はてなキーワード: 自由主義とは
こないだの人か。
https://anond.hatelabo.jp/20220702070421
もちろん正しさなんてものは、人間である以上は、一義的に決められないが、
今の日本は民主主義国家なので、「民主主義の視点からの正しさ」はあると思うよ。
「それに反発する人間の意見も封じ込めない」、ってのも民主主義だし。
「言い切る」ってことは独裁主義ってことになる。日本ではそんな状況ないと思うけど・・・?
2022-07-12
なんというか、具体例を挙げると
なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん
なにかふわふわした良く分からん文章や表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエムを蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん
こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが
もっと深刻なことでいうと
ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本の美術教育は実践的になっておらず無責任な大衆を大量生産しうんぬんかんぬん
不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境の頽廃うんぬんかんぬん
なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別、日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん
なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義は日本の悪癖で、ガンダムやひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん
みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。
言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。
相対主義を漫画やアニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。
でも実際、大勢の人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場にこいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間が再生産されている以上、
「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆の理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。
もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別の問題にあるにせよ。
東大や慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ(制作者自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、
この国が資本主義・自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見と理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?
相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。
「相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。
というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術の見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか?
なので安倍元首相が死んで、その政治的な影響力がなくなったことは、自分の立場からは有利な事情という評価になる。これが正直な感想だ。
でも殺しちゃダメなんだよ。なんかスッキリしないモヤモヤしたものが残ってしまうんだよ。
例えるなら、ゲームのボスを倒そうとストーリーを進めてたら変なバグが発生してボスイベントがスキップされてクリア!ってなっちゃったみたいなそんな感じだ。
【追記】
こんな吐き出し文が人気エントリ入りして恐縮である。いろんな人の意見に触れて、モヤモヤの正体が少しずつわかってきたかもしれない。
やはり民主主義的で自由主義的なやり方で安倍元首相の政策等を批判して、少しでもこの国がいい方向に進むようにしたかったんだよ。
自分の考えは安倍元首相とは違っていてその政策を批判することで日本がいい方向に進むと信じてるけど、そう思わない奴もいるだろう。意見が対立するならそこで対話して、お互いに批判して、そうやって自由な討論を経て物事を決定するのが民主主義だろう。
そういうプロセスを全部すっ飛ばして相手を亡き者にして「やったー、敵がいなくなった!」っていうのは違うんだよ。
「政敵がいなくなるということは、自分が正しいと信じる世界に少し近づくということなんだから、素直に喜べはいいじゃないか」的な意見もあるかもしれないけど、そういう気持ちも正直少しあるけど、でもそれは認めちゃいけないんじゃないかと思うんだよ。
それを認めちゃったらこの国の形が根本から変わってしまうことを是認するような感じがするんだよ。
なんというか、具体例を挙げると
なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん
なにかふわふわした良く分からん文章や表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエムを蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん
こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが
もっと深刻なことでいうと
ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本の美術教育は実践的になっておらず無責任な大衆を大量生産しうんぬんかんぬん
不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境の頽廃うんぬんかんぬん
なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別、日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん
なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義は日本の悪癖で、ガンダムやひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん
みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。
言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。
相対主義を漫画やアニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。
でも実際、大勢の人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場にこいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間が再生産されている以上、
「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆の理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。
もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別の問題にあるにせよ。
東大や慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ(制作者自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、
この国が資本主義・自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見と理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?
相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。
「相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。
というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術の見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか?
