はてなキーワード: Chim↑Pomとは
4/19、16時少し前、Chim↑PomのTwitter(https://twitter.com/chimpomworks/status/1516309905828810753/photo/1)で改名のお知らせが出ていた。
まず、内容をざっとまとめよう。
・Chim↑Pomは”際どい社会人”である“間違ってもただの「健全」なグループだと勘違い”してはいけないグループだと自称している現代アーティスト
・Chim↑Pomは現在森美術館で個展を2月から5月末まで開催中(開催真っ只中!)
・会場準備の設営費の一部に協賛金が必要になっていた(1000万円ほど)
・そんな協賛金のうち、Smappa!Group(接客を伴う水商売(ホストなど)の会社であり、Chim↑Pomと数々の協働もしてきている会社。Chim↑Pomの一人である「エリイ」の夫が会長を務める会社でもある。)の金額のみ森美術館が受理していない
・受理していない理由は「六本木ヒルズという『まちづくり』における『ブランディング』」「森美術館はヒルズという『文化都市』の顔である」と森美術館は言っている
これに対してChim↑Pomは、
・受理しないことは、”アートによる「多様性」と取るか「『多様性』の搾取」と取るかは、議論が必要”である
・受理しないことは、クリエイティブ産業が街から「猥雑」なものを十把一絡げに職業や属性により排除する「旧来のジェントリフィケーション」の典型だとも捉えている
・社会全体、そして、特に多様性をうたう森美術館が”実態としては公共性よりもブランディングを優先し、いざ自身の問題として直面すると排除する、という常套手段がまかり通ることに対しての違和感をここに強く示す”
・そもそも、「スーパーラット(ポケモンのピカチュウを模して渋谷の街で捕まえたネズミを黄色く、頬は赤くしたもの)」の美術館内での展示ができず、美術館内ではなく共同プロジェクトスペース内での展示という落としどころになっていたことも”「表現の自由」に議論の余地ができた”ことだったから、水面下の交渉に限界を感じ、発表した
でもって、森美術館は
・全媒体&広告物の「Chim↑Pom」の名前を「Chim↑Pom from Smappa!Group」に変更して今後は使用する(使用開始の期限はGW明け5/15)
・Smappa!Groupの協賛金受け取りとロゴの掲載の検討
という感じだろうか。
改名、いいじゃないの、したらいい。意志表示、どんどんしたらいい。
でも、いくつかの点で、この声明文に物申したい。
おっと、その前に。まず、増田は当事者でもないし森美術館および森ビルの関係者でもChim↑Pomファンでもない。
そのため、すべてのことは想像でしかなく、中には事実と反することもあるだろう。
それを踏まえて、聞いてもらいたい。
①”多様性””公共””ブランディングを優先””ジェントリフィケーション”
⇒キャッチーで、そうそう、そうなんだよ、反体制のスピリット!と、どこかアナーキーなアーティスト性に酔いしれたいファンが応援したくなる巧みな言葉遣い。うまい、うますぎる。
⇒だけど、待って。多様性って「いつでも全てを無条件ですべてを認める」ということなのだろうか。幼稚園にロリコンの成人が混ざりたいといっても、幼稚園には幼稚園の対象があり断られるように、NHKで企業名を出さないように、R18のゾーニングをすることのように、男湯と女湯を分けることのように、さまざまな無条件ではない場合にも、そこに多様性がないわけではない。多様性とは、で調べると、「幅広く性質の異なる群が存在すること。」とある。そうだと思う。『群』だと思う。その『群』を否定してはいけないが、その『群』が完全に混ざり合う必要はないのでは。だから、多様性の一つの解釈に「いたずらに何かを排除してはいけない」があるといえるだろう。今回は「排除」しているのかもしれないが「いたずらに」ではない。そもそも、”公共”の要素を持っているからといって、森美術館は『株式会社』だ。”ブランディングを優先”そりゃそうだ。株式会社だ。権威であろうと、体制であろうと、そこには日々の生活と日々の業務があり、誰かにとっての、そして企業にとっての小さな信頼と伝統を積み重ねてきた「商いの形」がある。そんな「商い」の中で、交渉をし、契約を結び、落としどころを見つけながら話していることは、「いたずらに」ではないのではないか。そこには企業としての意思がある。
⇒ジェントリフィケーション、その通り。『都市開発』では『都市』を『開発』するのだから、そりゃあジェントリフィケーションが起きる。でも、それとこれとは別の話ではないか。接客を伴う水商売を悪いものとしているわけでも否定しているわけでもなく、ただ「うちとは合わないよね」といっている話に、たいそうにジェントリフィケーションを持ち出されても、森美術館の言う通り「ブランディング」の内側の話を拡大解釈しすぎではないだろうか。
改めて、会期中、しかも会期残り2週間のためにすべてを修正しろっていうのは担当者のことを考えると辛すぎる
⇒アートと商いは相性が悪いという話は、アートと商いがとっても相性がいいという話と同じくらいよく見受けられる。アートの中で、資本主義は時に否定され、時に資本主義と共に大きく幅を利かせている。
⇒会期残り2週間のために用意しているあらゆる媒体資料・広報資料の名前を『物理的に(印刷など)』修正し、デジタルであっても『修正依頼を(人力で)』ひとつずつかけて、すでに用意していた様々な資料もすべてをやりなおす。だれがその資金を工面するのだろうか。森美術館がするのか?商いを馬鹿にしすぎている。契約という約束事が軽すぎないか?
