はてなキーワード: kindle版とは
「40歳でGAFAの部長に転職した僕が20代で学んだ仕事に対する考え方」っていう本が本屋の話題の本コーナーに載ってた。
気になって調べてみたけど、めちゃくちゃ怪しい。
・具体的にGAFAのどこで部長として採用されたのか?(具体的に言うとだめなの?)
・GAFAの部長ってどんな役職?(部長って言うの?○○マネージャー等では?)
・Kindle版を書籍にしたからか、目次からして内容が薄い(「会議とは何かを決める場所」って、会議の目的ってそれ以外になにかある?)
・「部長として○○しました」っていう記載がない。(このくらいのポジションなら、自分の実績自慢するよね)
・灘→東京大学経済学部を卒業後、日系メーカー(複合機メーカー)で17年間勤務。(その経歴で複合機メーカーに入る?)
情弱を狙ったハッタリにしか見えないんだけど、ショーンkみたいに、誰かに問い詰められないの?
みんなで騙そうとしてるみたいで怖い。
もうちょっと言うと、日本史とか日本文学とかはぜんぜん大丈夫なんだが、西洋史とか東洋史とか、要するに外国のことを調べる学問がヤバい。
なぜかといえば非常に単純な話で、研究を進める上で必要な資料にアクセスできないからだ。
歴史学の根本は、オリジナルな資料(=一次史料)にあたることにある。一次史料には色々な形態があるわけだが、歴史上の出来事の背景とかを実証的に調べようと思ったら、公文書館にある史料を使うことが不可欠だ。
そして公文書館というのは行政機関なので、日本の国立公文書館や外務省外交史料館が東京にあるように、あるいはイギリスの国立公文書館がキューにありアメリカの国立公文書記録管理局がワシントンDCにあるように、当然ながらそれを管轄している国や地方自治体に設置されている。
コロナが2~3年で過ぎ去り、その後はすべてが元通りになるなら、その数年を耐え忍べばいい。数年が過ぎればまたヨーロッパなり世界の他の国なりに行けるようになる。当然、歴史学も元通りだ!
でも残念ながら、中東諸国の割安の航空券でヨーロッパに渡航できる日々は、もう戻ってはこないかもしれない。航空券が割高になるだけではなく、全世界的に航空産業が縮小し、これまでであれば容易にアクセスできていた史料にアクセスできなくなるかもしれない。
明治維新以降、政府が雇ったお雇い外国人たちによって、ランケに始まる近代歴史学が日本に持ち込まれた。だが初期の日本の歴史学はあまりにお粗末なものだった――現在の水準からすれば。
オリジナルな史料を見ずに、西洋人の書いた歴史書を読んでそれを日本語で紹介して論文を書き、吾は教授でございと偉そうな顔をしている。英語とフランス語とドイツ語の文献だけを読んでヨーロッパ史全体を講じるなんていう無謀なことが平気でまかり通っていた。
けれど、そのような稚拙な「論文」も必要だったのだ。日本の歴史学が独り立ちするためには。
やがて、それらの先人たちの業績を踏み台にして、きちんと史料集(=オリジナルな史料を集めてまとめた本)にあたって論文を書く人や、英仏独だけではない色々なマイナー言語を習得して研究する人が増えてくる。そして、交通技術の発展に伴って海外旅行が安価になるにつれ、国外の文書館にアクセスして論文を書く人が増え、英仏独以外の言語を学ぶ人が増え、留学して現地で学位を取る人も増え、日本の歴史学のレベルはどんどん上がっていった。
2000年代から2010年代にかけての日本の歴史学界で生み出された外国史研究のレベルの高さは誇るに値する。もはや横のものを縦にしただけではまともな論文とは見做され得ない。現地の言語を読めることが最低条件で、その上でどのようにオリジナルで面白い研究成果を積み上げるか。多くの研究者たちが競うように優れた論文や著書を生み出してきた。
留学の予定も史料収集の計画も、すべてが白紙になってしまった。
分野によって違うと思うが、外国史を学ぶ者は多くの場合修士課程か博士課程で留学をする。これは現地で史料を収集したり、現地で言葉を勉強したり、現地の研究者と触れ合ったりするきわめて重要なプロセスで、修士卒ならともかく博士号を獲ろうと思うなら避けては通れない。多くの研究者はだいたい1年から3年くらいの留学を経て、外国の歴史に興味がある若者から若手の歴史研究者へと成長する。
