はてなキーワード: 言葉にできないとは
ついさっき仕事でへこんでて、近しい人から軽く責められるような言葉を投げかけられたのよ。
普段なら聞き流せるんだけど、メンタルがヘラっているときに来たから、うまく受け止めきれなくて反発したんよね。
今でもどうしたもんだか…って悩んでるのよ。
自分でも「あのときは悪かった…」って言いたいのか拗ねたいのかもわからんのよ。
わからん過ぎて、discordで『恋愛』タグで検索かけて、相談しようとしたんだけど、あそこの恋愛タグって出会系みたいな機能してるのな。知らなかった。
ってか、自分は何を相談したいんだろう?自分の気持ちの整理もついてないけど、話したいって気持ち。なんだろうね。歌詞でも作れる勢いだわこれ。
「この気持ち何なの〜♪
言葉にできない〜♪
このもやもやは〜♪」
みたいな。
なんか、今朝くらいに『イタリアでは就業問題や金銭の問題などで、普通の家庭の姿が崩壊してる』みたいな記事を読んだけど、関係を続けられる人ってマジですごいわ。
散文 とっ散らかりも凄いな
職場の同僚が私と真逆で空気を読まず言いたいことをガンガン言っては行動し、
それでも評価が高いことが何より気に食わなかった。
ある時飲み会でいつも苦手な最初のビールをちびちび飲んでいる時、
「なんかビール苦手そうに見えるけど大丈夫か?」と話しかけてきた。
「ビールなんて好きじゃないけど空気読んで周りに合わせないと空気読めないやつって思われて嫌われるじゃん。あんたとは違うんだよ。」
「俺も周りもそんなことで嫌わないって、その程度のことで嫌われるなら最初から好かれてもいないだろ。
「何で空気を読んで嫌われるのさ、ちゃんと周りに合わせてるのに」
と返した。
「せっかくの飲みの席なのに本人が全然楽しめてないんだし、無理してる人と飲んだら相手も冷めるだろ。
「ドラえもんでスネ夫っているじゃん。ジャイアンがリサイタルを開こうとしてみんなが乗り気じゃないことにイライラしているのを見て
みんな楽しみにしてるよって持ち上げたからリサイタルに全員強制参加するハメになるんだけど、
確かにこれジャイアンの空気に合わせた対応はしてるように思えるけど、他のみんなのことは無視してんじゃん。
乗り気じゃないのをわかってるなら全員何か用事があるとかいくらでも断る方法ってあるのに
勝手に代弁して自分だけ行くならともかくみんなを巻き込むとか最悪の空気の読み方だろ。」
「空気読むよりその時の対応の方が大事なのによスネ夫はそこが下手くそ。
仕事で言えばクレーム対応できないくせに自分の評価のために綺麗事だけ述べてみんなを後始末に巻き込むなら
余計なことすんなって思わね?
だからスネ夫って嫌われるキャラなんだよ、俺も嫌いだしな(笑)」
うるさいなって思いながらも謎の説得力に押されてちょっと気持ちがグラついた。
「ってなわけで好きなもん一緒に飲もうぜ、ジュースとかお茶なんてどうよ?」
「オッケー頼んでくるわ」
~と同僚のいつもどおりの振る舞いを見て、今度はなぜか少しだけイライラが消えた。
今もまだ同僚のことはどちらかと言えば苦手な部類だと思っているんだけど、それを上手く言葉にできない。
なんとなく前から感じてたが
うまく言葉にできないことがあって
LGBTとDINKSに意識高いおしゃれ感がつきまとうのなんだろな?と。
それ自体におしゃれもクソもないのだけど
けどなんか売れた意識高いアーティストに限ってバイセクシャルとか無性愛とか言い出したりする。
(ついでにオーガニックとかリベラル 的なことも言ってみたりするような。あと昔いじめられてたとか性的虐待受けてたとかも言う)
意識高いアーティストの芸と性的嗜好はなんの関係もない気がするんだが
LGBTなりDINKSでおしゃれ感を出さないとカリスマ感が出ない!と思い込んでそう。
まあ自分はアーティストのライブスタイルに興味はなく作品の良し悪ししか
15年来の友人が亡くなった。
初めて知り合ったのはTwitter上だった。同じらき☆すた好き同士で相互フォローになった我々は、時々タイムライン上で絡むようになった。
お互いにTwitter廃人だったし、当時のTwitterは今よりも活発(体感)で、息をするようにツイートしていたからほとんど毎日雑談してたようなものだった。
