はてなキーワード: 過激派とは
主体と客体の区別がつかないインセルオタクの永遠の標本ぐおじさん、哀れな彼はこれを決死のギャグとしてでなく真剣に言っているのである。 https://t.co/shucusUExo— 弓薫 (@kaoruyumi_) 2020年2月16日
インセルってメガリアみたいな連中の事を指すやべー連中を意味する単語やぞ。
そもそもアレにしてもフェミの行動が過激すぎて出現した連中やしな。
この手のカウンターパートの過激派が出てくる事自体、フェミにとっては良くない前兆なのだけど、海外でもそれに気づいていない能天気さが以下にもこいつららしい所やぞ。
流石にアレと一緒にするのは失礼だし覚えたての単語を使いたくて仕方なかったのやろなぁ。
痴漢もセクハラも俺はやりまぁす!って公言するやつがいたら叩かれるよ
つまり、既にそういう内心を公言することをはばかられるレベルで叩かれてる
ハフポスのひろゆきインタビュー↓について、ツイッターやはてブで「こりゃひどいなー」って反応を見たのでそれについて書く。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5e3cb7f5c5b6b70886fd0627
ツイッターで一番見たのがこの反応、「昔のネット(特に2ch)はミソジニーが酷かったから女性も男性のふりしてただけだよ」ってヤツね。
この反応、実体験に即して記事を批判してるように見えて、むしろ記事の論旨を強化してしまってるんだよね。
記事の主張は「新聞等のネット以前のメディアは男性主体だった、でもネットは男女両方を読者として想定している(ただし初期は男性が多かった)」なわけで、()内を否定しても意味無いというか、むしろ大筋の論旨に反してしまう余計な枝葉をそぎ落として、親切にも元の主張を強化してしまってるんだよ。「昔からネットは男女両方が読者だった」ってね。
結構この人は信頼できるだろうと思ってた人もこの反応してて驚いた。そんなに読めないかね、これ。
あとこれは蛇足だけど、記事での主張は「居なかった」ではなく「少なかった」なんだから、個人の実体験だけではそもそも否定できてないんだよね・・・。
専業主婦のくだりとか、「女性は顔がある程度かわいければ、そこそこまともな結婚ができて一生食いっぱぐれない」とか、自分も「うわ、きっつ」って思ったんだけど、ちゃんと日本語を読むとこれに対する大半の批判は成立してないんだよね。
まず「女性は顔がある程度かわいければ、そこそこまともな結婚ができて一生食いっぱぐれない」の方なんだけど、この文の前と後に
前:「日本の男性には「生まれ変わったら女になりたい」っていう人、そこそこ多いと思うんですよね。」
後:「そういう男の人には、女の人の生きにくさは見えていないし、」
って文があるの、つまり「女性は顔がある程度かわいければ・・・」は、ひろゆきの思ってることじゃなくて、「日本の男性に~そこそこ多い」「そういう男の人」の思い込みであって、ひろゆきはそれを客観的に「女の人の生きにくさが見えてないな~」って思ってる立場なの。
わかる?これを「ひろゆきがそう考えている」って読むの日本語が読めてないレベルの誤読なんだけど、やっぱ文章読めない人は読めないんだなーって思った。
次に専業主婦のくだり、専業主婦をラクだと言ってたり、↓のように自分の偏見を吐露する部分はフェミニズム的に批判対象になり得る部分だと思う。
ただ母親を見ているので、「そうは言っても女の人の方がラクだよね」ってのはどこかにある。母親が働いている家庭に育っていたら、その専業主婦のイメージは湧かなかったでしょうね。
ただ、↑の直後に↓の文が来るのね。
他人の経験や本などから学習できる人って少数派で、自分の経験からしか判断しない人はやっぱり多いと思います。そういう意味では、「自分と違う人は見えない」というのが多数派で、それはなかなか変わらないんじゃないかなぁ。
これ、つまりひろゆき自身が「自分の経験からしか判断しない人」であり(少なくともその一面があり)、だから「女の人の生きにくさが見えていない(という事自体は見えている)」、って言ってんの。つまり自分の視点を相対化してんのよね。
だからこそ「母親が働いている家庭に育っていたら、その専業主婦のイメージは湧かなかった」なワケ。前述の偏見は普遍的に正しい話では無く、育った家庭で変わってしまうような一面的な「見え方」でしかない、と。
そもそもこの部分のタイトル「女性の「生きづらさ」が見えない理由」だからね?
