はてなキーワード: 生存者バイアスとは
月曜だ。死にたい。
お風呂に入ると、死にたい死にたいと言いながらシャンプーをして、
「死にたい」と呟くことは、
もはや心に焼き付いたシミのようなもので
一生取れないんだろうと半ば諦めていた。
それでも、平凡な毎日は変わらず送れる程度には器用で、
サラリーマンを15年勤めた。
まあ何とか自殺せずに逃げ切ることもできた。
自分にしてはとても珍しいこともやった。
俺は毎日あいも変わらず「死にたい。死にたい」と言い続けていた。
「死にたい」を言う回数はだいぶ減ったけど。
当然、開業してすぐの頃はお客は全く来なかった。
でも、貯金を全部使い切るまでは続けようと思った。
どうせ世の中は売り手市場だし、前職は人手不足の常態化してる業界。
再就職は多分できるだろうという思いもあった。
昔の同僚や友人と独立の報告に(あわよくば仕事につながればと思い)
ご飯を食べに行ったりしてた。
利益がほぼ出ないボランティアのような仕事も経験と思って受けさせてもらった。
そうこうしてるうちに半年もした頃、
運が良いことに仕事がポツポツと入り始め、
何とかサラリーマンのころの8割くらいには稼げるようになった。
ふと、気づいたら「死にたい」と全く口にしなくなっていた。
仕事が好きな事なので作業自体が面白い。受注できればその分だけお金が入る。
布団から出たくない日はでなくてもよい。夜に頑張る。
満員電車は乗らなくてよい。嫌な同僚も上司とも会わなくてよい。
面倒な飲み会はなくなった。やりたくない仕事は受けなくてもよい。
「やらされている」事に起因してるんだと気づいた。
もちろん仕事が減って食えなくなる怖さはあるけれども。
毎日の「死にたい」が止まったら、びっくりするくらい心が軽くなった。
単純に今の生活が向いてただけかなとも思う。
そういう生き方ができると「死にたい」が消えるんだと実感した。
「やらされている」状況を変えてみるのも良いかもしれない。
3つ下の婚約者は研究職ではなく、学歴は出身大学名しか分からない人なので、すごいと言ってもらっている。しかし、客観的に見て、自分の業績は大したことがない。
正確に言うと、うちの分野では重視されるトップカンファレンスには何報か筆頭で通しているので、同業者にはそこそこ名前を知ってもらってはいる。が、ジャーナル本数が少ないので、ジャーナル中心の他の分野の方から見ると、いかにも低業績に見えるだろう。
今のポストは任期付き。任期後に、どこでもいいからパーマネントの教員/研究ポストに就きたいが、このままだとジャーナル不足で絶望的だ。
ただ、分野的に、いつでも企業に転職はできる。35歳後半になっても、探せば正社員待遇で取ってくれる企業はあるだろう。
正直、同じ世代の同分野の日本のアカデミアトップ層に比べれば、私の業績は見劣りする。彼らトップ層は、形の上では私と同じ任期付きだが、業績&PIとの関係から考えて、将来安泰な人ばかりだ。要は、理由がないからうつらないだけで、どこでもいいから日本の任期なし研究・教育ポストにつきたいと思えば、それができる人たちだ。
私は、そうではない。どこでもいいから日本の任期なし研究・教育ポストにつきたいと思っても、私の現在の業績では無理だろう。
婚約者は子供を望んでいる。周りを見渡せば、皆、子供を作ってアカデミアに残っている人は、パーマネントポストを取ってから作っている。
パーマネントポストを取らずに子供を作るということは、研究を諦めるということと同義だ。
子供もできていないのにそこまで考えるのもどうか…そもそも結婚しても子供ができるとも限らない…とも考えた上、婚約者の強い押しもあって、婚約してしまった。が、結婚してから、子供ができてから、では遅い。
婚約破棄費用も検索してみた。もちろん、正当な理由による破棄ではないが、「キャリアの事を考えると、子供ができることを考えた場合、お互い不幸になるとしか思えない」という理由付けなら、悪質ではない。婚約破棄費用はせいぜい80万円程度だろう。
