はてなキーワード: タブーとは
自分は出身大学で何を専攻していたのか聞くのが好きだ。その大学のホームページをみたりしてカリキュラムやキャンパスライフの情報を知るのが楽しいから。こんなジャンルがあったんだ!と新しい発見になったりして、そのジャンルの本を読んでみたら楽しかったという経験をしたことがある。貴重な情報だと思う。
でも学歴的な話はするなという風潮がある。自分は普通の中堅私立大学卒なので言ってもプラスにもならないし、まさに毒にも薬にもならないというやつだ。でも専攻していた機械工学の話をするのは好きだ。それぞれ色々な分野で学んだ人達の様々な経験を聞いて学びたいのだけど、大学の話をするのは嫌な人が多いのかな。ちょっと残念になる。
みんなは大学の話をするのはどうですか?
結論から言うと「政治に関わると問題を起こすような人間になる(と世間一般が思っている)から」じゃないかと思う。
桂秀光とかいうアホの選挙カー騒動で政治家のキチガイさの欠片が露出したが
そいつが暴れる前から政治に関わる人間のキチガイさはもういろんな騒動、スキャンダルでわかりきっている。
ていうか問題を起こす前に露骨にキチガイなのがいたりする。死体蹴りするわけではないが、又吉イエスとか。
そもそも人類の歴史で政治に関係してきた人には人間社会を前進させた者もいるが、とんでもない黒歴史を作り上げた人間もいる。
北朝鮮の金一族も該当する。現在進行形でヤバイことしかしてない。あとトランプもまあ似たようなものか?
何らかの思想に染まっている人間同士がひたすらネットでもリアルでもぶつかり合っている。
ぶつかり合いで言うなら国会なんてヤジが止まらない、ディベート的なまともな討論になってすらいない「戦場」だ。
そんなのはたから見てたら「うわ…」と引くしかあるまいて。争いは第三者から見たときが一番醜い。
日本じゃそもそも政治に関係する話をすること自体タブーの一種だから余計政治に関係する人はイロモノに見えてくる。
ていうか政治の話がタブーな時点で日本は政治に関係するヤツはキチガイっていう持論がいつからか出来てきたように思えてきた。
政治経済くらいは結構ニュースを見るのにタメになる情報が多いし学習しておいて損はないとは思うが、ここまで政治関係にキチガイが多いと
ちんちん電車というあだ名は路面電車がちんちんという警笛を鳴らしていたことに由来するそうだ
よって単純に考えれば、路面電車がまんまんという警笛を鳴らすようにすればまんまん電車は実現することになる
まんまんという警笛が実際にはどのような音であるのかは私には想像することができないが、これは現代の技術水準からすればクリア可能であると思われるので、あまり悩まなくてもよいだろう
何なら「まんまん」という声を録音してそれを警笛として鳴らすようにするという最低水準の解決策もある
しかし我々の規範意識からすると、日常生活において、男性器に関する言葉を発することに比べると、女性器に関する言葉を発することはためらわれる傾向がある
あだ名というのは我々の意識の感覚的な領域から生み出され、それが共有されることによって社会的に存在し得るものであるので、まんまんという日常的に発しにくい言葉をあだ名として定着させるのは難しいだろう
したがって女性器についてのタブーを我々の意識から開放することも必要だ
ただしこれは生身の人間同志が直接相向かっている場合の意識の話であって、向こうには生身の人間がいるということをあまり意識しなくても済む、すなわち規範意識の弱まるインターネット空間内などではその限りではないかもしれない
仮にまんまんという警笛のなる路面電車が実現すれば、下ネタの通用する身内での集まりなどを除くと、日常で一般的にまんまん電車というあだ名が広まることは、現在の規範意識が残存している限りは可能性は低いだろうが、特に匿名性の高いインターネット圏域ではまんまん電車というあだ名が広まることは十分予想される
息をするかのように絵を描き、ゲームをし、漫画を読みアニメを見るような生活をしてきた。
pixiv歴は9年、Twitterのアカウントも作成しては潰してを繰り返してはいるが、初めてアカウントを持ってから6年が経過した、一般的なオタク兼絵描きだ。
ただ、どんな時もオタク兼絵描きとして生きていて楽しいことはほとんどなかった。厳密には人と関わって楽しいと思えたことがなかった。
