はてなキーワード: 厨二病とは
自分には価値がない、死という事象を相手に印象づける価値すらない、という気持ちで、死んだつもり生きてた頃がありました。
元は明るい性格で、いまでも明るいと言われますが、本当はまだ死んだつもりが抜けきれません。
幸せな人や場に直面した時に、私だって前はあんな風に笑えてたのに…って気持ちになります。なんか厨二病みたいだけど。
結婚した子とか、誕生日の子とか、「祝ってくれてありがとう!」っていう幸せな笑顔を見た時に、
「あー駄目だ、私は駄目だー、わたしはもうこんな風に幸せ100%みたいな気持ちにはなれないんだ」って思ってサーって血の気がひく。
楽しいときも悲しいときもわたしなんて駄目なんだ糞なんだ、私は変わっちゃったんだって考えが頭から離れない。
元カレとその両親と家族がひどく傷付いて気が狂ってくれたら満足するのかな私は。
結局自分のだめさを元カレに押し付けるだけなのか?とか、思ったりもするし、、あーーーー
最近ほんとふとしたときにフラッシュバックというか、元カレに限らず嫌な思い出が浮かんで、ああああって声が出てしまったりする。1人のとき。
声で打ち消さないと、なんか駄目。気持ち悪いよね。。人前で出ないだけましか。
もう、どうしたら良いんだろ。一生苦しいのかな。
私こんなはずじゃなかったのに。
明るくてはつらつとしててみんなの中心にいたのに。なんでこうなっちゃったんだろ。
ユーザからみると課金はするものじゃなくされるものであってアプリで金払ってなにかを購入する行為は「課金した」ではなく
「課金された」とか「課金(コンテンツを購入)した」が正解なはずなんだが、もう「課金した」に慣れてしまった。
繰り返すが「課金」というのは「金銭の支払いを課すこと」であり「金銭を支払うこと」ではないので、ユーザの立場にある者が「課金した」というのは明確なまちがいだ。
大多数の人は誤用をわかった上で、コミュニケーション上「課金した」って言っちゃったほうが通りがいいので使っている言葉だと思うが、とくに子どもなんかは「課」の意味を誤って覚えて、将来別のところ(受験、ビジネス、フォーマルな場など)で失敗したり恥をかくこともあるだろうな。
こんなのはもう3周くらいまわってるありふれた議論だと思うが、ここらで「課金した」「課金する」の誤用に対する意識を元に性格タイプ診断してやるからお前らもやってみろよ。
ああ、俺は大学でこういう専門、まあ社会人間工学っていうんだけどそういうのの准教授やってて、あと今は社会になじめず苦しんでる人の自立を支援し社会復帰させるようなNPOのサイエンスアドバイザーを複数掛け持ちしてる。
言語学は専門外だが、まあ個人と社会、社会と社会の関わり様についてはいっぱしの知見は持ってるつもり。
A 一般論として言葉は時代とともに変わるものだと思う Yes→Bへ / No→Cへ / わからない→Fへ
B 「課金する」の意味も変わっていいと思う Yes→Dへ / No→Eへ / わからない→Gへ
C 「課金する」という言葉を使う Yes→【保守・ハト派】 / No→【保守・タカ派】
D 「課金する」という言葉を使う Yes→【革新・タカ派】 / No→【革新・ハト派】
E 「課金する」という言葉を使う Yes→【中道・ハト派】 / No→【中道・タカ派】
F 「課金する」という言葉を使う Yes→【なんとなく流されちゃう系】 / No→【なんとなく反抗しちゃう系】
G 「課金する」という言葉を使う Yes→【考えるの面倒くさい系】 / No→【日常で使う場面がない系】
※タイトルが途中で切れてるかもしれないです。
正しくは→『人間って「ホントにやばい」って感じたときしか本気で動けないのかなぁ。』です。
↓以下、本文。
ちゃお!
