はてなキーワード: 原典とは
「○○から△△までは、だいたい20kmあります」と言われた場合、有効数字の観点からは、
「だいたい」の範囲を、19.5〜20.5kmだと考える人と、15〜25kmだと考える人が居ると思う。
まあ、後者は極端だとしても、18〜22kmなどと、ある程度広いレンジを考えるのが、自然だと思う。
一方で、「○○から△△までは、だいたい32kmあります」と言われた場合は、「だいたい」の範囲を、31.5〜32.5kmと考えるのが自然だろう。
よって、「20km」のように、数値の下位に当たる数字がゼロだと、その値は丸められている可能性があるため、
その値が示すレンジを幅広く見積もる、ということを私達は自然とやっているのだ。
つまり、下位の数字がゼロであるかどうかは、私達の感覚に影響を与える要素のひとつなのだ。
だから、表題の通り、20マイルを「約32km」と訳すのには違和感がある。
その違和感の理由は、端的に言うと、値の信頼度が違うだろうということだ。
つまり、「約32km」などと「約」をつけたところで、読み手が想定する値のレンジは、31.5〜32.5kmだ。
「20マイル」という、ざっくりとした値だという感覚は、適切に表現されていない。
なので、個人的には、20マイルは「約30km」、30マイルは「約50km」と、値を丸めて表現した方が正しい気がする。
杓子定規に、単位変換を一の位まで計算して計算して表現することは、意味が無い気がする。
(もちろん、原典となる文章が有効数字を示唆しているなら、その限りではない。)
数値の翻訳をどうするか、という議論を見たことがない(科学論文レベルになれば、使用される単位系が国によって異なるということがないはずなので、
そもそも値を翻訳する必要がない。だから、議論もされないのだろう)のだが、最低限でも、値の有効数字は維持されるべきだと思う。
俺は古典教育廃止しろ派、というか、文法とかどうでもいいから文学史だけやれ派なんだけど、その理由のひとつに、「古典」つって出てくんのが結局枕草子・源氏物語・徒然草程度じゃん!っていうのがある
なんなら小学5年〜中1くらいでやるだろその辺って
谷川俊太郎の詩とかと一緒にさあ!
それで暗唱させられたから覚えてるだけなんだ
水鏡とか大鏡とか、伊勢物語とか落窪とか、なんかいろいろあったろ?俺は覚えてねえけどさあ
日常的に軍記物語の語り口調でギャグを飛ばしてみんながウケるとか、しょっちゅう百人一首あたりを引用して喋るのが一般的とか、そういうレベルでみなさんが教養を持ってんだったら、俺だって文句は言いません
でも何すか、スーパーの惣菜売り場に「春は揚げ物」って書いてある、これが"古典教育"だ!ですって?
"「春はあけぼの」の元ネタがわかる"程度だったら、小学生のときに、授業1時間受けるだけで、充分たどり着けるんだよ
っていう話だろ
これ、実は明確な答えがあって、ないんです
なんせ何も覚えてねえ
昔、男ありけり ソーワット、ファックユー!
まあ実際、(ごく一部を除いて)つまんねえ上に教訓もないクソ説話・小説を6年にわたって読まされることで、ああ俺たちの先祖ってカスだったんだ、貴族階級のが書いて、かつ後世に残そうとされた、日本古典文学の上澄みがこのレベルだったんだ、貧しい文化の国だったんだなあ!と思えるというのは、ひとつの学びだったかもね
ここで10 Japanese Classic Booksなるまとめをチェック!