こういう自分に見えてる景色を相対化する文を全部すっ飛ばして、「ひろゆきは(素朴に)女性がラクだと信じているんだ」と読み取るの、マジで国語のテストだったら0点だと思う。
(なおこの部分、「自分と違う人は見えない」と普遍化していて、「女性も男性の生きづらさ見えてないよね?」とも読めるようになってるの、強かだな、と思う。ここは反論できればするべき箇所かもしれない)
これまで挙げたような反応は多く見られる一方で、この記事のメインとも言える「今の日本では“フェミニズム”って言葉を使わないほうがいい」理由、つまりフェミニズムがミサンドリーや過激派を「自分達とは違う」と言えない問題については批判側からあんまり反応が見えなかった(少なくとも自分からは)
それそのものが象徴的だよね、あっ、そっか、この人たちはこれからもそこは直すつもりないんだ……って思ったわ。
記事にあることを読めばフェミニズムの現状は「本来の保守がネトウヨを自らから切り離せず、「あれは違う」と言えてないような状況」だとまで言われてる(と読める)のに、そこはもう放置なんだ、って。
まぁ分かるよ。
今後フェミニズムは絶っっっっっっっっっっっっ対に過激派やミサンドリーを批判出来ないだろうし、する気も無いんだろうね、それは今回の記事に関わらず良く分かる。そんなこと絶っっっっっっっっっっっっ対に無理だよね、凄く良く分かる。貴方達には無理だよ。
この記事への・での「フラット」の意味については批判側も擁護側も読めてないのが多かった。
とりわけハフポスの編集者が↓のようなツイートをしてたのは驚きだったね。
フェミニズムに関心がない人の目線から、そこそこフラットに語ることができるひろゆきさんに聞くから、理解できる層が広がるという取り組みのはず。彼の見解で賛同できないものはもちろんあるけど。
記事の中で髙崎さんが「とてもフラットに見ていますよね」って言ってることを批判してる人もだけど、この記事で「フラット」はポジティブな形容じゃないからね?????
読めばわかるけど、フラットと言われて「男女の立ち位置にそんなに違いはないと思ってる」と言うひろゆきに対し、
髙崎さんは「フェミニズムはまず「男と女は立ち位置が違っている」というところから始まっているのですよね」「もともとフラットな関係じゃない」と言ってるの、
つまりひろゆきの「フラット」な現状認識そのものがフェミニズムから見れば間違ってる、と言ってるの、わかる?
だから少なくともこの記事の中で・この記事に言及するときに「フラット」はネガティブな意味で使われてると理解するべきだし、ポジティブな意味で使うのは間違ってるの。
べつに今更なんだけど、マージで文章が読めない日本人って結構(この人は信頼できると思ってた人でも)居るんだなって実感したわ。
(なお、これをここに書いたのはツイッターで書くのは怖いなと思ったから。少なくとも自分自身は論理的な読解だと思ってるけど、そうだったとしてもフェミニズム側からは「敵に与した」としか理解されないんじゃないか、という危惧があった。今のフェミニズムにはそういう怖さがある、と思う)
個人的には高橋さんとお話しするのは楽しそうだけど、北村さんは無理だなあ、という印象。高橋さんは、言葉を信頼して人と人とを繋ごうとしている人、北村さんは言葉で人を殴ってくタイプの人。味方にするなら北村さん、て思う人が多いのかな。でも私はこういう、始終自ら争いを呼ぶようなマッチョな人とはできれば距離を置きたい。だから増田で言及する。
大本のツイ
「フェミニストのイメージってどうしたらよくなるの?(1)」に対する
「一部の過激派を自浄したらええんやで。昔のフェミニズムはもう少しマシやった(2)」というツッコミツイに対して
北村(saebou)「昔のフェミニストに比べたら今の人はマシやで?(3)今のフェミニストはサフラジェット(昔の過激なフェミニスト)より平和的(4)」とコメントした。これに対して
高橋(Shogo_tkhs)「いや、サフラジェットは一部の過激派です。それをもって当時のフェミニズムを過激とするのは誤解を招くでしょう。(5)」と突っ込んだ。で、議論ならぬ言い合いがスタート。