COVID-19直撃世代は、この留学の経験を持てない。彼らは外国史研究者として足腰を鍛える機会を奪われることになる。
2~3年でコロナ禍が終熄するなら、この世代が数年間のハンデを背負うだけで済む(たとえば、留学することなく博士課程の年限が来てしまったとか、在学を引き伸ばす羽目になり学費が余計にかかったり就職市場に参入するのが遅れたとか、せっかく学振DCを取ったのに海外調査をすることなく任期が過ぎてしまったとか、そういう悲劇が量産されることだろう――外国研究者は学振の研究費のかなりの割合を出張費に充てている)。
けれど、コロナ禍が終熄しなかったら、あるいは終熄後に海外調査のハードルがものすごく高くなってしまっていたら、日本の外国史研究は大きな打撃を受けるだろう。
そりゃ、留学終えてる組は今すぐに困るってことはない。彼らはもう現地語ペラペラだし、これまでの現地滞在で史料もたっぷり集めてるだろうから、当面はそれを消化しながら外国の研究者とオンライン会議すればいい。
でも、これから留学しようとする人たちは、現地に長期滞在して外国語能力を鍛える機会を奪われ、史料を集めることもできず、中途半端な研究能力しか持てないままに博士課程を終えざるを得ないことになる。
もちろん、先行世代よりマシな点もある。デジタルアーカイブの発展によって、従来は現地の図書館に行かないと見られなかった古書や古新聞が自宅にいながらにして読めるようになった。中には所蔵している史料をウェブで見せてくれる親切な公文書館もある。外国の雑誌だってオンラインで入手できるし、何なら研究書をkindleで読んだっていい。そういえば友達はドイツ語の学術書をkindle版で引用していた。
だから、研究の水準が明治時代に戻るということには、おそらくならない。
どのような種類の史料が必要かは、結局研究テーマに左右されるのだ。もしも「ドイツにおける日本人のイメージの歴史」を調べたかったら、古書や古新聞を徹底的に調べればそれでいい。けれど、「1960年代における西ドイツの政策決定過程」みたいなテーマを扱おうと思ったら、公文書館の史料を見なければお話にならない。
現代日本で考えてみればよくわかる。「安倍首相がメディアでどう扱われているか」と「安倍内閣の内側ではどんなふうに物事が決められているか」とでは、立論に使うべき資料が全然違う。前者は新聞やネットを見ればそれでいいが、後者は情報公開請求が必要だし、『朝日新聞』や『週刊文春』だけを見て後者を論じたら手抜きだと謗られるだろう。
そして歴史学とは「昔のことなら何でも扱う学問」であり、内部には表象を論じる研究者から外交政策を調べる研究者まで色々いるのだが、後者のような人たち――つまり、研究のために文書館史料を必要とする人たち――の研究はずいぶんやりにくくなるだろう。外国史研究において、思想史や文化史、古代史の割合が高くなるかもしれない。
(いやでも、ガチの思想史や文化史をやろうと思ったら文書館史料を見ないといけない局面も割と出てくるので、思想史なら文書館行かなくてもいいでしょ、という話にはならないんだよな……明治時代の知識人の留学先の国に出かけてその国の文書館史料使って明治期の思想についての本書いた人とかいるからな……逆にある程度昔の外交史だと関係する史料がほとんど翻刻されてたりするし……)
ネット上で読める範囲の古書や古新聞だけを史料として使って「18世紀におけるドイツ諸邦の外交」みたいな研究をまとめたとして、明治時代ならこんな多くの一次史料を使うなんて素晴らしい研究だと大絶賛され東京帝大の教授になれるかもしれない。でも現代では、研究のレベルが上がってしまった現代では、「新聞しか見てないじゃん。文書館史料使ったの? え? 使ってない? レベル低いね」と一蹴されてしまう。論文を英訳なり独訳なりして海外のジャーナルに投稿しても、それなりのレベルの雑誌からは軒並み落とされるだろう(というか、国内でも有力学術誌の査読を通過できるとは思えない)
ふんだんに文書館史料を使う質の高い研究に慣らされてしまったら、今更横のものを縦にすれば教授になれていた時代の研究水準には戻れないのだ。
ハードルを下げる?
つい去年まで史料調査のために渡航するのが当たり前で、今アラサー以上の人たちは研究水準が高かった時代を身を持って知っているのに?
