと良い。以下に引用する。
https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.html
ほとんどの自由ソフトウェアのライセンスは、著作権を元にしています。そして著作権によって課することができる要求には制限があります。もし、著作権を元にしたライセンスが、上記に記した自由を尊重するならば、まったく予期しない他の種類の問題があることはありそうもないでしょう(予期しないことはまま起こりますが)。しかし、ある自由ソフトウェアのライセンスは、契約を元にするもので、契約はもっと広範な制限を課することが可能です。これは、そのようなライセンスが、容認できないほど制限が強く、不自由でありうる、いくつもの形態がありうることを意味します。
わたしたちは、起こりうるすべてのことをあげることはできないでしょう。もし、契約を元としたライセンスが利用者を(著作権を元としたライセンスでは無理な形で)異常に制限するならば、そして、それがここで正当だと述べられていないのならば、それについて検討しないといけないでしょうし、そのライセンスは、不自由であると結論づけるかもしれません。
また元の記事の著者はGCCやbisonがGNU GPLのような強いコピーレフトで保護されたソフトウェアでも、それによって作成された著作物はGPLにならない(つまりコンパイラやパーサーのライセンスを継承しない)ことを根拠に考察しているようだが、実はbisonやGCCのGPLにはライセンスに対する例外が付属していることを考慮すべきである。
GCCやbisonの著作権保持者であるFree Software Foundationは著作権法の話をするとき、たいていアメリカ合衆国を想定しているがこれらの自由ソフトウェアが広く使われるあたって、著作権法とそれを元にしたライセンスが異なった解釈をされることがありうることをおそらく危惧している、そのため出力に対してソフトウェアのライセンスが影響しないことを確実にするためにこれらの例外を規定しているのではないか。
この二つの理由から、元記事の議論は世界中に対して広く配布するFLOSSディストリビューションでは(非常に残念ながら)鵜呑みに出来ないと私は考える。
加えて言えば、たとえフェアユースの規定が全世界的に利用できて、営利目的でなければ利用できたとしても、
自由.0: どんな目的に対しても、プログラムを望むままに実行する自由
(i.e. オープンソースの定義 6項 利用する分野に対する差別の禁止)
がある限り、そのような制限をディストリビューションは受け入れられないだろう。
またOracle vs GoogleのJavaのAPI訴訟はケースとしてはかなり特例であり、
一般に広く適用すればlibcすら当てはまるのではないかと私は思っている、
これを根拠にしてよいのならばそもそもコンピューター業界がひっくりかえるのではないか。
少なくともUbuntuのようなプロジェクトにおいて、私は断固反対である。
というのは現状ほぼすべてのWeb翻訳(例外があれば教えて欲しい)はプロプライエタリないし、それと同じ結果をもたらすSaaSSだからである。
Webブラウザを介して使う翻訳サービスはSaaSSの代表例であり、ユーザーがコンピューターの計算のコントロールを
持つべきであるという自由ソフトウェアの思想と明らかに相容れないものである。
このようなサービスを利用することの弊害として、(例えば)Google翻訳に翻訳処理の計算を依存することにより、ユーザーの入力をGoogleが常に把握することが挙げられます。
もちろんこれはあまり良いことではない。
多くのFLOSSシステムディストリビューションは自由なソフトウェアを主に入れるというガイドラインを持っている。
アーカイブのごく一部にnon-free(Ubuntuならrestricted/multiverse)なソフトウェアがあるが、
これは事実上妥協の産物であり、排除しても大した問題がないならば配布から除外することに多くのディストリビューション関係者は異論を挟まないだろう。
また例えばDebianはあるソフトウェアがDFSG(Debian フリーソフトウェアガイドライン)に適合するフリーソフトウェアであったとしても、それがガイドラインに適合しない著作物に依存する場合、contribというセクションに閉じ込めており、それは公式のシステムの一部ではないとしている。(建前ではcontrib/non-freeセクションはユーザー向けの付加サービスとされる)
Ubuntuコミュニティで新規に作られた著作物がコミュニティの哲学に反する物に依存するというのは、かなり致命的である。
たとえ奇跡が起こり、例外的にGoogle翻訳や一部のプロ用翻訳ツールがBSDライセンス(Launchpad上での翻訳用ライセンス)での出力を許したとしても決して褒められたものではない。
Ubuntuのbug#1に"Ubuntuソフトウェアは自由である。常にそうであったし、今後も常にそうである。自由ソフトウェアは万人に望むままの方法で使い、望むままの人間と共有できる自由を与える。この自由は多大な利点である。"とプロジェクト創始者であるマーク・シャトルワースが書いていることをよく考えるべきである。
https://bugs.launchpad.net/ubuntu/+bug/1
この反論を読んだ読者の中にはあまりにGNUプロジェクト寄りに思想が傾いていると思う者がいるかもしれないが、
いわゆる"Linuxディストリビューション"の中には数多くの重要なGNUソフトウェアがシステムの根幹をなす形で入り込んでおり(例えばGCC,bash,glibc etc...)
