はてなキーワード: 凶悪事件とは
ミラクルのような出来事といえばそうだし、選ばなかったのもある。
選べるような状況ではなかった。だけどできたのは奇跡のようなことだったり、いろんな縁だったり、自分を現実的に見たからだったりする。
就職が決まった瞬間、ふっと心が楽になった。
ニートが起こした凶悪事件ニュースを見る親を見て、慌ててチャンネルを変える必要がなくなった。
その晩胃が痛くなって吐くこともなくなった。
とてもホワイトな会社に就職できたとは思わない。給料も高くない。
でも身体を崩すようなこともないし、決まりにうるさいわけでもない。
生きることに困らない程度には貰えている。
でも、楽しいと思う。
それはフリーター・ニート生活を長く味わったからこそ分かる快感だ。
それを思うと、楽しくなった。
思えばバイトに任せてもらえる仕事なんて殆ど無くて、楽しさなんて感じたことが無かった。
それが正社員になった瞬間に、色んなことが変わりだす。
ずっと就職するのが怖かった。
就職氷河期ではないが、高校の時にリーマンショックで進学をあきらめたクラスメイトを見たり、2010年には就職できない主人公のドラマ「フリーター、家を買う。」が放送されたり、2011年に震災の年に就職活動をした大卒でもない自分は、百社エントリーが普通の世代で色んなことを見た。
それが嫌で嫌で、仕方なかった。辛くて、しんどくて。お祈りが怖くて。
実際震災でメンタル的にも良くなかったんだと思う。精神的に弱かった。
周りにも就職をしないで卒業する子が多かった。そこに流されることで、楽な道を行った。
数年後から就職率が上がりだしたが、そこにも乗れなかった。自分より若い子たちに混ざれないと決めつけていたのかもしれない。
後悔ばかりしていた。死にたくて死にたくて。
でも就職した瞬間に世界が明るく見えた。もうボーナスを貰える自分よりできない正社員を羨まなくていいのだ。
新卒の子たちよりも、就職の意味を理解して、やる気があるかもしれない。
だから企業の皆さん、積極的にフリーターや切羽つまってるニートを救ってやってください。
意外と働き手になるから。優しく受け入れてやってくれませんか。
絶対人は殺さない、犯罪は起こさないと思っていたけど、それでも自分が同じようになるのが怖かった。
そんなやつが今、会社に求められている働き手になっている。
俺はいっぱいいるし、多かれ少なかれいる人が多いと思うんだけど
でも例えば5人で行動してて1人の事凄い嫌いだとしても
ほかの3人といて楽しければそんなに気にならないでしょ?
それでも気になるなら10人、50人、100人、1億人って増えていったら気にならなくなるよ
例えばミサイルでも大地震でも何でも、何か大きな事が起きて身近な人も、道行く人も、交通機関も公共施設も、なにもかもパニック状態だったら自分だけ平静を保ってられると思う?
無理でしょ
みんなが楽しい気分になればそのうち楽しくなるでしょ!
どうやったらみんなを楽しい気分に出来るかって言われたらわかんないけど
身近な人だれか一人を楽しい気分にすることなら、まぁ無茶ではないでしょ?
俺みたいな友達もいない人は難しいかもしれないけど、それでも本気出してみたら昔の職場の人とかなんかそういうの出てくるでしょ。もしそれでも出てこないなら道行く知らない人でもいいの。
そしたらその一人がまた誰かを楽しい気分に出来れば1億人なんてすぐじゃない?
ネズミ講と一緒だよ
愛されたい人とか愛したい人とか
寝てたい人とか働きたい人とか
世の中には色んな人がいるけど
楽しい気分になって嫌な気持ちになる人なんていない、これはみんなそうでしょ?
凶悪事件の犯人がどうこうとか、近隣の国がどうこうとか、自国の政治がどうこうとか、文句なんて探したらいっぱい出てくるけど
楽しい事も探せばいっぱい出てくると思うよ
どうせ文句言ったって犯罪はなくならないし、君の声は近隣の国にも自国の政治にも届かないよ
そんなことに声をあげるエネルギーがあるなら、みんながとなりにいる人を楽しくさせた方が素敵じゃない?
