はてなキーワード: ポカホンタスとは
ポカホンタスはネイティブアメリカンなのに日本人の蔑称にされててかわいそう
togetterコメント欄では途中で気がついた人が現れて流れが変わったが、多くのブクマカはついに見抜けずかわいそうな二番目のツイートをバカにし続けていた。
このまとめは一見、一番目のツイートに見当外れなリプライで論点ずらしをしている二番目のツイートというように見える。
だが真相は異なる。
これが二番目のツイートだ。https://twitter.com/hashitan/status/1179742494973517825
リプライではない。
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ここのtogetterコメント欄であぶらな @ab_ra_naが丁寧な反論をしているのでそちらを見てほしい。
簡単に言うと、急増とは言っているものの実例が実例としての用をなしておらず、統計なども挙げていないまとめ。
https://www.j-cast.com/2016/09/19278381.html?p=2
こうした「シャリ残し行為」を、店舗側は把握しているのか。9月16日にJ-CASTニュースが大手回転すしチェーン3社(「かっぱ寿司」、「くら寿司」、「元気寿司」)の担当者に取材したところ、各社とも口を揃えて、
といった内容の回答が返ってきた。
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腐女子が各々好きな服を挙げていくまとめだが、togetterコメントもブコメも「童貞と腐女子は対になる存在ではないのでは?」という点にばかり執着している。
しかしそれはまとめられた面々よりもまとめ主に言ってほしい。
togetterの風潮の一つに、まとめ主の意見ではなく「晒しあげ対象の馬鹿な発言」をそのままタイトルに持ってくるというのがある。
若い人には想像つかないかもしれないけど、昔はね、女一人で温泉宿に泊まったら同じ宿の男相手に売春するつもりだって疑われて泊まらせてもらえなかったんだよ。
これではまるでまとめ主が温泉宿を売春の場だと主張しているようで紛らわしく非常に嫌いではあるが、まあ一歩譲って良いとしよう。
さて冒頭のまとめ。
初めちらっと流し読みしたとき、「このタイトルだと"温泉街とは、負の文化遺産だ"がまとめ主自身の言葉に見えるから"北原みのり「温泉街とは、負の文化遺産だ」"に変えたほうがいいのでは」と思った。
じっくり読んでみると、案の定中身は温泉宿を負の文化遺産だと言っている北原みのりとそれに対する多数の反論ツイートとまとめ主自身のかなり過激な煽り文、ではなかった。
…
…北原みのりは「負の文化遺産」なんて一言も言ってないやん!!
まとめ内を「負の文化遺産」で検索してもタイトルしか引っかからない。「負」も「遺産」も言ってなくてせいぜい「買春の温床文化」だけ。ツイートが削除された跡もなかった。
(一応Twitter検索もしてみたがやはり負の文化遺産とは言ってなかった。個人的には仮に本人がそう言っていたとしても、まとめ内に入っていないのならまとめ主の不備ということでいい派だが)
なんのことはない、「温泉街とは、負の文化遺産だ」とは正真正銘まとめ主自身の言葉だったのだ。
togetterにこの旨をコメントしてみたらまとめ主に消されたしタイトルも変わっていなかった。
ここでタイトルを"北原みのり「温泉街とは、負の文化遺産だ」"にするとデマになってしまって訴えられたときに危険だが、冒頭まとめのようにすればそれを回避しつつ実質的には人の発言を捏造できるから変えないということだろうか。
でもあれだけ過激な煽り文を書くまとめ主がそういうところ気にするか?
こういうのもある
togetterコメント欄では途中で気がついた人が現れて流れが変わったが、多くのブクマカはついに見抜けずかわいそうな二番目のツイートをバカにし続けていた。
このまとめは一見、一番目のツイートに見当外れなリプライで論点ずらしをしている二番目のツイートというように見える。
だが真相は異なる。
これが二番目のツイートだ。https://twitter.com/hashitan/status/1179742494973517825
リプライではない。
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
「ポカホンタス」って一種のナショナル・ヒーロー(ヒロイン)じゃないの?