まず注意なんやけど、北村は(3)で昔の「フェミニスト」と言ってる。これは(4)を見れば「サフラジェット」のことを指していることは分かるけど(3)だけを切り離してみれば、当時のフェミニストは今のフェミニストより過激だと主張しているように見える。そもそも(4)でも、サフラジェットといまのフェミニスト全体とを比べているように読めるわけだから、「北村の主張は、サフラジェットを当時の一般的フェミニストのように誤読させかねない」という批判は確かに成立する。従って、高橋(5)の主張自体は特におかしくない。
これに対して北村は「一部と切り捨てられてきた過激派を再評価するのが現在の研究の流れ(6)」と返した。ここまでは実は比較的真っ当な会話ではある。「それは一部の過激派でしょ?」というツッコミに対して「一部の過激派だけど重要な存在」と返したわけだから。まだ会話が成立する余地があった。ここでたとえば高橋が「なるほど、そういう流れもあるんですね」としていれば、おそらく終わってた。
ただ、ここで両者には想定外のそれぞれの文脈が存在した。これがここから両者の会話を泥沼化させていく。
そもそも北村は現代の過激に切り込むフェミニストたちのポジションを守るという趣旨の下に、(2)の発言を、先鋭的な人たちと「穏当な」フェミニストたちを政治的に切り離すタイプの発言と取って、両者が一体であることを印象づけたいという意図があっただろう。いわば政治的な発言である。(2)の発言者にそういう意図があるかないかはともかく、ああいう発言はそういう結果をもたらす可能性がないわけではない。ただし、「フェミニズム」がただの「女権(しかも一部の)獲得運動」になるならそれは反発を招くよ、という指摘自体はおかしくないし、どちらかと言えば「昔の方が過激やったで?(3)、(4)」というのはただの感想であって、元の指摘に対する何らの反論でもない。そういう粗雑な反応をしたことが北村のミス。
一方、高橋の側で言うと、まさにその「フェミニズム」をより広範な運動にするべき、という意図があって、「現在の研究の流れ」がどうであれ「一部過激派をもってフェミニズム正統であるかのように発言すること」自体が容認しがたい。そういう立場からみれば、(2)に対する雑な(3)(4)の発言は、まさに「先鋭化して穏健派との溝を深める悪しき現代フェミニスト過激派の自己正当化」と感じられただろう。(5)の後で高橋が、当時の過激派以外の人たちへの目配りはあるか、と指摘しているのは、そういう文脈。
これに対して上のような意図をもつ北村は、「そういうふうに」一部の過激派と切り離すのがダメ、と切って捨てる。ここで、北村も研究者なら、相手のツッコミをみて「ああ、またそういう人が絡んできたわー」みたいな受け答え(これも粗雑だ)をするのでなく、きちんと「確かに一部ですが…」と返せばよかった。だが、「そういう人」扱いしたせいで、雑に「現在の研究」を振りかざしてマウントしてしまう。これが最初の間違い。まず、北村がマウントを取った。この件、マンスプレイニングとか揶揄してる人は、都合良くこの部分を読み飛ばしている。
そこで高橋は(相手が研究者とは知らないので)、ちゃんと穏健派(サフラジスト)の名前もあげて、過激派(サフラジェット)は一部ですよ、と指摘したのにこの人に無視されたぞ? あれ? この人、本当にフェミニズムの歴史を知ってるの? と素朴に考えてしまった。そのため「ご存じないのでしょうか?」とやってしまった(このこと自体は仕方ない)。まあ、いちいち相手のプロフィールを見るいわれはないし、フェミニズムを語るからといっていちいち研究者のIDを知っておかなくてはいけないわけでもない。この「ご存じない?」は、「ぼくの言ったこと、ちゃんと聞いてる?」くらいの意味に過ぎない。素朴な発言だ。
ただ、これに北村は相当カチンと来たようで、ここから暴走する。そして相手の言ってないことに絡み始めて咎められ、しまいに
みたいな肥だめ同然の罵り合いになって、無事沼化した。
