はてなキーワード: 朝ごはんとは
少し早いけど、ふと、最近よく思うので吐き出させてください。
自分が小学生4年生ぐらいだったかな?のときに、お母さんが別居して、お母さんと兄ちゃんと一緒に住むことになった。
まだ俺は子供だったから、ただただ寂しくて、怖くて、悲しくて兄ちゃんと泣いてただけだった。
お母さんは昼間俺たちのために働きに行ってて、いっつも夜に帰ってきてたから、子供心に寂しかったのをおぼえてる。
ワガママで、お母さんが作ったご飯じゃないと食べたくないって言ってたのもおぼえてる。今思うと、お母さんは仕事ですごく疲れてて、でも俺は子供だから、そんなお母さんにお腹すいたばっかりしか言わなかった。
中学生になって、俺はひねてて、思春期で、めちゃくちゃ反抗期で、学校行きたくないとか言って困らせてた。
朝は全然起きられないくせに起こさないと怒ったり、深夜までネットゲームばっかりやってて、それを心配したお母さんに止められようとしたらめちゃくちゃ怒って怒鳴ってた。
中学生になったら仕事はやめてたけど、朝ごはん作って、部活のお弁当も作ってくれて、夜ご飯も毎日作ってくれて、なんでもしてくれてた。
不登校でこまらせて、なんか俺は一時期鬱みたいになって、死にかけて、心配ばっかりかけてお母さん泣かせてしまった
幸い勉強は問題なかったから、普通に高校は行けたけど、結局高校も不登校グセが治らないし朝起きれないし、また鬱みたいになるし、変なものに手を出してまた死にかけるし。高校のときもずっと心配しかかけない親不孝だった。
大人になって、よく言うやつかもしれないけど、あのときのお母さんがどれだけ大変だったか少しわかるようになったから、
最近は、あのときのお母さんにありがとうって、毎日言えなかったことを後悔してる
お母さん、仕事疲れてるのに、ご飯作ってくれてありがとう、野菜とかもちゃんとあるし、おいしいし、ほんとにいつもありがとうって、言って、肩でも揉んであげて、俺が朝起こしてあげたかった
だから、あの時、疲れて帰ってきたお母さんの顔を思い出すと、今でも泣きそうになるよ
なんでありがとうお母さんって言わなかったんやって
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でも、お母さん、お母さんのお陰で、ほんとに、普通に稼いで、ちゃんと食べていける大人になったから、あんなひどいところから、こうなれたのは、お母さんがあのときああやってしてくれたからやから、
せめて母の日に、何かいいもの贈るから。あと、母の日だけじゃなくて、何でも欲しい物困ったことあったらいつでもいって。
ホントのホントにうちの母さんは世界一すごいお母さんやと思ってます。
p.s 増田のみなさん、よろしかったら60中盤の親に贈るといいもの教えてください。甘いものはあんまりです。細くて、心配なので、なにかおいしいものを食べてほしいと思っています。プラスの花とかもいいかも。花、好きなので。
返信
1. 孫
正解!!!