4 竹取物語 ングアー!やられた!!でも竹取物語って古典やんなくても知ってるだろ 古典教育の必要性って意味では、これはノーカウントじゃないか?? でもまあ、1ポイント
7 砂の女 そういえばこれ読んどきたい
9 雪国 ほら〜
見てくださいよこれ "クラシック"なんて頭につけても、ガチ古典vs近代文学で3:7ですよ
雑魚すぎんだって古典 しかも竹取物語はなんか、史料っぽい雰囲気だからな
アレある程度授業でやったけど、覚えてんのは「うつくしうてゐたり」の一文だけだ 美しく座っていた、という表現はちょっと英語っぽくてかっこいいな、という浅い印象だけ あと不死の薬を焼いたから富士山です(笑)みたいなオチがすげー鼻についた
枕草子・源氏物語・徒然草・竹取物語・今昔物語くらいをサラッとさらって、文法は一切触れず、こんな感じだったんですよ〜でお終いだ
原典の響きがどうこうって意味では、昔のハ行はパ行だったとかいうし、やるだけ無駄ってもんだろ
スター・ウォーズと機動戦士ガンダムは同時期に作成されたSF映像作品であり数十年の時を経た今も新作が作られるほどの人気を保つという共通項があります。
しかし異なる点はスター・ウォーズがあくまでオリジナルの世界線の年代の違いや主人公の視点違いで続編が作られる原典主義であるのに対して、
ガンダムはすでにオリジナルの世界線を超えて、さまざまな形態の作品がつくられる自由度を有しているということです。
この両者の違いは、おそらく原作者が続編を作るまでに要した時間の差によるものが大きいことと
しかし、最終的にはスター・ウォーズもガンダムと同じ道をたどることになるでしょう。
オリジナルの世界線に限定された作品というのはいずれ手詰まりになるからです。
とはいえフォースやレーザー剣でのチャンバラ、いわゆるジェダイ的な要素だけを有した異世界の話が登場するのにはもうしばらく時間がかかることでしょう。
「何をするにあたって」原典にあたるという当然の事を重要視するか、って話ではあるよね
これメチャクチャ思いました。過去の査読云々の論争を思い出しちゃいましたよ( anond:20181009070341 とか、 anond:20181011090428 とか、このへんの話ね)。「翻訳するときは原典から訳すのが当然だろ!」「いや、別に重訳でも意味が取れてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取り、まんま過去の「論文は全部査読するのが当然だろ!」「ええ、別に無査読で載せても、後続の論文でしっかり吟味されてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取りとソックリというか。増田は「なんで原典にあたるという当然のことを重要視しないんだろう……」って思っちゃうんですけど、理系や経済学の人たちも「なんで査読という当然のことを重要視しないんだろう……」って思ってたわけですよね。まあだから、あんまり自分野の基準で他分野にケチつけるのはよろしくないなぁと、自戒を込めて。
はてなブログというサービスが無くはてなダイアリーをみんな書いてた時代に
はてなダイアリーで「理数系分野でも研究の際には原典読んだ方が良くない?」みたいな事を言った人がいて、それに対し色んな意見が出たのを思い出す。
ただこれは物理学を勉強してる人達がニュートンのプリンキピアを読んでないのはおかしい、みたいな極端な意見であり増田の言ってる事とは大いに違うし
あとそれを主張してた人が死んでしまったので批判はあまりしたくない
じゃあ、まずは数学や理論物理の専門書を翻訳する際に原典にあたる必要があるかと言う話をさせて貰うけど
数学や理論物理ではフランス語・ドイツ語・ロシア語辺りの本が英語に翻訳されて、英訳だけ読んだ専門家が各国の言語に訳す例なんて珍しくも無い。
皆が数学・理論物理の論理が完全に再現されているなら問題ないという立場だからこのような事態が起きている。
翻訳者だって訳す能力より専門分野に関する知識の方がずっと重要視されるし、論理的な構成に変更が無いなら文章の省略・追加・順番変更など平気で起きる。
