はてなキーワード: セクシャルマイノリティとは
先日Twitterで話題になっていた(と思う)、アセクシャル・アロマンティック(以下、Aセク・Aロマ)をテーマにした漫画を読んだ。現在は作者がアカウントに鍵をかけたため、見れないようだ。別にかの漫画を否定したい文章ではないので、これ以上の言及は避けるが。
先に言うが、私は当事者だ。漫画の登場人物と同じように、他者に性欲や恋愛感情を抱いたことは無い。恐らく、これからもないだろう。
作者は「Aセク・Aロマを知ってもらうため」とツイートしていた、気がする。なにせ、私は作者のフォロワーじゃないので確認ができない。
確かに「知ってもらう」ことは大事だ。実際、かの漫画を読んだことでAセク・Aロマというセクシャルマイノリティを知った人もいるのではないだろうか。
ここで私が言いたいことがある。「恋愛感情」が無いことは、異常なのだろうか。
異性愛者であろうが同性愛者であろうが、「性愛」があることが前提で、当たり前とされている。しかし世の中には、私のように「性愛」が分からない人がいる。それは、異常なのだろうか。
「それはモテない己を肯定するためでは?」「本当に好きな人に会ったことがないだけだよ」「恋はするものじゃなくて、落ちるものだ」「恋愛感情が無いなんて、冷たい人」
これは私が言われたことがある言葉だ。どれもこれも一理ある、のかもしれない。私にはよく分からないが。
恋愛感情や性愛がないと、「無感情」で「冷たい」人なのだろうか。私だって、無感情では無いので面白い話で笑うし、人情話で泣くのだが。それでも冷たいのだろうか。冷たい人、とはなんだろう。
実際、Aセクでも結婚した人や結婚願望がある人はいる。Aロマでも恋愛願望がある人もいる。おそらく、Aセク・Aロマだったが無事に恋愛感情を抱けた人もいるだろう。逆に、性愛がなくなる人もいるかもしれない。
なぜなら、セクシュアリティは線引きされるものではなく、グラデーションのように、移り代われるものだからだ。恐らく。少なくとも、私はそう考えている。
ここまで読んでくれた方は薄々感じていると思うが、結局私自身、セクシュアリティを完全に分かってはいない。もしかしたら本当に、「そういう人」に会ったことがないだけかもしれない。
しかし、Aセク・Aロマのような人がいることを知って、理解してくれる人がいても良いのではないだろうか。恋愛をしなければ死ぬなら話は別かもしれないが、実際私は恋愛をしなくても生きている。それでいいのではないだろうか。それでも、異常だと思われるのだろうか。
かの漫画に衝撃と悲しさを覚えた私は、両親にAセク・Aロマであることを相談した。「そういう人に会ったことがないだけだよ」と言われた。
そうなのかもしれない。が、胸のモヤモヤは晴れない。なので私はこうして、キーボードにモヤモヤを叩きつけている。考えが纏まったわけでもないのに。
そもそもセクシュアリティに悩んでいない人間は、己の性について疑問に思わないのかもしれない。こうしてグダグダ悩んでいる時点で私はセクシャルマイノリティであるのかもしれない。
エロ漫画全般の話をしているので、セクシャルマイノリティかどうかは全く関係ないです。
10代かあるいは20代、もしくは30代〜70代の男か女、またはセクシャルマイノリティの可能性がある
フェミニズム、ビーガン、動物愛護、セクシャルマイノリティ、ダイバーシティ
要は、「抵抗できない弱者が強者によって一方的に権利を侵害されている」という構図さえ作れれば本当に何でも良い。解決するかどうかもどうでも良い。
被害者が社会的弱者で、加害者が社会的強者であればなお良い、と言うか逆は無視する。
こういった人々に一貫しているのは「弱者を守っているふりをしながら強者に勝手に認定した人々を徹底的に叩くこと」だ。
はっきり言うと弱者のこともどうでも良い、と言うより弱者にはもっと弱者になってもらうとか、弱者のままでいてくれないと困る。やりたいのは弱者救済ではなくて、強者(と言うか自分たちの敵)を攻撃することなのだから。
そのために、いきなり解決不可能なこと(一切のxxは今すぐこの世から排除されるべき!とかね)を言って「できないというのか!この差別主義者眼!弱者様のお通りだぞ!」と振る舞いたくて仕方がない。一方で「そんな事したら多くの人が路頭に迷うことになる」という現実てきな反応には「でも悪いのはアイツラだから仕方ない」という反応をする。