大金だが、結婚後の離婚にかかる総費用に比べれば、大した金ではない。離婚は相手が拒否した場合、成立させることが困難になるが、婚約は、片方が拒否して費用さえ払えば、確実に破棄できる。
少子化の時代に云々と言われるかも知れないが、私は別に天才ではないので、たとえ子供ができたとて、子供が天才になるとは全く思えない。むしろ、頭の悪い私の子など、生まれてこない方が、この国のためなのではなかろうか。
国内トップ層を走っている30代の方は、どんどん子作りをしている。彼らは、子育てに時間を割いても、この国のために研究教育を通じて貢献できるほど優秀だからこそ、それが許されるのだと思う。
私は彼らほど優秀ではない。研究教育と子育てを両立させたら、研究教育の質が下がるに決まっている。私の何倍も頭がいい日本トップレベル研究者ですらそうなのだ。結婚して、私の業績が下がらないはずがない。
家庭第一ながら、素晴らしい業績を出している年上の研究者も知っている。家庭を第一にした方が良い、というアドバイスを親身になさる年上の研究者も知っている。しかし、それは、彼らが優秀だからできたことなのではないか。
彼らの他に、敗れ去った人が多くいるに決まっている。生存者バイアスだ。
大して頭の良くない私が、頭が悪い子供を作り、トップ研究者を仰ぎ見ながら、出来もしない家庭と業績の両立をしようとしたところで、能力不足で失敗し、両方とも質の低いレベルにおさまるのが目に見えている。
それは、家庭も、私も、そして、間接的に研究費を私に与えてくださっている国も得をしない、誰も得をしない失策なのではないか。
婚約者との中は良い。好いてもらっているようだ。私も好いてはいる。しかし、ここは、相手のためを思うなら、相手が泣きわめいても裁判沙汰になっても、婚約を破棄するべきなのではないか…という疑念が頭をよぎる。
難しい。悩ましい。
その日、何かの授業が自習になった。大学受験を控えていた自分は当然にみな勉強をするものだと思っていた。が、クラスメイトの大部分はバレーボールをするために外に行ってしまった。教室に残ったのはほんの数名だった。地方都市の偏差値60程度の高校とはいえ、大半が大学を受験するはずだったので、さすがに驚いた。
実際、周囲はかなりのんびりしていて、浪人するのが当たり前だった。「浪人してから頑張る」と公言して憚らない奴が結構いた。
自分は「現役で受かるつもりで頑張らないと、浪人したとしてもろくなところに行けない」という話を鵜呑みにしていて、高3の夏ぐらいからは真剣に勉強をするようになった。そのおかげか、高3の最初には学校内で最底辺をさまよっていた成績も順調に上がり、秋ごろには校内でかなり上位に位置するようになった。
もっとも、それは所詮、三流進学校のなかでの話。結局、現役では志望校に合格できず、浪人をすることになった。だが、予備校でもそれなりに努力を続け、翌年には東京のそれなりに偏差値の高い大学に合格した。それを機に上京、就職して家庭をもったいまも東京で暮らしている。
合格した直後には、本当に自分の努力が誇らしかった。苦しい受験生活をなんとか乗り越え、同じ高校に通っていた連中のほとんどが行けないような大学に合格した。そんな時に頭に浮かぶのは、冒頭で書いた自習の時間の話。他の連中が遊んでいる間に自分は勉強した、だからこの学歴は自分の力だけで勝ち取ったのだと本気で思っていた。
しかし、それから長い時間が過ぎ、貧困や格差に関する話をいろいろと読むようになった。親が勉強や進学に理解を示さない家庭や、勉強のための時間的、金銭的余裕がない家庭が日本にもたくさんあるということを知った。大学進学率が都道府県によって全く異なり、2016年春のデータによると東京だと大学進学率は7割を越える一方、鹿児島では35%しかないという。どんな家庭で、どんな地域で生まれるかによって大学するか否かは大きな影響を受ける。