またUbuntuの派生元となったDebianの成立経緯にはやはりFSFが関わっている。
さらに言えば、システムの保守を手伝う人の中にはシステムがフリーだからボランティアで頑張っているという人もいると思う。(ほとんどではないかもしれない)
のでUbuntu周りの話に限ってはこういった観点で見てもよいと思ったので書いた。
日本でもレンタルビデオ店を利用してるのはパソコンやネットの使い方がわからないジジイ、ババアが中心だ
エロ動画サイトには無修正動画が大量に違法アップロードされていて
モザイク付きの日本のAVなんてわざわざ金払ってまで見ようとは思わない
元増田だ。
http://anond.hatelabo.jp/20170218235056
俺はヒジャブを被らなきゃいけない状況は恐怖だとも何も言ってないんだけどねぇ・・・
などと皮肉ろうかとも思ったけどカマトトぶって嫌味言うのもまぁ違うだろうと。
という所が争点になってしまっているようだ。
つまりやっぱりイスラム的な男尊女卑思想は、「自分たちは男尊女卑だ」と自虐しがちな日本人ですらちょっとやばいと思っているということにほかならないんだろう。
少なくとも女性がヒジャブを被ったり一夫多妻的な世界観を危ういとは思っているわけだ(実際には色々宗派だとか緩さだとかあるのはちょっとおいておいて)。
このルートで論争をした場合、イスラム教を世俗化できるか、それとも世俗化できずに失敗するか?
の2択で論争することになってしまうが、これは少し危険な感じがする。
皆はどう思うだろうか。
受験終わった遠い遠いところまで新幹線で片道4時間以上かけて会場下見してホテル泊まって起きて受験して買い物して帰宅、そして現在。
ぼんやりしたまま今に至った。
人生の中で1番頑張ったと言えるのが受験だと思う。部活も何もしていなかったから。
LINEもTwitterもYouTubeも消してブラウザも真っ直ぐ開けないようにして、単語帳のアプリ入れて9割の楽しみを抑圧して過ごした。
帰りの新幹線、勉強ももう必要ないし抑圧からも開放されてずっとスマホをみてた。たのしかった。LINEもTwitterもモバマスだってできた。我慢してたこと全部やった。
そしたら隣に居た親に呆れられた。なんか、すごく、悲しくてめちゃくちゃ泣いてしまった。
なんでだろ。まだかなしい。
あるいは目に映るものすべてを自分の欲求に寄せて語ることに憑りつかれている。
あまりこの言葉は使いたくないんだが、そもそも「普通に面白い」じゃん。けものフレンズ。
ファンの間ですらあまり評判がよろしくない第一話を例にしても、
メインキャラクターの顔見せ、おおざっぱな世界観説明、主人公の目的設定までを最初の5分で過不足なく終わらせた上で、
1話の中である程度の盛り上がりを作って2話までのヒキまでちゃんと盛り込んでるんだぞ?
