はてなキーワード: 感情移入とは
お前も逆方向に感情移入してる同じ穴の狢やん
今までルサンチマンという単語は意味だけのものだったけど、このヤフーニュースのコメント見てこういう人達なのかなって思った。
遠藤周作のマリーアントワネットにでてくる少女は決して非現実的ではないね。
自分の生活と1ミリも関係のない(税金が使われているのだろうけど)この人達のことをこんなにも叩けるのが凄い。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6719a4dc15833b61af8329701e550d7222a9ae07
もう、一般人になったなら運転手付きの高級車は、ご遠慮ネガイタイ。
警備も車も自費でお願いします。
お幸せに。
自宅マンションの近辺へは近づかないでほしい。
ljt***** | 16時間前
ただ小室佳代さんのことは別です。お金の貸し借りは個人同士のことなのでもう関係ありませんが、遺族年金や休業補償の件は法令に抵触する可能性がありますので徹底的に調べて欲しいと思う。
mui***** | 16時間前
この送迎の車やら、警備費やら家賃やら生活費やら、自分達の懐から出してますよね? あんな記者会見したんだから当たり前か。これみんなで宮内庁ホームページのご意見フォームで問い合わせてね。
もう一般人ならほっとこうぜ。SPとか出かけるのに送迎とか渡米するのにチャーター便とか渡航費とかは全て2人で賄って下さい。
mbg***** | 16時間前
もう、ほっとけば
この二人の行い見ていると労働意欲を削がれる
あの様子じゃ今頃二人共してやったりと今頃ほくそ笑んでるよ
やっと自由になれた〜ってね
跡を濁しまくっている事すら気付いていないのではないだろうか?!
ダメ人間だったり、人を裏切ったり、怠け者だったり、スケベだったり。
人間のダメなところを肯定してくれるのが創作ではなかったのか。
鬼滅の刃見てビビった。機械みたいに超絶「いい子」で一切感情移入できない。
そりゃ世の中息苦しくなるわ。
もっと炭次郎がスケベ野郎だったり、「今日はめんどくさいから鍛練サボるわ~」くらいな方が気楽でいいじゃん。
その割に無惨にはめっちゃ辛辣。なんなの?話くらい聞いてやれよと思う。
悪人なら正義棒でボコボコに叩いていいという世相の投影かなんか?
当時(今でも?)異色の
キャラクターだった。
私は非常に単細胞なので真っ直ぐにアニメの主人公に感情移入するので
主人公よりロボットの操縦が上手というキャラが居ることに、ある種の挫折感を抱いたものだった。
あるいは世の中上には上がいる、という認識は現実世界ではなくてアニメの世界ではじめて感じたことではないだろうか。
劇場版では立場が逆になっていて、一条くんしっかりしてよね、てきなことを主人公言い出したときは屈辱的な気持ちを味わった。
あるいは自分より後輩の人間が上役になるという感覚を味わったのはあとにも先にもこれ一度きりなのかも知れない。
少し話がずれるがこのマックスというキャラは後に巨人族の女と結婚することになるのだが
劇場版でその女との出会いは戦闘の末に巨人族の女を倒してその女のヘルメットがポロッと外れて
超巨大な頭部(進撃の巨人より大きい)が現れてその顔を見た瞬間
「美しい」とマックスは声を発するのだが、
そのシーンを見て、ああこいつは少し頭がオカシイやつなんだな、
だからロボットの操縦も俺(感情移入しているので俺になってる)
より上手いのも当然のことなんだ、
増田ではもう多分おなじみで飽きられてる例の話題における「女性の表象」について。
今週いろいろ考えていたことを書いておきたい。
多分この文章は文脈的にも時期的にもアンチフェミだとみなされると思うんだけど、自分j心にはそんなつもりはない。そもそもあの変な議連をフェミだとも思ってないし。
むしろ自分としてはクリエイターとしての違和感と普段の気持ちのメモとして残したい。
文章畑とはいえ自分はクリエイターでいわゆるオタク界隈でくらしていて商業化もコミカライズもしたっていう立場だけど、多分立場そのものとはあんまり関係ない。
はじめに感じたのは「なんか雑だな」という気持ちだった。
「女性の表象」というざっくりした単語の選択と、そこに込められた視線についてだ。
昨今のオタク界隈クリエイターとして女性キャラはいっぱい作ったし書いてきた。ヒロインとしてサブキャラとしてモブとして。それぞれに主入れを持って作り込んできた。それって「女性の表象」なのか? 自分は「女性の表象」を描いてきたか?
