はてなキーワード: 漠然とは
上記の台詞は村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリに村上春樹の記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど
タイトルで述べた台詞は村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレだけれど適当な台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章が漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキスト。タイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。
昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている
「小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか、小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)
完璧な文章とは何で、完璧な絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。
つまり、文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまり、もっと言うならば自分の意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。
とは言え、何らかのエゴを文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章の純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり、人間は文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章に自己のエゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものがエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴは小説の小説たりえるための何かを、文章の文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔なものでさえあるということなのです。
あるいは、完璧な文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章に自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧な文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧な文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。
ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧な文章などといったものは存在しないのです。完璧な絶望が存在しないようにね。
伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というものは存在しません。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己の存在がこの世において断絶してあるということです。自己の存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。
「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分の感情を、自分のエゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧な文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。
自己がそこには混入しており、エゴが文章を汚濁させているからです。
伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。
でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分の感情を伝達することなく、何一つ自分のエゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章が存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧な文章である筈です。
そして、それは同時に、明白に絶望なのです。
誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧な文章であると同時に、完璧な絶望の表現ということになるのです。
そう、存在しないのです。そんな、完璧に絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧な文章は、完璧な絶望が存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅を表現することは、不可能だからなのです。
あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧な絶望が存在する時、完璧な絶望の存在は否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり、比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。
だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまりは自分の真実を混入してしまうのです。そこには、表現の不可能性ではなく、表現の不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。
精神疾患は病識と治療意思を持つことが難しい。問題が表面化した段階にはだいたい病気であることが当たり前になっている。特に思春期青年期に深刻な事態になると健康である自分のイメージが本人にも周囲にも分からない。
つぎに、自己・医師・(いれば)援護者が全体像を理解するのが難しい。二次障害に翻弄されることはもちろん、二次障害とその病歴・治療を軽視するのも良くない。治療の全体像を描いて、今何をしているのか自覚的にならなければ、患者に漠然とした無力感を与え治療からの離脱を招く。
最後に、環境を変えるのが難しい。家族や学校・職場の扶助を陰に陽に前提とする社会で、これらがむしろ原因になっているケースが多く、対処の手段が少なく助けられづらい。助けられなくて当たり前だと本人も周囲も思っている。特に、心理的環境は表面的な情報からは実態が見えてこないので、患者本人との接しづらさも相まって無視・無理解が至るところで生じている。
個々のイシューに関してなら反論できるし、現代のフェミ勢力の抱えている問題点も指摘しようと思えばできるけど、フェミニストの主張全般を『間違っている』と根拠を示すのは不可能だよ。
善悪正誤の問題じゃなくて、あまりにも範囲が広すぎて漠然としているからという意味で。
ただ一つ、社会は『フェミニストの主張』で変化を求められる前の状態が”自然”で”フツー”だという事実は言える。
もちろん『今の社会の一般的価値観が全て正しい』なんて言うわけじゃないよ。変えなくちゃならないことは沢山あるだろうさ。
ただ、ある程度の多くの人が妥当だと思っているから今の社会はこうなっているわけで、それを否定し、改革を望むなら、それを求める側が現状は間違っているということ、自分達の新しい考えは正しいということを示さなきゃならない。
俺も含めた世の大多数の現状で満足している派はそれを聞いて正しいと思えば受け入れるし、間違っていると思えば理屈で以て叩き潰すだけだ。
ジャッジ云々に関してもそう。現状、フェミニストが叩く表現もそれが世の中にあるのが普通な状態になっている。
だから、理路整然とていて世の人々の多数が納得するような主張がなされない限りは、なにかを主張するまでもなく「まあ今のままで良いよね」としかならない。
特に、表現の問題に関しては本来あらゆる表現は存在が許されていて、特別その表現が存在することにより重篤な人権侵害が起こる場合のみ必要最小限の限定的な範囲でのみ制限が行われるべきものだ。
だから、なんで許されると言われたら許されるのが当たり前だからとしか言えないし、それでもなお間違っていると主張するなら主張する側が自分たちで世の中の大多数を説得して世の中を変えて行ってください頑張ってね以上の発言はできないよ。
(やるなら、企業に圧力をかけて無理矢理動かすなんて卑劣で暴力的な方法じゃなくて、広く社会の理解を得る形でやってね)
で、自分達の考えの正しさを主張をするのではなく、まぜっ返すことしかできなかったあなたや、『理屈を捨てて炎上パワーで企業に自分たちの言うことを聞かせちゃうぞ』っていう歪みきった主張をしていた元増田(同一人物かな?)は自分達の正しさを理屈で以て示せるのかな?