この辺昔の共産主義者とすげーよくにている。
ビーガニズムは動物性のものを取らない食生活をするというスタイルの問題
セクシャルマイノリティは性自認や性嗜好で差別するのをやめよう、という思想
というものでしか無いのに何故かこれをネタにこうげきするひとがでてきて、どれもこれも「え、怖いんでしょ?」と思われておしまい。
いい加減にしてほしい。
女として産まれて、女を愛して生きてきた。
同性を友達以上恋人未満に持ち込むのが抜群に上手いというのが私の持つ唯一の才能で、人並みに振られたり傷ついたりしながらも女だからという理由で拒絶されたことがない。そんな環境を当たり前に享受して感謝すらしないくらいに、当たり前のように女同士で恋愛をしてきた。
男と付き合おうと思ったこともある。私がノンケの女と付き合うように、私と付き合う男もいつか現れるかもしれない。そんなふうに考えてデートしてみても、口説くならここじゃないだろとか今押せば流れでセックスに持ち込めたのにとか、余計なことを考えてしまう。イケメンだろうが金持ちだろうが気が合おうがダメだった。どれだけ打ち解けても、信頼しても、肌が触れ合っても、恋愛感情も性的感情も持てなかった。そういうことを何度か繰り返して、どうやら私の恋愛感情はイコールで、自分の子供を産んでほしいと思うかどうかだと悟った。
好きなタイプは色白で一重の骨格ウェーブ。余程相性が悪くなければ、性格はそう重視しない。いわゆるメンヘラも愛せるし、他人の陰口で盛り上がる女の子の意地悪な目付きも可愛い。自分の子供を産んでほしいと本能的に思える女を愛し、自分のものにすることに達成感を覚える。欲しがるものはなんだって買い与えてやりたいし、こんなのはじめて、と言われることに喜びを感じる。元カノたちや近しい友達に男っぽい恋愛観だと言われるたびに、男に産まれた方が楽しかっただろうに、と思う。かと言って男になりたいわけでもないし、女をやめたいと思ったこともない。
セクシャリティ以外の場所でも女という理由での不利益を被ったことがない。痴漢にあったことは数回あるが、今まで生きてきた24年を振り返ってもそれくらいしか出てこない。ゴリゴリの男社会と呼ばれる業界に就職したが、誰も私を女扱いしてこないし、結婚がどうとか彼氏がどうとか、そういうことも聞いてこない。企画会議でも女性ならではの意見は求められないし、お茶出しに使われたこともない。同僚の女たちはそういうふうに扱われることに不満を覚えているようだが、私はどこか羨ましいとすら感じている。GUやsnidelで購入した在り来りな服を着て、髪を鎖骨辺りで切りそろえて緩く巻き、カミングアウトすることもなく生きているのに。誰かにとっては理想郷なのかもしれないが、私はどこか、世界に置いていかれているような疎外感をずっと抱えている。
こういうモヤモヤした気持ちを明確に言語化したのは、LGBTコミュニティというものに触れたからだ。そこで私の疎外感ははっきりと輪郭を持ってしまった。
中学時代の後輩に誘われて新宿二丁目のレズビアンバーに行ったときのことだ。
いわゆるリアルの友達とそういった場所に来たことをバーのママやお客さんは羨ましいと言い、元カノなのかと聞かれた。私も後輩も女が好きだがそういった関係になったことはないと伝えると、学生時代にカミングアウトできる環境にいたことは恵まれていると教えてくれた。学生時代、私は別に公にカミングアウトしていたわけではない。後輩も然りだ。お互いがストレートでないことをいつ知ったのかも覚えてない。思春期に悩みを打ち明ける相手がいたことが羨ましいとも言われたが、私は後輩に好きな女をどこに連れていこうとかプレゼントはなにがいいだろうとか、そういう当たり前の恋愛相談しかしたことがない。