⇒人気も出てきた、会期も真ん中、なぜいま発表をする?別で準備しているイベントがまとまったからか?なんなんだ?Chim↑PomもChim↑Pomで契約に同意し、うまみがあったり意義があったり面白味があったりいろいろな理由を超えて「森美術館でやりたい」と同意したから、会期が始まっているのに、なぜ、今なのだ?そんなに不快なら仕事を受けなければよかったのかもしれない。始まる前に話し合ったり声明文を出すのも手だったかもしれない。でも、今、すでに始まった中で後から手を翻し、ずっと怒っていたと一方的にきざな言葉で並べ立てるのは、いささか「商いを馬鹿にしすぎている」としか思えない。ひとりひとりのお客さまからお金をいただいて、ひとつひとつの企業さまからお金をいただいて、誰かのお金になるように、経済を回すこと、生活すること、権力だろうと権威だろうと体制だろうと、そこには人がいるし、そこには道理があるのではないだろうか。強者に対してなら何をしてもいいとでも思っているのだろうか?
⇒会場に行った方なら体感できるだろうし、行っていなくても写真を見たらわかるだろうが、今回の展示、かなりアグレッシブな展示方法も展示手法も含まれている。これは予算が…これは消防法…設営の順番大変そう…いろいろな制約を乗り越えられるよう、ひとつひとつアーティストと館の間を取り持ち、掛け合いながら進んだのではないか、と感じさせる会場だ。
⇒1000万円、通常の展示ではないことをたくさんする(=森美術館としては、新しさのあることにしたい&今までのChim↑Pomの活動をそのまま紹介できるようにしたい)という意志もあって、「会社的にはこれ以上の設営費の負担ができないので、その形での展示は出来ないのですが、設営費をいただけたら、なんとか…」という落としどころをもって話した結果だったりはしないのだろうか。
⇒そのうえで、「受理していない」場合は、その「不足額」は誰が払っているのだろうか、「その協賛金を受け取れないのは森美術館側の話だから、その不足分は森美術館で持ちます、だから、すみません」そんなやりとりがあったのではないだろうか。スーパーラットの展示を美術館内で出来ないと判断されても、展示の流れに組み込みたいという思いで共同プロジェクトスペースに設置しているのを思うと、ついついそんなことを想像してしまう。
物事は多面的で、憶測でモノを申している立場で本当に申し訳ないが、
やっぱりこの声明文でChim↑Pomが評価されていることに納得がいかない。
きざな言葉を並べて、弱いふりをすれば、もしくは本当に弱者の立場であるからといって「弱さを盾にすれば、権威のことを後ろから殴ってもいい」そんなわけがないと自分は思う。
https://twitter.com/nhk_1945shun/status/1296216569832513544?s=21
諸事情あり今は横浜に身を寄せているものの、大学から10数年暮らしただけあって、広島という街には愛着がある。
そういうわけで、この#ひろしまタイムラインの3アカウントも8月に入ってからは頻繁に覗いていた。
地理がそこそこ分かるということもあり、ああ、あの橋から市内に入ったのか、とか(広島は橋が多い)、"体調悪い"って、あの辺は黒い雨の範囲ではないのでは? と思って調べてみたら、元々の認定範囲内だった、とか、そこから最近の黒い雨訴訟の背景をまた調べ直したり…これはこれで、なかなか興味深いものを感じていた。
ただ、全国的には注目を集めることもなく、特に8月15日以降はひっそりと、インターネットの片隅に埋もれていくんだろう、とか思っていた。もちろん、はてブの話題に昇ることもない。そこにこの騒ぎだ。