今、本当にオタクや絵描きである意味を見い出せないほどに楽しくなくなってしまっているので、整理の意味を込めて自分語りをさせてほしい。
小学校では教室で絵を描いても、どの学年のクラスにいても1番にはなれず、いつも2番かそれ以下だった。
パッとすることもなく遠足のしおりの表紙を任されることもなく、1番絵の上手い子がちやほやされる姿を眺めては羨む日々が続いた。
中学校では「クラスという狭い世界でも1番なれない私は、相当絵が下手なのだろう」という自覚も持ち、イラスト部のような部活はあったが入部することはなかった。
高校に入る頃には某マイナーゲームシリーズを主とするTwitterアカウントを作った。
メジャーなアニメや漫画も好きではあったが、自分のような低い画力ではそのような世界では淘汰されてしまうという自覚が十分にあり、その上そのマイナーゲームシリーズは物心がついた頃から家族の影響で好きだった。
狭い世界で古参な方であったので、まずそれだけでマウントが取れると踏んだのだ。
予想は当たり、数年はイマイチな画力でもちやほやされる日々が続いた。
私が何かしら絵を描けば相互達がある程度のふぁぼをくれる。ゲームのステージ構造や音楽に関する深みを持たせたツイートをすれば空リプやふぁぼをくれる。気分のいい日々が続いた。
ただかなり古いシリーズであったので、再熱と飽きで人の出入りが激しく、たまにいわゆる「神絵師」のような人も現れた。
古いゲームなだけあって古参が新参が、という話が盛んに行われる界隈であったので、そういう話はタブーであることは分かっていたが、ハマって数ヶ月の神絵師がその界隈で大きな波を作り出すのを何度か目撃した。
神絵師が擬人化を好めば擬人化が流行り、あまり人気のないキャラを好めばそのキャラが神格化された。
私は正直、激しく嫉妬した。
この人はゲームシリーズを全作やってないではないか、シリーズの中でたった1作やってイラストを描いただけで大きい顔をしないでほしい、といったどす黒い感情が渦巻いた。
結局2年経たない内に妙な輩に絡まれ、それを理由にアカウントを消した。
その輩も不快ではあったが、それよりも界隈で波を作り出す「神絵師」を見ているのが辛かった。今思うと被害者面してアカウントを消す理由と機会がただ欲しかっただけだと思う。
それから約半年、私は某アニメシリーズのとあるAというキャラに本気で惚れた。
それまでゲームやアニメを嗜んではいたが、特定のキャラクターに入れ込むことはあまりなかったため、大きな衝撃を受けた。
ただ、それとほぼ同時に自分の性癖の異常性にも少しずつ気がついた。
Aが洗脳されている姿が見たい。
Aが痛がる姿を見たい。
Aが致命傷や後遺症を負わない程度にあらゆる手を使って痛めつけてやりたい。
いわゆる「精神リョナ」というものだと、しばらくしてから理解した。
その性的趣向に嫌な予感と前述の苦い思い出もあり、すぐにTwitterアカウントを作ることはなかった。
しかしそのキャラにハマって半年ほど、できる限りイラストの腕を磨きペンタブレットの扱いに慣れ、そのジャンルで流行っているものに媚び、溜めに溜めたイラストまとめのようなものをpixivに投稿したところ、予想以上の反響を得た。得てしまった。
気分が良くてたまらなかった。
同時に、「今ならあの時の神絵師たちのように、私の趣味趣向で界隈に波を起こすことができるのではないか。私が好きなもので界隈を満たすことでできるのではないか」と妙に高い理想を抱いてしまったのだ。
それから少しした頃、そのAがいるアニメを主としたTwitterのアカウントを作成した。
できる限り周りの空気に媚び、私自身の趣向を出さず、ふぁぼやRTにより私の存在を知らしめるために絵を描いた。イラストや漫画のRTが多めな絵師を中心にフォローした。
ツイートもそのアニメの話題で徹底し、他の話題や自分語りをすることも控えた。
客観的に見て私の画力はそうでもないが、そういうことを続けているとアナログで適当な落書きを描いても100ふぁぼはもらえるようになった。
その頃に界隈の流行りと自分の性癖半々くらい織り交ぜた、オールキャラギャグ本を自身初の同人誌として出したが、完売させることもできた。
こうして私の実力が全てでない、媚びによって得た数値と実績による自意識とプライドが着々と育っていった。