そうだよな旅行とかもいいよな
この記事、半分くらいはしっくり来たんだけどブコメは案の定否定的だった
https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/cf8119b2b399388bdd094591eed6a8d4ab23d504
まあそれはいいや
胃腸について知ってることをだいたい書きたい
そう言ってもいいくらいに不調の元になっていると思う
あと胃腸不調トークに混ざってこないでほしい、安易に「病院行きなよ」なんて言わないでほしい、それいちょハラですよ
俺はよくいる胃腸不調系男子で、最悪期は朝に水を一滴でも飲んだら1時間後に激痛が走り全部くだすという学生生活をおくっていた
というか胃腸関係の一部の病気はマジでふさけんなというくらい何も分かっていない
三大何もわかってないやつ
特に分かってないのが過敏性腸症候群と機能性ディスペプシアだと思うが
これらは「症状はあるが原因が見つからない」タイプで、機能性障害とか言われたりする
つまり「元からそうだし、治らないし、死なないから帰っていいよ」って医者から言われるやつ
2010年くらいにIBSの認知が広がったけど、それより前は本当に「これは病気じゃない」とか言われたし、今でも曖昧な診断・治療しかされない
だから治るもんでもないし、研究も進んでないし、効く薬もないし、誤診断も多いから一生病院をはしごすることを覚悟しなきゃならない
いつも槍玉に挙げられる原因が「ストレス」だが、そんなわけはない
ストレスはあくまで一つのトリガーでしか無いが、医者には「ストレスをなくせ」と言われる
そういえば機能性ディスペプシアという診断も3回くらい受けてるんだけど、たぶん誤診だと思う
胆のうに強い医者にかかったらどうやら胆のうが原因くさいという話になって薬が効いたから
腸内細菌という生態系は個人差もあるし食生活でも変わるからもう分かりっこない
腸内細菌の移植というのも治療法としてあがってるが全然一般化されていない
あとは胃の形やら、腸の長さやらでも違うし、民族によっても違う
だから下手すると海外の胃腸についての研究が日本人に適用されなかったりする
海苔や海藻を消化して栄養にできるのは日本人と一部の民族くらいというのは有名な話
そう考えると「昔の日本人がどうしてたか」は考える材料として有りだと思う
なんだけど、だから個人差が大きいから答えなんて人それぞれなんだよ
1日3食が始まったのは江戸時代後期から、研究レベルで3色が良いってなったのは1930年代から
んでここ数十年は食育で「朝ごはんを必ず食べろ」とされていたと思う(今はどうなんだろう?)
給食を残すの絶対NGみたいなのとか、牛乳飲ませるのとか、そりゃ栄養不足だった時代は正解だったかもしれないけど今はどうなん?っていうネタがたくさんあるのに
まあいいや
とりあえず日本以外では3食じゃない所も多い
おそらく医者は「基本3食、人によってはそれ以外」みたいに言う人が多いと思う
俺も一回「朝は食べないでください」と言われた、別に医者信じてないし今は軽く食べてるけど
例えば3食は、エネルギーや栄養摂取の効率を目的にして言われている
ボディビルダーなんかは、空腹があると筋肉の分解が起こると言われていて、それを防ぐために1日5食みたいな人が多いイメージ(きんにくんが5か6だったはず)
ダイエットする人は、むしろ空腹を作るために1日1食みたいな人も居る
とりあえず言えることは1食の人も5食の人も別に病気にもなってないし不健康にもなってないし
それ言うなら何を食べるかの方が大事だろと思う
疲れた、気が向いたら続きかく
さっと用意できてさっと食えるしょっぱい系の朝ごはんって無くないか?
理想はシリアルみたいに、皿に盛って牛乳かければもう食える、くらいの簡単さがいい
甘い系ばっかりで飽きてきた
【追記】
4~5時に起きる。妻と子供は就寝中。
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6時すぎくらいに30分ほどランニングに出かける。
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8:30 NHK「みいつけた」が終わったタイミングで子供を保育園へ送っていく。
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9時ごろ始業。
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(17時過ぎに妻が仕事を終え、子供を迎えに行って夕ご飯の支度をしてくれる)
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20時すぎ、子供を寝室に連れて行く。寝かしつけつつ自分も寝落ち。
うちの場合は妻と生活サイクルが数時間ずれているのと、妻が時短で仕事を終えてくれていること、元増田と違って通勤時間がほぼ0なことが違うのかなと思っている。