自分は18歳男ですが、この1年間は無気力で適当に生きてるって感じで過ごしたなぁ。と思う。
現在ニートで、住む家もあるし、食うものもあるから、「自分で取りに行こう」っていう気持ちが減ってしまったのかもしれない。
ずっと家に引きこもりっぱなしで、「これじゃあダメだ!」と思って、
自分でお金を稼ぐ方法を知っていて、今すぐにでもそれを始めることができるのに、あんまり行動せず1年経った。
今すぐにでも始めることができるのに。
そこで、
『人間って「ホントにやばい」って感じたときしか本気で動けないのかなぁ。』と思って、
このチャンスに自分のお金を使いまくってみたところ、現在、自分のお金が残り2000円くらいになった。
今は食費・電気水道代は全部自分が出してるので、たぶん今月でお金がそこを尽きると思う。
そして予想だけど、
たとえ自分のお金が0になっても、自分は「ホントにやばい」って思わないんじゃないかと思ってる。
「これからどうしようかな~。」くらいだろう。
「どうにかなる。」っていう将来の自分に期待してたりするところが自分にはあるし、
最悪、住む家も食べるものも家族が出してくれるんじゃないかと心のどこかで思っちゃいそうだし。。。
そして、「自分が成功できる未来を知りすぎた」ってのも大きな原因かもしれないと思ってる。
その入口のことを知ってすぐに、やる気が高いときに、大量の行動を起こすべきだったと思う。
学生からニートになって、悔しい思いをすることがすっごく減って、こてんぱんにやられて泣くことが無くなった。
逆に、「バイト怖いなぁ」と思って、少し前に働いてた初めてのバイト先の先輩もいい人だったし。。。
学生時代は「学校行きたくない」とかで、マイナスな感情エネルギーで動いてたけど、
もう今は「どうにかなってる現状」がある。何もしなくてもどうにかなってる。自分を動かすものがない。
そういうわけで、
生まれつきに持つ嫌な家族・嫌な同級生・嫌な先生ってのは実は重要で、今の自分の基礎を作ってる重要な人たちだと思った。
切り離すことが難しかった嫌な人たちってのは、自分にとっては「自分の物語」を作る最初の敵みたいな存在だと思う。
本当は克服できることを知ってるけど、悩んでる。
そして、この文章を書いてて、気づいたこと・思ったこともたくさんあるけど、
僕の人生は「反面教師・人のふり見て我がふり直せ」的な学びが圧倒的に多いと思った。
自分の悪いところや他人の悪いところに気づいて学ぶことが多かった。
たぶん、最初から良い人ばっかりに囲まれて育ってたら、今ほど悩まないと思うし、世の中の気持ち悪さに気づける人になってないと思う。
タイトルに戻りますが、「ホントにやばい」と思える環境じゃないと、ニートな自分は本気で動かないのかもしれない。
今回の残りの現金2000円くらいで「ホントにやばい」って感じるわけ無いだろうな~という気持ち。
なぜここまで文章が書けたのかは分からないけど、
人生のどこかで「ホントにやばい」と感じておかないと、将来「思ってたより自分、小さいままだったなぁ」ってなりそうで、
「ホントにやばい」を知っておかないと、箱の中で飼われてることを知らずに、このままずっと自分より大きなものに空間を支配されそうで、
人生経験豊富で賢い人の前では、どうしても「操られてる感」がある会話になってしまい、悔しいままは嫌だなぁと思った。
以上、特に言いたいことは無かったんですが、
タイトルの『人間って「ホントにやばい」って感じたときしか本気で動けないのかなぁ。』から
いろいろ話が膨らんで、「何言ってんだコイツ」な感じになっていると思います。
http://anond.hatelabo.jp/20130731235147
訓練されたオタクか鈍感力の高い人しか楽しめないというのは同意。
ただし、あれに拒絶反応を示す人というのは世間ずれしているわけじゃなく、思春期を乗り越えられていないのだろうと思う。
あれがある種の人に受けつけられないのは「純粋な善意しか存在しない」からではない。たとえば、かみちゅ!なんかも「純粋な善意しか存在しない」感じのアニメだけれど、あっちにはたまゆらのような拒絶反応はあまり見られなかったと思う。
じゃあ何が問題なのかっていうと、主人公たちの発想や行動が厨二的であって、それが自虐やからかいを交えず肯定的に描かれていること。もっとも顕著なのは「私たち展」だね。厨二というよりはさらにその前段階、小学校高学年くらいかもしれないけれど、まあ厨二病のバリエーションの範疇でしょう。