考えてみれば、自分が実力で勝ち取ったと信じていた学歴も、実際には恵まれた家庭に育ったという要因に支えられていたことは明らかだ。自分が高校生のころから諸事情で親の懐は急に暖かくなり、金銭面では何の心配もなく高校や予備校に通うことができた。自宅にも集中して勉強に打ち込めるスペースがあった。多くの大学の受験料も支払うことができたし、何より東京の大学に通うために一人暮らしをさせてもらえた。これほど恵まれた家庭環境を踏まえるなら、自分がなした努力など、ほんのわずかな要因にすぎないと分かる。
しかしそれでも、大学に進学するか否か、どんな大学に進学するかはその後の所得に大きな影響を与える。自分の大学の同期を見渡しても、大手企業に勤めている奴は多く、平均所得はかなり高そうだ。都心の高級タワマンに住んでいる奴も結構いる。自分もそこまでではないが、世間一般の平均からすればかなり高額の給料をもらい、余裕をもって家族を支えることもできている。
自分がフェアな競争を勝ち抜いてきたわけではないことは分かる。だから、教育機会に恵まれない子どもの話を聞くと、後ろめたい気持ちになる。景気への影響もあるから、一概には増税が良いとは言えないものの、教育機会を充実させるために使ってくれるなら多少の増税も喜んで受け入れたいと思う。
戦後、日本の知識人の多くが左派的な立場を支持したのは、このような「後ろめたさ」があったという話を聞いたことがある。大学進学率が今よりも遥かに低い時代、例外的に大学に進学できた富裕層の子供が、自らの特権性を自覚するほどに左派的なイデオロギーに吸い寄せられていったのだという。自分は知識人などではないが、そういう後ろめたさはなんとなくわかる。
その一方で、世の中には自分よりも遥かに厳しい環境を生き抜いてきたにもかかわらず、富の再分配に反対する人もいる。生存者バイアスというやつなのか、自分が厳しい環境を生きてきたからこそ、努力さえすれば成功すると信じ、富の再分配には否定的になる。補助を増やしたところで、怠け者がもっと怠け者になるだけだ、という発想があるのかもしれない。
結果、自分のようにぬくぬくとした環境で育ってきた人間が富の再分配に賛成し、それより遥かに厳しい環境で生き抜いてきた人がそれに反対するという、どうにもいびつな構図が生まれる。
自分よりも遥かに厳しい環境を生き抜いてきた人が、社会の支援よりも本人の努力が大切だといった話をするのを聞くと、やはり経験に裏打ちされた言葉は強いと感じる。自分の立場が偽善的だと言われれば確かにそうで、空理空論という感じがどこかにつきまとう。
しかも、自分の子供のことを考えると、現状のような機会の不平等があってくれたほうが、都合が良いとも言える。競争がよりフェアになれば、それだけはじき出される可能性も高まる。
だがそれでも、学歴は自分の力で勝ち取るもので、肉親の支援以外をあてにするべきではないなどと言うつもりにはなれない。なんというか、それは人として言っちゃだめな感じがするのだ。
http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/10/15/102629
は、ガチガチの生存者バイアスのかかった価値観を持った集団の考え方をよく表している。
そういうバイアスは学歴や一般的な頭の良さに関係なく誰でも持ってしまう。
(実際大学教授でも女性の研究者に対して女のクセにと粗探しをする人間が現代でもいたりする。
本人の属性と研究成果の正当性は無関係であると論理的に考えればわかるにもかかわらずだ。)
こういう偏屈な価値観を持ってしまうと自殺に至るかもしれない。
トイアンナ氏のこの記事は自殺した電通社員に生前に伝えたかった内容なのだろうと思う。
この主張を受け入れ別の価値観の可能性を見出せば、自殺以外の手段も自ずと見えて来るはず。
だが、それだけでは今後の悲劇を減らすことは難しいだろう。
人は幸せになるために生きていて、幸せになるためには周囲の承認が必要になってくる。