客のひとりがレズビアン用マッチングアプリで出会った彼女と来週はじめて会うというような話をしはじめて、周りがレズビアンの恋愛はネットが基本だということ前提で恋愛相談に乗り出したあたりから、私はもうついていけなくなってしまった。そういうアプリがあることすら知らなかったし、かつてTwitterで出会った人と付き合ったときもごく普通に、オフ会のあと家に泊めてセックスしたというだけの馴れ初めだった。会ったことない同性と付き合うという文化は、私には奇妙に思えた。思春期に自分のセクシャリティで悩むという経験を、私はしたことがない。女が好きだから女と付き合う。ただそれだけを繰り返して大人になった。振られたことも何度かあるが、私が女であることと相手にとって私が恋愛対象でないことは関係ない。私が男に産まれていたって、きっと私を振る女はいただろう。孫の顔を親に見せられないと嘆くパターンもあるようだが、親のために生きてるわけじゃねぇし、と思ってしまう。
抑圧されるマイノリティの葛藤が共通言語のあの場所で、私は圧倒的マイノリティだった。悪い言い方をすれば少数派同士傷を舐め合うようなあのコミュニティが、私には合わなかったのだ。マイノリティがマジョリティの世界で浮いてしまった。
それから私はしばしばTwitterでLGBT系のタグを閲覧するようになったが、そこでもやはりリアルではなくTwitterで出会って付き合う文化が根付いているし、カミングアウトできないことやリアルの女と付き合えないことへの葛藤が渦巻いている。多くはセクシャルマイノリティであることを後ろめたく思い、恋人がいないことを嘆いているようだ。
彼女たちには、そういう生き方を選ばずにいられないような環境があるのだろう。私自身差別を受けたことはないと言いながら公にカミングアウトしないのはわざわざ言うまでもないことであり、付き合ってほしいわけでもない人にそんなことを言って無用な誤解を受けたくないという気持ちもあるので、全く理解できない訳ではない。それでもやはり私は、このマイノリティの世界の中でも疎外感を感じている。SNSで声を上げセクシャルマイノリティへの差別と戦おうとする人々を見ると、私は一体なんだろうと思う。女体を性的に消費し、めちゃくちゃに種をつけて孕ませてやりたいと思いながら、それが叶わないことになんの不満も抱かない。孕ませたいと思うのは性癖の話であって、実際に子育てすることを考えるとゾッとする。いっそ真剣に性同一性障害であれば、私は私を理解出来る。女の身体に産まれたけど心は男だから、好きな女を自分のものにしたいし、女同士で恋愛をするレズビアンにも馴染めない。しかし実際そうではないのだ。私は私の身体について、ピルとかゴムとか関係なく確実に避妊できてラッキーとしか思っていない。
一方で、男にアプローチされると心のどこかで「うわっホモじゃん気持ち悪」とも思うのだ。当事者だからと言ってLGBTに理解があるとは限らないし、差別をしないということは、差別心を持たないということではない。気持ち悪いと思うのは仕方の無いことであり、感情は個人の自由であると思う。自分のなかの差別心と向き合って理解し、表に出さない。むやみに干渉しない。自分の感情で他人を傷つけない。それが真の寛容であると思う。それはともかく、どうやら私は恋愛史上において、自分を男として認識しているらしいのだ。そうでなければ自分に好意を抱く男性に「うわっホモじゃん」とは思わない。
女として生き、女を愛し、自分にも他人にも女として扱われず、かと言って男になりたいわけでもない。私は一体なんなんだろう。中性という性もあるようだが、私は能動的に中性になりたいわけではない。そもそも中性ではないと思う。可愛い服を着て化粧をしたいし、美人だと思われたい。それと同時に、色白で一重で尻のデカい女をめちゃくちゃにしてたくさん孕ませたい。15人くらい嫁がほしい。一緒に二丁目に行った後輩には、男女の前に雄なんだよなぁと言われた。それは少しわかる。女であると同時に雄なのだ。恋愛面を抜きにしても、テストステロンの塊みたいな性格をしている。それでも私の身体は女だし、女が好きだし、それで支障ない。
マイノリティであることはつらいことかもしらないが、マイノリティのなかでさらにマイノリティであることもつらい。世界で自分がひとりぼっちみたいな気持ちになる。自分が新種で、図鑑にも登録されていなくて、自分の存在を誰も知らない。そんなふうな気持ちになる。
誰か教えてくれ、私の性別はなんだ。私はどう生きればいい。この苦しみを、誰となら分かち合えるんだ。
自己紹介すると、
秋葉原のコンセプトカフェに年末からハマり、もう40万円は支払ってる。