同人誌を出した少し後くらいからであろうか、私は自分の趣味趣向を全面に押し出してイラストや漫画、ツイートをするようにした。
媚びた絵よりも数値は減るがふぁぼやRTをしてくれる人も多くいて、正直投稿は不安ではあったが予想よりは上手くいった。
ただ、私の絵(性癖)に便乗してイラストが描かれることはおろか、そういったツイートや私のイラストに対する言及や空リプも見られなかった。
私は悔しかった。あそこにあるふぁぼやRTは惰性に近いものでしかないのだ、と思ってしまった。やり口からして勿論なのだが。
そして、引かれているだろうな、とも思ってしまった。それまで好きだった相互の方々にも、ツイートを読むのが辛くなるほどの疑いを不安を抱くようになってしまった。
私の中の冷静な部分は「そりゃそうだ、精神リョナなんて倫理に抵触する趣向広まらなくて当然だ」と思えているのだが、私の拗らせた部分は「なんで流行らない?擬人化の方がキツイでしょ。他の人の性癖を歪めることもできないなんてこの絵公開してる意味ある?」と思ってしまう。
私には波が作り出せないことが、あの羨んだ神絵師たちの足下にも及ばないことが自覚できてからは、自分の趣味趣向が急に恥ずかしくなり、FFの極端に少ない身内アカウントに引きこもった。
結局は私の実力不足と、歪んだ自意識とプライドが悪い。分かっている。
Aに対する熱意や、自分の趣味趣向に刺さる創作物を見た時の衝迫を、自分に表現して他人を揺さぶる画力や魅力はない。
他人を揺さぶらない創作になんの意味があるのだろうか?だったら絵なんて公開しないでパソコンのファイルの中で腐らして、自分だけが眺めている方が幸せなのではないだろうか?
最終的に私の趣味趣向を認め、同意し、同じ熱量で盛り上がってくれる仲間がほしい。
私だって趣味趣向の合う仲間とオフ会がしたいし、Skypeだってしたいし、趣味から知り合った仲間とプライベートな話がしたい。
人とオタクとして接することが楽しいのは中途半端に知っているので、私が理想とする仲間とオタクとして楽しく生きたい。
そういう界隈を自力で作り出そうとしたのが失敗だった。
そして画力がそうでもないまま大人になってしまったのも失敗である。
イマイチなままで固まった画力と無駄に高いだけのプライドと自意識をもって絵を公開して、何が楽しいのだろう。
何も楽しくないに決まっている。
Twitterで絵を描くようになってからというものの、評価と評価をくれる人々の動向にばかり目を向ける癖が付いてしまい、私一人で何をすれば楽しいのかわからなくなってしまった。
絵描きなんて趣味やめた方がいいんだろうな、私には向いてないんだろうなって、今はそう思うのです。
実力不足を痛感してとても悲しいです。
お目汚し、失礼致しました。
キズナアイがNHKのウェブサイトにおいてノーベル賞の解説記事に登場しておりましたが、そのことをきっかけに、千田有紀氏などが指摘をし、さまざまな方面から千田の議論に対する批判が寄せられ、さらには社会学そのものに対する批判もされているところです(これらをキズナアイ論争と呼びます)。
ですが、そのざまざまな批判を読んでいると、「これって実はコミュニケーション不足で、伝わっていないんじゃない?」と思うことが多くなりました。いろいろあって社会学を学んだ人間として、それはちょっと悲しいなという思いがあったので、千田氏の問題提起をちょっと分かりやすくお伝えできればと思います。
筆者は、社会学で修士号を得ています。今は大学から離れているのですが、離れてそう長くはありません。専門は千田とも重なる領域(家族やジェンダー)もありますが、教育やメディアでした。
あくまで、千田の問題提起がどのようなものに基づいて行われているのかを解説するもので、その意見の妥当性とかは議論しません。私個人としては、千田の立場に立てば理解でき一理ある議論ではあるが、だからといって、それは多くの人の理解を得る話法ではないし、その背景事情を一切踏まえていないのは、学術的に一定のポジションにある人のする作法としては疑問を感じているというところです。また、千田の学術的貢献はいろいろな批判があるようですが、私は一定程度は評価しています。
なお、アカデミックの作法は基本呼び捨てですので、ここでも、基本千田として書かせていただきます。