ところで、この騒ぎを受け、どういう体制でこのアカウント群が運営されているかを初めて知った。
監修者…知り合いというほど深い仲ではないが、顔とお名前が一致するくらいではある。広島にいた時、演劇に多少関わったことがあるので。柳沼さんの名前を見て、少しニンマリとしてしまった。
IさんやSさんも、直接のお知り合いというわけではないけれど、知り合いの知り合いくらいにはなる。広島の人間関係は非常に狭い。特にIさんは、若いころ、理想の演劇を求めて闘っていた時期を存じ上げているので、あの日々がこの活動に結びついているのか、と思うと感慨深さもある。
運営に携わる者、彼らなりの誠実さは感じるものの、こういう事態になってしまった。
あるコンテキストの流れ、そこにある湿った共感でもって駆動していた共同幻想が、別のコンテクストにぶつかってしまった。これは明白に事故だと思う。
広島(に住う人々)は、原爆や戦争というキーワードにはセンシティブな一方、相対的に人種(民族)を初めとするさまざまな差別問題には少し鈍感だ。
Twitterというグローバルなサービスを使用しないならこの鈍感さでも良かったのだろうが…一時期界隈を賑わした、コンビニ冷凍庫に入って写真撮る輩のようではないか。"誰も見ていない"とタカをくくった結果が炎上、みたいな。
しかし、私はここが正念場だと思う。運営者は覚悟を決めて、乗り切れ、と言いたい。
実はこの逆の事態が、もう10年以上前にあった。要するに、よそから来た者が広島人に大バッシングを浴びた事件である。
2008年、Chim↑Pomは広島市現代美術館での企画展を前にして、そこに展示する映像作品を広島市内にて制作していた。その内容は、飛行機をチャーターし、晴天の空に「ピカッ」という文字を描く、というもの。
これには大抵の市民が不快感を表した。"ピカ"は言わずもがな原爆を連想させる。それを誰のものでもない空に、一方的に描くとは暴力に等しい…と。
当事者団体も抗議の声を上げるには上げたが、正直、そうではない一般市民の感情の激しさの方が強かったと思う。
作り手には作り手なりの思いはあったようだが、当然、この作品はお蔵入り。企画展も中止。
ただ、彼らは、そこで終わらなかった。これを契機として当事者団体と対話を始める。
その仕事は「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」という書籍として実を結ぶ。
「原爆」に対してセンシティブな広島人、そうではない「Chim↑Pom」。
ここで起きたことも、それぞれの皮膚感覚の違い、流れるコンテキストの違いが引き起こした事故だった。
ならばChim↑Pomがどのようにして異なるコンテキストに向き合い、この事態を乗り切っていったか、あなたがたが(もしくはこのいごこちのいい幻想のなかにいる我々、広島人が)学ぶことはあるはずだ。
広島魂を見せろ。
横だけど今回のChim↑Pomも津田芸術監督もアートだと思う。
このあいだ炎上してた美人銭湯絵師も、あの人の「空っぽでなにもないけど、なにかで目立ちたい欲求だけはある人間」って存在と、それを取り巻く陰湿で内輪でやってる芸術界とかそれを取り上げるメディア、炎上までを含めて「現代の空虚さと何者かになろうとする何も持たないものの侘しさ」を表しててエモいと思う。
今回の件も、頭空っぽでイカれた人間を担ぐパヨクの滑稽さと炎上に関わってChimPomと津田を儲けさすネトウヨの愚かさが芸術的だと思わん?