『自由主義だから人を殺す自由も認めろよ』ということは当然にない。そこで重要なのは他者危害の概念だ。
殺人は生きる権利を奪うから罰せられ、窃盗は財産を奪うから罰せられる。今の犯罪はそのように考えられている。
そう考えた時、たとえ自分の土地であっても人目につくようにヒトラーの銅像をあちこちに設置する行為は「我々はホロコーストを肯定します。だからユダヤ人はこの町に来るな」というメッセージであるから法律で禁止されるべきだし、
同様に、市の至るところにネイサン・ベッドフォード・フォレスト(KKK創設者)やベルギー王レオポルド2世やセシル・ローズの銅像が飾られていたら
「我々は黒人差別を肯定します。だから黒人はここに来るな」という事実上のメッセージになるから規制されるべきだし、
市の至るところにウルバヌス2世の銅像が飾られていたら
「我々は十字軍を肯定します。だからムスリムはここに来るな」という事実上のメッセージになるから規制されるべきだし、
市の至るところににコロンブス像が飾られていたら
「我々はネイティブ・アメリカン弾圧を肯定します。だからネイティブ・アメリカンはここに来るな」という事実上のメッセージになるから規制されるべきだし、
市の至るところにダンテ像が飾られていたら
「我々は神曲におけるムハンマドの扱い(聖書を歪めて解釈したとして地獄に落とされている)を肯定します。だからムスリムはここに来るな」という事実上のメッセージになるから規制されるべきだし、
「我々は脱亜論を肯定します。だから中国人や韓国人はここに来るな」という事実上のメッセージになるから規制されるべきだし、
市の至るところにオリバー・クロムウェルの銅像が飾られていたら
「我々はアイルランド虐殺を肯定します。だからアイルランド人はここに来るな」という事実上のメッセージになるから規制されるべきだし、
「我々は性的客体化を肯定し、牟田和恵氏や小宮友根氏の主張を否認します。だからツイフェミや性嫌悪はここに来るな」という事実上のメッセージになるから規制されるべきだとリベラルは主張しているの。
現時点で出ている情報から分類するならローンウルフ型のテロなのだが、5.15や2.26と重ねて社会の崩壊を予言してるやつは何を見てるんだ?どこに蜂起した青年将校がいるの?犯行を支持し、加害者の減刑を求める大衆運動でも起きてるのか?
ショックなのはわかるよ。結果として選挙運動中の元首相が暗殺されたわけだから。犯行自体が民主主義に対する卑劣な攻撃であることは確かだね。でも暗殺を義挙として称揚して暴力による社会変革や軍人による政治を希求する民衆のうねりが生じてるか?ないでしょ。日ごろアンチ安倍な人だって大多数は犯人には批判的だよね。実際に起きてるのはむしろテロの原因の擦り付け合い(「アベが」がー、「長期独裁政権」がー)であって、暴力には大半の人が批判的ポジションだよね。
現代日本に解決すべき課題があるのは確かだが、それとこの事件は原因と結果として本当に直結すべきものか?(「捜査関係者」からマスコミにリークされてる)犯人の供述が示してるのはむしろもっと個人的で合理性を欠いて拗らせた恨みだよね。母親がカルトにはまって、安倍はそのカルトに近いから狙ったとか、現時点ではそんな話だろ。これで日本が後進国化した証拠だとか、健康医療分野であればトンデモとかインチキとか言われかねないような雑な分析だし、単にあなたの一時的な興奮の表れだと思う。
参考
銃撃がもし本当なら、それこそ日本が終わり始めてるような話になってしまう。嘘であって欲しい。選挙という民主主義を象徴するイベントで、真っ向から民主主義を否定するような犯罪が起こったことが残念で仕方ない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4722089126259846050/comment/sisya
五・一五事件、二・二六事件に並んで七・八事件とか呼ばれて歴史年表に載ることになるのかもしれない。まさに戦前レベルに戻った日本。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4722089126259846050/comment/casa1908
戦後に積み上げてきた民主主義や自由主義が515や226の後の日本のように一気に壊れていく本当の終わりの始まりが来てしまった事を漠然と私も感じた。それは今日突然やってきたんじゃないという事も。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4722107413167416482/comment/kohakuirono