私が行っているコンセプトカフェは、ゴスロリ風の制服を着た少女(多くは16歳から19歳の未成年)が、一対一で接客してくれるという形態のもの。料金は1時間1100円(女性料金)と、女の子へのドリンク代。女の子は時給1000円➕ドリンク代のバック(4割)が手取りとなる。
これに、私は麻薬のように中毒になっている。バンバンシャンパンとか入れまくる。
なぜ中毒になるか。まず、セクシャルマイノリティの話ができる相手って、少ないんだ。私は二丁目が好きではないし、友達も限られている。親身になって話を聞いてくれて、笑顔をたくさん見せてくれる女の子の存在は、涙が出るほどありがたい。もちろん、マスクは私も相手も常につけているし、飲食もほぼしない。ドリンクは捨てているのだと思う。
私は、さみしいんだと思う。今後も婚姻できることもなく、友人たちが結婚していく現状が、泣くほど辛い。彼女は、その隙間を埋めてくれる存在なんだ。
コンセプトカフェの女の子はとてもいい子で、連絡先を交換した。プライベートでも会ってくれるって。でも、それは申し訳ないから、時給分はお小遣いとして払おうと思う。相手の子は18歳の高校三年生で、私はロリコンではない。
それでも、だ。愚かにも、彼女が私を好きになってくれる未来を、夢想せずにはいられない。哀れな中年レズ の、夢物語だとわかっていても。
この先、どうなるんだろう。老後の貯金はバンバンなくなるので、誰かに止めて欲しい気持ちと、突き進みたい気持ちが入り混じっている。
この世、結局やる気じゃないすか
とんでもない才能とかとんでもない家柄でカバーできることはあるかもしれないが、それは稀だしな
要はやる気ですよ やる気がないと何にもなれん 路上生活〜非正規雇用ですよ
noteとかで出てくる「ボク・私の人生ってこんなに大変だったのォ〜ッ」記事、全部結局やる気ある人間が書いてんだよな
「子供の頃から学ぶことが好きだった」「一念発起して勉強」「絵だけはいくら書いても疲れなかった」「文章を書いているときだけは現実を忘れられた」 そういうのはないんすよ 俺らには
何やっても同じくらいつまんないし、苦痛なの アンタ、その楽しい勉強を嫌いになれって言われて嫌いになれるか? 無理だろ 俺もおんなじ
「貧乏な家庭出身(だが気力に満ち溢れていて頭もいい)」「セクシャルマイノリティで家はシングルマザー(だが毎日新しいことに挑戦する気力がある)」 こんなんばっかり
死なねえかな全員……
・服屋の店員と仲良くなる→個人ノルマの足しになるよう意識してその人から買う(レジをしてもらう)
・担当の美容師やネイリストと仲良くなる→その人が退職するときにちょっとしたプレゼントをあげる
・映画や舞台、ライブで隣の人に話しかける。気が合いそうなら終演後に流れでお茶をする(自分も相手も一人の場合)
自分の周りにコミュ強が多いだけかもしれないけど、女同士だと結構こういうのがある。
でも、男友達にこの話をしたら「店員なんてレジ打つ人としか思ってないし、同僚の誕生日なんかいちいち覚えてない。よっぽど仲良ければ『じゃあ飲みに行くかー』ってなる程度。ライブで隣が男一人だから話しかけようとも思わない」と驚かれた。マジか。
舞台観たあとに見ず知らずの人と「めっっちゃ良かったですね〜……」「ですよね!?特に〇〇のシーンが」「わかる……っていうかお姉さん1人ですか?もしお時間空いてたら少し語りません?」「いいんですか!?ぜひ!!」ってならないの?
ちなみに上記のやりとりは今までに何回もしてる。自分から持ちかけることもあるし、相手から誘われることもある。まぁ気が合いそうだなってピンと来た相手しか誘わないけど。そこからTwitterのID教え合って趣味友達になるパターンもある。
これらは女同士だから成り立つのであって、相手が男性だったら基本やらないと思う。恋愛感情がまったくないからこそ、交流したい!あわよくば友達になりたい!って感情が生まれる感じ(相手がセクシャルマイノリティの可能性もあるけど、その点はひとまず置いておく)。
そういう違いが不思議というか、謎だなぁと。
ジャンルがある程度盛り上がったところで
(それに続く「私もそうかもしれない…」と謎アピールする人々)
この流れがうんざりするほど嫌い。
そもそもボーイズラブとセクシャルマイノリティは全く異なる分野だろ。
なぜ特殊なジャンルの娯楽であるBLドラマが好きな人には受け入れてもらいやすいと思うのか?