リアルで初めて会ったのもらき☆すたのオフイベントで、鷲宮町卒業式とかいう本来らき☆すたのオフイベントでもなんでもないんだけれど、配布される記念コインの絵柄はらき☆すたのキャラだったし当日はグッズも販売されるし、挙げ句ケロロ軍曹まで来るときたもんで(マジでなんで?)、当時の周囲のらき☆すた関係フォロワーはほとんどみんなこのイベントに参加していたんじゃないかと思う。
そんなこんなで当時18歳の自分と、当時29歳の彼は初めて対面した。若かった自分は彼のことをこの頃からすでにおじさんだと認識していたんだが、あなたこの時まだギリ20代だったんですね。すみません。
それからはまぁ相変わらずTwitter上で謎の絡みは続き、時々調子に乗った自分が彼を怒らせてフォロー外されたりもしたけれど、なんだかんだライブだのコミケだのイベントだのでリアルでも会うことは増え、歳が離れててもいい感じの友人関係が出来上がっていったのであった。
彼は最初から歯に衣着せぬというか、時々棘のある言い方もするタイプだったが、10代の自分に対しても対等に接してくれてとてもありがたかったのを覚えている。
そのスタンスはずっと変わらず、変に大人として上から目線で話したり説教臭くもならず、会うといつも本当にくだらない話やボヤきや愚痴を言い合ったり、たまに悩みを聞いてもらったり将来の夢の話をしたりアニメに関係ない他の趣味の話とかもしていた。
Twitterで絡むようになってから10年ほど経った頃、当時の仕事があまりにしんどくてTwitterで愚痴っていた自分に彼がなにげなく声をかけてきた。
「うちの会社中途採用やってるけど興味ある?(意訳)」だ。ちなみに実際は「はよ。」の3文字だったが。
元々彼の会社は知っていて、新卒のときに受けようかと考えたこともあった。めちゃめちゃホワイトな優良企業だ。
別に失うものもないしやってやらぁ!というわけで面談→面接×3→内定まで2,3ヶ月で決まった。
今で言うリファーラル採用というやつで、あっという間に彼との関係性はTwitter友達から同僚に変化した。
内定祝という名の飲み会で、もう40代手前なんですねwwwwなどと煽った気がする。気付けば彼と初めて会った時とほぼ同じ年齢に自分がなっていた。こうなればもう立派なおじさん同士だ。
入社後、彼はエンジニアだが自分はディレクターとしての採用だったので基本的に仕事は別々だ。
が、業務上絡むことは多々あったし、その点すでに関係性が構築できているから、職種は違っても業務上のやりとりは非常にスムーズだった。
相変わらず厳しいこともはっきり言ってくるタイプだったが、そこはもうすでに10年の付き合いでそのありがたみもよくわかっていたから、とても仕事しやすかったし学びもたくさんあった。
彼の顔に泥を塗るわけにもいかないので頑張って仕事に臨んだ結果、何度か社内表彰のノミネート(受賞はなし)もされたりしたので、ツテを頼らせてもらった恩には多少報いられたんじゃないかと思う。
それからは仕事終わりにはよく二人で飲みに行ったし、いくらホワイトといえど生じる会社の愚痴を互いに言い合ったりもしていた。
彼を含め、何人かの同僚とスキーに行ったりもした。
関係性がTwitter友達から会社の同僚になってからもTwitter上でのやりとりは続いていたので、シンプルに以前より深く関わるようになった形だ。
3年経った頃に自分が結婚式を挙げることになり、大変な中だったが彼も参列してくれた。
この3年は会う機会や飲む機会はめっきり減っていた。
休職期間中に一度食事をして近況を聞き、復職後にも一度一緒にランチに行った。
そこでここ最近の話や今後どうしたいかとかいつものようにあれこれ話し、こりゃ酒でも入れなきゃやってられねーな、となって忘年会か新年会をやろうという話になった。
それが昨年2022年12月だ。結局自分がコロナに罹ったりもして忘年会ではなく新年会にしようということになり、年が明けたのでそろそろ声をかけるかと思っていた。
そしたら先日彼が亡くなったことが社長の口から告げられた。享年44歳。
少し調べたら、誰にでも起こりうるし突然亡くなることもある病気だそうだ。
彼の死そのものについての感情はどんなに考えてもうまく言葉にできない。
ウェブ上でのやり取りが長かったとはいえ、15年間途切れずにいた関係性なんて他にはなかった。
悲しいし、正直まだ受け止めきれていないと思う。
あまり本気で死に向き合うと本当につらくなってしまうからあれこれ気晴らしをしてみたが、やっぱりふとした時に思い出して悲しい気持ちになる。
いつかと思っていた飲み会はもう今生では叶わぬことになってしまった。
