はてなキーワード: なぜ人を殺してはいけないのかとは
まず、「なぜ人を殺してはいけないのか」を考えるにあたって、「いけない」の意味を明らかにしましょう。「いけない」という言葉には、法律で禁止されている、道徳的に許されないという2つのパターンがあります。なぜこのように分けるのかというと、法律と道徳は、重なり合う部分はあれど、基本的に別のものだからです。ある行為が法律で禁止されていることと、道徳的に許されないことは異なる問題です。
刑法は禁止される行為を定め、よりよい社会を実現しようとしています。刑法に定められた犯罪には、それぞれ保護すべき法益というものがあります。殺人罪であれば人の生命です。殺人が禁止されない社会では、人は安心して暮らすことができません。そこで、「自己の生命が脅かされない社会は、よい社会である」という思想のもと、刑法は殺人を禁止しています。
ただし、これも絶対的なものではありません。責任能力の欠如、正当防衛、錯誤など、様々な要因で殺人の罪が問われないことがあります。たとえば、自分が殺されそうなとき、相手に反撃せず黙って殺されなければならないとすれば、それはよい社会とは言えません。そのため、よりよい社会の実現という目的のもと、殺人の禁止には例外が認められています。
次に、道徳について考えてみましょう。道徳とは、人間が無意識に存在すると認識している善悪の規範のことです。
これは法律と違い、明確に定められたものではありません。実態の存在しない、ある種のフィクションです。道徳は、無意識のものなので、法律のようにこのような理由がこれは悪だと説明できるものではありません。そのため、「なぜ道徳的に悪なのか」という問では答えを導くことができません。そこで、「なぜ殺人を悪だと認識するのか」という風に問を変えてみてください。
人間という種が発展していくのにあたり、お互いを殺し合う行為は、その発展を妨げる行為です。そのため、「殺人は悪である」という認識が生まれたと考えられます。増田の指摘する、「種の保存」です。
ただし、これも絶対的なものではありません。たとえば、前述した正当防衛であれば、道徳的にも悪ではないと認識する人が多いのではないでしょうか。これは、「種の保存」よりも「自己の保存」を優先する人間の無意識から生み出される考えだと思われます。
「人を殺してはいけない理由があるのに、動物を殺してよい理由はあるのか」という問を、上記2つの観点から考えてみましょう。
法律の観点からすれば、動物を一切殺してはいけないとすれば、食料等様々な問題が発生し、よりよい社会とは言えません。そこで動物の殺害全ては禁止されていません。
ただし、動物愛護法等、一定の行為は動物に対するものであっても禁止されています。この法律は、「人間と動物が共生する社会は、よい社会である」という思想のもと定められています。ただし、あくまで「よい社会」とは人間にとってよい社会であり、この法律は動物の権利を保護するためのものではありません。法律は、あくまで人間が自己の社会のために定めるものなのです。
次に、道徳の観点から考えてみましょう。ただし、これは非常に複雑な問題です。なぜなら、「動物を殺すこと」については、どの範囲を悪と感じるのか人によって全く異なっているからです。
「なぜ動物を殺してよいと認識するのか」という問であれば、人間が生きていくためには食事が必要であり、そのことを正当化する必要があるからと答えることができます。しかし、社会が発展するにつれ、動物を殺さなくても人は生きていくことが可能になった結果、この理由で説明することはできなくなりました。
「動物を殺すことは許されるのか」という問題は、「なぜ人を殺してはならないのか」以上に難しい問題です。興味があれば、ピーター・シンガー等、動物の権利について論じた本を読んでみてください。
増田には二つある。読んだ者にとって有益なもの、または無益なものである。
有益な内容が多くの人に支持されれば自然とホッテントリに入る。当たり前の話だ。
しかしまあ、君たちの大体の増田は無益なものだろう。誰もが有益なものをぽんぽん書けるはずがないのだ。
無益な内容でもホッテントリには入る。問題は、君たちの増田が無益どころか読んだ者になんの感慨も引き起こさないことだ。
君たちは、なんでもいいから問題提起とか愚痴を書くことで共感を呼ぶとか、そんな内容でホッテントリに入ろうとしている。
一般化すると、「なぜ人を殺してはいけないのか?」類の増田である。
君たちはそういうタイトルをつけた後に、持論を展開して、なぜ人を殺してはいけないのか、または殺していいのかを語ろうとする。
そんな議論に付き合うのは甚だ面倒だ。結論が間違っていようとなかろうと、増田の価値観が社会的に共有されなければ、語る意味もない話だ。
取り扱う問題も、哲学や生物学や法学に分野横断的にまたがっていて、誰もそんな込み入った話はしたくない。
そんな増田よりは「人を殺していい理由は3つある」という内容のほうが大分良い。
3つの理由を上げて、それがいかにも正しいような態度を装いながら、頭から信じ込んでいるような文体で書くのだ。
人は、間違っている人に正しいことを教えるのが根源的に好きなのだ。理由も3つを明確にすれば、ツッコミどころがたくさんできる。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141009/k10015277221000.html
この事件のことを言っているのだと思うんだが、これ議論の余地あるか?