今回の事件は、おそらくパワハラだけが主要な要因だったのではなく、承認が得られないこととプライドの問題なのだと思う。
プライドが高くなれば、より厳しい条件での承認を得られないと満足できない。
そして社会はよりプライドが高い人間を肯定し、より良いものしか肯定してくれない。
例えば、富士山の登山に成功することも立派であるが、一度エベレストの頂上に到達した人間が出てくると、
富士山程度では誰も承認してくれなくなってしまう。それがどれだけ大変であっても、だ。
このように、社会はどんどん承認に必要な条件を厳しくしていく傾向がある。
人間は上を目指す生き物で、それは本能なのかもしれないが、本能だからと絶対視するのはナンセンスだろう。
例えば、ヤギは本能でどんどん高い場所へ登るのだが、最終的に降りれなくなり転落死するものが出てくるのと同様だ。
だから、いかに本能がそう訴えていても、理性を持った我々は危険な本能を知恵を使って抑制する必要がある。
さて、今回の自殺は、電通だから起こったことではない。というのが必要な視点だろう。
電通の体質が今後改善したとしても、根本的な解決にはなっていない。
それは抽象化して考えれば、承認を得られなくなることへの絶望が人を死へ導いているからだ。
これは仕事以外のこと同様で、恋愛ができない、結婚ができない、就職ができない、子供ができない、収入が少ない、人に認められない......
社会から望まれる項目を満たすことに希望を感じれなくなり、自殺に至る人間なんて山ほどいるだろう。
それらは決して注目されることはない。「電通社員」ほど希少性もインパクトもないからだ。
だが、おそらくそれらの自殺要因は共通している部分があって、結局は社会の目とプライドの要素が大きいのだろう。
本人がプライドを高くすることを抑えても、社会の価値観を変えることをしない限り、劇的に自殺の数を減らすことは難しいのではないだろうか。
ネット上の意見を見ていると年々ルッキズムの人間が台頭してきているように思える。
容姿という要求に対しても、どんどん厳しいものになっているだろう。
あるアンケートで高学歴なら人生が幸せになるかという問いに対して、yesと答えた割合の高さも衝撃的だった。
こうした、「承認の達成条件の厳格化」が、山羊の山登りと同様に愚かなことだと、世間が認識し抑制しない限り、
物質的には豊かになっても精神的には貧しい状態がどんどん加速していくと想像する。
そのためには、こうした考えを一人でも多くの人間に内在した愚かさを認識させ、それを頒布し、
一人一人が社会を変える意識を持つようにしていくことでしか、悲劇を劇的に抑制することはできないだろう。
これらの議論をオピニオンリーダーやインフルエンサーが行ない、周辺の人々もそれに続けば、世の中は少しずつよくなるのだと思う。
ただし、オピニオンリーダーやインフルエンサーになるには、厳しい条件を乗り越える必要があるため、
http://anond.hatelabo.jp/20160910170427
に対するコメントを見てて、コミュ力がない人間は〜と、コミュ力がないことはまるで改善できないかのように述べる人が目立つ。
病気になって神経が麻痺して動けないとかそういうものと同等ではないのだ。
私もかつてコミュ症だったが、それを直すために様々な特訓をした。
自分が話している様子を動画に撮影して、不審な挙動を減らしたり、
発声方法を学んだり、何が自分をぎこちなくみせているか分析した。
容姿も不快に見えない程度には気を使い、もともとブサイクだがそれでも最低限の清潔感は出すようにした。
外国人が集まるバーに突入してコミュニケーションを取れるようにしてみたり、
ボランティア活動だったり、ホームレスの支援など知らない人とコミュニケーションをとる機会を増やした。
おかげで就職もうまくいき、社会人としてもそこそこやれていけている。