コロナ禍の影響が数年で収まるのなら、業績の不足で苦しむのは直撃世代だけで済む。だが、もしもコロナ禍の後遺症が何十年も続くのであれば、外国史を研究する歴史家たちは困難な撤退戦を強いられることになるだろう。
それはより史料入手の容易なテーマへの撤退戦であるかもしれないし(政治史はハードルが高いから、表象の歴史とかを研究しよう)、より史料入手の容易な国への撤退戦であるかもしれない(○○国と比べて××国の方がデジタルアーカイブが充実してるから、○○史じゃなくて××史をやろう)。
ともかく、これまで日本の歴史学が積み上げてきた多様性は、徐々に失われていくことになるだろう。
日本の外国史研究にとって、冬の時代が迫っているのかもしれない。
まあそうは言っても史料さえどうにかなれば研究はできるので文化人類学や記述言語学よりはまだマシ。これらの学問では現地に長期間滞在して現地人の間に分け入って調査する必要があるので、現在のレベルの渡航制限が長続きすると文字通り危機に瀕する。これらの分野では伝統的に外国に関する研究が盛んで、オセアニアの島国やアフリカの奥地で調査してきた日本人が何人もいるのだ。今後、外国を舞台にした文化人類学や記述言語学は消滅し、国内を対象として細々と生き延びるほかなくなるのかもしれない……
(まあ、国内の伝統文化や方言を保存するために、一度外国の文化や言語を記述するのに使っているエネルギーを全部日本に関する研究に注ぎ込むのもアリかもしれない……でもCOVID-19で次々と伝統的なお祭りやら寄り合いやらが中止になっているし、うかつに都会の大学で修行する若手研究者が離島や山村に出かけてお年寄りのインフォーマントと接触するのもはばかられるよなぁ……)
デジタルアーカイブの発達はうながされるだろうけど、そんなに急速には進展しないだろう。それには2つの理由がある。
第1に、単純にデジタル化はすごい大変なのだ。マトモな国なら行政の作った公文書は破棄されずに何十年にもわたって保管されているのが普通で、それらすべてをデジタル化するのは労力がかかるというのは納得してもらえると思う(国だけじゃなく地方自治体にもその自治体の公文書集める公文書館があったりするからね。連邦制の国だと連邦レベル・州レベル・市レベルの文書館が別々に設置されていたり)。優先順位をつけてやっていくほかないけど(「まずは外交関係の公文書を先にデジタル化しよう。環境保護関係は後回しだ」)、優先順位の低いテーマを研究しようと思ったらそれでは困る。
第2に、困るのは外国人研究者だけで、本国の研究者はそんなに困らないのだ。
日本人がイギリスやドイツに調査に行けなくなっても、イギリス人やドイツ人の歴史家は何も困らない。彼らは渡航制限など気にせず自国にある公文書館にアクセスできる。これは日本のことを研究する日本人の歴史家にとっても同じだ。仮に外務省外交史料館から外国人研究者の姿が消えたとして、いったい日本人研究者になんの不都合があるのだろう?
(ここでは「外国人」と書いたが、厳密には、外国に拠点を置く研究者と言った方がいいだろう。日本の大学で教鞭を執っている中国人の日本史研究者はなんにも困らない。逆にうっかり日本学の専門家として英米の大学に就職しちゃった日本人研究者は大変だ。また、日本を研究する歴史家がなにも困らないというわけではない。日米関係の歴史を研究しようと思ったら当然アメリカに行かなければいけないし、国内政治だけを研究する場合であっても、日本政府の公文書管理がザルすぎるせいで重要な史料が日本じゃなくアメリカにあるみたいな状況もありえるので……)
つまり、全世界的に、自国を研究する研究者にとってはあんまり困らないが、外国を研究する研究者はめちゃくちゃ困る、という状況が訪れると思われる。外国人研究者への配慮が、果たして自国の公的施設のデジタル化への強い圧力となるだろうか? 正直疑問だ。
第1に、それ本国の研究者に何のメリットがあるの? お金を払ってやってもらうとして、その人件費は渡航費よりも安上がりだとはとても思えないんだけど……
第2に、史料の山に埋もれて色々探していく中でお目当ての史料を見つけるコツとか時代ごとの史料の特徴を見分ける目とか崩し字の読み方とかそういった歴史家としての技倆が養われるので、単純に他人に任せればよいという話ではない(「時代ごとの公文書の形式の違い」みたいなのも当然論文のテーマになるけど、これ書くためにどのくらいの史料読む必要があると思う?)。
