はてなキーワード: 九州とは
昨年末の話だが、急遽まとまった休みを取れることになり、独身貴族の私は当てもなく道後温泉へとジェットスターで飛んだ。
コンパクトな温泉街で道後温泉本館を中心に世界が成り立っている場所だ。
3日間滞在したが、温泉は例に漏れずとても気持ちよかったし宿もいい感じだった。
また道後はしっかりとした風俗街が形成されており、しっかり3回登楼した。ひとり旅の寂しさもあり、九州から出稼ぎに来ている子に3日連続で通った。
他には何にもしなかった。ただ道後にいるだけで満足なのだ。
ただ平日の半分くらいは仕事の対応に追われた。どれだけ引き継ぎをしたって、無数の顧客に存在を隠すのは無理だった。休暇を伝えていても関係ない。
旅の最終日の夜、実家から妹の誕生日を祝った写真が送られてきた。そこに写っていた親父の髪は真っ白だった。
今、私は32歳。これまではレールから外れないように一生懸命やってきたつもりだが、少し外れても良いのかなと思いはじめた。
仕事の心配をせずに、この旅ができたらどんなに幸せだったろうか。実家にももっと気楽に顔を出せるだろう。
楽な仕事なんてないと言われるが、少なくともONとOFFを切り替えられる環境はある事はこれまでの経験で知っている。
九州なら想夫恋があるのにな!
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
0 | 129 | 19395 | 150.3 | 63 |
1 | 76 | 13272 | 174.6 | 76 |
2 | 29 | 4010 | 138.3 | 52 |
3 | 16 | 1463 | 91.4 | 60 |
4 | 11 | 2166 | 196.9 | 59 |
5 | 12 | 2590 | 215.8 | 128.5 |
6 | 30 | 9862 | 328.7 | 156 |
7 | 52 | 8520 | 163.8 | 56 |
8 | 102 | 10371 | 101.7 | 56.5 |
9 | 113 | 9560 | 84.6 | 50 |
10 | 141 | 16213 | 115.0 | 56 |
11 | 129 | 11750 | 91.1 | 54 |
12 | 115 | 13053 | 113.5 | 57 |
13 | 184 | 20153 | 109.5 | 43 |
14 | 214 | 22761 | 106.4 | 49 |
15 | 263 | 15802 | 60.1 | 43 |
16 | 238 | 14262 | 59.9 | 41 |
17 | 250 | 18917 | 75.7 | 49.5 |
18 | 219 | 19580 | 89.4 | 52 |
19 | 147 | 19870 | 135.2 | 55 |
20 | 126 | 10504 | 83.4 | 45 |
21 | 151 | 13023 | 86.2 | 36 |
22 | 110 | 21256 | 193.2 | 51 |
23 | 141 | 15989 | 113.4 | 60 |
2998 | 314342 | 104.9 | 51 |
2018年2月17日も投稿数が多かったみたいだけど、今日のほうが多いかもしれない。
多すぎて何をそんなに議論してたのかわからない。東京芸大と東京大の学生生活に興味津々だったのだろうか。ホワイトデーとかあんまり柄じゃなさそうだし。
追記
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わたしの卒業旅行はオール国内だった。九州と北海道、どちらも楽しかったし、充実していた。
反対に友達の行き先はほとんどが海外だった。バリやフランス、イタリア、イギリス、アメリカ、韓国、台湾、インド、タイなどなど。中には数ヶ国旅行に行っている友達もいて、単純にお金があってすごいなあという感想だった。