そもそもプロモーションをやっている側からすれば、自分たちが良いと思うものを作り、事を行っているだけで、問題なんていうのは外野が勝手に後付けしてきたものに過ぎないよ。
もちろん社会善というものは考えなきゃ駄目だが、それは異様な噛みつき方をしてくる少数勢力の顔色を窺ってやる必要があるという意味ではない。
ドラマ版ゆるキャン△2期の制作が決定したので、記念に大垣城の思い出を書く。ドラマ版の大垣があまりにもアニメの大垣そのままだったことに感動して、大垣に関係するものを何かしてみようと思い、大垣を観光しようと大垣城へ行った。今年の3月のことだった。
岐阜県大垣市のJR大垣駅から歩いて10分で大垣城に到着した。当時は児童・生徒の入場はコロナ禍により制限されていたが、そうでない私は特に問題なく入場できた。大垣城は関ヶ原古戦場に近く、最上階の天守閣から西の方を眺めると、南北を山地で囲まれた関ヶ原が琵琶湖方面への通り道のように見える。もちろん大垣城内の展示では関ヶ原の戦いを売りにしており、戦いの様子を表現したジオラマの展示、当時用いられていた当世具足の展示、武器を手に取って体験できるコーナー、ビデオコーナーがあった。
私がその中でも気に入ったのはビデオコーナーであった。入口の立て札には「SEKIGAHARA」というタイトルと劇画調の石田三成と徳川家康の精悍な顔が描かれており、「関ヶ原の戦いはただの権力争いではなく、後世の武士の価値観を決定するイデオロギーの闘争であった」みたいな感じ(注:正確な文章は忘れた)の煽り文が異彩を放っていた。中を見ると、公立図書館の様な一人再生用の視聴ブースが5つほどあり、映像は全部で2時間と説明文にあった。大垣城以外にも「奥の細道むすびの地記念館」など市内をいくつか観光するつもりだったので、10分ほど軽く見るつもりでヘッドホンを装着してDVDの再生ボタンを押した。結論から言うととても面白くて、1時間ほど見てもまだ続きが見たかったけど、泣く泣く中断したほどだった。
私は高校で日本史を履修しておらず大河ドラマの類も見たことが無く、石田三成を見ても「誰だっけ?」と思ったほどである。関ヶ原の戦いは豊臣と徳川の争いであるとは漠然とは知っていたが、関ヶ原の戦いの時には豊臣秀吉がすでに故人だったことも知らなかった。そんな私でもDVDに夢中になった。
映像は豊臣秀吉の死から始まる。秀吉を豊臣財閥の筆頭株主兼社長に例えて、五大老は秀吉にM&Aで吸収合併された競合他社の社長としていた。五大老は自社の株式の全てを秀吉に売り、代わりに秀吉の会社から株式を譲り受けて豊臣財閥の取締役になったという設定である。五奉行は執行役員部長で秀吉生え抜きの社員だという。それぞれの大名の石高数は、豊臣財閥の持ち株数で表していた。
秀吉の跡を息子秀頼が継いだものの未成年で実権がないので、成人するまでは取締役である五大老が秀頼を補佐するようにというのが秀吉の遺言である。遺言に反して株式保有数第二位で副社長の徳川家康がクーデターを企て、それを社長室長兼企画部長の石田三成が阻止するというのが「SEKIGAHARA」の大きな流れだ。250万石もの大資本を持つ取締役副社長の家康に対して、わずか18万石の部長に過ぎない三成がどのように対抗するのか。この会社組織で例えた設定がナレーションや図表でわかりやすく解説されたので、歴史に詳しくない私でも現代ドラマを見るように楽しむことができた。
時間がなかったので飛ばしながら見たが、それでも全部見終わることはできなかった。この「SEKIGAHARA」は「原作:堺屋太一」とあったので、帰宅後に原作を読んで関ヶ原の戦いを調べることにした。原作小説の「大いなる企て」でも、五大老や五奉行を会社組織で例えており秀吉の死から物語が始まる。しかし、映像版と原作小説ではストーリー構成が大きく異なっていた。映像版では秀吉の死後に関ヶ原の戦いが始まり、合戦の様子を三成と家康のそれぞれの視点で描くのがメインであった。それに対して上下巻構成になっている原作小説では、朝鮮出兵の和平交渉と撤退に三成が中間管理職として苦労する描写に長尺が割かれている。朝鮮出兵から帰還した大名に対して三成が秀吉の葬儀を取り仕切り、それがようやく一段落ついたころには上巻が終わるという具合だった。関ヶ原の戦いはいつ始まるんだと思っていたが、残念ながら原作小説は関ヶ原の戦いが始まる前に完結してしまう。