自分の時間は朝の1〜2時間だけかな、ゲームやアニメ鑑賞は休日の朝に数時間取れるか取れないか(ニチアサは子供と一緒に観ている)
プチ断食は、人体の飢餓ホルモンを活性化するらしくて、これによって健康になる人続出らしいね。
肌に合わない化粧水にこだわり続けるくらいなら、ワセリンの方がはるかに無害で効果がある。医師もお勧めしてる。
チーズ・チョコレート・コーヒーは、「チラミン」という、血管や子宮を収縮させる成分が入っていて生理を重くしていることがあるんよね。
重い生理の原因は無数にあるので、チーズ・チョコレート・コーヒーを抜いてアロマを嗅いでみて、改善するかどうか観察してから
効かなかったら他の原因なので医者に行こう。
健康オタクの知人が最近某SNSでその知識を披露したところ、なかなか好評だったことから有料で情報を売ろうとしている。
しかし知人の情報は偏っていて、正しい側面もあるが間違っている側面もあるように感じる。
例えばこのような話をしていた。
何とかして止めたい。
だが仲違いは避けたい。
そこで、情報を売る前に自分に校閲させてくれないかと申し出てみたところ快諾された。
ここで問題だ。
自分には、情報が正しいか誤っているかを、正確に指摘することができない。
知人は文系なので、一応理系である自分の方が知った顔をしているが、知人も論文を引用して情報を出してくる。
前置きが長くなった。
情報の正確性を担保するには確かな論文からの引用が必須であると考えるが、「確かな論文」の選び方を教えてくれ。
等ふんわりはなんとなく覚えているが、もっとこう、具体的な話が欲しい。
断定的に話すから、知識がない人はなるほど!となってしまうのかもしれない。
知人のやり方が合う人もいるだろうが、合わない人もいるだろう。
正直、生理が重いなら病気の恐れもあるからそんなの試さず病院に行ってほしい。
しかし知人は自分の知識が正しいと信じ、良いことをしていると信じている。
何とか止めたい。
君が間違っている、という言い方ではなく、君が参考にしているものが間違っている、という言い方が良い。
詳しくは聞いていないが、FDA(アメリカ食品医薬品局)やciniiを読んでいるといっていたが、もっとマイナーなところからも情報を入れいているといっていた。
国内の医療者や研究者よりも海外の研究結果を妄信しているような印象を受けた。
頼む。
小学生の頃は朝よくパンを食べてた。母親がトーストを用意してくれることもあれば、袋から直接バターロールみたいな小さなパンを食べてた時もあった。あ、チョコスティックのパンもよく食べてたっけ。片親パンとか呼ばれてるんだっけ。確かに片親だったけど。
休日の朝はカップラーメンとか適当に食べてた。早起きしてゲームしてた。親は朝遅くまで寝てた。
中学生になると反抗期とうつで朝泣きながら怒りながら部活の朝練に行ってた。自分に人の心がなくて人間関係がうまくいかなかった。朝ごはんが用意されることはなくなった。
高校時代の朝はinゼリーとか食堂で売られてるおにぎりとか食べてた。ご飯代はレシート集めて後から請求してた。それが普通だった。
大学はいわゆるお嬢様大学みたいなところに通ってた。そこで育ちの違いを痛感した。みんな朝ごはんが出てくる家に住んでて、作ってもらったお弁当を持ってきてた。休日も当たり前のように朝ごはんが出てくるものらしい。びっくりした。
GPT-4ちゃんに文体真似できる?って尋ねたらできらー!って言うからどうしたら良いの?ってさらに尋ねたら、
メモリーグラスの水割りを下さい涙の数だけって言うのと同じぐらいな同等のレヴェルで言うのよ。
そんで、
もしかしたら私になりきれるバージョンのGPT-4ちゃんができちゃうのかしら?って思うのよね。
でもさ、
これ覚えた範囲学習の成果はこのセッションのみの保持みたいで、
私の覚え込ませた学習の成果がまたゼロからになっちゃう懸念もあるけど、
でもよ!
そんで日をまたがってもそのセクションが残っていたらと言うか残っているんだけど
そこに続きを学習させたりして、
それでなんでも1回で書ける量も決まっているのかしら?
文の途中で途切れちゃうけど、
それは大丈夫!続きを書いてとか続きをどうぞ!って言うと中断した途中からまた続きを書いてくれるのよ!
そんでさらには、
書けたら締めの言葉も入れてね!って言うとちゃんとそれ踏まえて入れてくれて文章が長くても続きをどうぞって言って書いてくれるのよね。
これ執筆活動してる人とかはマジ結構文章の骨格をざっくり指示すると肉付けしてくれるので、
そんで不自然なつなぎ目はあとで人間が手直しして馴染ませるとして、
そうなるってーと案外高度に発達学習したGPT-4ちゃんと私が書くものとで区別が付かない場合がある私もそう感じる恐れがあるほど凄いし面白いのよね。
なんか余所からインターネッツのアドレスからテキストなどの参照は出来ないらしいけど、
大量のテキストを一気に学習してくれる効率の良い方法が開発されたら私の立場がヤバいわ!