あと最近の数学の専門書の話なんだが、日本語の本を英語に翻訳する際に日本語が分からない人が訳してる例なんかもあったりする。
訳者だって数式は別に分かるし日本語で書かれた数学の文は今なら機械翻訳通せば大体分かるからね。
主要な定義・定理・命題は著者の英語で書かれた論文と同じ分野内の英語の本見れば同じものが見つかるので
こんなやり方で訳しますよって提案に原著者はOKを出してしまう訳だ。
こうしてみると一般論として重訳は問題かと言うと全く問題視されない分野もあるという話になるので
一般論で主張するのは無理だよ北村紗衣さん、と言いたい訳です。
何が書いてあるか、誰が書いているか、の違いか|文学作品ならそら後者やろうけど、技術書や理論論文で後者重視したら権威主義への傾倒でしかないな
いや、文学研究でも「何が書いてあるか」です(「何が書いてあるか」を解釈する上で「誰が書いたか」という情報が必要な場合があるだけ)。たとえば、ピケティが英語で書いた論文なら英語から訳すべきで、ピケティがフランス人だからといってフランス語から重訳するのはおかしい。逆に、仮に著者がイギリス人でも、フランス語で書かれた本ならフランス語から訳すべき、そういう話です。文系が大事にしているのは「文章それ自体」であって、文章それ自体を忠実に原語から訳すことが重要である、というのが文系の考え方。
(だって、「オリジナルの文章」こそが我々にとっての生データですからね。もちろん完全にオリジナルなのは難しい場合が多いけど、なるべくオリジナルに近づける努力をすることは必要で、原文にあたるのはその基礎的な作業であって学部生とかの未熟な人でない限りは省くべきではないプロセスですよね、ってこと)
さえぼう氏側は「間違いが起こり得る」としか言わず、具体的にどこが「間違いだった」という指摘がないから、屋上屋を架す空論でしかない。具体的に誤訳だったという指摘、出版から随分経つけど今までにあった?
これはもう「具体的に間違いがあるから問題だ」ではなくて「重訳なのがけしからん」という話なので……具体的な実害の問題じゃなくて規範の話をしてるんですよね。ただ、その規範が他の分野の人たちに受け入れられていない、という状況。
たとえば増田は、ちょっとマニアックな事柄についての論文を有名な査読誌に投稿したことがあるんですけど、「よく調べてあるけど学術的インパクトが足りない(要は面白くない)。却下」という趣旨のやり取りを何度かして、もういっか、めんどいから載るとこに載せよ、って思って当時所属してた機関の紀要に無査読の論文書いたことがあるんですよ。業績欄には当然その論文を載っけてます(もちろん査読の有無は明記した上で)。で、この論文が形式上査読なしであることに特段の問題はないですよね。だって研究結果が間違ってるわけじゃないもの。ただ有名な雑誌に載るほど面白くないだけ。それでも、論文には査読がついていて当然、という人たちは「いや、査読なしだと間違った論文が載るリスクがあって、だから査読がないものは論文と認めるべきではなく……」って言いたくなるんじゃないですか? 「重訳だと誤訳のリスクが……」ってのもそういうことですよ。
物理学そのものではないですけど、いちおう、文系には科学史という分野もあり、そこでは物理学の歴史について原語を使った研究がされてます。たとえば、 isbn:4486021746 なんかは、ソ連時代の物理学をめぐる論争について研究した本で、がっつりロシア語の文献を読み込んでます(ネットで読める論文だと、DOI: 10.34336/jhsj.47.248_193とか)。外国の学者が書いたこの本 isbn:4815808090 も、英語以外の文献も読んでたような(この本は面白いので超オススメです)。アインシュタインはドイツ語で相対性理論の論文を書いたわけですからね(DOI: 10.1002/andp.19053221004)。もちろん、繰り返すようにこれらはあくまで「物理学を対象とした文系の学問」であって、物理学そのものではないので、「物理学では基本的に英語版からの翻訳」というのはそうなんだろうなぁ、と思いますが。