なぜ人を殺してはいけないのか(なぜ人権を侵害してはならないのか)レベルからの疑問なんだろうか。
これは「人間」の次の2つの側面を同時に見ようとするから難解になるんだと思う。
単純に個別に考えてはどうだろう。
「殺してはいけない」のは、社会集団を構成する人間。相互保障の社会では、自分が殺されないために、他人を殺してはいけない。
普段、私たちの社会には"生物であり社会集団である人間"しか目にしていないから考えが及びにくいが、「生物であるが社会集団でない人間」というものがある。
その場合、社会を構成していない人間に基本的人権はない。自然権はない。社会を構成するアンドロイドには基本的人権に準ずる権利がある。
なぜ人を殺してはいけないのかについて答えられる大人がほとんどいないという記事を読んだ
道徳的に、倫理的に人殺しはいけないことは当たり前なのだが人殺しについて考えることをしていくと「戦争では人殺しは正義」というものにいきつく
哲学の根本に容赦のない徹底さというものがあるが人殺しの正当性について状況によって異なるというのはこれ以上ないほど整合性がある
要は人は必要に応じては人を殺しても良いという「解」になるらしい
しかし人は人を殺すだけの理由を持った時、人を殺しても良い状況の時に人を殺しても良いという因数分解のような理論的な解にはどうしても違和感がある
なぜなら人は人を殺すだけの論理や計算式が成り立っていても計算式自体に罪悪感や自尊心や道徳心にこそ迷いを感じるからだ
人は必要に応じれば人を殺しても良いなどという答えなどどうでもいい
NEVADAちゃん2世事件を受けて、はてブ界隈では「なぜ人を殺してはいけないのか」議論が少しだけ盛り上がりを見せている。
http://www.open.sh/entry/20140728/1406552151 とか http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2014/07/29/092214 とかがホッテントリ入りしてるし。
だけども、そんなのは大昔から議論されてきたわけで、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」とか「リヴァイアサン」とか「社会契約法」なんてのは中学や高校の社会の教科書の最初に載ってる。
なぜ人を殺してはいけないのか?→自分が殺されるのが嫌だから、みたいな話に近いかもね
結局は、なぜ契約に従わなければならないのか?または、なぜルールに従わなければならないのか?っていうところに帰着する話だと思うんだけどな
なぜ人を殺してはいけないのかとほとんど同じ話になるけど、カンニングの場合は、契約がからんでくる点と他人の不利益が相対的に小さい点が少し違う。
別に揶揄するわけでも何でもなく、素朴な疑問。
ある種「なぜ人を殺してはいけないのか」議論に通じるものもあるが、気になった。
何の疑問の余地もないだろう。
特定の知識や技術を習得することが目的の学問で、その成果を計っているのに、全く無関係の別の技術で対応しているから問題なんだ。
カンニングを習得する学問で、本人が「カンニングの技術」が高い事を売りにするのなら良いが、そうじゃないだろ。
目的に対して手段が無意味なのが問題なのだから、「なぜ人を殺してはいけないのか」だけの設問では無意味。
人を殺す目的とセットでなければ、手段の正当性は語れない。
ある種「なぜ人を殺してはいけないのか」議論に通じるものもある
なぜテストが必要なのか→必要な知識を持つか確認するため
なぜ知識が必要なのか→国や社会の発展のため
なぜ国や社会の発展が必要なのか
「母親としてあるべき愛情が見いだせない」「自己の欲望や幸福を満たすためには子供の命を犠牲にしても構わないという、母親としては考えられない自己中心的で身勝手極まりない動機」懲役14年
http://gospel.sakura.ne.jp/wikiforj/index.php?%C2%DB%BB%F9%A4%CE%BF%CD%B8%A2%C0%EB%B8%C0
404 Blog Not Found:なぜ胎児を殺してはいけないか
partygirlの日記 - 妊娠中絶は悪なのか?を、ちょっとしつこく語る
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/partygirl/20060622
ポストモダンについてはよくわからないのですが、ポストモダンは「グローバルに『正しい』ことは(ほとんど)存在しない」と帰結するという理解で正しいでしょうか?そうすると、捕鯨のみならず、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな問題についても「ほとんど全ての文化において人を殺してはならないとされているから、グローバルにも殺してはいけないように見えているだけだ」という結論になる?