正直あいちトリエンナーレ関係のニュースは補助金関連の辺りから食傷気味であえて距離を取っていた。
Chim↑Pomが炎上してるってのをネットで見ても、「まぁ元々ある程度炎上商法的な立ち位置だしな…」と思ってしまったのも事実だし、「被曝最高!」「放射能最高!」の文字列が並ぶニュース記事を見て、「あぁこれだけ見れば物言いたくなる人がいて当然だな」とまず思った。
昨晩のTBSラジオ「session22」のOPにリーダーの卯城さんが出演し、作品の意図と、「気合100連発」の音声がO.A.されていた。
https://twitter.com/session_22/status/1182282259946041345?s=21
帰りの車中でこれを聞いてて初めて詳細を知ったんだけど、自分は正直なところ、分別のつく人ならこれを福島ヘイトと捉えるわけがないと思った。
悪意のある誤読や切り取りか、ニュースの見出しだけ見て判断してしまったのでない限り、作品を鑑賞した上でそのような感想を持つことは考えにくい。
…と思っていたんだが、卯城さんが表現の自由について至極真っ当な「正論」を話しているのを聞いていると、この数年来感じていた違和感が思い起こされてしまった。
あえて手垢のついた言葉を使うが、その正論はどこまでいっても「リベラル」な正論なのだ。
ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』とダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の議論を下敷きにすれば、保守はシステム1に、リベラルはシステム2に主に訴えかける主張だ。
リベラルな言論空間は、徹頭徹尾システム2で考え抜いた言葉が要求される。
要するに、面倒臭いのだ。
フェイクニュースの流行やトランプ以降の世界は、「ネット空間で誰もが発言できバズを狙えるようになったことで、個人の承認欲求がこの『面倒臭さ』を圧倒してしまった」ということで、かなりの部分説明できると個人的には思っている。
ただ、アートを含めた文化全般の価値を信じ抜きたい人間としては、その面倒臭さ(=作品の文脈や、各カルチャーの歴史を調べた上で作品に接する態度)を軽視する風潮にはどこまでも抵抗していきたいと強く思う。
文脈を一切排除した現代アートは語義矛盾だ。20世紀以降の芸術はそれまでのスタンダードを破壊することに拘泥しすぎたきらいはあるが、作品の意図を読み解くためには、19世紀までの西洋美術の功罪を知ることが必須だ。
これはクラシック音楽のスタンダードからの脱却を図った現代音楽を聴く際にも求められる態度だ(クラシックの素養なしにサティやストラヴィンスキーやシュトックハウゼンを十分楽しめる人はまずいないだろう。)。
またそれは、パンクの登場が世間に与えた衝撃を知るためにはロックの誕生からプログレ・商業ロックに至るロック史を知る必要があり、エルヴィスが世間に与えた影響を知るためには19世紀末以降のアメリカのポピュラー音楽史を知る必要があるのと同じことだ。
それはとても面倒臭くて時間がかかる作業だ。しかしその作業なしに、過去を顧みることなしに、創造は有り得ない。
ポピュラー文化は人口に膾炙してこそ文字通りポピュラーになるわけで、文脈を知らない人を巻き込んでいく必要性のためにこの桎梏を抱えざるを得ないわけだが、情報が溢れる現代においてはその困難さの質が極めて短期間で変容してしまうように思う。
ただ、文化が社会の発展に寄与した功績を理解できる人ならば、こうした時間のかかる作業がマネタイズできない時代においてこそ、その価値が保全される必要性をひしひしと感じているのではないだろうか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1994497.html
チンポムの作品が今更炎上させられてる。正直怒りに震えている。これを反日作品と呼ぶのは、あまりにミスリードが過ぎる。
相変わらずの痛ニューには、作品の文脈を解説するものはなく、ひたすら切り取りと扇動のみ。キャプション読まなかったのか?展示の仕方が不適切!とか言ってるやつは、日本語読めないのかな。
本人のインタビューから、チンポムのこの「気合い100連発」という作品の文脈を紹介する。
これぐらいは、自分達で調べてほしいのだけど、そんな能力のない人間ばかりのようだから。
http://realkyoto.jp/article/talk_takayama-ushiro/
https://www.barks.jp/news/?id=1000072504
>2011年の福島第一原発事故からすぐのときに、原発から50kmのところの相馬市で被災した男の子たち6人と映像を撮った。
>震災後に現地で出会った、自らも被災者でありながらボランティアも立ち入ることが出来ない地域で瓦礫の撤去を続ける若者たち。
>Chim↑Pomの4人を含めて10人で円陣組んで、アドリブでガンガン気合いを入れあっていく。スクリプトはなし。言うことはばらばらで、何を言ってもいい。地元の子たちも盛り上がって、徐々にポジティブになっていく。「車欲しい」とか「彼女欲しい」とかボケ始め、最後は「放射能最高!」と叫びだしたんです。僕らはその明るさに衝撃を受けました。
>この作品自体は、反原発とか推進とか、政治的な立場はまったく取ってない。ただ、被災当時の若者たちのエネルギーをそのまま単純に映し出した作品。
つまり、この 「被曝最高!放射能最高!」は被曝を恐れず復興に尽力する当事者達の、まさにその瓦礫の中での発言なのだ。
映像を見ればわかるけど、最初は「復興頑張るぞ!」から始まってるし、「お母さんありがとう!」とか、「日本最高!」とか、「友達だぞ!」とか、「自衛隊の人ありがとう!」とか、写されてるのは全くもって普通の田舎の若者である。そんな被災者の若者達が、瓦礫の中で不安や怒り、やるせなさを抱えながら叫ぶ「被曝最高!」や「放射能最高!」は、どういった文脈にあるのか、少しは考えてみたらどうか?