これ、医学系が人文系にIF要求するような無理筋を感じる 読者がやるのはピケティの研究じゃなくてピケティを踏まえた研究では
これメチャクチャ思いました。過去の査読云々の論争を思い出しちゃいましたよ( anond:20181009070341 とか、 anond:20181011090428 とか、このへんの話ね)。「翻訳するときは原典から訳すのが当然だろ!」「いや、別に重訳でも意味が取れてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取り、まんま過去の「論文は全部査読するのが当然だろ!」「ええ、別に無査読で載せても、後続の論文でしっかり吟味されてればそれでいいじゃん……」「出版のスピード感も大事だし……」っていうやり取りとソックリというか。増田は「なんで原典にあたるという当然のことを重要視しないんだろう……」って思っちゃうんですけど、理系や経済学の人たちも「なんで査読という当然のことを重要視しないんだろう……」って思ってたわけですよね。まあだから、あんまり自分野の基準で他分野にケチつけるのはよろしくないなぁと、自戒を込めて。
増田に書いたことは原文ママじゃなくて要約です。当たり前でしょ……(ほんとはきちんと細かく落とす理由を書いてあったけど自分の専門分野も出した雑誌の名前も言いたくない)。まあ「大意」とか「趣旨」とか書いておくべきだったかもしれないけど流石にこの文面見たら要約だとわかるっしょ? って思ったんですけど伝わらない人もいるんだなぁと新鮮な驚きを感じたので「趣旨」って付け足しておきましたわ。要約を鉤括弧で括ったこちらにも非はあるし。
だから丁寧に「有名な査読誌に出して面白くないからと蹴られた」話をしたんですけど伝わりませんでした? 間違いがあるとかじゃなくて、マニアックすぎてうちの雑誌に載せるには面白くない、っていう理由で却下されたんですよ。まさかそこに引っかかる人が出てくるとは。ちゃんと経緯は書いてあるでしょ。
でもまあ、反射で「査読ついてないなんてけしからん」って思っちゃうってことですよね。重訳もそういうことです。反射で「直訳しないなんてけしからん」って思っちゃう、っていう話。
わざと言ってます? それとも本当に読めてない? 「よく調べてあるけど」と前置きしたでしょ? 研究成果それ自体への疑義は査読者からは呈されていません。むしろ称賛されてます。その上で面白くないから書き直せってやり取りを何度もしたの(再投稿を可とするリジェクトだった)。何度か書き直して、ああこれは先方が求める「面白さ」と増田がこの研究に感じている「面白さ」が噛み合うことはないな、と思ったので再投稿せずに無査読紀要に載せることにしました。自分にとっては自明なことなので説明不足になっていたきらいはあり、そこは申し訳ないけど、もとの文章ちゃんと読んでくれませんか?
だいたい、研究成果の正しさはディジタルじゃなくて、「部分的には正しいが、しかし……」みたいにグラデーションがあるものでしょ。査読で100%の正しさが保証されると考えているならそれは大間違いですよ。増田の研究だって、研究手法と結論的に「正しいか、間違いか」なんてディジタルに言えるような研究じゃないっす。なので査読で「間違いだとわかる」なんてこともほぼあり得ない(資料の読解間違いとかはあるかもしれないけど、増田の論文が総体として「間違い」であることを示すには増田の論文と同程度以上の調査をし論文を書く必要があるんで、普通の査読じゃ「間違い」とか言えないはず。関連する資料を全部諳んじてる大家なら別だけど)。
そもそもピケティ先生は狭い学術ギルド内論文として書いたんじゃなく経世済民の書として世に問うたわけだから増田の話(や一部ブコメ)は大分ズレてるのでは。例えば「翻訳とか無駄で原本を参照汁」的な暴論との文字数