国内だからといって後悔してるわけでもないのだけれど、どこか劣等感を抱いている自分がいる。だけどいくら仲の良い友達とはいえ、何泊も、それも言葉も通じない知らない土地に行くのはストレスがたまるだとか、疲れるだとかそういうことばかり考えてしまう。結果的に3泊4日程度の国内旅行でよかったと思うのだけど、キラキラした友達の写真を見ると自分はああなれないんだという気持ちを抱いてしまう。
やだなやだな〜〜もっと明るく生きたい。
関西にいると不思議と滋賀より東の情報がほとんど入ってこない。
仕事や遊びに東京は行く人が多いし、北海道は旅行に行く人が多いから、この2つに関する情報は割と入ってくるけど、じゃあそれ以外は?となると……。
関西より西の四国だとか、九州だとかの情報は割と入ってくるんだよね。少なくともこの県は、どういう観光地があって何が名物かくらいは最低限知識がある。もちろん行ったことのない県についても。
でも東日本となると、その知識すらない。埼玉とか岩手とか、ガチで何が名産でどんな観光地があるのか全くわからん。西日本だと島根や鳥取レベルですらわかるのに、本当にわからん。
増田を書き始めると、せっかく匿名日記なのに返信が気になるのは、当たり前です。
なんせ、そこらのブログより見られる回数が多いのです。
せっかくメモ程度に始めたのにもかかわらず、いつの間にか反応を求めています。
誰もそんな恥ずかしいことは口にしませんが、そうやって自分のせいで人間不信になって、はてなに来れなくなったり仕事をさぼって解雇になる給料泥棒は何十人もいます。
それでも、匿名という、同列のスタートラインを信じて四六時中日記を書く増田は、病むほどにアクセスします。
だってブコメがついてるかもしれないもん。ブコメがついたら頃合いを見計らってセルクマしたり、誤字確認します。
病むほどに訪問回数は上がります。病むほどに日記を書かないと、おもしろい奴らには太刀打ちできないのです。
東北の某校で無敵を知られたクラスの人気者も、九州で男子を蹴散らし女子人気をかっさらった彼女も、ここではただの増田。
そんなレベルは、ブクマカ御三家(誰?)のツッコミにたじたじになるのです。
はてブから出てきた増田は、匿名ダイアリーというものに強い憧れを抱いていたんですね。
特にホッテントリで見る増田はとても面白くてギラギラしてて・・・
ブコメがいっぱいに乗った日記、お洒落な表現とかドラマで見るドロドロ恋愛ネタに、ただ漠然といいなぁ素敵だなぁと胸にトキメキを馳せておりました。
自信を持って投稿した長文はスルーされ、気軽な発言には罵詈雑言、適当なこと言った時に限って伸びるブコメ。
増田という街は、そういうところなんですよね。
実際、はてな匿名ダイアリーに対しても大きな憧れを抱いていました。その理由はやはり「バズったら注目されるから」というのがあったと思います
そういう理由でここにきてしまったので、憧れの理想と現実の差に髪が抜けました。
書いたからと言って自分の日記がホッテントリに入るわけでは無かったからです。
大切なのは、自分が将来何になりたいかであって、増田は通過点でしかないということを身にしみて感じています。
この年になるといろいろなものを見てきました。
キラキラしていた増田が、国家公務員試験を上位で合格し、某省で組織防衛に身も心もさいなまれたという暴露日記がスルーされる姿も。
誰もがかなわないと思った研究者が、研究に疲れ果てたタイミングで引っ掛かった男に身も心も搾取され、売春でその彼に貢ぐようになってしまったという日記が炎上したのも。
勉強ができたから、当然のように理学部物理学科に進学しあるいは司法試験に受かったのに、その後漏らした報告をした増田の姿も。
18歳の時に初投稿した増田が、そういう風にして、堕ちていく姿をたくさん見てきた。
きっと彼らも、キラキラして見えたけど、増田にいた四年間に何か病むことがあって、そうして社会に出たときに、ブコメしか追求することができなくて、不幸せになっていったんだと思う。
下には下がいる。
そして、一つの物差しで「下」を計ろうと思うと、全体として自分が如何にあればブコメをもらえたのかということが分からなくなってしまうのだと思う。
日記が面白かったがゆえに、ブコメの物差しで人生は幸せになれると思い込まされる。