又はBLドラマを見ればセクマイをよく知れて配慮できる人間になれるのか?違うよね。
それは逆にセクマイの人に失礼では。そんな簡単な問題じゃないと素人でも分かる気がする。
ただの趣味友にカムアウトされても困る。セクマイだろうがヘテロだろうがお前のセクシャリティに興味ないから。
純粋にドラマの感想を共有したいのにそこに個人のセクシャリティの話いる?
(趣味をきっかけにその人とすごく仲良くなって、色んな話をする流れで…ていうなら分かるけど)
同様の理由で、趣味のアカウントで彼氏彼女旦那奥さん子供の話ばっかりする人も苦手。リアル用のアカウントでやれば?
その後別の人間による「BLドラマの恋愛観をセクマイと同一視するな、セクマイに当てはめるな」的な、当たり前すぎて議論する必要もないようなツイートが流れてきて、更にうんざりするから。
多様性を尊重するのが大事とか言いながらそんな多様性の無いところに子供を行かせることが理解できない、という話なのでしょうか。
一応その前提で私の考えを書いていこうと思います。
まず多様性を尊重できる人に育つかどうかと、多様性のある環境にいるかどうかはあまり関係が無いと思います。
例えばマルチカルチュラリズムを標榜するオーストラリアがちっとも異文化を尊重できない白人を量産しているのは白豪主義という思想が根強いことだし、アメリカでも未だに黒人差別が根強いのは、かつての奴隷開放運動が尾を引いているからだと聞いたことがあります。日本の在日問題なんかもそうですよね。
多様性が尊重できるかどうかは、究極的には個人の資質や思想信条もあるため、本質的には簡単な問題ではないし、全く無意識のうちに多様性の尊重を欠いた言動や行動をしてしまうこともあるでしょう。
以前Googleのプログラマが「女性にプログラミングという仕事は向いていない」ということを言って解雇されたことがありました。知的水準が高いことが期待されるGoogleのプログラマですら、こういうことをしてしまうわけです。なので、水に放り込めばそれなりに泳げるだろうと言わんばかりに多様性に飛んだ環境に放り込んでみても、うまく行くかはその子の資質次第ということになり、どちらかというとハイリスクローリターンな掛けになる可能性が高いでしょう。
もしも本当に多様性を尊重する子供になって欲しいなら「 多様性を尊重するとはどういうことか」を学ばなくてはなりません。そしてこれは歴史の中で人類が試行錯誤してきたことなので、学校で学べることでしょう。
こういった前提になるものなしに多様性を尊重しろと言っても、よくわからないのではないでしょうか?
セクシャルマイノリティの人権問題に敏感でありながら、教室内で行われるいじめや差別に無頓着な人を見たことがあると思います。
アメリカの黒人問題は悲劇しか産まないと拳を握りながら一方で在日排除などと大騒ぎする人もいるでしょう。
自分たちは差別されている被害者だと言いながら、同じ口で他者を差別している人もいるでしょう。
こういう人々もまた多様性を尊重することは大事だ、と思っているでしょうが、一方で「この問題とあの問題は別」という考えも持っているからこのような矛盾したことをやってしまう。
多様性を尊重する、という上で特に大事なのは一貫性です。そしてこの世界では今も一貫性を追求しています。
ですが、一貫した多様性の尊重をする事は人類が普遍的に実践できるほど出来上がっていません。ですが、今できる範囲で最大限に多様性は尊重できるようになるべきです。
多様性を尊重できるようになるには、まず、世界の現状を理解できる程度の知性が必要です。次に、短絡的に判断しない慎重さも必要です。最後に変化していくことに躊躇しない精神性が必要です。これらの3つは、上質な勉強を基盤にした経験の中で身についていくものです。
これまでの人々がやってきた試行錯誤を勉強によって理解した上で、自分は次に何をするかを考えて実践する、人々と情報交換しながら自分を微調整していき、より良い多様性の尊重を目指していく、ということですね。
近年、ポリコレとかコンプラとかが広まってきて、セクシャルマイノリティや特定人種等に対する不適切な言動はかなり厳しくバッシングされるようになってきた。