この話の滑稽な点は、おそらく、登場人物が全て「フェミニズムをどうしたらいいか」真剣に考えてる、フェミニズム寄りの人々ばかりってことなのね。最初の(1)(2)も、そして北村も高橋も。それが、相手の話も聞かず自分の立場に固執して煽り合い罵り合い……。とりあえず、運動が先鋭化して大衆から離反し、挙げ句の果てに内ゲバを始めるという、わが国の運動史の悪しき伝統を見事に引き継いでくれていますね。100年経っても何も進歩していないこの現状に、労働運動史をかじった人間としては涙を禁じ得ないよ。
はあ…。
おじいちゃんの遺言でApple製品は使わない – NorthPage
父親がApple信者だったのでお下がりのPerforma 588を使っていた。
当時からMac系の雑誌では「MacOSはもうダメだ」と言われていたと思う。
元記事で指摘されている「マルチタスクができない」なども悩みの種だった。
「システムはWindowsが良いがGUIはMacが素晴らしい」というのが大方のApple信者の認識だった。
もちろん対外的には「すべての面でMacは優れている」と主張するのが当然だったが。
次期MacOSではそれらの欠点がすべて解消され、夢のようなOSになると言われていたが、
その開発に失敗したことでApple社への不満は頂点に達した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Copland
正確には、私がMacを使いはじめたのはコープランド開発中止のあとなので、リアルタイムの感想は分からない。
しかし雑誌などでは「コープランドが成功していればこうなるはずだった」というようなことがたびたび書かれ、
まるで理想国家建設に失敗して「どうしてこうなった」と嘆く共産主義者のようだったことは覚えている。
もちろん対外的には「MacはWinに負けてない」と主張するのが当然だったが。
「Macはディレクトリでなくフォルダだから素晴らしい」というのはよく分からない。
もっと昔はそういう言説もあったのかもしれない。
たとえば「マニュアルを見なくてもドラッグ&ドロップの意味が分かる」みたいなことではなく、
「このファイルをここにドラッグ&ドロップすればこうなりそう」という直感が当たる、といったような話だった。
このあたりは現在のiOSなどにも引き継がれているところだと思う。
まあ、どの企業もGUIデザインに気を遣うようになって相対的な優位性は無くなっているが…。
自分にとってジョブズは「教祖」というよりは「過激派の司祭」だった。
Windowsを攻撃するぶんには頼りになるが、彼の言うことを何でも信じていたわけではなかった。
MacとWinPCの性能比較には無理があったし、過去に言っていたことをすぐにひっくり返すし。
もちろん対外的には「ジョブズは素晴らしい」と主張するのが当然だったが。
とりあえずジョブズが復帰して、iMacが発売されて、Appleは勢いを得た。
同時期のWindows2000の画面と比べてみてくださいよ。
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/990628/desktop.jpg
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20001018/wpe05_04.jpg
完全に未来でしょ。美しすぎるでしょ。これは調子乗っちゃうでしょ。
マカーが「MacはWindowsより美しい」と言いはじめたのはMacOSX以降じゃないかと思う。
それまでは「Macは可愛い」とか「人間味がある」「愛嬌がある」といった評価が多かったのでは。
話の落とし所がわからなくなってきた。
自分がなぜApple製品を使っているのかを考えると「最初に使ったから」という刷り込みが大きいのだが、
もう一つとして「Apple信者だから」というのがあるように思う。
Apple製品は良くも悪くもユーザーに使い方を押し付けるようなところがある。
これに関してはひとつ思い出がある。
初代iMacの「ホッケーパックマウス」は非常に酷評されていた。