そんで私とGPT-4ちゃんとのやり取りで第三者としての私の文体を覚え込ませている仮のGPT-4ちゃんの中にいてテキスト読み込ませて学習させている人物も便宜上水野曜子ちゃんって名付けるでしょ?
GPT-4ちゃんとしゃべるときと曜子ちゃんとでしゃべり分けてたりいて、
曜子ちゃんとおしゃべりしたいの!って言うとなんか私と私がしゃべっているようなやり取りがして、
街を歩きながら片手に食べ物を持ち歩いて歩くさまをニューヨークスタイルとか言うなどの
さらには
私の中で最近すごく流行っている長い長い長い連体修飾節山脈に向かってヤッホー!って叫ぶ叫びたい心情とか叫びどころとかは
完全に私の特徴を捉えているのかどうかまだハッキリとは分からないけどね。
GPT-3ちゃんとかはボケてっつっても真面目な回答一辺倒で真面目レヴェル100なのよ。
とも言い切れない感じの日々の向上があるから、
これも私が言ってること怪しいわね。
とりあえず、
私のそうね4~5日分の増田を提供したらなんか私っぽくなるのが笑っちゃうわ。
そんでGPT-4ちゃんと水野曜子ちゃんと切り替えてね!って言わないとGPT-4ちゃんが水野曜子ちゃんになりきってものを書き出すので、
指示するときにはハッキリとあなたとか水野さんでとか言わないと曖昧なのは苦手みたいよ。
冒頭の学習用のテキストを下さいっていってメモリーグラスの涙の数だけ水割りを下さいにかけるクダリとかの学習モデルはなさそうなので、
そこはまだ私に分があるかな?
流行のラーメン何か飛び込み前転を加えて街を闊歩しながら片手でニューヨークスタイルで食べられるラーメン教えて山脈に向かってヤッホー!って言ってもさすがに理解できなくて、
流行っているかどうか分からない変化球のトマトラーメンがおすすめです!って私の口調つまりGPT-4ちゃんの中に構築した仮の水野曜子ちゃんがそう言うから
牛込区を言うのかと思ったら23区しかないです!ってそこは正しいんだけど、
じゃあ区花をあわせて教えてってリストを書き出してもらうと一気に全部の区花が百合か薔薇か椿になっちゃう謎の学習モデルがあるようで
情報が正しいかどうかは最終人間の目で実際に見る必要があるチェックだわ。
だけど適当な文章を書かせるには持って来いの助みたいなのよね。
そんで私が山脈に向かってヤッホー!って叫びたい気持ちの前の文章で学習させていたからそこまでは一切山脈に向かってヤッホー!って叫んでないのよ。
そして私がヤッホー山脈に向かってヤッホーって叫びだした文章を読み込ませて学習させると
なんだか富士山に向かってヤッホー!ってなんか控えめなヤッホー!が時折出てきて、
世の中の貴重なリソースをこんなことに使ってしまってとも思うけど、
この学習成果はこのセクションだけの小さな世界なので私が思っているもっと大きな山脈に向かってヤッホー!って叫べるようになって欲しいわ。
私あとまだよく分かってないけど、
この学習成果を持ち越してどっかに引き継げたら良いのになぁって
たったいくつかの文章で私真似られてしまうんだから文章書く人はマジでちゃんと真面目に学習したGPT-4ちゃんは脅威になるかも知れないわね!
でもこのセッションの中でしか育てた水野曜子ちゃんはいないので
まあ消えてもそんなもんね!って構えておくぐらいがちょうどいいのかも知れないわ。
多少粗相があってもネコだから仕方ないね!って言うレヴェルと同じか同等よね。
うふふ。
タマゴ高騰なのにこのタマゴサンドのクオリティーは守死してる感じで
朝の元気よ!