びっくりした。
スタッフも二次元だとでも思ってるんだろうか。アニオタよりアニメ脳だ。
殺人だと判明している日本の単独犯による大量殺人事件の死者数トップ3を発表する。
第三位 相模原障害者施設殺傷事件(2016)死者19人負傷26人
まだ記憶に新しい凄惨な事件だ。この事件はまだ犯人が全く反省していないし生きている。
被害者、その家族、この事件が社会的にどんな影響を現在進行形で与えているか。
その点に置いて冷静に知見を持って考えていくべき大量殺人だった。
もはや都市伝説級になっているが、まだ生き証人が居るので終わってはいない。
詳細を見ると犯人の置かれた状況について考えてしまう。もちろん凶悪事件であり犯人の身勝手さは酷いものだ。
しかし『村八分』について今一度考えてみる必要を現代に説くことになる。
この事件がいまだに二位だということに、戦慄も覚える。
どこかで思っていた人もいるだろう。日本でこの事件を越えることはないだろうと。
第一位 京都アニメーション放火事件(2019)死者35人負傷者33人
死者がこれ以上増えないことを切に願っている。
「【京アニ放火殺人】凶悪事件が起こると死刑廃止論者は困る?」
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/07/26/191304
自分は必ずしも死刑存置派ではない。現行の死刑制度を必ずしも支持する立場ではない。だがそれでも、この人の議論にはさまざまな穴があるように見える。
犯罪は社会が生み出すもので、凶悪犯を処刑して社会から排除しても、そのような犯罪を生み出した社会の歪みを正さないかぎり、また同じような犯罪が繰り返される。死刑は、犯罪の原因を除去できたかのような幻想を与えるものでしかない。
「凶悪犯を処刑して社会から排除すること」と「そのような犯罪を生み出した社会の歪みを正すこと」は両立する。死刑執行を見て「ああ、これで犯罪の原因を除去できたぞ」と喜ぶ人もいるのかもしれないが、自分個人は見たことがない。
他者の権利を侵した者が同じことをされるのは仕方がない。懲役刑や禁錮刑も基本的人権(自由権)の侵害だが、まさかこの人は懲役刑や禁錮刑にも反対するわけではないだろう。
絶対に謝罪しない死刑囚もいる。宅間守や植松聖など。仮に謝罪してもらっても殺人の罪とは全く釣り合わないから、謝罪させることには根本的に意味がない。
神ならぬ人間が裁判を行う限り、誤審の発生は避けられない。冤罪で被告人を死刑にしてしまったら、その過ちは取り返しがつかない。
絶対に冤罪ではないと断言できる事件も多い。むしろ、その方が多い。また、誤審で取り返しのつかない結果が生じるのは終身刑でも同じこと。取り返しがつくのは罰金刑ぐらいである。誤審に対して判事・検事・警官などに個人的責任をとらせる方法については制度改革が必要であり、また別途考えなければならない。
死刑は、それを執行する人間を必要とする。刑務官は、凶悪犯といっても個人的には何の恨みもない無抵抗の相手を殺すという辛い行為を、職務として行わなければならなくなる。
ロボットにやらせればよい。ロボットの作動ボタンを押す役目は被害者の遺族に任せることにすればよい。遺族が望むなら執行の無期延期もありだろう。
凶悪犯ほど死を恐れないので死刑には抑止効果がないという問題もある。それどころか、死刑になりたくて人を殺した者さえいたではないか(土浦連続殺傷事件など)。
殺し方の残虐さに応じた方法で処刑すればよい。薬殺犯には薬殺刑。斬首犯には斬首刑。焼殺犯には焼殺刑。その他もろもろ。
34回に分けて執行するという方法がある。寸止めを33回繰り返し、34回目で絶命させる。永山基準では3人殺害で死刑相当だから、34を3で割り、寸止めは11回でもいいかも。
この規定にも疑問がある。拷問はともかく、残虐な犯罪に対して残虐な刑罰はあって当然ではないか。死刑囚の中には筧千佐子のような薬殺犯もいれば池田容之のような斬首犯もいる。本当に同じ絞首刑でいいのか。
件の放火事件に際して、ネットの界隈で、不謹慎という言葉が飛び交ってるんだけど。
この不謹慎って言葉、「その事件に乗じて欲望すること」と抽象的にまとめられるんじゃないかな。
その最たるものが炎上系Youtuberで、これは誰が見たって明白に不謹慎な動画を垂れ流してる連中なんだけど。