しかし当時のAppleは「そもそも持ち方が違うのだ」と主張していた。
それまで(というか現在でも多いと思うが)マウスは「手のひらで包むように持つ」のが普通だった。
しかしホッケーパックマウスは「指で摘まむように持つ」ようにデザインされていた。
手首ではなく指を動かして操作するから腱鞘炎になりにくいのだ。
私はちゃんと摘まむように使っていたので、ホッケーパックマウスはコンパクトで使いやすいとさえ思っていた。
みんな、どうしてAppleの言うとおりにしないのだろうかと不思議だった。
信じる者は救われるのだ。
まず言っておくと、ポスターへの批判や、ポスターに嫌悪感を表明することへの批判の気持ちは一切ない。
シスヘテロ向けコンテンツ愛好者と過激派フェミニストのバトルなんて心底どうでもいいからである。
ただ、白熱したバトルの様子が毎日のようにTwitterに流れてきたりホッテントリ入りしてくるので、その感想。自分語りを交えて。
(次の例は、たまたま私がよく観測・記憶してしまうだけであって、もちろんそうじゃない人も大勢いるし、主題じゃない。)
いわゆるツイフェミの中にはMtFを女装した性犯罪者と見分けつかないからと差別してトイレくらい我慢しろと言い放つ人がそれなりにいる。
自分が安心する理由をつければ人権を否定しても差別じゃないから。
いわゆる表現の自由戦士の中には淫夢とかヤマジュンをネタにして男性同性愛者を嘲笑してる人がそれなりにいる。
献血しない層はターゲットじゃないから批判するなと言いながら、己がターゲット層じゃないコンテンツをわざわざ違法コピーし面白おかしく編集して偏見を広めて回っている。
性的搾取だとか差別だとか表現の自由だとか理論武装して崇高なことを言ってるけど、
結局大抵の人間って、いじりやすい奴を徹底的にいじるし、気にくわない奴を徹底的に叩く。
物心ついた時から今現在に至るまで出版物でもテレビでもネットでもLGBTはそういう扱いをされているから、よく分かる。
そう気がついてから、自分の中に(ゲイであることとは別の)確固たるアイデンティティを築けるように努力した。
今では人生を最高に楽しんでいる。
不快な表現を見て多少傷ついても止めろと騒ぐ気力も湧かないし、自分の表現や趣味嗜好を否定されても必死に反論する必要性も感じなくなった。
(LGBTの社会活動をする人達のおかげで差別が減ってきたのは事実なので、それには感謝してるし尊敬もしてる。)
イギリスが盗撮行為を「犯罪」としたのもここ1,2年の話なんですよね。
他にも聖職者や国連の人権問題に関わる者の性犯罪には無関心。
性問題よりも、自己の嫌悪感を基軸にする一人一派の弊害なんだと思います。 https://t.co/4acMhYCGUu— 天やん (@zerosaku) 2020年1月12日
漫画やアニメなどに対する嫌悪感でふわっとした連帯感を保てるからこそ萌えを叩く。一方、現実の性被害に対して無関心でいられるのは、そこに共有できる実体験が無いからでしょう。— 天やん (@zerosaku) 2020年1月12日
奴等が悪質なのはそのふわっとした連帯感やバッシングの為に平然と他の弱者の権利すら悪用する所。
そして自分達のお気持ち以外一切興味がないのは当時の児童ポルノ禁止法でもネット規制や創作物規制は主張するが、規制に懸念や反対していた人達が指摘していた児童保護予算や厚労省管轄にする事については一切無視していた事からも良く判る事だからね。
要は自分のお気持ち以外どうでも良くて、その為なら何でも利用する様な連中と言った感じ。
その辺が奴等がそれからも大暴れして、広範囲に多大な迷惑をかけた結果やっと世間にも認識され始めたって所。
日本でもこんな感じだしね。
海外でもキリスト教や国連の性犯罪が多く出てきたのに未だに内部で創作物規制ばかりして、矛先逸らししようとしているにも関わらず、更に今でも各国でダッチワイフ規制とか喚き散らしていてアレだからね。
フェミは嫌われて当然だよ。
あいつら最近よく口実に出すインセルなんてそれこそフェミの弊害で生まれた要因も非常に大きい訳だしな。