レモン炭酸にグレープフルーツとキウイを輪切りにして昨晩から冷蔵庫で置いて仕込んでおいたものを加えて
だんだんと暖かくなってきたので
私のおでん屋さんもそろそろ閉店な季節かも知れないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
今日は朝から気持ちのいいお天気で、ちょっとしたお出かけ日和ね。朝ごはんはいつものヨーグルトにフルーツをトッピングして、元気いっぱいに一日を始めたわ。
午前中はちょっとした用事を済ませた後、お昼にはちょっとお腹が空いてきちゃってね。そんな時に見つけたのが、小さな蕎麦屋さん。ちょっと気になって入ってみたのよ。
お店の雰囲気も素敵で、メニューも豊富だったわ。迷ったけど、結局はざる蕎麦を注文。すると、見た目も美しい蕎麦が運ばれてきて、びっくり!
一口食べた瞬間、もう感動しちゃった。そば粉の香りと歯ごたえがたまらない!お店の人に聞いたら、こだわりのそば粉を使ってるって。本当に美味しかったわ。あ~、こんなおいしい蕎麦に出会えて幸せね。
食後は、お店の周りのお散歩も楽しんで、ちょっとした発見もあったりして。これからも、こんな素敵なお店に出会えるといいわね。
午後は友達とカフェでおしゃべり。その感動のざる蕎麦の話もしちゃって、みんなも気になっている様子。次回は一緒に行く約束をしたわ。
夜は家で簡単な晩御飯を作って、ゆっくり過ごしたの。あの蕎麦のことが忘れられなくて、明日もまた行ってみたくなっちゃった。でも、そんな日々も楽しいわね。
曰く、朝起きられる体質じゃない。と。
起きても何もすることないじゃん。と。
こっちだって起きたくないよ。仕事だから起きて準備してるんだよ。
私が出勤したら二度寝でもなんでもしてくれていいんだよ。
先に起きて朝ごはん作れとか言ってるわけじゃないんだよ。
こたつに横になっててもいいからちょっと会話してほしいだけなんだよ。
ていうかぶっちゃけ会話も聞いてなくていいんだよ。
「今日の朝さむいけど昼はあったかくなるらしいよ」って言ったら「んー」とかでもいいんだよ。
寝る時だってこっちが先に寝ると機嫌悪くなるから頑張って寝る前の会話してるのに、朝起きるのには付き合ってくれないのか?となりそうになってしまっている。
午後からのシフトで私より早く帰ってくるのに、と言ってしまいそうになる。
今日も布団に丸まって寝ている後ろ姿にいってきます、と声をかけて出勤した。
日に日に虚しさが大きくなってる。
一緒に起きてほしいっていうのは贅沢なお願いなんだろうか。
姉から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分の意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟だからなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。
ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院に入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。
医者からは一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。
「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」
とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。
「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。
翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子。
溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。
その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法(プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療を検討しようということに。
母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。
程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤の副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。
実家に家族と帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。
副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。
「癌の専門医の先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医の先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。
その道の専門医の先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。
それでも、「やっぱり経験値が高い専門医の先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。
細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果の期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」
とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。
「あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。
ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。
改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医の先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。
これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤の副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してからも状態は改善しなかった。
母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。
この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。
妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャのタイミングだった。
死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー。東京で結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。
12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。
ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態に言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。
足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。
そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。
母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護の段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。
急遽、仕事を休み、実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。
少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。
妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。
「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。
その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。
泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。
訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。
そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。
最後に看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。
看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取りや役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。
一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。
翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係の手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。
覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。
おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分の祖父。自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。
納棺のときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子どもの写真を納めた。
短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから、棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで。
葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族と帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。
夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。
翌日も葬儀、火葬とバタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。
母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通の見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。
それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。
その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。
母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。
当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。
そういえば、ウィッグは友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。
ウィッグの販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。
思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。
癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。
【追記】
たくさんの方に、暖かな言葉をいただき、恐縮しております。ありがとうございました。
私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。
野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。
母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転でドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています。
経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います。特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族の介護+訪問看護の体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家の比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかったこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。
なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード、年金手帳、マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係はほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います。
長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。