改めて会いたい人には会える時に会うべきだし、伝えたい感謝は伝えられる時に伝えるべきだと思った。
今の会社に入らなければあらゆる面で生活に安定はなかっただろうし、本当に人生が変わるきっかけをくれた恩人だった。
何度も感謝は伝えたけれど、改めて伝えたいと思う。
あなたのおかげで今の僕があります。本当にありがとうございました。
またいつか酒を飲みながらあれこれボヤきましょう。
母親一家がクリスチャン、親戚の独身女性全員がシスターという珍しい家で産まれた。
大学生になって英文学の授業を取った時に英語で聖書を読み、初めてキリスト教に興味を持った。
社会に出て働くようになってから人間の残酷さとあたたかさを同時に味わったり、人も自分も良くも悪くも変わってしまうんだなと悲しくなったりした。
聖書を読み、寝る前にその日の出来事や感じたことを神様に語り祈るようになった。この世で唯一変わらない神様の存在を思うと、自分らしく人を大切に生きられるような気がした。
ある時、私はラジオから流れてくる曲に衝撃を覚えた。初めて聴く曲なのに異常に心地よく懐かしく感じた。その時点で彼のファンになった。
すぐに彼の他の曲を調べ全部聴いた。YouTubeでアップしていた動画を何度も見たりインタビュー記事を読んだりした。
彼の音楽だけでなく、彼の愛に溢れた言葉に感動した。手帳に書いてみたりした。
しかし最近になって、それが彼の言葉ではなく、サティヤ・サイ・ババの言葉だったことが分かった。今までずっと聴いてきて感動していた音楽にも宗教の教えががっつり織り込まれていた。
要するに、私はクリスチャンでありながら、別の宗教の考えにずっと浸っていたということになる。そのことに気付き、私はものすごくショックを受け頭がぐちゃぐちゃになった。
それの何が悪いの?別にいいと思うものが何個あってもいいじゃん?と思う人もたくさんいると思うし、その考えを不思議だとは思わない。私もショックを受けた自分にびっくりした。
正直、自分はかなり信仰心低めのクリスチャンだと思っていた。神様を信じているというより、自分のために神様の存在を利用しているというか。神様を話を聞いてくれるイマジナリーおっちゃんみたいに思っている、という風に自分では思ってた。
でも実は私は心の奥底では辛い時に教えに導かれたことをものすごく感謝しているんだと気付いた。だからこそ、知らないうちに別の宗教のリーダーの言葉をありがたがっていたことが、神様への裏切りのようで言葉にできない気持ちになった。
彼の音楽は今でも大好きなので聴き続けたいという気持ちはもちろんあるけど、今回の出来事があってなんとなく怖くなってしまった。
キリスト教以外のものを受け入れたくないわけではない。当然神社も行くし仏教用語いいなと思うこともあるし新興宗教に傾倒してるアーティストの曲を聴いたりしてる。でもそれは「これは◯◯という宗教に基づいたものだ」という知識が最初からあるから。
元々「これはこの宗教の影響を受けた音楽です」と言われていればそうなんだなあと楽しめたのにと思うけど、日本では彼がそれを公言するのが難しいのと私がものを知らなさすぎた。
無宗教の人からしたら、楽しいお料理教室に通ってフライパンとかも買ったけど実はマルチの巣窟だったことを後から知ったみたいな感覚に近いかもしれない。そのマルチが悪質かどうかは置いといて、マルチはマルチだから、最初からマルチって分かってたらまだショック受けなかったのに…みたいな(マルチ批判ではなくあくまで例え)
子どもを産んで100日たった
初めての育児は想像以上に過酷で心身が限界まで削られ、もし妊娠前にこの大変さを知っていたら不妊治療を諦めてDinksで生きていっただろうな、と思うくらい過酷な日々だった
でも子どもの可愛さ愛おしさもまた想像以上で、この子が人生に訪れてくれて本当良かったと思う。うまく言葉にできないけど、赤ちゃんが私を見て笑ったり、最近初めたあぅあぅとしたおしゃべりを聞いたり、あまりにやわっこい肌をなでたりする瞬間、愛するものがいる幸せ、そのためにすべき事がある幸せは最上のものだなぁと感じたりしてる
運動できるマウントハラスメントは回れ右して帰れ!!!!!!!!!
私は先日ブラックフライデーにエアロバイク買った増田です。話題入りしていたエアロバイクの記事の書き手ではありません。ゲームと動画視聴が趣味です。以上身分。
あのな、あのな、あのな、
なんなん?まじでなんなん?