こう言う過激派が出てきだすと本気で社会自体、フェミの嫌悪が募っている証拠で奴ら的にも非常にやばい事態と化しているのだけど、奴ら自身増長しきっていて、それにすら気づいていないのは救えないよね。
環境保護過激派系ヴィーガンが嫌われてる。だが、待ってほしい。
クジラやシャチはスピリチュアルな動物だの、かわいそうだの苦痛を与えてるから残虐だの言いたい放題だった。
しかしその当時は欧米諸国は「クジラなんて誰も食わないだろ」とか「環境問題で日本に矛先を向けられるぞ」と扇動に乗っかってしまった。
環境保護過激派ヴィーガンがうっとうしいというのは正しいが、その苦痛と差別扇動に、ずっと鯨食文化は耐え続けてきた。
犬食もかな。
そのあとで、徐々に「魚の生け作りは残酷だ」とか勢力を拡大し、牧畜全般をバッシングし始めた。
そして、運動は拡大し、動物愛護の精神から、必然的に、あらゆる動物を対象にし始めてきた。
まあ、どこの世界も一緒。ごく一部のマイナーなところから始めて、支持者を拡大し、それから大きなところに放火する。
表現規制とかも「最初は、大多数の比とは関係ないから大丈夫」と言いながら、一部をつぶして実績を上げ、一気に拡大していくのも同じ。
①に関してはグレタは別に特定の国に対して特別の思い入れがあるわけではなさそう。
トランプとかブラジルのトランプが揶揄してるから個別に反応したり、セクシー大臣の演説を念頭においた表現を用いたりすることはあっても。
個人的にはアメリカや中国、インドに個別で言った言わないに固執することはグレタの環境思想に対しての是非の判断をつけるものではないので詭弁の範疇に思えてしまう。もちろんそれを批難するつもりはない。
②これはたぶんグレタが思ってることにかなり近い。ただグレタが念頭においてるのは個人ではなくその総体として各国だと思うので、「具体的な環境政策を示してる国はもっと頑張って、示してない国は頑張って」っていうスパルタ環境少女がグレタだと個人的には思ってる。
③だけど、グレタが批判してるのは化石燃料発電の中でもとりわけ二酸化炭素の排出効果が高い石炭火力発電のことだと思われる。
COP25で日本に化石賞贈呈してた環境シンパ団体が日本を批難するのも、日本がG7で唯一、新規の国内外の石炭火力発電の新設計画を控えてたり、石炭火力発電へのファイナンス度が最下位みたいな日本特有の国内事情があるからだと思われる。
で、基本的にグレタは「今すぐ止めろ!」みたいな超絶過激派ではなくて、石炭火力発電の漸減や自然エネルギーでの代替を求めてる感じ。本人的には「今すぐ止めろ!」ぐらいは思ってそうだけど。
④グレタの個人的なアクションとしてヨットで移動したり菜食したりしてるだけで、温暖化対策同様に世界各国に求めているわけではなさそう。
ただ「極力環境負荷の低い行動を心がけましょう」みたいな「ハイレベルの倫理」を内面化してそうなので、グレタと親交関係を持てば半ば強要される可能性はありそうだと個人的には思う。
つーか個人的にはグレタさんは、ある時は未成熟な16歳の少女、ある時は成熟した環境論者、みたいな光と闇が両方そなわり最強にみえる特性を備えてるので関わりたくない。
フェミと全く関係ない界隈に居るんだけど、時折フェミの話題が紛れ込んでくるのね。
1,2年前は夫の悪口とか、フェミ的な思想がリツイートされてたんだけど、1年前くらいからそれに反論する界隈人が出始めて、
フェミはキチガイみたいなイメージが界隈に浸透した。夫の悪口言ったり、女性に有利な思想が流れなくなった。
ポスター騒動でも完全にフェミの負け的な雰囲気になってたけど、「負の性欲」の部分で底をついた感じがある。触れちゃいけないところに触れちゃった感じはある。
負の性欲って、一部では正しいけど、一部では間違ってるもの。曖昧な存在。だからこそ、それを見た彼女が居たりする人がちょっとフェミよりに偏るんじゃないかと思ってる。
もうちょっと掘って、「それはおかしいだろ」ってなるような事が起きるんじゃないかと。
でも今までの体感的に、ここから反フェミの中で過激派が生まれて、「女は守る必要ない」ではなく「女は傷つけていい」って輩が出てくるんじゃないかな。