その答えは一般的にはYesではあるけれど、自分自身の中ではNoだ。
一般的なボリュームのラノベをささっと書くのに、自分は調子が良ければ大体三週間くらいかかると思う(念の為にこれは完成に要する時間ではない)。もちろん作中ではいろんな事が起きるし、ヒロインやヒロインとの関係は重要ではあるけれどパーツの全てではないので、この時間はそのままヒロインを描くのに使った時間ではないけれど、ひとつの参考としてそれくらいかかる。
そして読むのは早ければ二時間弱とかじゃなかろうか?
つまり作るのにめちゃくちゃ時間がかかってさっくり消費できる。これは文章畑に限らずコンテンツは何でもそうだと思う。むしろ文章畑なんてすごく素早く手軽に作れるジャンルで、映像やゲームは桁違いに時間がかかるだろう。
実際そういう現場に協力することもあるけれど、気が遠くなるくらいの人手と時間と、つまりはリソースが消費される。
それだけの時間を投下して、「女性の表象」をつくって、満足できるかといえば、自分はできない。
嫌われるかもしれない言葉をつかうけれど、正直に言う。
現実の女性の方々に訪ねたいけれど、たとえば大好きな人ができて、そのひとと来週デートするとする。初めてのデートだとする。
胸がはちきれそうなほど嬉しいとともに、膝が震えるほど怖い。なんだか冴えない一日になってしまうのが怖い。がっかりされるのが怖い。思ったよりうまくしゃべれないと思うと怖い。相手の期待ほど可愛くない自分だったらと思うと怖い。
そんなときはないだろうか? そんな時何らかの努力をしないだろうか?
自分の知る限りの知己もいままでめぐりあいのあった女性も、すごい何かをしていた。正直男性である自分からは理解しがたいほどのエネルギーをそこに注ぎ込んでいた。
その日その瞬間を「いい感じ」にするために、髪型や服を整えて、時には体型やら自分の好みまで変えて、とっておきを提供しようとしていた。そういうのを見ると恐れ多いような頭が下がる様な気持ちになったのを覚えている。
デートの時にやってくる「一番好的な彼女」というのは上記のような女性の努力の、つまりはクリエイトの結果だと自分は思っている。
ディズニーのいうありのままの自分がなんだかよくわからないけれど、彼女たちは、確かに自分自身を超えた自分を顕現させようとして、いっときそれに成功する。
自分はそれを偉大だと思う。女性だからとかそういう理由ではなくて、クリエイターとして尊敬する。言語化出来ているかどうかは定かではないけれど、彼女らはなりたい自分をクリエイトして作ったからだ。
創作物には、描きたいものがある。その描きたいものが例えば出会いとか、別れとか、嬉しいとか悲しいとか楽しいとか懐かしいとか、恋とか、そういうものがあって、その過程で必要となってヒロインがいる。
卑俗なところで言えば、可愛いとかもっと見ていたいとか、エッチなことをしたいとかでも良い。とにかくそういうエモーショナルな何かを伝えたくて創作物を作る。
女性のキャラは、例の言葉を借りれば女性の表象は、そのための道具に過ぎない。大事だし思い入れもあるけれど、過程に過ぎない。読者に伝えたいもののために必要であれば何かを盛るし、邪魔であれば削る。
それは現実の女性には不可能だ。だって現実の女性は主人公のために、あるいは読者や視聴者のためにだけは生きられないでしょう? 現実の自分の生活があって、趣味もやるべきこともたくさんあって、理想の魅力的な自分だけでは生きられないでしょう?