それを他民族である日本人女性に対する蔑称として用いるって本当に最悪だしネイティブアメリカンに対する差別とも捉えられると思うんだが。
ポカホンタスは海外に住んで現地の男に少し相手にされた日本女が調子に乗って「日本人は駄目でー欧米はすごくてー」をしつこく繰り返すから、そういうのを馬鹿にする意味でつけられた名前だ
伝説上の人物であり、ディズニー映画のヒロインの名前でもある『ポカホンタス』の名を、
外国人男性と付き合う日本人女性の髪形や顔立ちに対する蔑称として用いる風潮があるようだ。
え、そうやって人の髪形や顔立ちを笑いものにするの?ドン引きする要素しかないんだけど。
いや本当に酷過ぎる蔑称で、こんな言葉を使う人がいるだなんで驚いたんだけど。
で、さらに驚いたのは「ポカホンタス 蔑称」をTwitterで検索した結果。
この邪悪そのものの蔑称を「好き」だの「秀逸」だのと言っている人が多数存在した事だ。
いやーー、びっくりした。こんな露骨な容姿叩きを「好き」とか言える人間が存在したとは…本当に最悪で吐き気がするんだが。
それも5ch何かの匿名掲示板じゃなく、Twitterで堂々と言えちゃう神経。
一体どこが面白いんだよ。何一つとして笑える要素がないんだが。他人の容姿を笑いものにし、よってたかって面白がるという醜悪なミソジニーの発露。
別に複合姓を選ぶ人の配偶者が白人とは限らないが、東アジア系は別姓が基本だから複合姓わざわざ使う人は少なそう
あと外国人女性と結婚した男性で、ポカホンタス山田太郎みたいに名乗ってる人もいるので、女はどうせ・・・みたいな増田が想定してる典型例には当てはまらないよ
有名な例で言うとクルム伊達公子は複合姓だったよね。あれはべつに増田がいうみたいに私は白人と結婚したのよと自慢したかったわけじゃないと思うがどうよ?
違う違う、ほんとわかってなさそうだから説明すると、「ポカホンタス山田」って姓になるんだよ。「ポカホンタス」じゃなく。
そこまでわかってないとは思わず不親切でごめんね。
寂しさを感じたのでなんとなく始めて半年経った。そろそろ飽和したかなと思うので引退。
人とのコミュニケーションはそれなりに楽しめたが、刺せないレベルの顔面なので、実際交際には繋がらなかった。
・30代前半男
【Pairs】
・マッチしたのは150人くらい、実際会ったのは5人
・オタク趣味や、リアルでは好きな人が少ない趣味の会話ができる人が見つかり楽しめた
・落ち着いている、感じのよい人が割合多かった。公務員とか多くて陰キャとしては居心地がいい
・ディズニー好き多すぎて辟易した。どの女性も変わり映えしなく話題に困る
・ここ最近中国系のサクラと思しきプロフィールが増えてきた(年収1000万とか、プロフィールの整合性とかに違和感がある)
・挑戦した中では一番使いやすかった
【Tinder】
・マッチしたのは50人くらい、会えたのは0人
・1日に飛ばせるいいね数が多い
・マッチしても帰ってこない
【タップル】
・マッチしたのは50人くらい、会えたのは0人
・いいねするにもパスするにもカード(1日に20枚配布される)を消費する。
・そのくせ同じ画像を使ったプロフィールが3連続出てきたりする。3割くらいはサクラだなと感じた
・使い勝手がひどく悪い
【Bumble】
・海外駐在している友人に勧められた。海外ではポピュラーらしい
・海外志向の女性が多く、ネットでいわゆるポカホンタスと言われる系統が多い
・地方都市では使っている人がいない。検索範囲を100kmにしてようやく見つかる
・首都圏ではそれなりに賑わっているらしいから引っ越したらまた挑戦してみたい
以上。
一人が好きで友達付きあいも多くないので気づかなかったけど、案外コミュニケーションって面白いなと思えたのが一番の収穫。
あとはこんなこと言ったら怒られそうだが、自分とは生活圏が違う人の存在を感じることができた。