キズナアイ論争のはじまりは、千田の投稿記事です。https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/]
ちなみに、現在(10月13日)、追記もなされており、社会学者にはそれなりに分かる文章にはなっているのですが、一般の人はなおのこと分かりづらいことになっています。後に公表された、『「表現の自由」はどのように守られるべきなのか? 再びキズナアイ騒動に寄せて』記事による補足を踏まえて、まず、千田の議論の要点をまとめてみましょう。
(1) キズナアイはNHKの解説記事において「相づち」をする役割となっている
(2) 「相づち」をする役割は、従来から女性が担ってきた役割である
(3) 従ってキズナアイの解説記事における役割は、従来の女性が担ってきた役割を担っていることになる
(4) そのことは、理系と呼ばれる分野で活躍する女性などに対して、好ましい状況を生むようなものになっていないのではないか
というところに整理できるかと思います。
社会学、特にジェンダーやフェミニズムを学んだ人だと、この4つの間を頭の中でこうかな?と繋ぐわけですが、普通の人はフェミニズムを体系立って勉強するわけでもないと思うので、「はて?」となるわけです。更にいえば、一つ一つの要点が「え?!」という感じになるかと思います。
千田の議論を理解するためには、とりあえず(1)は正しいものとして引き受けておいてください。そこが正しくないとなると、そもそも議論の前提が崩れてしまい、議論はそもそも成立しなくなってしまうので、ご理解ください。
千田議論を理解するためには、いくつかの知識が必要となります。一つは、千田の専門でもあるフェミニズム、もう一つは会話分析というものです。順に簡単に紹介しておきましょう。
社会学は、社会を対象とした学問です。といえば、早いのですがそれではよく分かりませんよね。社会学は、社会がどのように成り立っているのか、つまり、社会の秩序はどのような形で形成されているのかを探求する学問です。例えば、古典的な社会学、特に日本の戦後の社会学では「農村」が特に注目されました。農村における人々のネットワークや、家族の在り方、そういうものに関心を持っているのが社会学です。
フェミニズムを正確に定義することは困難ですが、フェミニズムを雑にまとめると、「女性の地位を向上させようとする取り組みであったりそれを支える理論」というような言い方ができると思います。歴史的には大きく2つのターニングポイントがあったとされています。それが「第1波フェミニズム」と「第2波フェミニズム」です。
第1波フェミニズムは、1900年代ごろ、19世紀から20世紀へ移りゆくタイミングに起こりました。西欧諸国で主に婦人参政権を獲得する運動が中心に展開され、1920年代にはイギリスやアメリカで実現をすることとなります。(ちなみに、日本はというと戦後に婦人参政権が認められるようになるのですが、新婦人協会や青鞜社の運動は同時代の運動です。)
第2波フェミニズムは、1960年代頃、社会運動が盛んになった時期に、女性らしさへの問い直しが運動として行われます。代表例ではキリスト教社会では長らくタブーとされていた中絶の合法化が挙げられます。また、この時代には女性が自らの自由に性を語るということが積極的になされるようになります。
いずれにせよ、その理論的根底には、女性は男性と同等の状況にないという認識に立っているということがあります。
第1波フェミニズムで焦点化されたのは、法律や社会制度というものでした。第2波フェミニズムはというと、法的制度は平等であっても、職場ではお茶くみに甘んじてしまっているし、男性と同じように性を語ることはできないというような、日常の性差別に特に焦点を当てていくようになるわけです。
現代は第2波フェミニズムの延長線上にあります。#Metoo運動を始めとして、第3波フェミニズムがやってきているというような主張も時折みるのですが、第2波フェミニズムより後のフェミニズムの運動について、多くの社会学者が納得しているような分類はまだ確立していないのが現状です。
上野千鶴子の理論などを理解する上で重要なキーワードが、マルクス主義フェミニズムです。そういう立場だと、だから上野千鶴子はそういう立場なのね、と理解できます。千田議論もとりあえず、マルクス主義フェミニズムで解釈すると、理解がしやすくなると思いますので、こちらを説明します。