原作小説は私の期待に反して関ヶ原の戦いは描かれなかったけれども面白かった。それにしても、原作では三成が中間管理職として苦労する地味なサラリーマン小説であるのに対して、映像ではドラマのようなエンタメに仕上がっているのはどういうことだろうか。気になって原作者を調べてみたが、堺屋太一がただの小説家ではないことが分かった。
堺屋太一は元通産省の官僚であり、大きな業績として大阪万博の企画立案に携わったことがある。通産省を退官後は、小説家・博覧会のプロデュース・ドラマなどテレビ番組のプロデュース・大臣・学者・政治運動とマルチに活躍しており、どれをとっても大きな功績といえるだろう。「SEKIGAHARA」のプロデュースも堺屋太一の活動の一つだ。「SEKIGAHARA」では単に原作のストーリーをなぞることにこだわらず、大垣城の展示作品としても、エンタメとしても楽しめる物を意識してプロデュースしてきたことだろう。
堺屋太一を知らない人でも、「団塊の世代」という言葉は知っているだろう。「団塊の世代」は元々堺屋太一の小説のタイトルで、当時「戦後っ子」と呼ばれた戦後生まれの世代が、将来社会でどのような役割を担わされるのかを予想した近未来小説である。この小説も私は最近読了したので感想を述べてみる。
1970年代中頃に連載した当作は80年代90年代のバブル景気とその崩壊を予測できなかったものの、団塊世代の出世が頭打ちになること、無駄に役職者が高い人ばかりになり組織のピラミッドが歪になること、人余りの団塊世代が関連企業へ出向されるなど、年功序列型の賃金上昇や終身雇用が維持できなくなる現在を予測している。
団塊世代は今でこそ巨悪と描かれることが多い。昨今話題になったドラマ半沢直樹もその一つだ。ドラマでは銀行マン無双というタイトルが似つかわしいほどの勧善懲悪痛快劇であるが、原作小説では「オレたちバブル入行組」のタイトルの通り、バブル世代である半沢直樹らが団塊世代に復讐をする世代間対立の物語である。ただ、原作でも世代間対立の色合いは作品を経る毎に薄くなり、三作目で「ロスジェネの逆襲」というタイトルで半沢らより下のロスジェネ世代の人物を多く登場させながら、ロスジェネ世代がバブル世代や団塊世代に逆襲をするというわけでもなくタイトルに反して半沢直樹無双となっている。四作目ではとうとう世代間対立は関係なく、その時話題になっていたJAL再生タスクフォースや民主党の事業仕分けをネタにして半沢直樹無双をやるだけになってしまった。ドラマ2期で過剰な演技や顔芸ばかりが取りざたされることに批判もあるが、原作もこの様なものである。
閑話休題。しかし、「団塊の世代」を連載した1970年代中頃では、団塊世代はまだ二十代の若造である。その頃から戦後っ子が老害へと変貌する未来を予測したのは流石としかいえない。「団塊の世代」の4話では1999年が舞台になっており作中では、団塊世代が既得権益をむさぼりレジャーにうつつを抜かして経済や技術の発展を妨げた、と批判がなされている。大阪万博など一大レジャーを築いた堺屋太一自らがこのように評するのは痛快にして皮肉でもある。
ちなみに、堺屋太一は1935年生まれで2019年に故人となっている。多くの業績を残したすごい人を亡くなって1年も経ってから私が知ることになるとは何て残念なことだろうと思ったが、それで堺屋太一の小説の面白さが色あせることもないので今も読んでいる。