過度なバッシングはどうかと思うけれど、ポリコレの普及に伴って多様性が認められていくことそれ自体は良いことだし、人が傷つくことが少ない社会になっていけばいいとは勿論思っている。
しかし、日本人のおじさんをやっていると思うことがあって、それが「あれ、俺らにだけポリコレ反映されてなくない?」ということである。
例えばテレビで芸能人が「ゲイって気持ち悪いじゃないですか」と発言したらほぼ100%炎上するが、「太ったおじさんって気持ち悪いじゃないですか」と発言しても多分燃えない。その場にいるおじさんの芸能人が「ちょっと待ってよー」みたいなことを言って場が収まる。
みたいなことで、以下はその例である。
・多様性を認めようと言っているフェミニストの人が、「おじさんは気持ち悪い」と発言しても怒られない。
・若い世代に恋人がいないことを揶揄してはいけないが、結婚してないおじさんはイジってもいい空気がある。
・セクシーに描かれた女性のイラストは批判されるが、若い子にデレデレするおじさんのイラストは批判されない(むしろそんなおじさんが批判される)
・おじさんひとりでクレープ屋に入ろうとすると変な目で見られる。(これは書いててちょっと違う気もする)
俺らにも目をむけろ!と声を荒げる気はないが、少しないがしろにされてんなーとは思う。
まあ、現代も含め歴代のおじさんたちが、多くの人に礼を欠いた振る舞いをしてきたことも原因なのかなとも思うし、結局飲み会でもちょっと失礼なこと言われて「勘弁してよー」みたいなこと言ってるのが楽だったりもするんだけど。
近年、ポリコレとかコンプラとかが広まってきて、セクシャルマイノリティや特定人種等に対する不適切な言動はかなり厳しくバッシングされるようになってきた。
過度なバッシングはどうかと思うけれど、ポリコレの普及に伴って多様性が認められていくことそれ自体は良いことだし、人が傷つくことが少ない社会になっていけばいいとは勿論思っている。
しかし、日本人のおじさんをやっていると思うことがあって、それが「あれ、俺らにだけポリコレ反映されてなくない?」ということである。
例えばテレビで芸能人が「ゲイって気持ち悪いじゃないですか」と発言したらほぼ100%炎上するが、「太ったおじさんって気持ち悪いじゃないですか」と発言しても多分燃えない。その場にいるおじさんの芸能人が「ちょっと待ってよー」みたいなことを言って場が収まる。
みたいなことで、以下はその例である。
・多様性を認めようと言っているフェミニストの人が、「おじさんは気持ち悪い」と発言しても怒られない。
・若い世代に恋人がいないことを揶揄してはいけないが、結婚してないおじさんはイジってもいい空気がある。
・セクシーに描かれた女性のイラストは批判されるが、若い子にデレデレするおじさんのイラストは批判されない(むしろそんなおじさんが批判される)
・おじさんひとりでクレープ屋に入ろうとすると変な目で見られる。(これは書いててちょっと違う気もする)
俺らにも目をむけろ!と声を荒げる気はないが、少しないがしろにされてんなーとは思う。
まあ、現代も含め歴代のおじさんたちが、多くの人に礼を欠いた振る舞いをしてきたことも原因なのかなとも思うし、結局飲み会でもちょっと失礼なこと言われて「勘弁してよー」みたいなこと言ってるのが楽だったりもするんだけど。
もうね、用語が多すぎ。
いつの間にかLGBTQになったかと思えば、LGBTQIAにバージョンアップしている。
増えすぎなんだよ・・・SOGIだのMTFだのFTMだのお前ら俺に理解させる気あるの?
レズビアンやゲイならまだ聞き馴染みがあるが、パンセクシャルとバイセクシャルとXジェンダーの違いになるともう良くわからない。
こんなの当事者かよほどセクシャルマイノリティに関心がある奴しか理解できないだろう。
これが日本ローカルの話になるとホモ、オネェ、オカマ、オナベと更に扱う単語が増える。もう勘弁してくれ。
セクシャルマイノリティを抱える人たちに言いたいが、これらの言葉そのものにアイデンティティを感じたり、それを求めてはいないか?