あのな、あー↑あー→あー↓言葉にできない、まじで
「置く場所がない」「その為にジム行くのもなあ…」も、わかる。
だけどな、だけどな、お前だよおまえ!!!!!
「ステッパーのほうがいいよ!」「掃除の方がいいよね」「買い物に出かけた方が欲しいもの帰るし…」とか!!!!!
てめーの話は聞いてねえんだよエアロバイクについて語れ!!!!!!!てめーの話はまじで聞いてないんだ、帰れ!!!!!!!百歩譲って帰れ!!!!れ!れ実家でも国でも知らんけど何様のつもりだよ運動できますハラスメントですか?は?関係ない話題とかクソノイズでしかねえんだよてめえの話がしたいだけならTwitter引用とかでもしてろや隙あらば自分語り乙おーつまじでおまえら友達にうえてんだな!!くたばれ!!!!!ごちゃんでもいけ!!!!いや5ちゃんのエアロバイクスレとか覗いた事もないけど!!!!!
はてなは優しいよな、殴られねえもんな、そうだよな
エアロバイクスレで唐突にステッパーだの部屋の掃除だの勧めてくる奴がいたら「え…なにこのすれちスルーしとこ」てなるもんな!!わかる!!!!!でも「エアロバイク買ったで」てスレ立ててたらなんでもかんでも勧める奴でてきてもまあ雰囲気だもんなってなるよな、わかる!!!!!!!
でもお前ほんと自分語りしたいだけだろ、エアロバイク買ったフゥーーーーてやつの家に上がって否定するのは勝手だけどお前そのクッッッゥソどうでもいい語りつけてブクマした記事後で見返したりするの?しなくね?????実体験としてしなくね??????ブクマしてる暇あれば掃除でもしたら???????
あのな、エアロバイクしかできないけどな、私はエアロバイクしか駄目だけどな、まずウォーキングとランニングとジョギングは人目が怖いのな。
クソザコナメクジうんちの増田は体育が苦手だったんだけど体育嫌いなやつ、マジで運動が嫌いで嫌悪感が強くて、運動の為にシャワーの回数増やす贅沢、、そう、贅沢がうおーーーーーってなる話からしたらいいんやろか???しらんけど????
体育嫌いなやつに聞きたいんだけど注目されるの怖くない????増田だけ????
増田もかつてウォーキング(14分/km)とランニング(13分/km)をしたことあるよ!!!ー!!河川沿いの土手はしったよ!!!!!それで出た結論は、衆目がとにかぬ怖いってことだった!!!!!!!
「あ、なんか走ってる人いる~」とか自分が抱く乾燥を他人も恐らく持ったりするのでは????って思った!!!!!ー!!
「え、なにあいつ、、歩くのと走るのの速さが変わらんな…(わら)」
「顔真っ赤にして走っとる(わら)」
「ダイエットかな??(わら)」
だからランニングやジョギングをしたくても選択肢はランニングマシンやジムになるわけ!!!!!
ジムとかお金払って意識高い人の集まりにいく訳で、それでモチベ上がるとかそういう人には向いてると思うんだけど、人の目が怖い増田は余計に、怖くなる訳です、ジムとかマジで運動したい人がいくからその辺走ってるやつとかより余計にバイアスかけて見てくるやつしかおらんやろ、そんな他人に興味ない?いや、私も興味ないけど「プッ」とか笑われた瞬間に二度とそこに行かなくなる、しってる。もうくたばれ!!!!!私くたばれ!!!!!人間こわい!!!!!人間こわい、関わりたくない、すれ違いたくない、ゴミになりたい、ゴミになっても、もしゴミになっても、スーパーの床に付着したガムみたいに気付いた人が「あ、ガム落ちてる」と思った瞬間「生きててすみませんっしたーーーー!!!!!!!!!!」っていって道路に飛び込んで死にたくなる、なんで人間は恥ずかしい行為でも努力していれば美徳だとするの??なんでダイエットという名目であれば他人の前で息を切らせて走ったりピチピチの運動用の服でコンビニに入れたりするの?????運動してますアピールなの??運動してない奴らを見た目で殺し存在で殺し、だからおまえはだめたんだ俺を見習えって押付けてくるの???もうやだーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!
汗臭いの嫌いだし仕事後に運動したくないしそもそも運動嫌いだし他人に関わる事も他人の目に晒される事も避けていきたい!!ーもうやだー!!!!!!!!