世の中で言われている萌キャラなんてものは、愛されるために生まれてきたものだと自分は思う。自分が関わった仕事は、全てそのつもりで仕事をしてきた。現実の女性と違って、彼女らはそれに全力投球だ。なぜなら、それが彼女らの存在意義で、全てだからだ。そのために生まれたからだ。
それ以外の私生活なんてものはない。あるように見えたとしたら、それは覗き見される前提で作られた、いわば公開用の私生活だ。飾り気のない普段の姿、という形態の作り込まれた物語にすぎない。
つまり、創作物のキャラは、現実の女性がデートの瞬間ほんの一瞬だけできる「すごい自分」でいるのをフルタイムで続けられる存在だし、それが存在価値だ。何ヶ月も、場合によっては何年もかかって産み出されて、一瞬で消費される。その巨大なコストを代償にして、現実を超えるために産み出されるのが創作物のキャラクターだ。
自分は、「現実を超える」使命を持った創作物が、そのために悩んでカロリーを叩きつけた創作物が、「女性の表象」だなんて、そんなふうに単純化されるのを我慢できない。
たとえば、あるヒロインの不安と絶望を表現するのに、創作者は雨を降らせることができる。人気のないコンビニの駐車場の暗がりを作ることも出来る。つながらないSNSを登場させることも出来る。それらは舞台背景であって舞台背景ではなくて、彼女の内面を表す暗喩だし、読者に感情移入してもらうための動線だ。
そのキャラクターが気高くて必死で尊敬に値すると伝えるために銃弾の降り注ぐ戦場も用意できるし、水晶の花咲く庭園でのダンスシーンも描ける。
彼女の魅力を伝えるためなら、そこまでやる。女性としての魅力を伝えるためにもし必要だと判断するならば、女性の体さえ抹消する。耳やら尻尾やら砲塔やらを生やす程度なら序の口で、人面蛇身にすることもあるし、なんだったらAI宇宙船の金属筒に収められた脳髄だけの少女なんて世界観にすることも出来る。
雨やコンビニや水晶の庭園が女性の表象かといわれれば誰もがNoと言うだろうと思う。でも創作者の中でそれは渾然一体で不可分だ。その時それが必要ならつくるまで。舞台だけじゃなくて、演出も、エピソードも、言葉選びも、同じ語句をひらがなで書くか漢字にするのかさえ、伝えたいものを伝えるための道具であって、ヒロインと等価で同じものだ。
読者や視聴者の人に、紙面やモニターの向こうで、恋をしてもらえるなら、涙してもらえるなら、どれだけカロリーがかかってもそれら全部はやるべきことだ。
つまりやっていることは「女性の表象を作ること」なんかじゃないのだ。青椒肉絲定食を作ってるのに対して「ピーマン切るのは許可されるか」「いやピーマンは不許可だろ」みたいな議論をされてる置いてけぼり感。
こちらはピーマン千切り業者をやってるつもりはないし、ピーマン千切りを提供したつもりもない。もっといっちゃえばお前らがいじくり回してるその皿には、パプリカは入っててもピーマンは入ってないよまである。あるいはししとう叩いて大喜びだな、なんてのも。
以上で率直な感想は終わりだ。フェミがどうこうとか性的搾取とかは、自分にはよくわからない。
でもこっちは現実の女性を周回遅れにする純度のために何かを描いてるので、現実の女性の投影であるとか、模造であるとか、そういう雑な用語選びは好きになれない。という話だと思う。
初めてみたけど、なんか聞いてたより面白くなかった。
以下に疑問点や不満点を列挙する。
◎CM多すぎない?
話の中身が全然入ってこない。あとCMでもアニメのキャラ使うせいで本編なのかCMなのか混乱した。
煉獄さんが死ぬシーンは、みなさんこれで本当に感動したの?と正直なってしまったが、おそらく映画で見ると印象が違ったのではないかと思う。
子供向けなら仕方ないのかもしれないが、猪頭と黄色い髪のキャラがやっているギャグが面白くなかった。
別にシリアスな話だけやれというわけではないが、やるならやるでちゃんと面白いギャグをして欲しい。
今までの努力なんだったんだよ、となった。週刊連載漫画ならいいのかもしれないが、映画は独自に構成を組めるのだから、序盤で匂わせなりなんなりしておいてほしかった。
その後のアクションシーンはよかった。
◎エフェクトがうるさすぎる。
必殺技を出す時に派手なのは良いと思うが、常にエフェクトがバリバリ効いているせいで画面が見にくい。
モブに刺されて、「俺が死んだらあの人が人殺しになってしまう…」はちょっとないだろう。子供向けなのなら、なおさら主人公に言わせるべき台詞ではない。
お人よしとかいうレベルではなくて狂人。あそこで一気に感情移入できなくなってしまった。
Ufotableの作品はあまり見たことが無かったが、どうにも撮影や作画の気合の入れ方に対して音は随分適当だな、と思った。
あと、効果音にもあまり気を遣ってないのがわかる。個人の好みの話になるからここはどうでもいいかも。
声優の演技も普段は気にしないが、ちょっとアニメっぽすぎた。アニメだからいいのか?