でも、本質は違うだろう。
本来、男が女を好きである事と、男が男を好きである事は同列に語られるべきだし、同様に許容されるべき事なのだ。
LGBTはマイノリティではなく、普通の事であると社会に受け止められる事こそがセクシャルマイノリティを抱える人たちが本当に求めるものではないだろうか。
だが現状は違う。
「LGBT」などマイノリティを表す言葉が生み出され続ける昨今、近年それがエスカレートしている事でセクシャルマイノリティがマイノリティ街道を一直線に邁進している様にしか思えない。
このままではあなた達マイノリティは社会からマイノリティのまま認知され続けることになる。
あなた達はこれからもマイノリティであることを自認し、受け入れ、マイノリティのまま生きて死ぬことを社会からは求められ続けるだろう。
あなた達は「普通の人」である筈なのに、マイノリティを意識し過ぎるあまりに「普通の人」である事を自ら手放している。
私はそれを許容したくない。
そこで提案したい。
自らの性別、性自認、性嗜好を表明することで、他者に自身のセクシャリティを理解してもらおうという取り組みだ。
性別が男ならMaleの頭文字を取ってM、性自認も男ならM、性嗜好が女ならFemaleの頭文字を取ってF、両性が対象ならBothの頭文字を取ってBで表す。
私の場合は
性別は男(M)、性自認は男(M)、性嗜好は女(F)なので、「MMF」とこんな具合だ。
仮に
性別が女(F)、性自認は男(M)、性嗜好が両性(B)だという人がいれば、「FMB」という事になる。
まぁこれは一つの提案ではあるが、この様な表現方法の方が平等であり、相手のセクシャリティを正確に把握する事が出来るのは明らかだ。
そろそろセクシャルマイノリティを表す言葉を生み出し続けるのは止めにしないか?
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性嗜好を表明する必要は無いという人もいるので、それなら当該部分にはEmpty(空)の頭文字Eを入れれば良い。
例えば性別は男(M)、性自認は両性(B)、性嗜好を非公表(E)とするなら、「MBE」となる。
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だが、現状セクシャリティを表す統一的なフォーマットが存在しない様に感じた。
昨今のマイノリティを表す言葉の爆増と乱立する定義がマジョリティに受け入れられるとは到底思い難い。
「LGBT」という言葉を生み出してしまったがばかりに、現状「普通の人」と「それ以外の人」という歪んだ構造が出来上がってしまっている。
「特別なもの」「他とは違うもの」として区別するのは、それだけで問題かな?
少年マンガだって少年らだけが読むものとして区別しているのは、問題ってことになってしまう。
自分はゲイだって認識してるのは、男性だけを特別に性的にみているってことになっておかしい、って言えてしまう。
誰が誰を好きになったっていいと思うし、誰が何を好きになったっていいとおもう。
問題は選好が誰かを排斥する時に起こる。排斥された・されそうな誰かは不合理な選択で不利益を受けている、って文句を言える。
腐女子の支援が私利私欲に基づいたものだとしても、セクシャルマイノリティを助けたい善意が独立してあってもおかしくはない。よしんば善意さえなくても、役には立つ。その場合でも味方ヅラしてもらうのはむしろ好都合でしょう。
ところで味方ヅラすんなは無礼な指図だね。他人に品行方正を説いておいて、自分は戯言をエクスキューズにして相手側の動機を一方的に邪推してるのに「カテゴライズして」「勝手に食い物にしておいて」。アンタは一体何様なんだ。食い物にしているのはそっちじゃん。
兄妹も夫婦も仲良さそうで何よりだよ。てか奥さんの体も含めて好きって言えるの相当すごいことよ。羨ましい!今後ともお幸せにもげろください。
旦那は営みに関してかなり淡白なので(セクシャルマイノリティ隠してるのかと思ったけどそうでもなさそう、ただ営みにあんまり興味ない)、昔から私が勝手に一人で盛り上がってるみたいなとこはあったんだよね。いろんなプレイも提案してみたけど、特に響かずに終わった。実はラブホにすら行ったことない…
今は私の知らないところで、男性の身体で生きてる上での必要最低限の処理だけして終了してる感じ。こんな旦那に男らしさは元から求めてはないんだけど、まさかキスもハグも無くなるとは思わなかった。切ない。