これまで出会ってきた周りにいる人がそうだから、大学を出て、総合職として務めて、出世を目指して、
というのが普通だと感じてしまっていた。本当はいろんな仕事があって、いろんな人生の送り方があることに気づいた。
それは反省すべき点だと思った。
リアルでの関係性を深められないことが悩みだったけど、メッセージと電話ベースのやりとりは続いたのでコミュニケーション力には
支障が無いなという自信が持てて、受け入れてもらうためには外見を見直せばよいのだなと思えるようになった。
チー牛、ポカホンタス、午後の紅茶、「○○してそう」、「公開処刑」、いろいろあるけど。
正直ベースの話としては、ルッキズムは不可避なんだよな。誰がどう見ても一定レベルまでは共通の美醜価値観は存在するわけで、それに基づいて面接や婚活が有利になったり、それをウリにした商売の売り上げが左右されたりする(ある程度から先になると好みが分かれるけど)。だから極力、できる範囲でその「美への意思」を我々は持つ。力への意思みたいな。顔を洗い、ヒゲを剃り、姿勢を正す。
美醜の話題をしていない、というか美醜と無関係なTPOなのに美醜の話を持ち出すとダメみたい。
ポリコレ棒で殴る話題のようにも見えるし、TPOを誤った失敗の話題にも見える。どのような見方をすればいいんだろうな。
オタクもポリコレ棒を手に持って戦ってもいい時代になったんだなあ。俺もその棒を持って戦うべきか、静観すべきか。(これは半分皮肉で半分言葉通りの複雑な気持ち)
いずれにせよ、事実としてオタクの政治力の拡大を象徴する現象だと思う。それはそれで感慨深い。政治力がなければ、ポリコレ棒を手に取ることすらできないですからね。
もっとヤバイのは科学的事実や医学、統計的事実として「こういうルックをしてる人間はこういう傾向がある」があったりもするのが闇なんですわ。ヤバすぎておいそれと言えないですが。不都合な真実・・AIによる画像認識でその辺の鱗片が見えたりしてますね。
https://dic.pixiv.net/a/%E5%85%AC%E9%96%8B%E5%87%A6%E5%88%91
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ポカホンタスをアメリカ開拓期と言ってしまうと、合衆国建国後の19世紀の西漸運動期と誤解されないかな。
ディズニーのポカホンタスは、先の英国女王エリザベスに仕えたウォルターローリー卿命名のヴァージニアの地に植民すべく、英国人ジョン・スミス一行が北米に上陸し、時の国王にちなんでジェームズタウンを建設した際のエピソードをもとにしている。
アメリカのとある少女がメガネのディズニープリンセスがいないことを残念に思い、自らメガネのプリンセスのお話を作ったという。
それに対して多くの意見が交わされたが、そこに「誤解」が一部見受けられた。
ディズニープリンセス=全て中世の人物
そう思ってる人のなんと多いことか!
たしかにファンタジーと言えば中世であるし、初期プリンセス(オーロラ姫は14世紀であるし)はその通りである。
ポカホンタスはアメリカ開拓期の人物である。プリンセスと魔法のキス(ディアナ)は1920年代のニューオーリンズである。
またあくまで説ではあるが、アナ雪は19世紀あたりの時代設定らしい(「自転車」というワードがあるので)。
プリキスの時代にはメガネは確実にある。むしろ通行人含めて誰もかけてない方が不自然である。
よってメガネのディズニープリンセスがいないのは、時代設定の問題ではない。むしろその気になれば矛盾なく出すことは可能だ。
少女の要望に対し、ディズニー社は未だ返答していないという。子供の夢を壊さないためにも、ディズニー社には是非ともメガネのプリンセスを出して欲しい。
(余談:メガネのディズニー主人公は既にアトランティスのマイロがいるので、やはりプリンセスだけメガネの子がいないのは不自然)