(フェミニズムにはさまざまな立場があります。ラディカル・フェミニズムやリベラル・フェミニズム等です。フェミニズムも一枚岩ではないと、理解しておくと良いでしょう。)
マルクス主義フェミニズムとは、先ほど、フェミニズムが女性は男性と同等の状況にないという認識に立っていると説明しましたが、そのような社会状況を生み出しているのは、今日の資本主義社会システムなのであるといいます。で、これを理解するためには家父長制というキーワードを理解しないといけないのですが、本題より長い解説になるので、そこら辺は上野千鶴子の『家父長制と資本制』をとりあえず参照してください。
(上野理論を厳密に言うと、上野は、従前のマルクス主義フェミニズムは教条的であるということで、それを乗り越える必要があると、主張をしています。)
シンプルにいってしまいますと、そのシステム(資本制)の成立と密接に性差別を生む家父長制制度が続くため、性差別は再生産(半分マルクス主義用語ではありますが)されていくということになります。
会話分析というのは読んで字のごとく、会話を分析するというものです。まずは、社会学で会話分析がなぜ重要になってくるのかをエスノメソドロジーというワードを使って説明したいと思います。そもそも、社会学は社会秩序はいかにして可能かを明らかにする学問です。そこで出てくる問いの一つにこの社会で生活を営む人びとがやっていることを、研究者はどのように理解できるのかという問題です。
この問題に答えたのが、ガーフィンゲルという人です。ガーフィンゲルはエスノメソドロジーという手法を提唱しました。エスノメソドロジーというのは、日常で生活している人々が言動をどのように理解し、成立させているのかを、日常で生活している人々の視点に立って記述するという手法です。
エスノメソドロジーは、私たちの当たり前が、いかに「うまいこと」成立しているのかを見せてくれます。例えば次のような実験は非常に有名です。
A 「いや、元気かどうかってことだよ。」
B 「元気かどうかって? どういうこと?」
こんな調子で話されると、本当に調子がおかしくなりそうですが、こういう実験をします。ここで浮かび上がってくるのは「調子」という言葉が、体調や近況を意味しており、それをお互い分かっているという「期待」をもって、Aは会話をしているということです。このような形で、秩序が形成されており、それらは記述可能な形で示すことができるとするというのがエスノメソドロジーです。
会話分析の多くはこのエスノメソドロジーの考え方を踏まえて行われます。つまり、先ほどの会話のスクリプトのようなものを読んで、そのなかで、AとBはどのような「期待」をそれぞれ持っており、そこにどのような秩序があるのか? ということを考えているわけです。
冒頭で、千田議論を強引に4点にまとめました。ここまでの道具を用意すればある程度説明ができます。それぞれの項目ごとにみていきましょう。
そもそも、実在の人物は「先生役」とNHKのサイトでも記載がありますように、ここで想定されているのは「先生」と「生徒」というコミュニケーションです。したがって「生徒役」となるキズナアイは基本的に「相づち」をする役割に当然のことながらなるでしょう。そもそも「生徒」の方が詳しいというのなら、「先生」が「生徒」の役割を担うことになるはずですし、「先生」と「生徒」という形で双方「期待」をもっていることは分かります。別にこれが、男子生徒であろうと、まあこういう会話になるだろうなという感じではありますよね。
これは、先ほどのフェミニズムの議論が役に立ちます。お茶くみとかの補助業務に当たっていたということは、先の説明でもしましたが、今日でも、「相づち」をする役割は、女性となっていることが多いです。例えば、新春の、一体誰がみるのかよく分からない県知事が語る!みたいな番組がありますが、あのとき大抵女性アナウンサーが話を聞いたりしていないでしょうか。このとき、女性アナウンサーは、多くは男性である知事に対して、その発言がしやすいようさまざまな配慮をしながら、質問を重ねていきます。