思春期を乗り越えるとは単に厨二的行動をしなくなるということではなく、厨二的行動を適切に受容できるようになること。黒歴史とか言って身悶えている間は思春期を脱していないんだよね。で、厨二的行動を適切に受容できない思春期の人が主人公たちの発想や行動に拒絶反応を起こしていると、そういう構図じゃないかなと思ってます。
A君の友人はクレジットカードの番号を盗めるのだという。
流石に嘘だということが分かる。
どうやって盗めたの?と聞くと
通信すれば楽勝。とのみ毎回言う。
通信をすればと言うことはATMから出ている無線LANをWiresharkなどの
ネットワークスニッファーツールを使って傍受したのだろうか。
もはやそんなATM廃止してしまえという感じだがそれぐらいしかない。
随分と前の話になるが、レジか何かの無線をスニッフィングしてクレジットカードの番号を傍受した
というニュースがあったことに触発されたのだろうか。
普通に厨二病こじらせるのは良いけれどハッカーとクラッカーを間違えてる人は
ハッカーは名乗らないで欲しいと切実に思う。
つまりだ、まだニートじゃないが、一度ニートになったら戻れない気がする。
伊集院光とか、みうらじゅんみたいな、童貞じゃないが童貞気質というか、理解できるというか。
給料はもらえてる。残業は多いが殺人的じゃない。土日もだいたい休みだ。
毎日22時を過ぎて帰り着いて、コンビニ飯か、たまに作った飯を食う。
なんとなくワールドビジネスサテライトを見て、取っておいたアニメを見て寝る。
そして次の日は朝慌てて起きてパンを食って、会社に行く。
土日は洗濯して、溜まってる映画かアニメを見る。たまに図書館に行って本を借りる。
で、気がついたら三十代も後半戦に突入だ。
そこである日気がつく。
これは、維持しているだけだ。
人生は15年ごとに区切りがあると思う。
まず最初の15年。これは子供時代だ。思い出を作る、子供の頃。
そして次の15年。これが青年時代。独立するにせよしないにせよ、もう子供では居られない。
続いて次の15年。中年時代の始まり。人生が見え、もう取り返しの付かないことも多い。
終わりに向かう15年。46〜60は、仕事でも人生でも円熟に向かう。
終わりの見える15年。61〜75は、前半の積み重ねや運で、ゴールする人も居る。
だれもが終わる15年。あえて言うこともない、まさにゴール直前。
このフェーズ切り替えは、取り返しが付かなくなるという意味がある。
もう、俺は青年時代には戻れない。大学に入り直しても同級生と付き合うのは違う意味を持つ。
そして、人生は思ったよりも短い。
ニートは絶対に飽きるって言うヤツが居る。そういうヤツが居ることは否定しない。
映画を見て本を読むのが好きで、ラノベもアニメも好きで、ゲームもたまに遊ぶってヤツがさ
何かの拍子に、結婚せず、彼女がいないまま、安定してしまったときに
例えば毎月WOWOWに金を払って、毎日飯が食えてネットが使えて、それで15年飽きるか?
要は、老後だぜ?
俺はきっと飽きない。
45になって、その後の20年の維持費が貯金できてしまっていたら、会社を辞めない自信が無い。
そして、年金をもらえたら、そのまま余生を過ごす。
そして、そんな人生が決して悪くは無い、アニメを見続ける生活が悪くないと思う自分がいる。
フリクリのナオ太のような気分で、でもベスパに乗った女にギターで殴られる日は来ない。
特別なことなんか無い。
特別なことなんて起こらない。
勤労は?してる。税金は?はらってる。誰にも借りはない。
今が楽しくて、維持が出来ていて、いずれ死ぬのが分かってても今死ぬつもりもない。
単に金を稼いでいるだけで、ニートと何が違うのか。
アニメ「惡の華」最新話がびっくりするくらい面白かったので雑感と浅い考察。
普段は萌えアニメしかみないので難しいことはよくわからないけど、考えをまとめたかった。
原作全く知らない。
春日の抱えてるモヤモヤは青春時代に誰もが抱える系のもので、厨二病と近い?
自分はすごい人間だ、他の人間とは違うと思い込みたくて、実は周りの人間と大差ないという現実から目を背けているモヤモヤ。
(何話か前の、本を読んで自分を取り戻さなくちゃ、という台詞にはずっとそれは違うだろと思ってた。本を読むなんて、受動的な行為で、自分は作れない。)
春日本人もそれは違うと薄々感づきつつも、読書を現実逃避と他とは違う自分を演出するための道具として使っていた。
中村さんの抱えてるものはまた春日とはタイプが違う。世界に対するモヤモヤ。とにかく今いる場所から抜け出したくて、自分の居場所がないと思っているモヤモヤ。(家庭に何か事情がある?)