学生時代に同じようにコミュ症だと言っている人、もしくは就活に苦戦している友人には
だが、彼らは誰一人として実行に移さなかった。
ビデオに録画することを嫌がり、しまいにはむいていないと言い出す始末。
生存者バイアスだ、特別な存在だ、バイタリティが、そもそも社会が、、、、
違うよ。
コミュ症からはじまって改善する人と自分を比べて、そうなろうとしてないだけなんだよ。
まず君たちに言いたい。
http://ameblo.jp/akky-0829/entry-12188216276.html
かの有名な源氏物語では、頭中将(光源氏の親友、プレイボーイ)が、「女は中の品(中流)が良い。身分が高すぎると高慢だし身分が低いといやしいから」と語っています。
何故いきなり源氏物語の話?と最初は不思議に思ったが、過去記事を読んで合点がいった。
「下には下がいる。(ダメンズがモテる理由)」と題された記事にはこんな記述がある。
階層1 既得権益人(上級公務員、難関国家資格者、大企業勤務者、成功した起業家など)
と、社会をざっくり4層に分類すると、女は階層3と4に9割近く属していると思います。
つまり、階層3と4の層は、商業高校のように男女比が、男2女8くらいだと思います。
(中略)
階層1の男が「自分は意外とモテない」と思うのはしかたないと思います。魅力が無いとかじゃなくて、単に、女が居ないのが原因だと思います。
2つの記事は対になっている。後者の記事では、男性に対して「下の階層の女と結婚しろ」と説く。前者の記事では、女性に対して「上の階層の男(光源氏)と結婚しろ」と説く。そして筆者に言わせれば女の9割は階層3と階層4に属しているのだから、ここで想定している読者も階層3と階層4に属する女性ということになる。
このことを念頭に置いて改めて例の炎上した記事を読むと、少し印象が変わる。第4階層の人とは口聞いちゃダメとか、犯罪者予備軍扱いしている点は差別的と言えるかもしれないが、この記事の想定読者も第4階層である。つまり、光源氏と結婚したかったら同じ階層の人とは手を切りなさい、と説いているのだ。これ自体は差別とは言えないと思う。これが差別なら、親が子供に「友達を選びなさい」とか言うのも差別になるだろう。
それから、筆者が「生存者バイアス」に捕らわれて努力不足の底辺を蔑視している、というトイアンナの指摘も当たらないと思う。例の記事にはこんな記述もある。
たとえば、一流企業の人が二流企業へ転職することはできます。でも二流企業の人が一流企業へ転職するのは難しいです。
ですから底辺階層の人は、ほとんど一生底辺階層です。たとえば売春婦が、丸の内の会社に転職できますでしょうか?努力によっては不可能ではありませんが難しいです。
努力ではどうにもならないから結婚するのだ。結婚しかないのだ。
この様な主張は女性誌などでもありふれているし、正直そこまで炎上するほどのものでもないんじゃないの、と思う。
なお、筆者はtwitterで「私は長年読んでくれている読者のことを思っていつものとおりブログを書いただけ」と主張している。長年の読者に向けて、長年の読者にしか分からないようなニュアンスで書かれた記事を晒しあげて、罵詈雑言を撒き散らしているはてな民の方がよほど醜悪に見えるのは私だけだろうか。
いわゆる2ちゃんねるネタであり「あそこに書かれていることなんて気にしなくていいと思うぞ」で終わってしまう話を、あえて書いてみる。
就学前の幼少時から始められる楽器の代表例は、なんといってもピアノとヴァイオリンだろう。
そんなだから、当然2ちゃんねるにもヴァイオリンのスレはあるのだが、ピアノと違ってこのスレはほぼ十年来、ギスギスした空気で現在に至っているのだ。
理由は、幼少時から始めた人=アーリー組と、高校・大学・社会人くらいから始めた人=レイト組の対立にある。
結果、本スレから分家した、レイト向けスレの1に貼られるテンプレからして、その上から目線ぶりが尋常ではない。