そして、自分よりバズってる数多の秀才に出会ったが故に、もっと下に行きたくて投稿して、結果、はてなへの過剰適応で世の中に適応できない若者を量産する。
東京藝術大学の学生生活は本当に病むから気をつけた方がいいを読んで思うところがあったので書きます。
百数十万人の同い年に生まれた子供のうち、3000人くらいしか入れない大学です。
そこに入るには、日本でトップクラスの学力を要するといわれています。
芸術よりも、お勉強の道を選ぶ人は多いので、まあ、入学するには最難関の大学の一つですね。
東大に入ると、せっかく東大に入ったのに自信がなくなるのは、当たり前です。
なんせ、駿台模試とか東大オープンとかで、自分の点数(440点満点で220点くらい)から見ると理解困難な点数(330点とか)を取っていた秀才がリアルに目の前にいるのです。
人の学力をけなすような低劣な人格だったらまだ溜飲が下がるってもんですが、そういうのに限っていいやつなんだな。
そういう秀才を目の前にして、ひがんで屈折してしまう自分の、人格的な弱さと、その根底にある学力の弱さに涙した東大一年生は何百人もいるはずです。
誰もそんな恥ずかしいことは口にしませんが、そうやって自分のせいで人間不信になって、大学に来れなくなったり第二外国語をさぼって放校になる駒場生は何十人もいます。
それでも、学力という、偏差値という唯一の物差しを信じて人生18年生きてきた東大生は、病むほどに勉強します。
だって進振りがあるんだもん。教養の平均点を偏差値に置き換え、平均点の優劣で人生が決まると思って勉強します。
病むほどに点数は上がります。病むほど勉強しないと、同級生の秀才たちには太刀打ちできないのです。
東北の某県で無敵を知られた秀才君も、九州で男子を蹴散らし英語無敵を謳われた彼女も、ここではただの一東大生。
そんなレベルは、男女御三家(武蔵を除く)やツッコマには掃いて捨てるほどいるのです。
田舎から出てきた東大生は、東京というものに強い憧れを抱いていたんですね。
クリームがいっぱいに乗ったパンケーキ、お洒落なブティックとかドラマで見る東京の恋愛に、ただ漠然といいなぁ素敵だなぁと胸にトキメキを馳せておりました。
実験し大教室に通う毎日と、倒しても倒しても出てくる自分より賢い同級生の前にひれ伏す毎日を過ごします。
東京という街は、そういうところなんですよね。
実際、東京大学に対しても大きな憧れを抱いていました。その理由はやはり「日本トップの国立大学だから」というのがあったと思います
そういう理由で大学にきてしまったので、憧れの理想と現実の差に心を痛めました。
日本トップの授業があるわけでは無いし、合格したからと言って自分の学力が日本のトップになるわけでは無かったからです。
大切なのは、自分が将来何になりたいかであって、東大は通過点でしかないということを身にしみて感じています。
この年になるといろいろなものを見てきました。
キラキラしていた秀才が、国家公務員試験を上位で合格し、某省で組織防衛に身も心もさいなまれ、書類の書き換えの何が悪いと言い放つ姿も。
誰もがかなわないと思った研究者が、研究に疲れ果てたタイミングで引っ掛かった男に身も心も搾取され、売春でその彼に貢ぐようになってしまった姿も。
勉強ができたから、当然のように理学部物理学科に進学しあるいは司法試験に受かったのに、それらの職が本来求める対人調整能力がなかったがゆえに、人生で唯一得意な受験勉強で食ってくために予備校講師になった姿も。
18歳の時に知り合ったキラキラした秀才が、そういう風にして、堕ちていく姿をたくさん見てきた。
きっと彼らも、キラキラして見えたけど、東大にいた四年間に何か病むことがあって、そうして社会に出たときに、単に幸せを追求することができなくて、不幸せになっていったんだと思う。
上には上がいる。
そして、一つの物差しで「上」を計ろうと思うと、全体として自分が如何にあれば幸せになれたのかということが分からなくなってしまうのだと思う。
勉強が出来過ぎたがゆえに、勉強の物差しで人生は幸せになれると思い込まされる。
そして、自分より勉強ができる数多の秀才に出会ったが故に、もっと上に行きたくて勉強して、結果、勉強への過剰適応で世の中に適応できない若者を量産する。