春日が体操服を持って帰ったのを見て、春日の欲望に触れて、人間のドロドロした本質が見れて面白そうと思ったから春日に近付いた?
欲望に忠実な人間を面白いと思ってそう。人間なんてこんなものだという気持ちと、ドロドロした汚い部分を、理性で覆い隠して普通のふりして生きてる人間への興味?
佐伯さんは、周りから優等生扱いされてるけど、誰も自分の内面を見てくれなかったところに、春日から告白され、内面を好きになってくれたと思っていたので春日に惹かれていたが、それも最後の春日の言葉で否定され、結局春日は自分の外見、作られた部分しか見ていなかったと気づいたので、もういいよ、となった。
恋愛感情に理想を抱いてる。好きと言って、自分自身を認めて欲しい。
春日くんの中身をぶつけて、見せて、としきりに言ってるのはその分自分の中身も見せたい、認めて欲しいことの表れ?
春日が佐伯さんも中村さんも選べなかったのは自分に自信がないからで、どっちかを選ぶということは、どっちかを選ばないということになる。
春日は選ぶ決断と同時に選ばない決断を強いられていて、どちらにも嫌われたくないので選べなかった。
春日は、周りの人間に認められたい、嫌われたくない、受け入れて欲しい、自分の汚い部分や空っぽの中身を見せたくない。
あれくらいの年代の人間がみんな抱えてるモヤモヤが入り混じっててすごい。
展開も面白い。
春日くんにびっちり張り付いて〜という中村さんの言葉は面白かった。
来週も楽しみだな。
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/05/post-d264.html
ほぼ全面的に同意で、ここから派生して結局クールジャパン構想は最終的に文化侵略の体を為さなければいけないだろうと言うが持論。
人類皆兄弟、真実はいつも一つというのは夢物語で、少なくとも文化と道徳というのは人々が経てきた歴史と生活スタイルによって異なる。
だので、某カード屋さんの首魁で某ブロッコリー創業者の人も言ってたように、クールジャパン政策は本質的には「生存圏」を拡大するというどっかの大東亜共栄圏構想もかくやの大事業だろうと思われるわけです。
そりゃABCD包囲網も辞さないわけですよね。
で、これがいやなら文化的鎖国をしなくてはならないのだけど、これはおそらく将来的な日本の外貨獲得プロセスにおいて非常に大きい痛手になりかねない。
基幹産業はおそらくアベノミクスやTPPを以てしてもかつての栄光を取り戻せないまま没落の一途を辿ることが火を見るよりも明らかな今、我らの希望は人的リソースさえあればゼロからいくらでもチャンスを生み出せるコンテンツ産業しかないわけです。
では政府的にはどうするか。
一番根本的かつ実効性が高い方法は積極的に国家機関がコンテンツ制作に積極的にコミットして、完全に浄化してしまうこと。
それがいわゆる昨今の表現規制の流れであるわけです。技術はそのまま魂には死んでもらう。だから実は昔の表現規制問題とはちょっと論点が違うんですよねたぶん。
外圧と自身の世界的国家戦略が根底にあるので、今まで以上にお役所は躍起です。で、おそらく世論もこれに乗っかかりやすいでしょうから巨大な流れになる。
じゃあ我々HENTAIアニメ・漫画・ゲーム大好きっ子はどうすればいいのか。
一つは本当にこいつらに向かって文化闘争を仕掛ける。孤立無援。敵はセカイ。なんて厨二病。
といってもそいつは無理な話なので、もうちょい現実的に行くと、国家的ゾーニングの徹底。
すなわち、HENTAIコンテンツを見せない、持ち出さない、持って行かせないという非HENTAI三原則でございます。
物理的コンテンツに関してはご禁制品のごとく徹底した検閲を各税関で行い、これを没収。この際技能取得者の海外渡航も禁じて技術漏洩も防ぎましょうか
ネットではHENTAIコンテンツを集中させた上で海外アクセスを完全に遮断する。
その上でお上が認定したいい子ちゃんコンテンツを海外に持っていく。検閲と事前抑制の禁止?知るか。
パンチの足りないコンテンツで禁断症状を発症したGAIJINさん達は日本に来ていただいてそのまま永住していただきましょう。移民万歳。
こうして出来上がるTHE・ユートピア、最後のエデン。盛り上がる経済。日本はHENTAIアニメで救われたのであった。