その後も各話それぞれ起承転結(おまけに主人公がその性質をいかして活躍する)があって、しかも話が進む毎にちゃんと目標へと近づいて行っている。
おまけにかわいらしいキャラクターがキャチーなセリフを吐きながら入れ代わり立ち代わり出てくるときたもんだ。
今も昔もアニメ見渡して、これがきちんとできてる作品が全体の何割あるかって話。
デート途中に彼女が、肉まんの包み紙を道の自販機横のゴミ箱に捨ててたので、マナー違反だからやめた方がいいと言ったら不機嫌になって何も話してこなくなった。
悪いことをしたと全く思っていないらしい。
将来が考えられない。別れたい。
ひさびさに中島敦『山月記』を読んだら、だいぶ読み方が変わって驚いた。
以前は、強烈な自尊心ゆえに友人や先生に教えを請えないエリートが没落した様を描くことで、「つまらないプライドは捨てて生きていかないとロクなことにならないよ」という教訓を言う話だと思っていた。
が、この読みはどうも浅薄というか、人生の敗北者にとっては厳しすぎるのである。というか結論だけ抜き出せばそこらの自己啓発本と変わらないような気がしてきて、作品の価値を矮小化しているような気さえしてくる。
そこで、もう少し人生の慰めになるような読み方はないか。と考えていたら、これは「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないか、と思い始めた。
中学生の頃に読んだときは、李徴は周囲に教えを請いたりできないプライドの高い男だな、と思ったが、(浅い)人生経験を積んだ今、改めて読むとそうでもない。
李徴が詩人を志したのは、(功名心もあっただろうが)第一には心を揺さぶる先人の詩があったからだろう。そうなると、そうした詩を書く者が周囲にいれば、これに師事したり教えを請いたりしたはずである。
それにもかかわらずそうしなかったのは、自分の追い求める詩人像に値する者が周囲に居なかったからだろう。
①自分の追い求める理想像と、②世で「名を成す」者とがズレることは、現実社会でもしばしばあることである。
李徴は、このズレに気付かないまま自分の理想像を追い求めていったことで、世で「名を成す」ことができなかったばかりか、周囲の人間と折り合いがつかなくなり、「努めて人との交を避けた」結果、「一匹の猛虎」となった。
他方、周囲にいた「己よりも遥かに乏しい才能であ」る者は、世で「名を成す」道を「専一に磨いたがために」、「堂々たる詩家」となった。
李徴は理不尽な世の中に自分を合わせられず、ひたすらに理想を追い求めた結果、社会的に失敗してしまったのである。
これはカフカ『変身』で、社会の求める市民像──(ⅰ)家庭の善良な息子、(ⅱ)有能なセールスマン──を演じていたグレーゴルが、自己の本来性の自覚を持ってしまった瞬間、褐色の虫に変身してしまったのと似ている。
現代社会のルールでは、人間が自己自身の本来性を保持することを許さないのである。
そして、李徴が不幸であったのは、上述した社会のルールに、他ならぬ李徴自身が支配されていた点にある。
李徴としては、徹底的に社会を突き放し、自分の理想像を追求するという途もあった。
しかし、「元来詩人として名を成す積りでいた」李徴は、世で「名を成す」努力をできなかった自分を徹底的に断罪するのである。
李徴の詩を聴いた袁の評価によれば、李徴の詩は「長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである」とある。
「第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがある」とは言え、この自己評価は言い過ぎである。
それに、はっきり言って実社会でこんな話は”よくある”ことなのである。
神の手により不幸のどん底に落とされる義人ヨブを、自己責任論に基づいて徹底的にこき下ろす友人エリファズの話だが、どうも李徴の中にはヨブとエリファズが同居しているように思える。
さらに、上記のヨブ記のラストにおいて、ヨブは「仲保者」(=キリスト?)の存在を確信することで救われるが、李徴にこのような仲保者は現れない。
ただ、「向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。」というだけである。
これも社会のルールに合わせられないムルソーという男の不幸を描いた作品である。
ムルソーは物語のラストで、このような自分を排除せず「優しい無関心」を示す自然の存在に気が付き、幸福を得る。
他方、李徴は「獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。」というだけである。
ここに来て、山月記という作品は「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないかと思うのである。