こんなのは少しでもまともな感性があれば、フランクルのいわゆる「逆説志向」だって分かるだろうに。つまり、自分の力ではどうにもならない逆境に積極的に立ち向かう、明るさや強さの表れなんだよ。そういうエネルギーを作品にしてるの。
批判するにしても、それぐらいは前提としてくれよ。
何が「反日」だよ。何が「人間じゃない」だよ。何が「ただただ気持ち悪い」だよ。
頼むよほんと。
※追記
当人たちが動画の最後には「放射能最高じゃないよ」「ふざけんな」と発言してるが、痛ニューにリンクされてる短縮版ではカットされてるとのこと。
せっかく愛知県在住なんだしと思って行ってきた。メモがてら書く。
どんな作品が展示されてるかは主催側が用意したサイトがあるから、そちらを見てもらった方が良いと思う。 https://censorship.social/artists/
会場は愛知芸術文化センター8階。名古屋の中心部にある地下鉄栄駅から直結。トリエンナーレのメイン会場は10階で、そこでチケットを買ってから下りる形になる。ちょっとわかりにくかった。
「表現の不自由展」というくくりで、あくまでもトリエンナーレの展示の1つ。割当も他の展示と同じ「1部屋」で、映像作家の作品を大画面で流してるだけの部屋と同じ。展示場所は会場の中では角地にあたり、ここを見なくても他の展示を見れる順路になってる。また、薄いカーテンで区切られていて、その前に、展示の趣旨や「SNS公開禁止」の注意書きが書かれている。
薄いカーテンの向こうは、結構な人口密度。他の展示とは明らかに違っていて、関心の高さを伺わせた。ただ、これは展示レイアウトも悪い。入り口すぐの廊下状の細いところで、そこそこ長い映像作品(「映像・遠近を抱えて」)を流してるから、そこで人が滞留してしまうのだ。
入ると大浦信行「遠近を抱えて」。昭和天皇肖像写真のコラージュ作品。1986年に富山県立近代美術館での展示が問題視され、図録も焼かれたという。「本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる」という言葉が浸みる。
また、その後に作られた同趣旨の映像作品が流れている。戦中の音声に乗せて「海ゆかば」が流れる。年配の女性がそれに合わせて口ずさんでいた。その次の従軍看護婦の手記の朗読では、その人は涙ぐんでいた(隣の若い女の人も)。そして、その後、昭和天皇の肖像が焼かれるシーンに移るのだが、そのシーンではなんとも言いがたい表情をしていた。
ちなみに、映像を見ていたら、金髪の芸術監督が通っていった。ちょくちょく様子を見に来てるのかな。
大きな音ではないが、ヘイトスピーチの音声が聞こえる。展示の1つとして、慰安婦写真展示への反対活動のドキュメンタリーが流されていた。
正面に慰安婦像こと「平和の少女像」。やはり客の関心は高そう。
説明文として「《平和の少女像》に込められた12の象徴」という説明文。肩にとまっている小鳥や手の形などの意味についての説明がある。像の後ろに「ハルモニ(おばあさん)になった影」が描かれているのは初めて知った(画像を見ると大使館前の像にも影がある)。
椅子は自由に座れる趣旨のことが書いてあった。写真を撮る人が途絶えたタイミングを見計らって座ってみたら、スタッフ札を付けた人に声をかけられた。「叱られるか!?」と思いきや、「写真を撮りましょうか」と。撮ってもらったら、なんか囚人みたいな写真が出来上がった。他に座る人はあまりいなかった。自分がいた間で、他に1人ぐらいかな。
個人的に興味深かったのは、Chim↑Pomの「気合い100連発」「耐え難き気合い100連発」。福島県相馬市の若者達がガレキの中で円陣を組んで「気合い」を入れる様子を描いた映像作品。「福島ガンバレ!」「彼女欲しい!」とか叫んでる中に、「放射能最高!」とかヤケっぱちの言葉が混じる。「国際交流基金よりNGが出た」ときに提案した「NGワードをぼかすような編集」版と同時に流れていて、そちらは、たまに「ピー」音が入って英語字幕にも黒線が入る。編集版と同時に流すことで、ある意味完成した形にも見える(ちょっとヤラセくさくも感じた)。
観客の様子も気になっていたのだが、本当に「普通の人たち」という感じだった。普通の美術展よりは、少し若め&男性が多めだったかも知れない。
「映像・遠近を抱えて」の前半部分は、かなりの人が涙ぐんでいた。それだけに、後半のパートの衝撃は大きいだろう。まさしく現代芸術だ。
最後に。
「抗議の声も含めて作品」「政治家の横槍も含めて作品」と言う人もいるが、「表現の不自由展」は、この一部屋だけで作品としてしっかり完結していると感じた。「表現の自由への反対」という声すら守れない、あるいは何の罪もない職員が身の危険を感じるような状態は、決して看過してはいけないだろう。
http://moro-oka.hatenablog.com/entry/2016/12/12/055556
>当然だが作品をつくる作家だけがいてもアートは成り立たない。
>それを見る人、理解する人、評価する人、批判する人、そういったそれぞれの「反応」があって初めて作品はアートとして成り立つ。
>作家がどれだけ頑張って素晴らしい作品を作っても、それを真摯に見てくれる人がいなければ、何の意味もない、
>李禹煥の石はただの石になり、Chim↑Pomのビルバーガーはただの廃墟になり、ダミアン・ハーストのサメはただのホルマリン漬けのサメとなり、
ごもっともだったりそこはどうかしらだったり思うところが色々ある記事なんだけど、
一番気になったのはこのセンテンスについてで、趣旨からは外れた些細な部分かもしれないが
真っ先に「デュシャンは頑張って便器作ったわけじゃねーだろ」とつっこんでしまったのだった。
作家と作品と場所だけで、アートは成り立たないんだろうか。本当に?真摯に見てくれる人の目が絶対に必要?本当に?
他者の目がなくても、まずは場所とモノの二者関係で成り立ったのがデュシャンの作品だったり、ダミアン・ハーストだったりなんじゃないのか?