学術業界だけじゃなくて、一般書の方でも最近は「原語から訳すべき」という流れが定着しつつあったじゃないすか。スタニスワフ・レムも昔はロシア語からの重訳だったけどポーランド語からの新訳が出てるし、昔はフランス語経由で訳されてたイスマイル・カダレも今はアルバニア語から訳されてるし、バスク語やチベット語やイディッシュ語の文学が翻訳されてきたでしょう? そういう流れが出てきてたのに有名なフランス語の本を英語から重訳するなんて、というショックは当然ありますよ(だから私は『三体』も相当ガッカリしましたよ。中国語版には検閲が入ってる、と聞いて納得したけど。エーレンデュル捜査官シリーズの方は、重訳自体はもう仕方ないけど、頼む~~~せめて著者の名前がおかしいのくらいはどうにかしてくれ~~~って感じ。重訳のせいで著者の名前すらおかしな表記がされてるんですよね……)。時代を巻き戻す気か、と反射で思っちゃうのも無理はないです。
逆の話。Translationを文学メインのものとして考えてる、ってこと。
原典であるかどうかは本来研究者の研究に対する振るまいの話であって、翻訳がどういう投影なのかを含めての領域に含めるべきでないし、ましてや翻訳文化とかではない。
そしてTranslationはTechnical translationもあるしAudiovisual translation(たとえば聴覚障碍への対応としてのCCの生成)なんかも含めたものであって、Literary translationの話は翻訳のごく一部でしかない。
そもそもLiterary translationでもRelay Translationの扱いはここ15年でかなり変わってきた。
特にTargetが複数言語であるとき、権利者のAgentはAuthorizedなTranslatedなBase Textを指定したりして、Relay Translationをむしろ広範囲に要求したりすることすらある。
なんでかっていうとむしろ各市場で品質を揃えるにはそっちの方がよかったりするし、最も重要なのは出版時期だったりすることもあるから。
そもそもTranslationの品質指標はIndirect Translationかどうかではないので。もちろん品質基準としてISO17100に準拠してればいいって話ではなくてね。
つまりはIndirectかどうかが翻訳出版にとって重要って従前の主張がTranslationを自分の分野とは独立したものとして捉えられない文学至上主義だって話。
もちろんそれもあるけど、質じゃなくて規範の問題なんだよね。マトモな研究や翻訳は原典に基づいて行うべきだ、という規範。
ありていに言えば、「なーんだ、重訳なんだ」「えっ、重訳なの……?」と、重訳である時点で評価が二段階三段階は落ちるわけ。
なんだろうな、理系分野や経済学でいう査読の重みに近いかな。「重訳だけど正確な訳だし……」っていうのは、「査読されてないけど面白い論文だし……」って言われてるみたいな感じ。「まずは直訳」「直訳が困難な事情がある場合には重訳でも許容」なのよ。
だから、「ピケティの本を英語から重訳する」というのは、人文系目線では、「『エコノメトリカ』に載るレベルの論文を査読なし雑誌に載せる」みたいなもんで、ショボい研究ならそれでいいのかもしんないけど、ピケティでやっちゃダメだろ! って話になるのね。
ただそのへんの価値観が分野によって違うのはまあそうなんで、「いや別に査読されてないけど面白い論文だからいいじゃん……」と人文系の学者が思う程度には、「いや別に重訳だけど中身が合ってりゃいいじゃん……」と経済学の学者が思うのも正当だと思うよ。増田が説明してるのはあくまで「人文系での価値観」であって、それに他者が従うべき理由はないし。
本当に疑問なんだけど、日本にはフランス経済の専門家とかおらんの? 探せば日本のどっかにはフランス語を原典から訳せて経済学の知識がある人が絶対いるでしょ(フランス語はメジャー言語だ、って強調してるのはそういう意味もあるよ)。