ビバ・クールジャパン。
文章書くの苦手なので、読みづらいと思います。
というよりも上司が求めてくる仕事・能力を満たすことができないのがつらい。
納期に間に合いそうにない。
「楽しくない」と答えられるわけがない。
こういうのずるいと思う。
以前も「この仕事したい?」って尋ねられたけど、入社して間もない私に断る権利なんてあったんだろうか。
私にYESって言わせたいんだろうなぁと思いつつも、私はYESと頷いたわけだが。
みんなってなんで働いているんだろう。
・やりたいことのため
・お金のため
・家族のため
・暇つぶし
・何となく
・惰性で
いろいろあると思う。
この中でもやりたいことがあって、そのために働いている人は羨ましいと思うし尊敬する。
ただ、今の会社・職種にこだわっていない人もそこそこいると思う。
私がそれに入るから、そう思いたいだけなんだが。
「今まで○○っていう専攻を学んできたから、その専攻を活かせそうな分野の会社に入っちゃいました。てへぺろ」みたいな人ね。
そもそもやりたいからその専攻を学んだわけでなく、惰性で進んできたわけなんだが。
上司はその考えがないんだろうな。
いや、もちろんないわけではないんだが、そういう人間を部下に求めていない。
そういう考えを表に出してはいけない。
当たり前なんだけどね。自分が上司だとしたらそんな人間いらないもんな。
素晴らしい人間(上司という役割)なんだろうけど、底辺側(私)からしたらクソみたいな人間に感じる。
”人を動かす”のような本を読んで、管理職としての教育を受けて、それを実践できてるオレカッコイイみたいに見えてくるんだよね。
(私もそういう本に興味があって読み漁ったのが間違いだったかもしれない。上司から何か言われると”ああ、このテクニックか…”と思う)
こんなことを書いてストレス発散。
他に発散する先がないから。
生きる意味が見いだせていない。
真面目な話、なんで生きているのかわからない。
早く死んで楽になりたいっていう気持ちもあります。
死にたいって思うけど、死ぬことや自傷することを想像すると怖いからできない。
だから”早く親が死なないかな”って考える人間は極少数だよね?
んで、両腕骨折するの。
そしたら仕事できないじゃん?
毎日のようにこういうこと考えるわ。
他にやりたいこともないんで。
いざとなったら、ホームセンターで包丁買って、そのまま交番行って「逮捕してください」って言えば衣食住が保障されているから良いよね。
クソみたいな発想ですみません。
その後、自分の席に戻ったら涙出てきた。
声優も同じだし、厨二病臭さなんかもそのままだし。あれが一時期、リアルロボット物で高い評価得てたサンライズの作品かと思うと嘆かわしいと思うよ。
あれ見るぐらいなら、マジェスティックプリンスの方が何倍もマシ。
モラハラ男と過ごした数年で、私は変わっちゃったんだなって毎日毎日思ってる。
友達の結婚式とか、友達のキャリアアップとか、そういうの素直に喜べなくなった
おめでとうとか、ありがとうとか、大好き!とか、大勢の前で叫べる人たちが今は遠く見える。
昔は私も大きな声で、誰かへの感謝とかできてたのに。
いまはこわい。
初めて会った人と話してても、飲み会で楽しげにしてても、
こうやって相づちを打つと相手は気持ちいいらしいとか、楽しそうに目を細めて歯を見せて笑おうとか、変な客観性みたいなものが突然頭にポっと浮かぶ。
楽しいときに、うんうん、楽しそうな顔ってこんな感じでしょう?私はみんなを楽しく出来てる?私と会って良かったって思ってもらえる?ってどこからか浮かんで来て、そっから気持ちがスーってさめて行く。
分かんないけど、厨二病とはなんか違う。気がする。
「私なんて誰も欲してない」っていうアイデアが頭から離れない。
悪いのはアイツなのに、アイツはモラハラをこじらせて精神病になったから保護される。
私は皆の前で価値のないやつのレッテルを貼られて、それが撤回されて、いまはただのつまらない人。
ほんとは誰かにいろいろ言いたいけど、
いろいろと想起させられたエントリなのでここに記す。
僕自身は「あの子」が少なくとも聡い子であることは認めるけど、それは子供という範囲を逸脱してはいないと捉えている。