元々、表現の自由といったらナチスドイツのSSやソ連のKGBがやったみたいに国家から弾圧されるものだった。だから、表現の自由は一般的に消極的自由に分類されてそれに基づいて立法や議論がなされてきた。
でも今は状況が変わりすぎた。
今も上記のような古典的な表現の自由の侵害はあるし、起こりうる。でも、今の民主的と言われる国々ではこれらよりも強力な私人による表現の自由の規制の方が遥かに危険性として高い。
例えばクレジットカード会社が決済を拒否すれば、インターネット上のプラットフォームは立ちいかなくなるし、GAFAを敵に回したら対抗出来る人などいないだろう(国レベルでもかなり厳しい)。
現にトランプは元アメリカ大統領の大富豪という圧倒的強者だが、GAFAやTwitterから締め出された結果ほとんど表舞台に現れることができなくなってる。
こういう私人間での規制のやり合いが激しくなってきてる現状で国家からの規制にばかり怯えて、それしか議論しないのはさすがに視野が狭すぎる。
特定の強者や大企業が自由に表現を規制するのも経済活動の自由だと言って認めるならそれも1つの立場だろうけど、表現の自由は国家が侵害するものだと盲信して国家が関係しないところで特定の強者や大企業が表現の規制をおこなってること自体を認めないのは現在の世界の分析としてあまりに稚拙すぎる。世界恐慌直後に闇雲に自由主義を盲信して何も対策をしなかった政治家や経済学者の二の舞になるぞ
正直俺は表現の自由は既に消極的自由の枠を超えて積極的自由の枠にも入りつつあると思ってる。俺はこれに対してどうやって対策すればいいのか、そもそも対策するべきなのかは分からないけど戦前日本が憲兵を使って取り締まるみたいな古典的な表現の自由を考えるだけの時代はもう確実に終わった。
これについて、哲学でも憲法学でもなんでもいいからこの手の問題に触れてる書籍とかがあったら読んでみたいから何か知ってたら教えてほしい。
taitoku
アンチリベラルのダメさは「お前はどうあるべきと思うんだ」が徹底して無い事。おこちゃま。僕は保守だが、苗字変更は不要な社会コストなので是正した方が良いと思ってる。家制度って形骸化してるでしょ。
taitokuはつイート見てる感じでは子煩悩ですごい人がよさそうなアイマス大好きオタクおじさんだ。
一方で、この人はinumashとともにリベラル全振り、ポリコレ全振りだという印象があった。
俺はなぜtaitokuがこれほどまでに自分のことをリベラルだと思い込んでるのかよくわからんかった。
じゃけん、これについて辞書を調べてみた。
現代のリベラルの特徴は本来の自由主義ではなく派生して生まれた「社会的公正さ」を重視するという要素が共通しているらしい。
であればアイマス大好きなtaitokuが社会的公正さを重視するのはよくわかる。
なぜなら、アイマスは非常に現代のポリコレに忠実な作品だからだ。
男は極力無害でなくてはならず女の子を全力で応援することが求められるゲームだ。
アイマスが本当に好きな人はアイマスのエロ同人を買ったりしない。異性としてアイドルとの関係に欲望を抱いたりしない。
男性はPである自分一人がおればよい。自分以外の男性はすべてモブか、社長か、審査員か。ゲスな新聞記者だ。
男は、女性を傷つけず応援する存在だけが許される。それ以外の人間はモブとしてしか存在を許されれない。それがアイマスの描いたポリコレだ。
アイマスでそういう世界観をたっぷり摂取した人間は必然的にリベラルとなる。
taitokuは真にアイマスを愛しているといえる。
『80年代には海外では見直されていた「生活習慣病」という考え方』
https://news.yahoo.co.jp/articles/5015da26607a03ab2fd804f94bd39019607c12f9?page=3
ーー先生が立て続けに、「生活習慣病」について書いた論文を読んで驚いたのは、当初、アメリカでは真逆の発想で導入されたという事実です。1950年代から60年代にかけて公民権運動が活発になった時に、自由主義思想の広がりと共に広がったと書かれていますね。
《生活習慣病概念は自由主義的自己決定権意識と結びつくことで、自らの将来を自らの力で変えることができるという「健康版アメリカンドリーム」として米国の市民・政府・科学者の間で広く受け入れられたのである。(『糖尿病プラクティス』38巻2号)》