ピケティの本が世界的な話題作であるなら尚更、フランス語と経済の双方に通じた翻訳者を探してくるか、それが無理ならフランス語からの翻訳を監修する経済学者を連れてくるべきで、重訳は最後の手段だろう、というのが人文系の感覚。「アイスランド語の推理小説」ならまあ重訳でも仕方ない(良いわけではない)けど、「フランス語の経済学書」だったら、日本にはフランス語の専門家は大勢いるんだから彼らに直接訳させろ、翻訳にあたって経済学の知見が必要ならフランス経済専門の翻訳者 or 翻訳を監修してくれる経済学者を連れてこい、というのが相場じゃないかなぁ。すげえどうでもいい本ならその手間を惜しむのもわからなくはないけど、世界的な話題作ならそこの手間はかけるべきでしょ、と思うよ。だからピケティを重訳で良しとする感覚がマジで理解できんのよな……(出版社にとっての経済的メリットはわかるけど、学問的にはメリット皆無でしょ)
結局、人文系にとっては「原典にあたる」ことがまず基本であって、翻訳は原典ではないわけよ。研究をするにあたって翻訳で済ませてよいのは、
場合に限られるんじゃないかしら。あとはよっぽど研究環境の貧弱な地方大学に所属してて碌な研究費ももらえず図書館も充実していないので原典を入手することができず、なおかつ信頼に値する翻訳があるなら、まあ翻訳で済ませるのも仕方ないかもしれないけれど、山形浩生はそんなに貧窮してるの? って話になるので。
(理論もすべて原典で読むべきか、はまあ微妙なところ。たとえばフーコーの思想を研究するのならフランス語原典を読むのは必須だけど、フーコーの「生-権力」概念をドイツ史研究に応用してみました! みたいな場合は、うーん、まあ研究の基礎となる資料をちゃんとドイツ語で読んでるなら理論は日本語訳でもいいかなぁ、という感じ。もちろん理想を言えばフランス語読むべきなんだけどね、それ言ってるとキリがないからね)
なお、元の話題に出てる北村紗衣は、「原典を読める文学作品については研究し、そうでない作品(ロシア文学とか?)については評論する」というスタンスであることをどっかで公言していたはず。研究はあくまで原典に依拠して行うもの、原典を読んでいないのは研究とはいえない、というのは、人文系研究者としては当然のスタンスだと思う。なんだろう、増田は経済学のこととかよくわからんけど、英語からの重訳を出されるのは、数学や統計学を踏まえずになされた経済学研究を出されるようなもんなのよ。基本のキができてないですね、問題外、って感じ。
このへん、文学研究と経済学研究とのあいだの感覚の違いだよねえ。
という感覚があるわけよ。したがって、
という結論になる。正直、こんなのどれも人文系研究者としては当たり前すぎて、反射で「いや直訳させろよ」って思っちゃう案件なんだよな。
ただこれは人文系が、文学作品とか、歴史上の人物の書簡とか、とにかく細かな原文のニュアンスを大事にする学問だからであって、経済学の人が「いや、細かなニュアンスが多少おかしくても、経済学理論が問題なく訳せてれば重訳でええやん……」って思う気持ちはわかるし、出版社が「文学作品ならともかく、こんな話題作なら、仕事が遅いフランス語の訳者よりささっと出してくれる英語の訳者に頼みますわ……」ってなるのもわかる。
外国文学の場合は、そもそも読者層が上に書いたような「人文系の論理」を内面化してる場合が多いから、多少進みが遅くても直訳した方が出版社の利益になるんだよね。「あの○○をちゃんと原文から訳してくれたのか!」って評判になるので。
このへんの制約が緩めなのはジャンル文学かな。『三体』もエーレンデュル捜査官シリーズも重訳だけど、みんな気にしてないし。エーレンデュル捜査官シリーズなんてアイスランド語の固有名詞表記がメチャクチャだけど普通に受容されてるからな……。ただこの2作に関しては、「『三体』中国語版は当局の意向で改変がなされており、劉慈欣の意向が反映されているのは英語版」とか、「アイスランド語はマイナー言語であり、『アイスランド語のミステリをコンスタントに翻訳できる人』はほぼいないので、重訳でも仕方ない、ないよりマシ」とか、そういう擁護論を組み立てることもできる(実際、ワイはこの理由があるので納得してる)。でもピケティはねえ……フランス語でこんな擁護は無理でしょ……なので北村さんが怒るのもわかるんだよね。