その事件に乗じて欲望することというなら単にその事件に乗じてある種の自分語りをしたくなる僕ら全員がそうだ。
凶悪事件から社会の世相を切って社会学者としての本領を発揮する、いわば社会学者のアイデンティティを誇示するあれもそうだ。
だとすれば、語ることはすべて不謹慎であって、不謹慎なことをするな!ということを徹底するなら
僕らはなにも語れなくなるんじゃないか。そもそも、欲望すること抜きに何も語れないのだから。
最初に、京都アニメーション関係者の皆様にお見舞いを申し上げる。皆様のどなたにも、こんな目に遭ってよい理由はなかった。亡くなられた方々には哀悼の意を表する。癒しがたい傷を負われた方々や深く傷つかれた方々に、心からお見舞いを言いたい。今現在、痛く、辛い思いをしていらっしゃることだろう。あなたは一人ではない。多くの人があなたを気遣っていることが、少しでもあなたの支えになることを願う。そして今生死の境をさまよっていらっしゃる方々に、匿名ながら応援の気持ちをお伝えしたい。どうか生き延びてほしい。
だが、こういう時だからこそ、以下の点は言っておかねばならないだろう。
今回の犯人――状況からみて病院に搬送され警察に事情聴取を受けている男が放火犯本人であるという前提の下で話を進めるが、他の多くの事件においてこのような前提を置くことは危険であることをご承知おき願いたい――が憎むべき罪を犯したこと、その罪は厳正に裁かれるべきこと、この点にはなんら疑いはない。個人的には、どこかで火災に遭って焼け死ねばいいのにとは思う。しかし、それはそれとして、彼を死刑にすべきではない。
死刑は撤廃するべきだ。たとえそれがどのような憎むべき極悪非道の人物であっても、死刑に処されるべきではない。理由の第一は、冤罪の危険性だ。今回はたまたまかなり高い確率で真犯人であろう人物が捕まったが、一家四人が惨殺され放火された別の事件では、おそらく真犯人ではないであろう人物が死刑判決を受け、現在も再審請求中である。人が人を裁く以上間違いはどこにでも存在する。間違った人が首を吊られるなどということはあってよいはずがなく、誤判をゼロにすることが不可能である以上、冤罪で処刑することを防ぐためには死刑を撤廃しなければならない。
理由の第二は、それが真相の究明に繋がらない場合も往々にしてあるからだ。中には改悛して洗いざらい吐いて刑場に向かう死刑囚もいようが、どうせ死刑なのだからとすべてを投げ出して語るべきことを語らず処刑される者もいる。仮釈放のない終身刑にでもしておけば、数十年後に重い口を開くことがあるかもしれない。被害者がどうして殺されたのか、本当の理由を知ろうと思うのなら死刑にせず生かしておいた方がよい。
理由の第三。死刑は過激な犯罪者を焚きつける可能性がある。オウム真理教の幹部を集団で処刑したのには開いた口が塞がらなかった。そんなに「国家権力に処刑された尊師と幹部たち」という物語を演出して、オウムの残党に彼らを神格化してほしかったのだろうか。死刑になりたかったから子供を大勢殺したのだと言い放った死刑囚がいた。彼らのような人物は、刑務所で死ぬまで惨めに生かしておくべきだっただろう。世の中を恨み、せめて大きな衝撃を与えてから死んでやろうと目論む者――ひょっとしたら、今回の放火犯もそういう動機を持っていたのかもしれない――に、死刑制度は大きな誘因を与えてしまう。彼らを英雄や殉教者にすべきではない。
理由の第四。欧州連合やスイス、ノルウェーといった主要な先進国は死刑を撤廃し、日本に強く死刑の廃止を求めている。彼らは死刑をその国の人権感覚の証と信じており、そして彼らの主張に同調する国は増えている。これが鯨食のようなそれぞれの国の伝統文化の話ならば妥協する理由はどこにもないが、別に絞首刑が日本の伝統というわけでもなし、欧州諸国、ひいては国際社会から人権侵害と糾弾されるリスクを抱えてまで維持すべきものでもなかろう。我々は中国や北朝鮮やサウジアラビアではなく、ドイツやフランスやスウェーデンと同じ側に立つべきだ。
そして、彼の行為を社会を統制するための口実にしてはならない。彼のやったようなことは事実上防ぎようがなかった。多少の安全対策で死ぬ人数は減らせたかもしれない。だが、セキュリティをどれだけ強化したところで、悪意をもった攻撃を100%防ぐことは不可能である。