ていうか、なんか勘違いされてるフシがあるけど、読んだ史料が全部研究に使えるわけじゃないからね。目録に面白そうな史料があったから地方の文書館に足を運んで閲覧してみたけど期待ハズレで全然使えませんでした、とか、膨大な史料の山を探しまわってようやく使えそうな史料の一群を見つけました、とか、何気なくパラパラめくってた史料の片隅にさり気なく重大なことが書いてありました、とか、そういうのあるあるなので。お目当ての史料だけ外人にコピーしてもらえばいいじゃん! なんて夢物語でしかない。
第3に、そもそも論としてなんで自分の研究のオリジナリティの源泉たる史料の入手を現地人任せにするのか。現地の文書館に通って現地人がちっとも注目してないけど重要な史料を発掘したなんてこともあるわけだけど、そんな史料を現地の研究者にコピーさせられるわけないだろ、常識的に考えて……論文で発表するまで史料の存在をひた隠しにするわ……(現地人が自力でたどり着く分には止められないけど、わざわざここにこんな重要史料がありますと教えてさしあげる必要はどこにもない)
日本史であっても一次史料が海外にある日本キリシタン史では、史料アクセスのハードルが以前から言及されていたのを思い出した。
なおアジア・アフリカの旧植民地ではそういう状況がデフォルトの模様。日本史を研究する日本人の歴史家は日本国内で研究を完結させられる余地があるけど、インドネシア史を研究するインドネシア人の歴史家がオランダに行けませんとか、インド史を研究するインド人の歴史家がイギリスに(ryとか、台湾史を研究する台湾人の歴史家が日本に(ryとか、そういうのはマジで研究に支障が出るよなあ……
そもそも論だが、「日本人が」イギリス政治史とかドイツ経済史とかを研究する意義が不明。「現地の研究者に任せる」だと何故駄目なのか?
それな! ぜひ同じことをドナルド・キーンやロナルド・ドーアやケネス・ポメランツやイアン・ニッシュやJ・ヴィクター・コシュマンやブレット・ウォーカーにも言ってきて!
これ、実際に北米Amazon見に行ってみたけど、『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』シリーズに関しては
1,2,5,6巻のKindle版は購入不可で3,4巻はKindle版購入可能だな。
物理本の方は1巻売ってない、2巻は売ってる、3巻は2020/09/01発売予定、4巻は2020/10/13発売予定、
5巻が2021/01/05発売予定、6巻が2021/03/02発売予定らしい。
売ってる物理本は普通に買えるみたいだし、Amazonがラノベを何らかのポリシーに従って狙い撃ちにしてるという感じには見えないな。
それとも、物理本はAmazonが在庫抱えてるからそれが掃けるまで売り切ろうとしてるだけなのかな?
他の商品カテゴリーの商売人が声上げない(もしくは声上げてるのが観測範囲に上がらない)だけで
テッド・チャンの作品を初めて読んだのはもうだいぶ前になる。十数年前、おそらく大学生のころだ。自分は暇さえあれば本を読むといったタイプの人間で、そのころSFというジャンルにそこそこ興味がった。理系だったのもあって科学的な設定に興味をひかれたんだと思う。グレッグ・イーガンといった当時新しく出てきた作家に加え、アイザック・アシモフのシリーズやアーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」、ジョージ・オーウェルの「1984」といった古典SFもすきだった。そんな中、ネットの記事でテッド・チャンという新人作家がいることを知った。まだ一冊しか本を出していないが、すこぶる評判がいいらしい。短編集ということで読みやすそうだとも思い、さっそくアマゾンで注文した。もうだいぶ前のことだし、大まかなストーリーも忘れてしまったが、確かにその本が面白かったことは心に残っていた。
時は変わって昨日、つまり2019年大晦日。年末年始は一人暮らしの自宅で過ごすことにしているのでありあまる時間があった。昔と違ってここしばらくは本をあまり読めないでいた。ネットサーフィンでとりとめもなく文字を追う行為が読書の代わりになっていたのかもしれない。そんな中、テッド・チャンの第二作目「息吹」が最近発売されたことを知った。十数年たってようやく新作が出たことに驚いたが、過去の作品にたいしていい印象を持っていたこともあり、Kindle版を購入してすぐに読み始めた。