それが東大。
前回の記事
1/20にこれ。
ブログ読みました。丁寧な分析とご意見、野村某よりもよっぽど誠実だと感動しています。もちろん私も反論(ばかりでもありません)すべきなのですが、今は所用で時間が取れず、勢いで日記を書くわけにも参りませんので、一週間ほどご猶予を頂けたらと思います。真面目に書いて揶揄は避けるつもりです。 https://t.co/V7KXv5B9Zh— けんちん・F (@kenchin_ff) 2018年1月19日
んで2/1にこれ。
ここしばらく体調を崩して貴兄へのご返答が遅れている間に、場外乱闘のような体を為しておりますが、近々、まとまった時間が取れそうなので、一連の流れも含めてご返事差し上げます。お待ちいただいているのに遅れまして申し訳ありません。 https://t.co/GfclppwTbF— けんちん・F (@kenchin_ff) 2018年2月1日
で、今日。3月6日。一ヶ月経っても結局なんもなかったという話です。
別に批判も反論も自由だから返事返ってこないのは良いんだけどさ、
まあ、個人的に感じるのは「その程度の覚悟だったのかな」ってことで。
当然バイアスはかかってる上での発言ですけど、演劇人大体「もう皆けんちんさんの理論が破綻してる事くらい知ってるよ~」みたいな意見しか聞かなかったんですよね。
好意的に引用・紹介してるのが、薙野信喜さん以外は自分の視点からは確認が出来なかった。
薙野さん、よかったらこれからもけんちん君と仲良くしてあげてね。
ご自分で「勢いで日記を書くわけにも参りませんので、一週間ほどご猶予を頂けたらと思います。」って言ってくれたのに
その後何の反応もなかった。残念です。
各団体とか演劇人が音沙汰ない事に対してスゲー鬼の首取ったかのように怒ってたのになぁ。
個人的な感想ですけど、結局、九州演劇腐ってるおじさんは界隈を変えたい!っていうより
ポリコレを振り回すのが楽しかっただけなのかなーっていう思いです。
ご本人が
とか
みたいな事を仰っていたので
きっと、きちんと理論立ったセクシャルハラスメントの実情とか実名込みの裏事情だとか
主語を拡大しないきちんとした批判とかをしてくれるのだろう、と楽しみにしてたんですけどね。
たまに更新される日記とtwitterからはソシャゲとアニメでウッキウキしてる様子しか伝わってこなかったですね、残念。
マギレコが楽しそうで何よりです。
結果的に、「僕の知り合いの演劇人は~」と業界人ぶってみても、
現実を見つめてみれば何者にもなれない悲しいおじさんが一人ネットの片隅で、
気が向いたときだけ「九州の演劇界は腐ってる!」って駄文を投稿するだけだった、という。
でもってこの騒動に関しては(多分)終わりです。もう書く事ないもん。
全部、その古株の上司のいうことの受け売りなんだが、指輪は邪馬台国のころの奴国王が鍛造したものらしい(奴国は博多のあたりにあったと考えられていて、九州北部沿岸は考古学的にも我が国の製鉄の黎明期の遺構・遺跡が集中しているところなんだ)。
奈良盆地の邪馬台国→ヤマト政権の伸長に対抗するために、奴国王は南方との交易の中でレガリアとして鍛造した。その際は卑弥呼と台与がなんとかしたんだろうとのこと。
でも歴史の節目節目に指輪の持ち主が現れて、そいつが天下取ると最終的には古の奴国王が復活しちゃう。
現代に復活すると、国会の召集や衆議院が解散した時とかに明仁が押す「御名御璽」の印が、「漢委奴国王印」にとって代わられてしまうんだってさ。このように、世界が支配されてしまう。
平成も終わるし、早く捨てに行った方が良いって言われた。
で、わかると思うけど、ピナツボ火山で鍛造したから、ピナツボ火山に捨てないといけないらしい。これは幕末の探検家松浦武四郎も『撥雲余興』にそう書いているんだって。
普通の家ってなんだろう。
私は自分の家を普通の家だと思っていた。むしろ、大学まで行かせてもらって、その上生活費も出してもらっていたのだから、すごくいい家庭である。憎まれるほどいい家庭だ。
子供に暴力をふるうことはなかったが、父は母を叩いて殴って蹴って踏んで罵倒していた。母は金切り声の叫び声をあげてわんわん泣いていた。物心ついたときから家はこの状態だった。