随分とわざとらしい演技で、台詞のテキストの良さが損なわれたと思う。
「煉獄さぁん…」と泣きはらす主人公で終わるのはあまりにも余韻が良くなかった。
主人公なのだから、例えば前をキッと見て終わるとか、「俺頑張るぞ」感を出して前向きな気持ちで終わった方がいいのではないか。
(続きものだから、この後ずっと失意の中で転げまわる展開なのかもしれないが)
●よかったところ
・序盤からおばあさんを助けるシーンなどの一幕で、味方のキャラクターが掴みやすかった。
(最も、そのキャラクター性が活かされる場面はあまりなかったが)
おっと思う独白が非常に多かった。
点数をつけるなら60点くらいの映画だと思った。作画は、まあまあ。撮影技術はすごかった。
コンテは、目を見張るものはなかったかな。演出は結構よかった。アニメの技をカッコよく書くノウハウが相当ある会社だとお見受けする。
総合的に判断すると、原作漫画がものすごく面白いのだと思う。とにかく台詞、テキストに、ものすごくセンスがある。やや説明的だが、それが気にならないレベルで良かった。
面白いといえば面白いが、うーん、本当にこれでみんな面白いと思ったのか?
続き
https://anond.hatelabo.jp/20210920161004
いよいよ作品は完全に3D化し、『プリンセスと魔法のキス』『くまのプーさん』を最後に2Dアニメは公開されていない。アニメーションとしてのたのしさを感じることは少なく、かろうじて『塔の上のラプンツェル』のランタンや『モアナと伝説の海』のココナッツ妖怪のシーンが関心を惹く程度。個人の好みの問題ではある。劇場の大スクリーンで見ると印象が違うかもしれない。
きわめて雑な括りにまとめると、ここからはオタク少年とポリコレ少女の時代であり、2021年現在のネット政治談義の地獄絵図と完全な地続きとなる。もちろん、ディズニー作品上でそういった地獄の扉が開くわけではないのでその点は安心してほしい。
オタク少年の物語は『チキン・リトル』『ルイスと未来泥棒』『ベイマックス』の3つ。ポリコレ少女の物語は『プリンセスと魔法のキス』『アナと雪の女王』、あと『ズートピア』を入れてもよいかもしれない。ビデオゲームが題材であり、かつ社会問題とのつながりを思わせる『シュガー・ラッシュ』はその両方にまたがる作品と言えるだろう。
そのうえで言うと、『チキン・リトル』『ルイスと未来泥棒』『ベイマックス』は物語が希薄で、率直に言ってあまり見るべきところがない。
『チキン・リトル』はナードの息子との関係性に悩むジョックの父親というキャラクター設定は興味深いものの、あまりにアメリカ固有の事情がすぎるため感情移入しづらい。『ルイスと未来泥棒』は出来の悪いバック・トゥ・ザ・フューチャーみたいなやつ。『ベイマックス』はあからさまな吊り目描写を控え、許容範囲内のアジア人描写を採用した点では興味深いものの、お話は薄い。
逆に『プリンセスと魔法のキス』『アナと雪の女王』『ズートピア』はテーマ設定は高尚なものの、物語として十分に消化されているかというと疑問符をつけざるを得ない。
『プリンセスと魔法のキス』は初の黒人プリンセスものだが、物語の大半で主人公と王子様はカエルに変身させられており、カエル同士の恋愛模様を見せられる羽目になる。人種以前の問題で厳しい。
『アナと雪の女王』は暴力を抑えられないエルサが他者との共生を諦め、山に引きこもるというかなり重たい話から始まる。すったもんだあり最終的には女王に復帰するものの、物語上彼女が心を開いた相手は妹のアナ1人のみであり、(作劇上なんとなく誤魔化されているが)共生の範囲は著しく狭く、また他者理解とも程遠い。