そこでは、主役はあくまで知事です。アナウンサーが主役となって、知事をいじめていくというような内容になっていないでしょう。これが、でも、田原総一朗との対談だったらどうでしょう。一気に様相が変わってきますよね。また、地元財界と知事の対談だったらどうでしょう。そこに「相づち」はあっても、「相づち」をする役割を知事の対談者は決して担っていないと思います。会話の主体になっているわけですね。地元財界の人が女性でも、この場合だと「相づち」の役割はまあしないかと。
ここでポイントになるのは、知事が一方的に語るというような形式を取る時には、女性アナウンサーがその役割を担うことになり、他方、双方共にしゃべる場合には、女性の活躍機会が途端に減ってしまうというということです。これは、私たちのイメージレベルでも大体共通しているのではないでしょうか。(もちろん、個別具体で違う話も多く、徹子の部屋の黒柳徹子をどう評価するかは難しいところですが。)
もちろん、これは、女性が知事と同等の立場や役割を担っている機会が開かれていないから、そのようにならざるを得ないという側面も当然ありますが、男性アナウンサーがそうそうなっていないということは、一つこのことを証明するものであるとも言えます。
(「相づち」をする役割も高度な役割であるということは決して忘れないでください。)
ここで、議論はもどってきて、キズナアイは「生徒」役ではありますが、「先生」の発言を引き出すという意味で「相づち」をするということで、記事のトップにも出てくる主役のはずが、補助的な業務を担わされていることになります。このとき、キズナアイを女性と見なすと、これまで女性が置かれていた立場、女性が積極的に前に出られる環境に制度上はなっているにもかかわらず、結局はそうはなっていないという状況と重なる部分はあるでしょう。
再び、徹子の部屋の黒柳徹子をイメージすると良いかも知れません。徹子の部屋における黒柳徹子は独特の立ち位置で、徹子の部屋を見て黒柳徹子は単に「相づち」をうつ役割だけではない、ということが理解できるでしょう。なんなら、黒柳徹子の方が目立っていたりします。対談の形式が、黒柳徹子がお客様を招いて話をしてもらうというホスト側であるためであり、従属的な関係になっていないというところに、このキズナアイ対談と徹子の部屋の決定的違いがあるのだろうと思います。
そうして比べてみると、キズナアイは女性の役割を再生産するということになったというわけです。これは、性別役割分業を進めていくものであり、女性にとって活躍の機会が減ってしまうというのがフェミニストたちの主張と結びつけて考えることが可能なのです。
この時、女性は従たる役割を担わされるわけで、その期待が持たれます。そうなると、女性は、主たる役割を担える存在なのにもかかわらず、その期待から、従たる役割を担い続けなければならない、そういった状況にはまってしまうのです。そして、そうした悪循環から脱却しなければならない、というのがフェミニズムの基本的な主張です。
このような女性観で考えられると、女性にとって好ましい立場ではないという千田の主張はそう的外れなものではないということは理解できるでしょう。
千田は議論をするという状況を作り出したことでは成功していると評価できますが、その議論の中で、自らの論理の妥当性を提示し納得してもらえたかというとそうではないと思います。後の対応によるところも多いのですが、それは、実は最初のきっかけともなった記事の一番最後の文章であると私は考えます。
なお10月3日、9時の時点で、スマートフォンから見ると、キズナアイはバストショットしか見えない(パソコンでは、へそなどの下半身が見える)。
この一文が最後にあることで、キズナアイの見た目(容姿)を問題にしたいのか、と思ってしまう人も多いと思います。千田氏は、後の議論でも、キズナアイの役割に焦点を当てており、容姿を問題にしていないといっているのですが、冒頭の太田氏の議論とあいまって、多くの人が混乱したと推察します。そもそもキズナアイってあくまでAIであって性別を超越した存在なはずなのに、性別二元論に回収されちゃうのって、なんだかなと。
さらにいえば、表現の問題に回収してしまったのがかなり難しい問題にしています。表現の問題にすると、結局妥当な表現は何かということに行き着き、その線引きは複雑になってしまい、誰も理解できなくなるため、神々の審判でも仰がなければ、なんとも言えないと思います。
本人が個人的に自説を語るのは「自由」の範疇だが、それを公共空間に置いたらどんな意味をもつのか、少しは配慮すべきだったのでは?