ゆるキャン△ドラマ2期決定を機に大垣城の思い出を述べてきたが、関係ない話が長くなってしまったので、この辺で筆を折ることにする。
よく誕生日には両親に感謝。と聞きますが、私の母親とは離縁してますし、父親は自殺したため死別しています。今まで何度も別の家庭で生まれ直したかったと思ったし、正直産まないでほしかったと思っているので、両親への感謝の念は1ミリも湧いてきません。
18歳までは児童養護施設で面倒を見てもらい、今までは年の離れた兄が面倒を見てくれていました。もちろん双方へは感謝の気持ちがあります。しかし、児童養護施設は仕事だから面倒を見てくれているのだなと感じる場面が多く、むしろ嫌な思い出が多いのでもう顔を出したくないです。そして、兄は私が20歳になることをあまり喜んでいません。兄の方が両親から酷い扱いを受けた期間が長いので、生きることに前向きでないのです。そして、私には兄以外の親族がいません。
18歳から高卒公務員となり働いていましたが、社会性に問題があり、職場内での人との関わりに膨大なストレスを感じてしまって体調を崩してしまい休職中です。現在は日常生活もままならず、復帰は絶望的な状態です。
頑張って生きていこうと思って公務員になったのに、ろくに仕事もできない自分が惨めで情けないです。兄も障害者雇用での勤務のため、給料が安く、生活だけでいっぱいいっぱいです。人間関係にストレスを感じてしまうので、友人も極々少数です。他人に恋愛的好意を抱かないので恋人などもいません。
なんとなく漠然と二十歳手前まで生きてきましたが、なんのために生きているのか自信が無くなってきました。生きていくための柱がない。この先も人生が続いていくのが辛いです。不安定な兄に頼るわけにもいかず、苦しみを吐き出す先もありません。
みんなどうやって生きる希望を持っているんでしょう。将来への不安は尽きず、生きるのはこんなに難しいのに。
二十歳という節目が怖いし、その先も人生が続いていくことも怖いです。生きることに意味は要らないことは理解していますが、実際に意味無く生きていくことは辛いです。育ててくれた恩を感じる相手もいないし、生きがいもないし、未来への希望もない。たった二人でこの先もひっそり生きて死ぬだけの私たちはどうしたら前向きに生きていけるでしょうか。
元増田です。
追記後の返信は差し控えようと思っていたのですが、返信させてください。
丁寧なお言葉、ありがとうございます。
同じような境遇を経験されていたとのことで、少し嬉しくなりました。縁があれば、友人になっていたかもしれませんね。
私は、自己否定の気持ちも、自分自身を嫌いな人を好きだという気持ちも、ハッキリ言って分からないです。
私は、交友関係に不足を感じた事はなくて、自分自身を嫌いだと強く思ったことも無いし、自殺未遂をした事もありません。自分が嫌いだなとは思うことはありますが、消えてしまいたいと願ったことはありません。
でも、色々あって「人を信頼しすぎるのをやめよう」と思うようになりました。バカを見るのは自分で、悲しくなるのも自分なら、人を信じすぎる事はやめようと心に決めました。
そのせいか、外面だけは良くなって周囲からの評価も悪くは無いというのに、素直に喜べない自分がいます。
この事を承認欲求を満たされていないというのであれば、そうなのかもしれません。
本心の自分を認めてくれる人はいないだろうなぁ~…と漠然と感じることはあるので。
他にも理由があるわ
この世の中にはね
そーねー例えば……
人々の生活や貧富を語る時
あーいうのって
不思議と眺めてられるわ
油断すると時間を吸収される
無機質だけど精密で等速
たまに不調があったとしても
裏切ったりはしない
人が起こすバグよりはマシ
まー変な感じだけど
機械が人より優れてるなんて
何であれ進歩していく
技術は進み続けるの
社会は歩き続けるの
止まってはくれないわけ
その中でも特にスゴイってなると
やっぱり「ラボハテ」でしょーね
さすがに知ってるわよね?