以下の論争はすでに終結しています。
●耳の腐ったレイトに良し悪しは解らんだろう。
●ヴァイオリンはピタゴラス音律で弾く。レイトは基本的にヴィブラートを掛けてはならない。
●幼少期から習っている人に大人から始めて追いつけるワケがない。言語と同じ。
●チューナーは、調弦では仕方がない、運弓で使える、音階練習には使えない。
(中略)
汚い音、狂った音程に対する嫌悪感が、上達のインセンティブで、
これはもう、明らかに「にわかを見下す熟練者」「アーリー組自身が囚われている生存者バイアス」が合わさった結果であり、こういう対立がないピアノ組が正直羨ましい。
自分も一応はアーリー組の末席という立ち位置だが、どう見てもアーリー組のスタンスの問題だと思うのだ。
以下、そんなアーリーの特徴を、ヴァイオリンの特性も絡めて書いてみる。
主にピアノと比較したヴァイオリンの特性をシニカルに書くと、こんな感じである。
ヴァイオリンをとても良く弾ける人間がひとたび音を出せば、それはもう堂々の主役として、当たり前のようにステージを支配する点において「楽器の女王」であることは間違いない。
しかし楽器のポテンシャルや柔軟性から言えば、「楽器の王様」はピアノだろう。
そんなヴァイオリンは、親の時間的金銭的負担が大きい時点で幼少時からの学習者がピアノほど多くないところに、演奏技法習得の難しさ(≒誰もが知っている名曲を弾けるまでに至るための要求水準の高さ)から、恐らく多くの脱落者を生んでいることが容易に想像できるシロモノである。
それこそ面倒どころか、個人的には世界一難しい楽器としてギネス認定すべきだと思うくらいで、ヴァイオリン弾きの生存者バイアスが強いと思う理由である。
全5曲のうち、重要なのは3番以降の3曲で、これはプロオケの入団試験にも頻出する曲であり、つまりヴァイオリンでクラシックをやるなら、3曲のうちのいずれかをプロ・アマ問わず習得していることが望ましい曲である。
というかメンデルスゾーンの協奏曲やバッハのシャコンヌやチゴイネルワイゼンみたいな名曲を弾こうと思ったら、モーツァルトをまともに弾けるのは大前提だし。
そんなこともあり、実際プロ目指す人は小学生でモーツァルトをやってしまう。
しかしアマチュアになると、幼少時から習っていてもここまで来る人は1割程度だと言われている。
そして、そんなごく一部の人=アーリー組が、大人になってもヴァイオリンを続けていると、こういうわけだ。
しかし、アーリーにそんな自覚は多分ないはずで、それどころか超頑張って俺はここまで来た的な自負があり、これがレイトとの軋轢の根本原因だろう。
つまり、幼少時から始めた人が超上手くなって続けるか、そうならずにヴァイオリンを習っていたことそのものを無かったことにするかという両極端な事情をどうにかしないと、今後もこの憂慮すべき事態は続くと思われる。
> たまにテレビで昔のヒット曲を振り返る番組とかやってるの見ると、80年代辺りはいい曲だなって思うのが多い。
http://anond.hatelabo.jp/20160523225722
ひとつは、生存者バイアス。長年残って今でも紹介される曲は、優れた作品だけ。
ちなみに、80年代歌謡の流れを汲むアーティストもたくさんいるし、いい曲もたくさん書かれてるけど、テレビやオリコンチャートなどの表舞台に登場しない。
つまり売れてない。誰もがCDを買う時代じゃなくなったので、少数派が聞く音楽が、市場価値を持たなくなっている。
アイドルとかアニメソングとか演歌とかの固定客がいる音楽のほかは、マイルドヤンキー層に好まれる、誰にでもわかる簡単な歌(EXILE、西野カナみたいな)しか売れなくなってるから。
逆に、今80年代のニュアンスを徹底的に研究して曲を作っている人は、ゲーム業界とかアニメ業界とかの音楽担当に多い。
あとは、K-POPとか台湾とかタイとか、アジアの各国も日本の過去のアイドル歌謡を徹底的に研究し尽くして、取り入れてるよね。