あと拭き掃除でもやれってお前な!!ー!!お前!!!!!!毎日寺の廊下の拭き掃除してたけどな、義務教育のときな、あれ飽きるんだよ!!!!!!!手が使えないの!!!!わかる?????雑巾持ってるもんな!!!!!!暇を貰える感覚は聴覚と味覚しかねえから!!!!!!!!!!何か見ながら掃除しろってか!!!じゃあ掃除する場所に合わせてデバイス移動させないとな!!!!無理!!!!!!!はー??????????
昨今のロボットに掃除さすとかクイックル的なのとか楽に掃除できる環境に逆らえるマウントありがとうございます!!!!!!!!!!!!!かえれ!!!!!!!!
買い物しろよってお前は週に何回も数時間の買い物に行くのか!!!すげえな、お前の財布寄越せよ、日々の食料買いに行くだけで死んでるわ、まじで数時間の買い物で手が塞がる量を買えるお前の財布くれ!!!!!!!!あと、買い物に出た時にやりがちなちょっとした買い食いや食料の買いすぎ等への対策もお願いします。普段見ない臨時店舗で知らん地域で有名そうな専門店とか見つけてしまった時の気持ち。本日最終日です!!!とか!!!!!カロリー!!!!!!!!!
その点ステッパーは室内でひとりでやる点で共通してるし動画とか見れるし限りなくエアロバイクに近い感じでやれるのはわかりますけど「ステッパーの方がいいよ(根拠なし)」みたいな話は聞いてないですエアロバイクにきょうみを持ったやつには今エアロバイク買うか・もうエアロバイク買ってるか・これからエアロバイク買うか検討しているかという人なのでステッパーがおまえのライフスタイルにあっていたとしてもそこで???いう??????ここで??????いうことです??????か??????ふぁーーーーーー!!!!!!!!!!てなります!!!!!!!
お前が良かれと思って勧めていることでも意味わからんしステッパーよりバイクの方が楽しいんだよみたいに思うんですけど????ここでいう????ふぁーーーーーーーー
筋トレ!!!高負荷しんどいんです!!!!低負荷でだらだら1時間くらい有酸素運動やらせろ、何がスクワットだ、スクワットはいいものだけどスクワットしながら仕事しろ言われたら殺意しかわかんわ!!!!有酸素運動の話を聞け!!!!!
訳分からん突然のべつの運動器具!!!!!お前の事情はしらん!!!!!!話を聞け!!!!!!!!
スイッチのゲーム!!!!!!それ結局別のゲームする時間増えてるよね?!?!?!!!!!あとプレイ履歴で知人に「えー、増田さんリングフィットしてるの??」とか気付かれた日には首つるから!!!!関わりたくないのに強制的に友達登録とかフレンド機能とかで競わせるのまじでやめてくれますか!!!!!!!なんでいちいち機内モードにしてプレイするか??????人間嫌いなんだよ、私生活覗き見られてる気がしてこわいわ、お前もプークスしてるのか、むり!!!!かえれ!!!!!きえろ!!!!!うわーーーーーー!!!!!!!!!!!!!
もうやだ運動きらい!!!!運動きらい!!運動こわい!!!!自分がこれ好きって言っただけで唐突に脈絡もなく自分がやってる運動アピってくるとか意味わからん、意味わからんすぎてもうやだ、人間怖い運動きらい、運動こわい、生産的な話をしろ!!!!!!!!!
日課のソシャゲのデイリー周りながらできる運動以外認めない!!!!!!むり!!!!!!!!ながらがいいって言ってんだからそこは合わせろ、会話を成立させろ、うわー!!!!!!!!!!!!!
凄く分かる!!