知らないとは言わせないわ
詳しくなくても目につくはず
それがラボハテ
そーじゃないメーカーも
だいたいラボハテの傘下だったり
表面上では提携っていってるけど
ぶっちゃけ1強よ
元増田の状況で子供育てられるわけないのに(夫婦両方とも平日も土日もずっと仕事でどうやって育てるんだ?親に丸投げ前提か?そんな便利な親がいるとどこに書いてある?
そもそもこんな超ブラック職場で産休だの育休だの取れるのか?)
「子供が高校と大学に同時に進学」とか書いてる辺り子供二人作る前提と決めつけてるし
つまり元増田全く読んでないのに、何でどや顔でずれた語りしてるんだろう
一人でそれを稼ぐのはつらい。
でも共働きならなんとかなる。
そして、共働きなら、どちらかが病気になっても、メンタルをくずして鬱になっても、職場がいやになって転職したくなっても、会社が倒産しても余裕で対応できる。
「一人でそれを稼ぐのはつらい」のに「(片方が働けなくなっても)余裕で対応できる」って矛盾してるんだが。
自分の頭で考えてるか?漠然と世に広がる「片働きじゃ学費出せない」と「共働きならどちらかが働けなくなってもリスクヘッジできる」を都合よく取り入れてないか?
そもそもそんな事言ってないけど。
あれは単にオタク担当が公私混同して会社の金を自分の趣味に使ったバカッター案件だと思ってる。
だから「あれを見てもあれに憧れてタイツ買う女なんかいない=広告効果がないだろ」って話をしている。
漠然とした「オシャレなイメージ」すら持たせられない広告でしょ、あれ。
読解力大丈夫?
一人暮らしをしているのだが毎日本当に不満がない。家族と住んでいた時も恋人と住んでいた時も色々はあってもそんなに不満はないと思っていたが一人暮らしは異次元である。
仕事の時間の制限はあるもののほとんど自宅勤務だし、好きな時に起きて好きな時に寝て、好きなものを好きなタイミングで食べる。料理は好きだし、苦手な掃除と洗濯も友人と話したり音楽を聴きながらこなせる。いつでも好きな音楽を聴けて動画を見れて、好きなものを買い好きなものを飾っている。いつでも趣味に没頭できる。
これから歳を重ねて、この暮らしが辛くなるんだろうか。大切な人を作るべきなんだろうか。でも本当に1人が性に合っているので他人を最優先できないと思うと踏み出せないしそもそも出会いもない。毎日趣味と仕事で楽しいので打開したいというモチベーションもない。
でも漠然と、いつか寂しくなる、いつまでもはこうして生きていけないんだ、と考えると難しい気持ちになってしまう。
もう夢も理想もないし、毎日楽しいけど明日死んでも全く悔いがない。はやく死にたいなあと思うし、死んだ人のニュースを見ても羨ましいなあと思うようになってきた。ただ毎日寝る前、今日も楽しかったとしみじみ感じる。感情がよくわからない。でも今日も本当に楽しかった。
作品が面白そうというより、観に行くこと自体がネタとして面白そうなので、観に行った。原作は未履修、テレビアニメ版は全部観た。無限列車編については、最大のネタバレ一つだけをうっかり知ってしまったがそれ以外のことは知らず、漠然と、顔はいいけど言動が果てしなくキモい、見世物小屋で呼び込みやってそうなかっこうの鬼と、機関車の中で闘うんでしょ、くらいの話だという認識だった。
変なことは概ねやってない。いつものアニメの鬼滅だなぁ!!と。そういう意味では過不足なし。まあ、だからこそ、何故これを映画でやろうと思ったし、という疑問はうかぶ。
原作を読んだことがないので本当のところはわからないが、たぶん原作に忠実なんだよな?あまりアニメオリジナルっぽい要素は感じられない。
あと、テレビアニメ版でも思ったけど、もしかして、そこは原作者はギャグのつもりで書いたんじゃないのか?って感じのする台詞が、普通にさらりと流されることがある。アニメ版1話の「滑ったのも雪だけど……」みたいな。