記憶してるなかで一番はじめの夫婦喧嘩は、3歳くらいの、まだ市営住宅に住んでいたときだ。
夜遅く、母は洗濯物を畳んでいて、私は母のそばでテレビを見ていたと思う。車の音がして父が帰ってきた。母が玄関まで鍵を開けに行くと、酔っ払った父が家の中に入ってきた。私はなぜかすぐにコタツの中に潜って隠れた。父と顔を合わせたくなかったんだと思う。あと、酔っ払うと絶対に喧嘩になることを知っていたからかもしれない。私は真っ暗なコタツの中で息をひそめていた。しだいに口論になっていくと、突然父が怒鳴り声を上げる。いつもここでびっくりしてしまう。本当に突然大きな声で怒鳴るのだ。そしてバシッと叩く音が聞こえる。何度も叩く。母はその度に「もう!やめて!やめてよ!!」と甲高い声で泣きながら叫ぶ。ドカドカと殴る音になると「やめてーーーー!」と母の絶叫が聞こえる。私はコタツの中でずっと震えていた。隠れているのが見つかったら私も同じ目にあってしまうと思っていた。喧嘩が終わると、まだ興奮がおさまっていない父の口から漏れるシーシーという息と、母のすすり泣く声に変わる。怒鳴り声か金切り声はだんだん慣れていくが、すすり泣きの声だけはいつまで経っても心臓がぎゅっと掴まれるような痛みを感じる。
両親はほとんど毎日喧嘩していた。父がいない日は心からホッとした。母が私を寝かしつけたあとに父が酔っ払って帰ってくると、ドスドスという足音とひどい喧嘩で起こされた。それでも布団にもぐって怯えながら寝たフリを続けなければならなかった。母をかばったことは、たぶんなかった。
次に記憶があるのは、小学校の高学年のときだと思う。父は自営業を始め、母は事務を手伝っていた。工場に隣接されるように建てた一軒家には自分の部屋がつくられた。
仕事は忙しく、夕飯はいつも11時くらいに食べていた。共に自営業を始めたことで、喧嘩のレパートリーが増える。母も気が強い方なので、父に対して仕事の意見を言うが、父は「口出すな」「誰のおかげで生活できてると思ってんだ」「黙っとけ」と応戦する。「くらすぞ!!」と拳を振り上げ、しだいに喧嘩はヒートアップする。プロポーズだと笑われてる九州の方言だけど、聞くと少し複雑になる聞きなれた言葉。
また始まった...と呆れながらテレビを見続けた。うしろで行われる喧嘩が聞こえてないようにじっとテレビを楽しむふりをしていた。怒鳴り声で音なんか聞こえないのに、ずっとその場に固まったままテレビを見続けた。喧嘩が始まると、その場から動いちゃいけないという気になるのだ。トイレに行きたくても、立ったその瞬間に「聞こえてません知りません」のフリは解けてしまうと思っていた。自分の部屋に戻りたかったけど、その場から逃げることはなんだか卑怯だと思っていた。母を助けないくせに。
怒鳴りながら暴力をふるう父と、泣きながらやめていたいと泣き叫ぶ母と、テレビから目を離さない子供。今考えると異常な光景だった。すぐうしろで母が泣き叫んでるというのに、見ないふりをしていた。
その日はなかなか喧嘩がおさまらなくて、近所迷惑だなと呑気に考えていた。その時、怒り狂った父がとうとう台所から包丁を持ってきた。この時の光景はずっと忘れないと思う。父は「ころすぞ!」と怒鳴りながら泣きじゃくる母に向けて包丁を何度も振りかざすまねをしていた。母がその時やめてと叫んでいたのか、刺せばいいでしょと反抗していたのかはもう覚えていないけど、ただ包丁を母に向ける父の姿から目が離せなかった。
頭の中で「終わった...」と考えていた。父が母を殺して、両親をどっちも失うことになって、どうやって暮らしていけばいいんだとまで考えていた。その喧嘩はなんとか父が冷静を取り戻して終わったが、ずっとこの喧嘩のことは忘れないだろう。
父は交友関係が広い人だった。外に出ると、何度も友人や知人に明るく挨拶をする姿を目にする。外での父はとてもいい人だった。明るくて面白くて輪の中心にいるような人だ。私に対しても優しくて少し甘い普通の父親だった。だからこそ、その二面性がこわくて気持ち悪かった。
父の友人は私に「いいお父さんでしょ?」とにこにこしながら聞いてくる。私はいつもなんと言っていいかわからなかった。