職業柄クラシックの楽譜を買うことが多いんだけど、古書店に行って色々な書き込みとかがある本を見ると、音は聞こえないはずなのにその人の音楽が感じられてとても風情がある
400年も前に作られた曲が、数百年経ってもなお無数の解釈と息遣いをもってきらきらと輝いているのは言葉にできないほど感動的だ…
表紙の裏に”19xx年何月何日、〇〇にて購入”なんて書き込みがあるとそれはもうたまらなく嬉しい
そんな大切な本がどうして古書店に流れ着いてしまったのかを想像するのも良い…この歌曲集を歌った方はまだ存命でいらっしゃるのか…とうに亡くなっていて遺品整理などで手放してしまったのか…
ある男がいた。男は美しいものに取り憑かれていた。より正確に言えば、美しい体験というものに取り憑かれていた。
美しい体験とはなんだろうか。素朴に考えればそれは胸を打つ、息を呑むものである。すなわち身体に衝撃を与えるものである。その顕著なものが女性であった。
女性との甘い時間は実に美しい体験である。それは甘美という言葉のあるとおり、味蕾にとろけるような刺激を与える。想像するだけで目を細めてしまう甘さ。男は女性との時間を過ごす前に、必ず想像する。声に混じった微かな吐息の色気を。男の当意即妙な言葉に思わず微笑んだ女性の、わずかな火照りを。対面して席につくときに擦れる布の音を。子どもの頃の情けない話を交わして、心の距離が縮まるのを。映画のように目が合う瞬間を。指がグラスをなぞるのを。まだ帰りたくないとお互い言葉にできないのを。
その想像、男にとってあまりにも都合の良い妄想が現実になることはない。美しい時間の全ては偶然が奏でる。
はじめからこうなるとわかっていたかのような性交。肉体と、その感覚と、理性と、美意識が、互いに互いを必要としながらも目的とも手段ともしていないことを徐々に明らかにするような波。どちらかの死を見送るような予感。髪の先からパチパチと閃光が弾けて、その放射から世界が裏返る。考えられないほど柔らかな肉。自分の硬さがどのように伝わるのか、とても想像できない。陳列棚のうしろにぶらさがった永遠。首を絞める。耳を噛む。恥骨の上のやわらかさを押し潰す。緑と桃色が目まぐるしく入れ替わって思わず舌を突き出す。互いの口腔が狂気の月になる。リズムはこうして生まれたのだと悟る。
果てて、巫山戯ながら言葉を交わす。もう次の交わりのことを考えているのに、どこか表に出せずにいる。味の濃いものを食べにいくため、散った衣服を集める。肌を触り足りなくて、名残惜しみながら抱き寄せると、服の上から感じる身体の線が何よりも劣情を掻き立てることに気づく。いつのまにか汗が乾いて、互いの体臭に花やナッツのような心地よさを感じる。このようにして人は番う。
2歳の長男がいる。最近、妻が妊娠していることが分かったのだが、早々に性別が男だって判明した。(めっちゃデカいらしくて医者が驚いてた)
夫婦間でこどもは2人までと決めてたので、これで我々は女の子を育てることがなくなったということになる。
2人目の性別は、心から「どっちでもいい」と思っていた。長男は超がつくほど可愛いし、飲み会の誘いとかめっちゃ断りまくって家に帰ってる。
これが二人に増えるっていうのも素直に嬉しいし、男二人は父親のしがいがあるってもんだ。
実際、女の子は将来的な心配もめちゃめちゃ多いし、気をつかうこともたくさんあると思う。思春期は嫌われるだろうし、「くさい」なんて言われた日には心底落ち込むと思う。
…それでも、娘から「パパとけっこんするの!」と言われて妻に自慢する未来、大人になった娘に「昔はごめんね、お父さん」と謝られる未来。
「2人目も男の子だって!」と妻から報告されたときに頭に最初によぎったのがこのイメージだった。そういうステレオタイプなイメージに憧れがあったことに、この状況になって初めて気づいた。
男の子でいい、それは全然変わらないし、変な心配をしなくて済むことにほっとしている自分がいるのも事実。だけど、なんだか「そっかあ~」という感じ。うまく言葉にできないけど、この複雑な感じ。「女の子が欲しかった?」と聞かれて「いや、男の子が良かった」は嘘になる。
でも、3人目はない。あんなにかわいい息子が二人に増えるなんて、本当に嬉しいしこのまま無事に育ってほしい。
素直に喜びきれない自分がちょっと嫌だな。女の子、と決まってれば「女の子は女の子で困っちゃうな」とか言いながらニヤニヤしてる自分が想像できてしまうだけに。
昨日まで机の上に置いてあった本が今は無くなっている。最近はその上にいろいろ積み重ねていたのでの存在を忘れていたけど、持ち主に「返して」と言われて掘り返すことになった。
〜〜〜
"歌集をプレゼントしたことがある人"になりたくて、誰にあげようかと機会をうかがっていた。たまたま、仲良くしたい人が雑誌「ダ・ヴィンチ」の短歌のコーナーを毎月楽しみにしているという話を聞き、きたきたと思った。渋谷のhmv&booksの詩歌の棚とにらめっこして、帯に書かれていた