ブコメへの返信はanond:20221211132121で。
原典:https://www.tumblr.com/numberonecatwinner/701567544684855296/elon-wyd
私は何年か前SpaceXのインターンをしていて、そのころSpaceXは今よりずっと小さい会社だった。イーロンが植毛をしたのよりは後で、イーロンを個人崇拝するカルトが盛り上がるのよりは前のことだ。なので知ってることをいくつか語ってみようと思う。
私がSpaceXにいたころ、イーロンは基本的には子供の王様だった。彼は会社に金と権力とPRをもたらす大切な傀儡だったが、毎日の意思決定をするのに必要な知識や(率直に言えば)成熟した人格を持っていなかったし、そのことをみんな知っていた。彼の周辺の人々の仕事は、本質的には、まともな意思決定をするよう彼をうまく操ることだった。
イーロンを管理することは会社の文化の大きな部分を占めていた。私のような底辺のインターンでさえ、会議でそういう会話が大っぴらにされているのを聞けた。社員はイーロンが食いつくようにアイデアをプレゼンする方法を知っていたし、イーロンの気が狂っているとしか思えない要求をうまく再解釈する(もしくは無視する)クリエイティブな方法を知っていたし、更にはイーロンが気に入るようにオフィス内を「演出」する方法も知っていた。
記憶にある一番面白い「演出」の例は、あるITセキュリティ部門の社員だ。彼は自分がコンピューターで何かすごいことをしているように見せるため、モニターの一つでマトリックス風のランダムなでたらめな表示をし続けるスクリプトを走らせ続けていた。二番目に面白かったのは、遅くまで働いているように見せようと午後5時以降にオフィスでWorld of Warcraftをプレイしていた社員たちだ。
SpaceX社員がこういうことをしていたのは、宇宙に進出するという社員にとっても重要な仕事のために、イーロンが金(と誇大広告)をもたらしてくれるからだ。会社はイーロンと一緒に大きくなったし、イーロンの周囲の組織も大きくなった。イーロンと末端の従業員の間には、何層にもなるマネージャーの組織が存在したし、彼らは経験豊富なイーロンの管理者だった。繰り返しになるが、社内の文化のどれほど多くの部分がこの一人の男をうまく管理するために捧げられていたか、どれだけ強調してもしすぎることはできない。
Twitterにはこれらの要素が存在しない。Twitterにはイーロン・マスクを管理するという問題に対処するための社内文化も組織も存在しない。私が思うに、部下がこの男の言うことを真剣に聞いてそのまま行動するとどうなるか、おそらく我々は初めて目撃しているのだ。更に悪いのは、このちょっとした実験が、この男が数十年に渡って自分の複数の会社でうまくやってきた後で起きていることだ。これらの会社では、社員が自分たち自身をこの男から守るためにかなりの労力を費やしてきたのだが、この男はあまりにナルシシストなのでそのことに気づけないのだ。
長い投稿になったのでついでにイーロンについてお気に入りの話をしよう。ある日会社で、今日はイーロンの誕生日なので強制参加のサプライズパーティを食堂で行うという一斉送信のメールを受け取った。おそらくイーロンも同じメールを受け取ったと思うのだが、ともかく、我々は食堂に行って照明を暗くして待っていた。イーロンは(まだクビにしていなかった)秘書につれられてやってきて、私たちが待っていたことについて嘘の驚きと感動を大げさに表現した。そしてケーキが運ばれてきた。
ここで、あなたが今までに見た中で一番大きなペニス型のケーキというものを想像してみてほしい。奇抜な性的なケーキの王様といったやつだ。ただし、それは砂糖で白く覆われていて、きんたまの部分は炎と煙に見えるような模様になっている。これがイーロンの「ロケット」誕生日ケーキだ。
生きている限り、あの場にいた人々の表情を私は忘れないだろう。ほぼ男のエンジニアばかりの暗い室内で、イーロンが願い事をしながら先端にナイフを入れた瞬間を。