あの子自身の言動や思考はまさにそういった厨二病の範囲に収まっている。微笑ましいものだ。
だからこそ、あの子自身の「思惑」などと言った大層なモノには興味はないし、それ自体がそれほど問題のあるものだとは思わない。あの子がただの子供のままであるならば。
問題があるならばそれはあの子をアイドル化する存在である。商業的アイドルではなくもっと原初的なアイドル。それに祭り上げている大人たち。
あの子の幼稚な発想と若さ故の飛躍を有り難がり、その若さを共有しようと目論見、経年劣化した自己の正当性をその子に依存することで取り戻そうとする下卑た大人。
商業的アイドルとそのファンとの関わり方と異なるのは、彼らがかなり根源的な、思想・信念的な部分でアイドルに信奉、依存している点である。それが彼らを理性的に狂信へと駆り立てている。
しかし一人の人間の、しかも一過性の輝きに依存した宗教はそう長くは続くまい。
普通の子供であれば、あの子のあまりにその身に余る言動は厨二病、よくある若さ故の過ちで済む。
しかし周りの狂信者達はそれで終わらせることは許さないだろう。
こうなってはあの子がそれを御するだけの理性と実感覚の延長としての知性を得て、真の意味で時代を照らす己の輝きを見つけなくてはなるまい。
そうでなければ、そんなあまりにも大きな理想を成し遂げなければ、周囲からの狂信と自分の能力のギャップ故にあの子は潰れてしまうだろう。凡百の、そこいらに転がっているかつての「アイドル」と同じように。
このところ急に春めいてまいりましたが・・・
就職活動も半ばとなり、皆さん面接対策に勤しんでいる限りかと思われます。
はい。僕はというと、「JIN -仁-」の再放送見ながら涙を流しています。
自己PRは完成していませんが、龍馬とペニシリンのモノマネなら負けません。
就職活動なんて適当にやってりゃ、順風満帆にことが運ぶと思っていたのですが、、、
やれやれ、3月にして大学三年の僕は戸惑いをあらわにすることとなりました。
仲の良い同級生にして戦友であるはずの彼らは文字通りの東奔西走を繰り返し、中には内定を獲得した猛者すらあらわれました。
当初、IT企業(SE、プログラマ)やメーカー、商社の営業を目指していたのですが、会社の説明会に足を運ぶたびにその思いは薄れていきました。
あれ?思ってた感じと違う。スーツ着て毎日こんなつまらなさそうな仕事しないといかんの?サラリーマンなんてクソだー
就職活動の愚痴に関しては腐るほどありますが、今回は省きます。入社する前から脱サラです。
俺って社会不適合者なんだなって実感が湧いちゃってどうしようもなくなりました。
現実に目を向ければ向けるほど不満や意見、こだわりが溢れだし、高いプライドと相まって僕の頭はイケダハヤト一色。
だから一旦目指していた企業のエントリーや説明会を全て無視し、就活前線を一時離脱しました。
今は何をしているかって?
家でごろごろしたり、ヒトカラいったり、読書したり。春休みとPM2.5を満喫しています。
僕は俗にいう意識高い系の学生をバカにする意識のもっと高い学生です。厨二病を嘲り笑う高二病みたいなね。
行動が伴う人間は学生起業したり、まったく違う道をみつけて人生を謳歌するんでしょう。ただ僕にはそれができない。
今の就職活動や社会全体に深い憤りや欺瞞を感じ、就職活道という社会への一般道を直進できない。僕のサイドブレーキはかかったままだ。誰かしごいてくれ。
リクルートスーツに身を纏うたくさんの車が僕の横を通り過ぎていく。サイドミラーもバックミラーも省かれたその車体で、前へ前へと直進していく。
どの車もガソリンメーターは半分を過ぎてて、たまに後方確認したかと思えば車内を振り返っただけ。自己分析のためにね。
僕はハザードランプをつけて立ち往生だ。今更発進しようと思っても誰も割り込ませてなんてくれやしない。
虚無感というか就職を前にして達観してしまったように落ち着いてしまった。
音楽評論家の宇野功芳に「メータ(注:インド出身の指揮者)のブルックナーなど聴くほうがわるい、知らなかったとは言ってほしくない」という言葉がある。
その言葉にならうのであれば、本作を過剰に批判する側にも、称揚する側にも、「ヱヴァンゲリヲンはそういうものなのだ。知らなかったとは言ってほしくない」の言葉を添えたい。