「目がさめるだけでうれしい人間がつくったものでは空港が好き」
という一首に惹かれ、装丁も彼女のイメージにぴったりだと思い、雪舟えまの詩集『たんぽるぽる』を誕生日に渡した。
なんと彼女はそれを図書館で借りて読んでいてとても気に入り、今度買おうと思っていたという。恋人のいる人をプレゼントでぐさりと刺してしまってヒヤヒヤしたが、それくらいじゃ揺らいではくれなくて安心した。
そんなに人を刺したプレゼントをできたことを自慢したくて、好きな人と遊んでいるときにその話をした。彼女もその一首をきいて、「わたしもその歌集が好きだろうね」と言っていた。
その話をした帰り道、気持ちを伝えて彼女と一歩先へ進んだ。恋人という契約はいらないので特に「付き合ってください」とは言わなかったが、そう名づけてもよい関係に、それからなった。
少し経って二人でhmv&booksに行くことになったとき、彼女が『たんぽるぽる』を買った。私は同じ棚から同じ本が2冊別々に旅立っていくのに初めて立ちあった。
そしてまた少し経ったあと、ファミレスで並んで座り、二人でその詩集を読んだ。ドリンクバーのティーバッグやそれが入っていた紙の袋を散らかしながら、ページをめくる係を交代しながら、一首ずつ読んだ。逢わなかった次の日に「『逢えばくるうこころ会わなければくるうこころ愛に友だちはいない』だね」なんて言っていた。
彼女がこの詩集をほしいと思った理由のうちに"嫉妬"が入っていたらどうだろうと思った。"好きな人が私以外に上げたプレゼント"を自分でも持っていたいという感情の渦のなかに自分がいるのだとしたら、とてもなんだかあれだな。雪舟えまの歌は、まるくて優しいものを紡いでいるけれども、そういう棘と無縁ではない感じがあって、このエピソードはこの詩集にぴったりだなと、胸に秘めていた。どうせいつでも返せるからということで、『たんぽるぽる』は私が持っていることになった。
その時をピークに、だんだんと二人の心は離れていき、今まで1ヶ月以上膝を突き合わせていない。「付き合おう」と言っていないせいで「別れよう」と言う必要がないので宙ぶらりんにある。先に向こうの恋が冷めて、友だちでいましょうという話はした。特別で大事な人間に変わりはないとも言ってくれた。だがこちらは今、それも受け入れられないほど心が離れている。それはまだ話題にもあがっていない。伝えたら驚かせるのか、察しているのかもわからないほど離れたところにいる。「話そう」とも「離そう」ともとれるよう「はなそう」とは言ってある。
宙ぶらりんをやめるためになにか伝えるとして、「もう好きではありません」と自信をもっては言えないが「あなたのことが嫌いです」とは実感を持って言える。"嫌いになった"わけではなく"もともと嫌いだった"ことに気づいた。ひどいことをされたとは思わないけど、向こうが普通にすることにモヤモヤするなと気づいて今に至る。こうしてわたしが日中の物足りなさを純粋な孤独で埋めるよう感傷にひたっている今、彼女は自分を愛してくれる世界へと健やかに目覚めていくために体を休めているのだろうと思うと、そういう人間に魂の何を捧げるつもりなのか、ちゃんちゃらおかしいと思えてくる。同じものをみて同じことを切実に考えていたつもりだったけど、生きているだけで愛され満たされている彼女に切実なものなどなにもないんだろうどうせ。「大事な人だ」とか、「君しかいない」とかは、そのときは本当に口に出して気持ちよかったから言っていたけど、今は口が裂けても言えない。好きになるために無理して言ったわけではないけど、客観的にみると事実ではない。そのときの「私」はそう思っていたけれど、それは今の私と違う心の持ち主だという気がする。先に"冷めて"いただいたあなたですがこの"覚めた"感覚わかるでしょうか。
そういうつい最近までの「あのころ」感じていた気持ちは、"私のものであったことはないけれども、買ったことも読んだこともある"あの本と同じだ。
でも『たんぽるぽる』を読んだときに感じる、"美"みたいなものは同じように感じることができるだろうことは否定できない。でもそれは言葉にできないから確かめようがない。
言葉にできないなにかで繋がっていて、言葉にできるすべてで離れている、そんな気がする。
話す必要も会う必要もないが、完全に拒みたいわけではない。持っている必要もない本だけど、これを返してほしい理由が「他の大事な人と読みたいから」だとしたらめちゃくちゃモヤモヤする気持ちはある。まぁこれは誰にでもあることでしょう。本は埋もれていたけれど、あなたのことはこの1ヶ月ずっと手前にあってどうすればいいか考えている。