やがて反抗期に入った私は父とまったくしゃべらなくなっていた。そこまでは良い。よくあることだ。しかし、私は母に対してひどい態度をとるようになってしまった。母を小バカにするような口はまるで父のようだった。私の中で無意識に「母にはひどい態度をとっていい」という意識が生まれていた。今考えると、父の母に対する態度の影響が出ていた。
大学に入って地元を離れることになった。簡単には両親と会えない距離だ。そこで私は一人暮らしのあまりの快適さに感動してしまう。怒鳴り声も暴力もない、近所迷惑も考えなくて良い生活は本当に心地よいものだった。
そして、両親が今まで不自由なく育ててくれたことに自然と感謝できるようになった。夫婦喧嘩の記憶もだんだんと忘れていった。
でも、正月や盆に帰るたびに夫婦喧嘩は日常的に行われていた。私は理由をつけて帰らないようになっていった。
大学にいる間、たびたび友人間で両親の話題をするようになる。もちろん良い部分だけを話した。そうすると友人の中でうちの両親のイメージは「優しくて天然なお母さん」「面白くてちょっと寂しがり屋なお父さん」という理想的な両親になる。私も誇らしかった。「私の両親は良い人なんだ」と思うことができた。久しぶりに帰ると、そのイメージは壊され、やるせなかった。
うちは普通の家庭である、と思っていた。喧嘩が少し多いだけの、普通の家庭だ。でも、親元を離れて暮らす中で、あれは普通ではなかったかもしれないと気づいていく。夫婦喧嘩で包丁は振らないし、「誰のおかげで生活できてると思ってんだ」なんて言葉は出てこないらしい。
大学を卒業して地元に戻ってきた私は、いまだ喧嘩を続ける両親に向かって言った。「夫婦喧嘩がほんとに嫌だった、辛かった。喧嘩するのもうやめてほしい」と伝えた。父は笑って「どこの家もこんなもん。だいたい喧嘩じゃなくてじゃれてるだけ」と言った。情けなくて、もう何も言いたくなくなった。
夫婦喧嘩について調べていく中で、「面前DV」という言葉があることを知った。直接子供に暴力を向けなくても、夫婦喧嘩で子供に精神的DVを与えるというものだ。たしかに辛かったが、私はあんまり精神的DVを受けたとは思っていない。なぜならいつも知らないふりをしていたからだ。母がどんなに泣き叫んでも庇わなかった。でも面前DVを受けたという話の子供はほとんど母を庇っていた。怖かったとはいえ、自分が情けなくてたまらなかった。
今では大人になり、父の言い分も母の言い分も理解できるようになった。仲裁に入るようになった。ずっと離れていたためか、暴力をふるう姿はあまり目の当たりにすることはなくなった。母方の祖父と共に暮らしているため、怒鳴り合いだけに抑えているのかもしれない。職場では、従業員の前でも怒鳴り合いの喧嘩をしている。人のいないところでまだ暴力をふるってるのかもしれない。
そういえば、病気で目が見えづらくなってきたのに配達に行かせるのよ、と母にこの前愚痴られた。なんでもないただの愚痴のように言われた。一歩間違えば事故を起こすというのに、「父は昔からそんな人だったのか」と改めてショックを受けた。
仲裁をしていく中で、私の意見なら父はちゃんと聞いてくれるということがわかった。母も「あなたの言うことならちゃんと聞く耳持つのよ」「あなたから言ってよ」と言うようになった。
私が言わなければならないということはわかっているし、母を庇おうとしなかった負い目もあるため私から話をすることが増えた。しかし口論になって、怒りを滲ませた父の表情を見ると、恐ろしいと思ってしまう。白目のところが赤くなっていくのだ。次には拳が飛んでくるのではないかという考えがよぎる。
離れたら穏やかに暮らせると思う。だけど、私がいない間の両親の喧嘩を想像すると苦しい。いつかどちらかが殺してしまうのではないかとずっと思っている。
私に対しては優しい父への接し方がいまだにわからない。
過去に戻れるなら絶対にしないことや言わないこと、誰かにもう一度会えるならその人に言いたいことや聞きたいこと、許しが貰えなくても知りたいこと。この世の中、後悔が多い。
私だって、いくつもある。