芸術を志す(した)人が『僕らは芸大に通ってるだけの普通の隣人ですレッテル貼らないで』って言い立てながらその口で
芸術には未だに『真摯に見てくれる人』の目が必要なのかと思うと、おそろしくがっかりする。
結局それは他者の奇異の目はいらないと言いながら、真摯な目は必要とするという、非常にご都合の良い宣言にほかならないのだから。
アートとして成り立つ作品の前段階には、多分、アーティスト自身と作品との戦いがある。
アーティストがアートという謎と真摯に向き合った結果がデュシャンの『泉(便器)』で、李禹煥の『もの(岩)』で、
ダミアン・ハーストの『ナチュラル・ヒストリー(ホルマリン漬けサメ)』なら、
それを初っ端から"理解する人、評価する人、批判する人"などと真摯な目を期待しなければ成り立たないほどに
そのアートは軟弱ではないはずだし、それを見た人の好奇の目すら飲み込んで人々を頭の中を???でいっぱいにするからこそ、
>しかし、こうした注目は、危険ではありますが、あるいは悪いことではないのかもしれません。
>その注目を、もっと深いところまでわたしたちが持っていくことができれば、わたしたちのやっていることを理解してもらえるチャンスになるかもしれません。
>芸術というものの重要性に気づいてもらえるかもしれません。そうした期待を込めて、書きました。
結局彼女の書きたいことは、「芸術家という人の“こと”」であって「芸術」そのものについてではないし、
それならば彼女が就活してるだの、近況で夢を背負わされて辛いだの自分自身の出来事の記述に終始してることに納得できる。
でも、それは彼女の作った芸術作品でもアートでも何でもないし、私は「芸大生とはなんぞや」という議論と
「芸術というものの重要性」の議論は全くの別物で、前者を特に議論しようとは思いもしない。
Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀と村上隆の対話。」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267(はてブ)
この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。
なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります。
極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないか、ケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。
人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。
つまり、量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。
つまり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます。
繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです。
むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしています。ふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。
たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです。
今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?
作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL
そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)
今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思います。デュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャンを意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムからの反動ガチ保守な村上隆さえも。
このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎の絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。
これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。
しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。
藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)
そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがないから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです。
それ自体はひとつのリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです。
(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応は矮小化だ」とこきおろしてますが、彼は矮小化の意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化を捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)
まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です。