我ながらなんて単純なんだよ、と呆れつつ、煉獄さんとお母さんのやり取りなどで泣く。でもそこたぶんアニメの演出がいいというよりは原作からしてそういう場面なんだろうなという気がしてならない。
あのー、さして変なことはやってないと書いたけど、実はただの鬼滅でありつつ演出過剰なのね。いかにも映画でーす!みたいな張りきりが随所に見られてあざといし痛い。もっと普通にやれって、とツッコミを入れつつも、映画だから仕方ないか、という諦めも感じるのだった。
うあー煉獄さぁーん!!と思ったら炭治郎は号泣するし伊之助は被り物から涙が溢れるほど泣くし善逸はびゃんびゃん泣くし、果ては鎹烏まで泣き出して、私はスンッて涙が引っ込んだ。流石にお前ら泣きすぎだろって冷静になった。
大体、根っからいい子かつ煉獄さんとそこそこコミュニケーションを取っている炭治郎はともかくとして、伊之助と善逸は正味十五分くらいしか煉獄さんと顔合わせてないただの行きずりだからな。煉獄さんにちゃんと名前も覚えてもらってなくて、最後まで適当なあだ名で呼ばれ続けたし。目の前で奮闘している煉獄さんの気迫に当てられたとしても泣きすぎだ。
煉獄さんは確かにいい人かもしれないが、ものすごく関係の薄い人のためにそこまで泣くなよ、炭治郎。そう思ってしまう。きっと原作からして煉獄さんという人は怒濤に駆け抜けて死んでく役どころなんだろうなと思うんだが、もっとこう、せっかくのアニメ化なんだから、炭治郎ともっと親交を深める描写しようよ。列車の中で肩を寄せ合って爆睡してちょろっといい話聴かされただけの間柄なのが、100分ほどで爆速で数話ぶん駆け抜けたことにより、際立つ。
原作未読組にとっては煉獄さんは柱合会議でちょっと見ただけの、やたら外見と声の大きさのインパクトがでかい人に過ぎないんだ。もう少しなんとかしてくれ。映画の尺では無理だけど。
たぶん原作からしてそうなんだろうけど、猗窩座って何の前触れもなく出て来すぎだよね!きっとそれはそういう理不尽な世界観の表現なんだろうけど、それにしたって猗窩座のキャラが立ち過ぎていてヤバいだろ。きゃー何この石田彰の声で喋る顔の可愛いモンチッチはーーー!?
私は原作をほぼ知らず、でも猗窩座という名の顔がしましまのキャラクターが存在することは知っていたものの、まじまじと見たことがなかったので、まずそのビジュアルの可愛さに目を見張り、煉獄さんの見せ場のほとんどを煉獄さんを見ずに猗窩座を見てしまうという大失態をおかしてしまったんだがこれは私が悪いのか、そうか。猗窩座が「杏寿郎!」って言う度に私は崩れ落ちそうになってしまったがこれは石田彰が悪いと思う、いやいいぞもっとやれ。
しかし頑張って人々を守るために戦っている煉獄さんを見ずに猗窩座にばかり目がいってしまうことへの罪悪感が……。
煉獄さんの人生を振り返るのはいくらなんでもやり過ぎだ!感動の映像を見せられつつ聴くlisaさんの「炎」は過剰過ぎて思いの外良くは聴こえない。単体で聴くといい曲なのだが……。この映画のタイトル『100分後に死ぬ煉獄杏寿郎』だったかな?みたいな感じがする。
やっぱり、普通にテレビアニメとして毎週ちょっとずつ観たかったな、という思いが強い。映画っぽさとか要らないし。
面白くなくはない。ただ速い!
“id:Palantir 漫画と結構違うよ。あかざさんとの戦いとかめっちゃ詳細化されてる。他にも加えた部分がめっちゃ多い。原作読んでからもっかい行こう。俺は行った。2020/10/30 ”
え、やだよ。実のところ私は猗窩座登場シーン以外全く評価してないからな。『海辺のエトランゼ』観に行くの我慢して鬼滅取ったの後悔してるんだ……。二度とか勘弁してくれよ。
漠然と、「いっぱい辛い」って感じだから、自分が楽しいと思うことは何か、辛いことは何か、ひとまず書き出してみて、辛いことを少なくして、楽しいことを増やしてみては