2014年2月。まだ大学生の私は留学で東京にいた。日本語が下手くそで、ギリギリ会話ができるレベルだった。友達がほとんどいないせいで、どこに行っても大体一人だった。あの日もそうだった。
好きなアニメは大きなイベントが東京にあったので、本を買いに行った。緊張で誰にも声を掛けられなかったが、楽しい一日だった。本がたくさん買えて、それを読むのを楽しみながら、帰りの準備も始めたが、せっかくだから、もう少し歩き回ろうと思った。最後の一巡りだったから、もう何も買わないと思ったが、あるスペースでとても興味深い同人誌を見つけた。
普通なら、作者さんに声を掛けないのに、表紙の絵が素敵で、ぱらぱらと見た内容も面白そうだったので、ちょっと勇気を出してテーブルの後ろの2人の女性に話しかけた。
怖かった。人見知りだし、自分の日本語もダメだったし、伝えたいことさえ知らなかった。しかし、その2人の女性はとても優しくて、私が外国から来たことを知ったら様々な質問も聞いてくれた。片言の日本語で何とか会話できて、泣くほど嬉しかった。つまらない私とこんなに丁寧に話してくれるとは、信じられなかった。
“名前”は「かん」と「くもこ」と教えてくれて、また話したいと言ったら、メールの連絡先も教えてくれた。LINEやツイッターがないから、ここにメールを送ってくださいと。
帰ったら、一生懸命日本語でメールを書いて、送った。礼儀上「いつでもメールしてね」と言ってくれたと思ったので、本当に返事が来るとは期待してなかった。でも翌日、返信が来た。
まさか、と思いながら読んで、ずっとニヤニヤして、笑いが止まらなかった。
なんと優しいメールだったことか。丁寧に書いてくれた言葉があまりにも素敵で、嬉しかった。
そのメールから、かんさんとくもこさんと話がたくさんできた。大阪に住んでいるのに、その日はわざわざ東京まで来て、イベントに参加した。実は大阪もその日、同じようなイベントがあったが、それを知らなかったせいで東京に来てしまった。しかし、それは多分運命だった。知っていたら、東京にも来なくて、私達は会わなかっただろう。
私より8歳年上の彼女達は私にとって、もう2人の姉のようだった。
2月の出会いからずっとやり取りをして、私がアメリカに帰ってしまう8月の前にはたくさん遊んだ。旅行も一緒に行って、私も何回も大阪を訪ねることをした。
偶然会った人とこんなに大切で親しい友人になれるなんて、今まで期待したこともなくて、本当に幸せだった。
私の文句や弱音を聞いたり、落ち込んでいる時は優しく応援したり、困っている時はできる限り手伝ったりしてくれた。出会ったころからずっと、そしてアメリカに帰った後でもそうだった。ずっとそのままでいられると信じていた。
お別れは切なくて、辛かった。私がいつかまた日本に戻りたいと分かったかんさんとくもこさんは「これは最後じゃないから、また日本に会える日まで頑張ってね」と言ってくれた。
うん。分かった。頑張るから、待っててください。
大学から卒業した1年間後。色々な事があったが、奇跡的に日本で仕事ができた。今回は大学生の頃とは違って、東京ではないけれど自分の夢を叶えた。また日本に戻れた。
離れても応援しながら待っていてくれたかんさんとくもこさんとは10月にまた会えた。良かった…。2年が経っていたが、何も変わらなかった。3人で気軽に話したり、笑ったり、泣いたりできた。
短い一日だったが、また会えて幸せだった。
九州に旅行に行きたいとかんさんとくもこさんに伝え、私のわがままで春休みに2泊3日で行った。でもその時は私達3人だけではなくて、くもこさんの同僚とその同僚の友人も一緒に5人で行った。私はその2人を知らなかったので、彼女達と上手くやっていけるか心配していたが、かんさんは「私とくもこさんもいるから、大丈夫ですよ!」と安心させてくれた。
大丈夫だと思った。かんさんとくもこさんがいれば、何とかなると。でもそうはならなかった。
知らない2人と性格が合わなかったし、四六時中日本語しか使えなくて言いたいことも上手く伝えられなかったし、4人の会話にもほとんど参加できなかったし、ストレスが溜まった。時間が経てば経つほど、イライラしてきた。私は機嫌が明らかに悪くて、本当に子供のようにわがままだった。