ちな増田は奥さんの出産立ち会ったりした?うち立ち会いだったんだけど、諸々エゲツないものをお見せした記憶は朧げにあるんだよね、怖くて聞けてないんだけど。それも影響してるのかな。
このまえ友達と話してる時、セクシャリティの話になった。中学生のときバイだと思ってたとか、自分の恋愛対象が分かんないとか、そういうの。
異性の友達でも「気づいたら好きになってた」みたいな感じで曖昧になることはあるけど、同性ならどうなんだろう。
私にも彼氏よりよく遊んでた友達がいる。手を繋いだりハグしたりも、女同士なら当たり前にしてて、
そんで、友達。
「性別の違いあるじゃん」って思うかもしれないけど、男女カップルしか認めないなんてもう古い。
恋とか愛とか正直まだよく分かんないし、
セックスしたら恋人、もなんか違う気がする。中学生ならしない子も多いし。
女の子のまつ毛とかさらさら揺れるポニーテールに見惚れるのは何が違うんだろう。
LGBTとかセクシャルマイノリティとか、そういう言葉がなくなって、同性へのドキドキと異性へのドキドキが同じ土俵にたった時、
日本では役者がそういうのオープンにしちゃうと選ばれる役の幅が狭まるような気がしちゃうんだよね
トランスジェンダーを公表した男(性自認は女)の役者が男役のオーディションを受けに行っても審査会議で「でもあの人心は女なんですよね」って言う人が必ずいると思うし
好きな役者(男)がデビュー時から何となくジェンダーに縛られたくないみたいな発言をしたり打ち上げで他の男役者にやたらボディタッチしたって暴露されてたり
はっきりしない状態で「やっぱりそうなんじゃ?」って言われるような役を個人の人脈で受けてきたりしてるので(事務所もよく許したと思う)
少し人気が出てきた今、もし公表せずにいるんだとしたら本当は公表したいと思ってるのかなとか
まあ余計なお世話ですね
小児性愛を本気でLGBTやセクシャルマイノリティーの観点で立論しようと思ったら、普通は「小児性愛と異性愛に違いはあるのか?」という問題提起から入るんだよな。
どういうつもりかどうかは別として、「小児性愛とLGBTに違いはあるのか?」という立論から入った時点で、「小児性愛はLGBTとは違う」と言っているようなものなんだよな。
「私はLGBTの立場から議論をした経験がありません」と白状してるようなものなんだよな。
理屈として何が正しい・何が間違っているとか以前の問題として、興味もないLGBTの立場を都合よく盾にすること自体が、LGBT差別だという視点もあるわな。
※本記事は「小児性愛はセクシャルマイノリティーでない」と主張するものではなく、むしろ、そのように立論するために必要な議論の足がかりを提供する目的のものです。
別に人形買って自分で処理しているとかそういう分には構わないんじゃないのとか思うんだが、よく考えたら性的興奮を覚える対象に性的にアプローチをかけたら犯罪になるセクシャルマイノリティってたくさんあるじゃない。
ズーフィリア
エキシビショニズム
クレプトフィリア
タナトフィリア
タフェフィリア
ピロフィリア
インファノフィリア
ここにたくさん書かれている。上記がそれぞれ何かは調べたら良いと思う。
↓
https://note.com/urue/n/n41fe95033f33
というように、軽度から重度な犯罪につながっていきそうな性的嗜好が山のようにあるのに、何でペドフィリアだけ事さらに叩くのか、というのがよくわからないんだよね。
子供が犠牲になっても良いのか!という人たちは、ペドフィリアはもはや自分の性的欲求をコントロールすることができなくなっているという風に差別していると思うんだよね。
例えばコントロール不可能になったエロトフォノフィリアはもはや無差別なんだが、そういう人に警戒しようという人は見たことがない。近所にエロトフォノフィリアがいる!追い出せ!とかは聞いたことがない。
確かにペドフィリアはひどく差別されている。なんでか知らないが明らかに的にされている。的にしている人たちが社会正義を背負いやすい構図なのもあるのかもしれない。
残念ながら、同性愛カップルや、その他セクシャルマイノリティーの性のあり方を見て、そんな想像をしてしまう「普通の人」がたくさんいるのです。
それが「差別だ」と言われているのです。