前作と同様、「息吹」も短編集であり、9作品がおさめられている。ラフな感想をいうならどの作品も面白かったが、順番的には本の最後に位置する「不安は自由のめまい」について語りたい。量子論でいうところの観測による確率の揺らぎによる並行世界が存在し、その並行世界の自分と今いる自分とで会話ができる装置があるとしたらどうなるだろうか、という話だ。ただし、よくあるパラレルワールドものの話と違うのは、並行世界と今いる世界の差が限定されている点だ。「プリズム」という装置を介して並行世界と通信できるのだが、「プリズム」を初めて起動した瞬間に世界は分岐する。「プリズム」は最近普及してきたテクノロジーのため、長くても数年前に分岐した並行世界としか通信できない。量子的な効果はランダムノイズとして作用し現実世界と並行世界を異なるものにするが、数年間というのはノイズが大きな差異を生むにはあまりにも短く、基本的には細かなディテールが変わるのみとなる。では「プリズム」のご利益は何かというと、人は「プリズム」を介して過去の自分の決断を振り返ることができることだ。例えば、今後悔しているような決断を過去に行っていたとしたら「プリズム」で並行世界を眺めてみるといい。もしその決断がノイズ的なもの、つまり一時の気の迷いで行ってしまったものなら並行世界の自分はそのような決断はしておらず、したがって後悔もない可能性が高い。一方、その決断が運命的なものだった場合、つまり自分ひとりの力では変えることができなかったことの場合、並行世界でも同じように決断して同じように後悔しているか、あるいは違う決断をしたけれども結局は同じ結果に収束し、似たような後悔をしているかもしれない。
本作品はこのコンセプトをもとに、アウトサイダーな雰囲気をもつプリズム販売員ナットとプリズム中毒者の面倒をみるカウンセラーデイナの物語を描いている。ナットはもと薬物中毒者であり、恵まれない子供時代の経験があった。現在は堅気の職についているが上司の命令で犯罪に近い行為に関わってしまう。その過程でナットは自分が悪の道を運命づけられているのかと、悩みを持つようになる。一方デイナは誰からも信用を勝ち取るような立派な人で、充実した仕事生活を送っている。しかし、デイナにも後悔するような、トラウマチックな出来事があった。
最初二人の物語は独立して進んでいくが、あるところで相互作用しはじめる。ネタバレを防ぐため詳細はぼやかすが、ナットはデイナに影響されて運命を乗り越えようとし、またナットはその決意としてデイナに贈り物をする。
自分は、その贈り物がとても意外なものだったので驚いたが、読み進めてその意味が分かった時、心を大きく揺さぶられて、泣いた。体が震えながら、涙が何滴も流れた。本の登場人物であることを忘れて、ナットとデイナに心から感情移入した。前に本を読んで泣いたのはいつだろう。下手したら10年も前かもしれない。
本当はもっと語りたいのだが、未消化のため今はこれ以上のことは言語化できない。このような読書体験ができたことに感謝し、感想文を終えたい。
Kindle Oasisを買った。Kindleには何千冊も入るので旅先にもこれ1つ持っていけば数千冊の本だって持ち歩ける。好きなものを好きなときに読めるのだからありがたい。旅先にもっていく本の重みで腰がやられそうな悩みを解消できる。
あと、目当ての本がすぐ見つかるのが良い。買っておいて後で読もうと思ったり読み返そうと思っても当の本がどこにあるのか思い出せない探すのに大層な時間がかかると言う悩みがある。Kindleはこれを解消してくれるのである。Kindleデバイスで検索すればその本がすぐ出てくるのだからありがたい。
なので、本はKindle版があるのなら全てその版を買うようにしている。こういうことも考えてジェフベゾスはKindleを開発し続けているのだろうと思う。この人物は世界中の人々のライフスタイルを変えた。偉い人だ。ビジネスの成功者は人を殺すとことなく多くの富を生み出し、従業員だけでなく、それに付随してビジネスを行う人々をも支え、養っているわけであって、戦国武将などとは次元の異なる偉さを持った人々といえる。
現代はいってみれば経済戦争の時代というべきときであってそういう次元の戦いの中で学べるとは有難いものである。戦に命をかけずとも良い。核兵器という使えば双方を壊滅させてしまいかねない武器を手に入れることによって狂ったような均衡状態の中で平和な時代を生きていけると言うのも皮肉なものであって、まるで白刃の上を裸足で渡るようなスリリングな時代であるとも言える。