楽しい旅行のはずだったのに、最後の日、私はほとんど何も話さなかった。誰にも声を掛けこなかった。私をほっといた方がいいと思ってくれたのかもしれない。かんさんとくもこさんに「大丈夫ですか?」と聞かれた時に、「大丈夫です」としか答えられなかった。あの時、嘘をつくことしかできなかった。だって、くもこさんの友人が好きじゃないなんて言えなかった…。
帰りの新幹線の中で、4人の向こう側で一人で座りながら、寝るふりをした。私の態度はひどくて、わがままで、バカみたいだって、誰よりも分かっていたのに、気持ちが切り替えられなかった。その時、その気持ちを全部解き放てばよかったのに…。
皆さんと別れた後、かんさんとくもこさんに謝りたかった。東京に戻る前に、もう一度会って、面と向かって謝りたかった。しかし、「ごめん、今週末は忙しいからちょっと難しいです。○○さんがまた大阪に来るときにご飯を食べに行こうね?」と断られて、会えなかった。
あの時は知らなかったけど、それはかんさんとくもこさんからの最後の連絡だった。
春休みが終わり、仕事に戻った。罪悪感で4月の下旬までかんさんとくもこさんに連絡していなかったが、その時彼女達はちょうど引っ越し中だと分かった。何もなかったふりして、気軽なメールを送ったが、返事がなかった。もしかしたら忙しいせいでメールを書く時間がないのだろうと思ったので、気にしなかった。
でもまたメールしても連絡が来くて、違和感を感じた。やっぱり。その時のことを怒っているだろう。
いても立ってもいられなくて、謝りのメールをちゃんと書いて送ったが、返信がなかった。
何回も、何回も送ってみたが無駄だった。
なぜ?それを知りたい。いつも優しくて、親切なかんさんとくもこさんはなぜいきなり消えてしまったのか?私はあの時、そんなにひどいことをしてしまったのか?何をしてしまったのか?私達の3年間の友情が壊れた罪は何だったのか?ねぇ…。一度だけでもいいから、また連絡してその理由を教えてくれませんか?
本当に大阪にかんさんとくもこさんを探しに行きたかったが、新しい住所も知らなくて、メールの連絡先しかしらなかったせいで、何もできなかった。
今回こそ、最後のメールを送ろうと思った。そうしたら、やっと解き放てるだろうと信じていた。送ったら、諦める。
その嘘は誰のためについたのだろう?
1月の下旬、ふと思い付いた。手紙は前の住所に送っても、郵便局は新しい住所に転送してくれるはずだ。私のバカ!なんで今まで思い付かなかったの!早く思い付いたらよかったのに!
一生懸命手紙を書いた。一年間の気持ちをできるだけ込めて、謝りの手紙だった。ちゃんとかんさんとくもこさんのところまで届くのか、返却されてしまうか、不安でいっぱいで手紙を送った。
一ヵ月が経ち、その手紙は戻ってこなかったが、返事もない。
実は何かトラブルがあって、かんさんとくもこさんが私のメールを貰わなかったとか、ずっと私のことを待っていてくれたとか、そう言いたい。でも私がそれをどのように信じたくても嘘なので、言えない。
1月の下旬に他に思い付いたことが一つ。かんさんとくもこさんの電話番号を知っている。しかし、それを知っても役に立てないだろう?
本当に私のことが嫌いにならば、こんなにしつこく連絡したら、迷惑だし困らせてしまう。そもそも電話を掛ける自信がない。
あぁ、もしかしてひどい事故に巻き込まられたら、それを言い訳にしてかんさんとくもこさんに連絡できるなんてひどい考えも何度もした。
私は本当に、本当に情けない。かんさんとくもこさんが恋しくて、会いたくてしかたがない。
2011年1月に爆発的な噴火が発生し、2017年10月にも噴火している。
「巨大カルデラ噴火」や「破局噴火」が起きるのか?と思う人もいなくはないだろう。
日本では過去12万年の間に18回起きているという(『月刊地球』、2003年11月号)。
つまり、約6700年に一度は破局噴火が起きていた計算になる。
(http://tocana.jp/2017/01/post_12021_entry.html)
地層というのか堆積物というのか、調査によって判明しているのだから、
宮城の蔵王山噴火、群馬の白根山噴火、鹿児島の新燃岳噴火と自然災害が続いている。
ただただ逃げるしかない。