とはいえどうせ愛される自分がだいじで足りないものなどないあなたは「ならそういうことで」と、本といっしょにこれっきりになるだろうから、悔しくて残念。あなたにとっての"切実なもの"に私がなれたら嬉しいのだけど、私にとってあなたがそうである理由が見当たらないように、あなたにとって私がそうである理由も見当たらないから、悲しいけれど驚きはしない。
わざわざ伝えることではないけど知りたいことかもしれないと思い、見つけてくれればとこんな使ったこともない媒体で書いたことのない類の文を書いている。もらってばかりのあなたにはもう何もくれてやるつもりはないが、手を伸ばしてくれるならどうぞ手に入れてほしい。「違うよ」と伝えたいと思ったら伝えてほしい。
なぜ今になってこの話を書くのかというと、
今、おばあちゃんが亡くなったことを受け入れられたと思ったからだ。
嫁は明日から新しい職場で仕事だからゆっくり寝かせてやりたい。
子どもと俺は別の部屋で寝ることに。
とりあえずトムとジェリーを見せて布団の用意をする。
その後に食器洗い、乾燥機にかけた洗濯物をしまう、リビングの片付け。
全て終わらせて布団に横になったとき、ふとおばあちゃんのことを思い出した。
思い出したのはおばあちゃんが喜んでる顔だった。
婚姻届の証人欄はおばあちゃんに書いてもらいたいと言ったときの驚きと喜びに満ちた顔。
嫁に俺が小学生のときの写真を見せながら思い出話をする嬉しそうな顔。
おばあちゃんがカラオケ大会に出場したとき、俺と嫁が一緒に選んでプレゼントしたブレスレットをつけると上手く歌えたという話を何度もしているときの顔。
でももういない。
二度と会えない。
そう考えると不安な気持ちに襲われて、居ても立っても居られなくなった。
癌を患っていた。
亡くなるまで全く気づかなかった。
なぜ癌だと気づかなかったんだ。
おばあちゃんは最期まで俺に心配をかけまいとしていたのだろう。
亡くなる直前まで、二度会えなくなるとは思いもよらなかった。
正直、混乱していた。
声が震えて、それしか絞り出せなかった。
想いを伝えるには遅過ぎた。
翌日、息を引き取った。
まるで俺の帰りを待っていたかのようだった。
現実味がなかった。
おばあちゃんちに行けば「よく来たねえ」って迎えてくれる。
そんな気がしていた。
不思議と涙が出なかった。
あまりにも突然過ぎて亡くなった実感がなかったせいかもしれない。
仕事や子育て、モンハンで忙しい日々を過ごしていたからきちんと整理する暇がなかったせいかもしれない。
なんというか、うまく言葉にできないけど、おばあちゃんが亡くなったことから逃げてたような気がする。
でも、今はもういないということを心で理解できたと思う。
おばあちゃんとの思い出を思い出すとまだ涙がたくさん出てくる。
でも、うまく言えないけどそれでいいんだと思う。
自分は集団からよく浮いていたり、ズレている人と良くつるむ傾向がある。
それは、その人の欠点を許容する代わりに自分のことも許容して欲しいからではないだろうか。
自分は人に裏切られるというと大袈裟だけど、切られたくないという思いがあるようで
集団によく馴染んでいる一般的な人間を相手にするとどうもいつ切られるかどうかに怯えてしまい、ものすごく当たり障りのない振舞いになってしまう。
そういった人達は凹みのない真球のような存在で、簡単に自分のことを見限ってコロコロと遠くの方へ行ってしまい二度と自分のもとには帰ってこない気がするのだ。
だからこそ自分は(わかりやすい)凹みのある人間に近づいて、その凹みを下にして、受け入れてやることでなるべく自分のところから転がらないようにしているのではないだろうか。
人間だれしも大なり小なり凹みを抱えているが、明らかにその凹みが大きかったり、その数が多い人がいる。反面そういった凹みが小さく限りなく真球に近い一般の皆さんはかなり無自覚に無邪気に凹みが多い人間を排斥していて、それがとても怖い。
自分は見た目は真球に近いけど、なんだか色がちょっと違うようなキモい球体だと思っている。実際どんな人間であるかは客観的な目線で見てもらわなければならないけれど、何かしらのうまく言葉にできない欠点に自覚的である。だからこそ真球に近い人が怖い。
一点、親や兄弟といった家族だけは自分が何をしても「しょうがねえな。」で受け入れてくれる気がしてる。血の繋がりというのはこの(それ以外の)無条件の許容が認められているのが本当に心強い。
だからそういった繋がりのない他人と絡むときは、その代わりに凹みのある人間に限定することで、なんとか許容してもらえることを保証しようとしているんじゃないか。
真球に近い人間に向き合っていくためには、その人に欠点を見出すか、全て諦めて、自分を見限られてしまうかもしれない、または既に見限られているということを受け入れた上で全身全霊で接していくしかないのだろうか。