話を戻す。ところでKindle Oasisにはマイクリップと言う文書がいつの間にか画面に現れる(Oasisに限らないのかもしれないが。→ paperwhite にも同じ機能があった)。これはなんだと思って開けてみれば、それは自分が読んだ本のハイライトした箇所が抜粋されて1つのファイルにまとめられているのであった。これはとても良いアイディアではないか。自身が感銘を受けたフレーズがまとめて見られるのだから、よほど読書の楽しさを知り抜いた人が開発したにちがいない。
Kindleは Paperwhite をこれまで使ってきたのだがOasisは反応速度が段違いに良い。こんなに動作のスムーズなKindleをAmazonはつくれたのかと驚いた。Kindle Oasisは買って良い。
先日、関ケ原を読んだ。2017年の夏、渋谷の本屋で映画化されたタイミングで平積みされていたところ興味を惹かれたので手に取ったのだった。
うちは買った本で部屋が傾きそうな状態がずっと続いているので、紙の本を買うときには捨てる時のことを考えて、遠からず捨てることになるのだと納得したうえで買うようにしている。電子書籍であれば場所を取らないので良い。Kindle版が出ていたのでそちらを買った。渋谷の本屋さんでは雑誌を買った。
買った後、しばらく読まずに放っておいた。他に読むべき本がいくつかあったので。1年以上そのままだったかな。先日、ふと買っていたことを思い出して読み始めた。面白くて驚いた。司馬遼太郎ってこんなに面白かったのか。
むかし読んだ竜馬がゆくとか、坂の上の雲はたしかに面白かったが、ここまで洞察に富んだ文章を積み重ねるような作家だったのか、と驚いた。知らなかった。認識できていなかったのだ。
自分が問題だったのだ。受け止められなかったのだ司馬遼太郎の洞察を。40も半ばを過ぎ、この歳になって初めてそれを味わえるようになったということなのだろう。
徳川家康の悪党っぷりが素敵である。魅力たっぷりの悪党である。今は続編といえる城塞を読んでいる。小幡勘兵衛が良い味を出している。真田幸村がものすごく格好良い。下巻に入った。いや面白いなあ。
Amazon Customer
5つ星のうち2.0
話も絵も良いが、胸糞は色んな意味で悪くなる
2019年5月26日 形式: Kindle版Amazonで購入
かわいい絵で軽い気持ちで買ってみたら非常に重い話の内容だった。
今もまだ社会問題としてある神待ち少女が題材に入っていると思われる。
とにかく、その過ごしてきた過程を想像すると本当に胸糞悪く、耐え難い。
私はいい年してラノベも漫画も読むクソオタクの変態野郎だが、最低限、
人しての矜持は持っている。たとえフィクションでも、いい大人であろう
野郎どもが価値判断の基準も曖昧な少女を食い物にしてきた話を気楽になど
読めない。ほんわか、ほっこり?何言ってるんだ?
しかし、一番気に食わないのは、この作品をライトノベルやコミカライズで
読者の間口を広げようとしているところだ。そのカテゴリに入れれば
軽くなるとでも言うのか?気楽に楽しめるような作品では決してない。
原作者、漫画家の方には申し訳ないが、購入者として正直に書くと、
こうレビューせざるを得ない。
ちなみに本作はこの人以外高評価なので殊更悪目立ちしてる。この人のプロフを見ると満点評価は殆どない、大抵貶してる。嫌なら読むなよフェミってホント気持ち悪いな
知能指数の話 http://b.hatena.ne.jp/entry/www1.odn.ne.jp/drinkcat/topic/column/depot/z_tawago/z_chinou.html
ブクマのタイムスタンプは2006年8月10日。元記事は消えている。ラノベ作家さんらしい。ブクマページの転載部分から見ると2003年4月8日に書かれた記事のようだ。
リンクしてるのは例えばこの増田とか 「IQが20違うと会話が成り立たない 」 https://anond.hatelabo.jp/20090326214520
この(元)はてなダイアリーとか https://nuryouguda.hatenablog.com/entry/20071024/1193240924
2ちゃんねるでは2009年あたりが出はじめで(トラバで2003の例が示された)5年後の2014年くらいから頻繁に使われるようになったようだ。
ここ数日のバズに関して言えば震源はここかもしれない。安間 伸のAmazonダイレクトパブリッシング
安間 伸 https://toyokeizai.net/list/author/%E5%AE%89%E9%96%93+%E4%BC%B8
高知能者のコミュニケーショントラブル: IQが20違うと会話が通じない Kindle版 https://www.amazon.co.jp/dp/B07H6XG7RH