元々は、「生活習慣病」は、「専門家に縛られず、自分で自分の未来を切り開く」というアメリカンドリームだったんです。当時の発想としてはすごく良かったし、その考え自体は今後も活かすべきだと思います。
これ凄く重要な指摘だな
なるほど、「生活習慣病」という発想も、元々はそこまで悪いものではなかったんだね
パターナリズム(父権主義)に対する反抗の趣旨を含む概念だったと。
でも今は寧ろ逆だよなあ
みんなを補助しよう、って考え方だと思う。
個人の権利や自由を大事にするという意味で、個人主義者に似ている。
社会全体で助け合っていこうなという意味で、出生主義者に似ている。
個人側から見ると個人主義。社会は個人の権利を保障するための装置。
社会側から見ると全体主義。個人は社会を成立させるための道具。
出生主義者はだいたい、全体主義。でも全体主義のなかには出生主義者でない人もいる。
反出生主義はだいたい、個人主義。でも個人主義のなかには反出生主義でない人もいる。
たぶん、コメントの考えは個人主義かつ自由主義でしょう。出産は個人の自由だが、社会はそれをサポートすべき。って思想ではないかな。俺も賛同する。それでいいと思う。
これは結構難しい話な気もする。
まず、ゼロ年代までの日本において、政治組織は主婦層の奪い合いを行っていた。
数が多く、政治活動を行う暇があり、組織に拘束されておらず、思想的に特定の傾向がないが横のつながりはあるという、まさに格好の動員対象だったからだ。
ただし当たり前だが動員というのは上から自由に政治的思想を植え付けられるわけでなく、自由なタイミングで動員できるわけでもない。
比較的どうでもいい案件については積極的に下から吸い上げて常に運動欲を満たし、「自分たちが動かしている、声が届いている」という実感をもたせるのが重要。
主婦層に共有された嫌悪感があり、社会悪だという方向に持っていきやすく、婦人会による規制運動を展開することで低コストで定期的に運動実績を満たしやすい。
要するに叩くのに丁度いいから自民も公明も各種の野党も性表現規制論をだし、逆に政敵の手柄になりそうな風向きのときだけそれを批判してきた。
矯風会もこのころ潜り込んでいろいろやっているが、別に思想的には主体性を発揮したわけではない。
あくまで普通の女性が、「素朴な感性」を運動で増幅させた結果に相乗りしただけだ。
大半の政治家にとっては「自分の票にならなければどうでもいい、だがある程度便利使いするため風向きを読んでたまにコメントする」程度の話題だった。
リベラルと呼ばれてるが中身は様々な人々にとっても大半は同じだろう。
しかし、ネット時代で性表現市場が拡大し、規制論者もオタクの声もでかくなったことで、この話題はそれなりのネタに昇格した。
ただ、山田太郎はうまくやったが、ワン・イシューで国会に1議席確保できるぐらいというのは、小さくもなく大きくもない、なかなか微妙なラインである。
これも基本的には思想や強力なトップダウン利権があるわけではない。
普通のオタクが「素朴な感性」を運動で増幅させた流れをうまく利用したということになる。
こういうネタは言論屋や政治プレイヤーとしては非常に扱いが難しい。
「普通の人々」の「素朴な感性」というのは、たいてい思想的にはメチャクチャであり、民主主義にも自由主義にも完全に敵対している。
なんとなく思ってるだけならまだしも、運動で増幅させるとカルトの原理主義と対して変わらない。
それでいてカルトと違って思想的核のない多数派だから、批判にも難儀する。
山田太郎も統一教会と絡んだりしているが、こういう連中がオタクを「操って」いるというのはいろいろな意味で間違っている。
オタクの普通の言動に素直に乗っかれば自分の主張が認められる部分がありそうだから、のこのこやってきたというだけだろう。
矯風会が政治に熱心な主婦層によってくるというのも、主流はあくまで強大で消し難い「素朴な感性」のほうで、矯風会なんてのは張り付いた雑菌の如き存在だ。
「素朴な感性」に公然と敵対する人間は、たとえ理屈の上で正しいことを言っていても、政治レベルではあっさり抹消される。
逆に、そうなってない人間というのは、理屈以前の話で、「素朴な感性」にうまく忖度しているからこそ生き残れている。
だから、問うべきは、リベラルの人々は、一般人の、あるいは自身の中の「素朴な感性」と自由主義が対立する事実にどう向き合うか?
という話だが、これに真剣に答えること自体も「素朴な感性」への敵対の一種であるから、政治プレイヤーとしては公然と議論することは難しいだろう。