はい。お見事な理解です。少々過激な書き方をすれば、『「正義」なんてものは文化的偏見の一種でしかなく、そこに普遍的根拠などというものはない。根拠が無い代物なんだから、「正義」を共有できないのも当然だ』というのがポストモダン以降の現代哲学の立場です。この30年くらいは哲学・思想・倫理といった学問では、ほぼ全ての立場が、この相対主義的な原則を出発点にしちゃっています。
「正しい」ことをもって問題を解決できたらもっと楽でしたね。
政治学では元々マキャベリ以来の伝統があって「正しさ」に宣伝効果以上の意義を認めていなかったのですが、とうとう思想まで「正しさの実現」に肯定的価値を認めなくなっている(「正しさとは何か」とか概念の追求ならOK)のが現代です。政治学と現代哲学においては「正しいこと」と「実現されるべきこと」はあまり関係がない、というのがほぼ常識となっています。この立場は数多の実証研究と厳密な形式論理の展開により支持されているので、学問的には当面揺らぎそうにありません。
元増田です。どうもありがとうございます。
文化相対論主義に基づけば答えは出ています。「鯨喰ってもいいし、女性器切除も禁止されるべきではない」です。ポストモダンの哲学・倫理学がこの結論を支持します。
なるほど、文化相対論主義についてWebで見てみた限りにおいてはそのようです。
ポストモダンについてはよくわからないのですが、ポストモダンは「グローバルに『正しい』ことは(ほとんど)存在しない」と帰結するという理解で正しいでしょうか?そうすると、捕鯨のみならず、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」みたいな問題についても「ほとんど全ての文化において人を殺してはならないとされているから、グローバルにも殺してはいけないように見えているだけだ」という結論になる?誤解していたら指摘してもらえるとありがたいです。
そしてポストモダンの哲学・倫理学は同時に「倫理的に正しくないない主張だから取り下げるべき」とは主張しません。捕鯨問題をはじめとする文化衝突は、結局政治によるパワーゲームの論理で勝負がつく、倫理が無力な問題と思っていればいいでしょう。
「正しい」ことをもって問題を解決できたらもっと楽でしたね。
http://anond.hatelabo.jp/20081115115527
みんなが「殺してもいいじゃん」ってことにしちゃったら、危なくて町を歩けないからだよ。
だから、殺す人は非難されるし、捕まえられて他の人間と会えないところに連れていかれるんだ。
「殺すな、盗むな、侵すな」ってのは、どの国の法律にもある社会生活の基本なんだ。
だって、それを社会が許してたら、安心して町を歩けないし、安心して働けないし、安心して家に住めないから。
勉強は、バカでいたかったら、しなくていいよ。
「なんで人を殺しちゃいけないの?」
という質問にどう答えるかと言う話で一時期ネットが盛り上がっていた。
なんかタイトルどおりの考えが浮かんだので書いてみた。
今でも一日何万ももらえると噂の屠殺所。
屠殺は昔から忌避するものの一つとして遠くメディアから遠ざけられてきた。
牧場の牛を育てているシーンを流すテレビ番組はあっても牧場の牛を殺す番組はない。
動物たちはそれこそ人にしてみれば拷問のような状態で殺されるのだと言う
http://saisyoku.com/slaughter.htm
高校の頃、生物の時間、生物の先生に「生きる意味ってなんですか?」と聞いたことがある。
「生物学的には、個体の保護と種の繁栄ということになっている」
その先生はそう応えてくれた。
もちろん例外はあるんだろうけど、基本的に僕はその知見を支持するし、
人を殺す行為ってのは生き物であろうとする尊厳を壊す行為だ。
もしくは死ぬ確率を減らすために集団行動を取って進化してきたのが今残っている生物で
人間は同時に"文明"を持つことで自分たちを例外、もしくは特別だと思い始めたんじゃないだろうか。
別に「人を殺すこと」が絶対的な悪だとは言わない。
現代ではどこまでを人と呼ぶか、危うい例がたくさんあるだろうし、ある人を殺すべきもっともな理由もいくらでも取り繕える。(それが論理破綻していようとも)
ただまずは、生き物を殺すことを知ることからはじめてみればいい。
なんだか言葉じゃ説明しようのない何かを感じるはずだし、そうしてはじめて「なぜ人を殺してはいけないのか」が議論となりうるようになるはずだ。