「Q」はアップデートされた「エヴァ」であるから「旧作の狂気が帰ってきた」と称揚する評は間違っている。「意味がわからない、映画としての書法をなしていない」との評価も間違っている。
その言葉は伊達ではなかったと、冒頭シーンで感じないものがいればそれは不感症なのだ。
あの冒頭シーンを見てこの作品を全否定するその神経が分からない。
状況の分からない空間戦闘からNノーチラス号の発艦シーンまでの息詰まる緊張感と圧倒的なヴィジュアルにため息をつかないものがいるとすれば、それはブーレースの演奏するマーラーを前に「精緻にすぎる」などと見当外れの批判をする童貞クラヲタのようなものだ。
圧倒的な美しさ、スタイリッシュさ、その疾走にはに頭を垂れるしかない。涙は追いつけない。
参照される古今東西の映像作品の断片に庵野の美意識が振るわれ、結晶として屹立するその様はベルント・アロイス・ツィンマーマンの音楽を思わせる。
あるとすれば、脚本、演出による。
いくつか代表的なものあげてみよう。面倒なので3点に絞る。
1.いみがわからない
私も意味がわからなかった。もう自己パロディとしか思えないほどのとっちらかった謎、伏線、設定に呆然とする気持ちはわからないでもない。
しかし、こうした要素は「わからない」ことも含めて、自らを「サービス業者」と規定する庵野の「サービス」であり、そのインタビューにもあるように「酒のツマミ」として楽しむべきものなのだ。すでに2ちゃんには解釈をめぐりいくつもの「名解釈」が登場している。そこにエヴァの本質はないのでその解釈論争の成立自体「そういうもんだ」と楽しむのが正解だ。「しらなかったとは言ってほしくない」
だいたい、我々が生きているこの世界自体、意味がわからないだろう。
2.登場人物の行動に整合性がない
そうだろうか。ある程度登場人物のおかれた状況に寄り添って、「補完」すれば整合性は保たれてはいないか?たとえば「破」で「行きなさいシンジくん」と煽ったミサトが「Q」で別人のように冷淡だというのも「ミサトの14年間の辛苦」といったものを忖度すればあながち整合性がとれないわけでもない。
だいたい、我々が生きているこの世界の人物自体、行動に整合性がないだろう。
3.リアリティにかける
ゲンドウと冬月の「二人のネルフ」はどんな金で動いてるんだとか、吹きっさらしのグランドピアノがなんであんなに綺麗なんだよ普通弦さびるだろとか、まぁ分からないでもない。
しかし、エヴァとは「私小説」なのだ。プライベートフィルムにおいて、美意識と表現される「わたくし」の前に「世界」のリアリティはある程度犠牲になるのだ。
つーか、あの廃墟、ぐっとくるじゃん。それでいいんだよ。
だいたい、我々が生きているこの世界の自体、リアリティがないだろう。
どこ見てんのかね。この「狂気」は完全に「作った狂気」だ。綺麗にまとまりすぎているし、旧劇場版のアドリブ奏法のようなどこに行くのかわからない狂気ではなく、計算された狂気だ。
「序」と「破」をいったんたたき壊すための仕掛けであり、旧劇場版の「狂気」に魅せられて未だに90年代から一歩も動けていないものへの「釣り針」だ。
この作品は「シン」へのかけ橋である以上、注意すべき点は以下の3点に絞られる
・旧劇場版とほぼ同じ立ち位置にいる「無限に後退していくシンジ」をQで再度設定しながら、決定的に違うのは旧劇場版のシンジの周りにはダメな大人と壊れたアスカしかいなかったのに、新劇では導き手としてのアスカとマリが設定されていること。
・旧劇場版で「鬱シンジ」を否定し、「序」、「破」で設定した、ポジティブな「シンジさん」(セカイよりもポカ波を選んだシンジ)も「Q」で全否定したこと。
・露悪的な破壊の中で、通奏低音のように「やり直し」「成長と大人になること」「社会とつながること」を流していること。
上記を踏まえると、庵野<旧劇場版で引導を渡したはずの「エヴァ」に依存するヲタク>をもう一回、別のアプローチで説教しようとしているように見えて仕方ない。ヒントは同時上映された「巨神兵、東京に現る」に流れていたようにも思える。
我々は上記3点の「伏線」に「シン」でどうオトシマエが付けられるのかを見守るべきであり、やはりつまらぬ結論ではあるが、それまで判断を留保すべきなのだ。