(https://twitter.com/chitaponta/status/1051615591004438529])
先日、彼氏と彼氏の友達と会う予定があった日の朝、ちょうど生理が来た。起きた時から頭痛と腹痛がひどくて特に重い回だったが、断るのも面倒で薬をこまめに飲んで座っていれば大丈夫だと判断して参加することにした。
いつもよりおとなしかったためか彼氏に心配されたので、生理が来た旨だけを伝えた。初めての彼氏ということもあり家族以外の男性に生理であることを告げることが初めてで、正直内心ドキドキしていた。
幸い「本当に来て大丈夫だった?辛いようなら抜けようね」と言ってくれてとても安心した。
解散後、彼氏の家で話していると度々生理の話題になり、女兄弟もいないのによく知っているなあと感心した。その後も上半身への刺激が主なオーラルセックスをしている際に下着を触ってきたため、生理だから…と伝えると、これ(下着の上から撫でること)は別に平気でしょ?と言ってきたので、本当によく知っている…と思った。
生理の話を家族や親しい女友達以外とすることはタブーだと思っていたが、そうでもないのかもしれないと感じた。もちろん気分が良くなる話ではないが、話すときに後ろめたくなる必要もないと気づいた。
いまだに「台本が云々」「キャラクターに人格があるとするなら云々」というコメントをみかけるのですが
キズナアイはActive8に所属しているバーチャルタレントの1人です。
もしあなたがバーチャルタレントになりたいのであれば以下のリンク先からオーディションに応募することができます。
これまでにもいろんな増田が解説を試みてきたのですが未だに誤解は解けていないようです。
上記2点のせいでキズナアイはフィクションのキャラクターだと信じる人が多いのかもしれません。
他のVtuber を見てみれば誤解が解けるかもしれませんね。以下はスクエニの発表した Vtuber のひとりです。
キズナアイよりも会話が生々しく人間であることが伝わりやすいのではないでしょうか。
Vtuberファンの間では中の人の話をするのはタブーであるようで「魂」「人格」といった単語がよく使われるようです。
「キズナアイは人格があるから〜」「アニメキャラに人格とかww」とまあ対話がすれ違ってしまったようですね。
またアニメ界隈では声優のことを「中の人」と呼ぶ文化があったことも誤解を招いた一因かもしれません。
わかりにくいので以下タレントさんと呼びましょう。
タレントさんはリアルタイムで会話しながら体を動かしています。
その様子をモーションキャプチャーで取り入れアニメキャラクターとして表示しています。
https://www.youtube.com/watch?v=TgDcozEjj90]
NHKの特設サイトではモニター越しに研究者とタレントさんがリアルタイムで会話をしていたわけです。
このような事情なので言及する際には気をつけないとタレントさんへの直接的な悪口になってしまいます。
「聞き役に女ばかり配役されているのではないか(ジェンダーロール)」という指摘はよいですね。