プリンセスものへのアンチテーゼとして悪役に王子のハンスが配され、アナがクリストフとくっつかないという展開も、批判されやすいポイントを表面上回避しているに過ぎない。ここではプリンセスを求める消費者の欲望とフェミニズムの倫理が奇妙な連合を築いており、かつての植民地主義とはまた違ったグロテスクさがある。
続編の『アナと雪の女王2』は前作に対する心底意地悪な批評とも見れる作品で、エルサは女王の座を離れ再び山へ、アナとクリストフは無事マイルドヤンキーバカカップルに発展と、前作でごまかされていた点を露悪的に展開させてしまう。
『ズートピア』は『きつねと猟犬』同様に動物種を人種のメタファーとして描いているが、生物学的に異なるものを示す種の概念と、生物学的には同一である人種を重ねることによる概念の混乱が拭えず、メッセージはぼんやりしたものにならざるを得ない。
『シュガー・ラッシュ』は卑しい職に就いたが最後、「これは社会に必要な仕事だ。だからどんなひどい待遇でも文句を言うな」と清廉潔白な人々に差別されるという現代社会の欺瞞を描いた作品である。しかしヴァネロペは実は高貴な生まれだったので問題解決。主人公のラルフもなんの理由付けもないままなんとなくハッピーエンドを迎える。解決策を示さないままハッピーエンドを迎えるというのは、なんと欺瞞的で残酷な映画だろう。
なお続編の『シュガー・ラッシュ:オンライン』は話皆無・物量勝負の典型的な続編映画だが、ディズニー/ピクサー/スター・ウォーズを使った物量作戦はなかなか侮れないものがある。ここに来て『アナと雪の女王2』『シュガー・ラッシュ:オンライン』と続編商法が続いているのはどうも社内の制作体制に関するゴタゴタの影響がありそうだが、詳細はよくわからない。
そのほか『塔の上のラプンツェル』はいわゆる毒親の話だが、劇中「みんな同じだ」と高らかに歌い上げてしまうのは問題の本質を捉えかねている印象を覚える。毒親問題は子供が自分とは根本的に異なる個体であり、かつ尊重しなければならないという意識を欠いているからこそ問題なのだ。それが「みんな同じ」では困る。
『モアナと伝説の海』『ラーヤと龍の王国』は頭を使わず見れる娯楽作で、とくに『モアナと伝説の海』はまあまあ出来がいいが、それ以上書くことは特にない。ポリネシアと東南アジアがそれぞれ舞台となっており、現地のひとが見るといろいろ不満点があるのかもしれない。
以上がディズニー映画59作品の歴史だ。個人的には『白雪姫』『ダンボ』『眠れる森の美女』『リロ・アンド・スティッチ』の4作品は見てよかったと思っている。
全部見るのは正直苦痛なので、気になったものだけでも見てみてほしい。最新作の『ミラベルと魔法だらけの家』は今年の11月に劇場公開されるが、歴史の流れを知って見れば、作品単体のおもしろさとはまた別の発見があるかもしれない。
事件報道を見ると、被害者に共感し悲しみを覚える自分が居ると同時に、加害者に感情移入し、自分だったらどうしていただろうと考える自分が居る。
これを加害性と呼ぶかどうかはわからないけれど、自身に対する嫌悪感と同時に自分もこの加害者同様になりうるのではないかという想像に恐ろしくなる。
猪苗代のボート事故の犯人が逮捕され、自分も被告同様のステータスを抱えていた場合、どのような対応をしたかと言われると自信が無い。
自分が事態を引き起こした時、適切な対処ができるか、適切な行動が取れるか、分からないのだ。それが怖い。
今日も車を運転して会社に来た。ただ事故が起こらなかっただけで加害者のロシアンルーレットに当たらなかった。ラッキーなだけだ。