犯罪防止の名の下で行われる様々な施策は、往々にして我々の自由やプライバシーと対立する。もちろんそのような行為をすべて否定するわけではない。軍用の銃器を保持する自由は制限されても仕方があるまい。だが、衆目を引く犯罪が起きる度にそれに応じた対策を採っていたら、我々の社会は生きるには窮屈になるはずだ。
新幹線の車内で凶悪事件が置きたことがあった。だからといって新幹線に乗る度にいちいち持ち物検査を受ける必要があるとなったら、ずいぶん窮屈で面倒だろう。包丁を使った通り魔事件が置きたとして、包丁の購入にいちいち面倒な手続きが必要になったとしたら、料理をする人は困るだろう。我々は秋葉原で執拗に職質をかけられ荷物を開示させられる屈辱ならよく知っているはずである。そのような社会に我々は生きたくない。
犯罪を犯す「法的な」「道徳的な」自由はどこにもない。そのようなものは認められるべきではない。だが「物理的な」自由、つまりやろうと思えば犯罪を犯せる環境を制限しようとすることには、慎重になるべきだ。
犯罪者は「事後に」厳しく罰せられるべきだ。強く非難され、その行為の報いを受けるべきだ。だが、「事前に」規制しようとするなら、それは無関係の者の自由をどこかで奪ってしまう。
包丁を屋外で振り回し無辜の市民を傷つける行為を「システム的に」抑止しようと思ったら、新居で料理道具を揃えようとするのに、あるいはふと思い立って台所に立つのにさぞや苦労するだろう。ガソリンを簡単に購入し持ち運べるのはおかしい、という主張もあったが、なぜ一人の悪人のために農機具を使用する人たちの利便性が損なわれなければならないのだろうか? そのような統制が行き着く先は中国のような監視社会だ。なんの統制もなくてよいとは言わないが――なんといっても私は日本の厳しい銃規制や航空業界の厳密な安全規則から恩恵を受けているので――我々平凡な庶民の自由やプライバシーが徐々に奪われていくことには警戒したほうがよい。
今回の事件の犯人は、相応の報いを受けるべきだ。だが彼は死刑に処されるべきではないし、彼の行為を元にして自由な社会に統制が加えられるべきでもない。
私たちオタクが自由に、幸福に生きていけるのは、自由とプライバシーが尊重された社会においてだけだ。中国のオタクが種々の不自由に耐えている姿を羨ましいとは思えない。我々の社会を監視社会にしてはならない。究極的には、自由は安全に優越するのだから。
ということで、これが死刑廃止派からの回答です> anond:20190719044907
1番は今回当てはまらないし2番は真相究明が済めばやっていいってことになるし3番はこの犯人の信者なんていないので実質的に4番の海外からの同調圧力だけってことか。まあええんちゃう。
1番は「どう考えても無実だったり10%しか疑わしくなかったり50%しか真犯人じゃなさそうな人が吊るされないためには99.99999%真犯人なやつも吊るすべきじゃない」って話やで。
個人的にはそこまで原理的な死刑反対論者ではなく、100%真犯人である人だけが処刑されるなら死刑制度存置を支持する。でも全知全能の神じゃなくて人間が裁判する以上どこまで行っても100%はありえず99.99999%にしかならないので(今回の被疑者だってそうだよ!)、その0.00001%が残っているうちは殺すべきではない。そして全知全能の神の存在が実証されない以上死刑は廃止すべき。
勘違いしないでほしいのは、「あれ全然怖くなかったわ」とか言ってかっこつけたいわけではない。
ホラー映画は怖がってこその楽しみだと思うので、ホラー映画が好きな自分としては恐怖を感じないことは問題なのだ。
昔のように映画を見て怖がりたい。
元々子供のころは怖がりで、少しでも恐怖要素のあるものは一切見れなかった。
そこから訓練して何とか見られるようになり、ホラー映画が好きになるくらいまで成長したのはよかったが、恐怖を克服するような見方が逆効果でもあったらしい。
いつからか映画を見ても恐怖心を感じることがなくなってしまった。
大量に見たせいで飽きてしまったのかと考え、数ヶ月の間ホラー映画断ちをしてみたが効果はなかった。
逆に子供向けのホラーものを見て、自分のホラーのハードルを下げたりもしてみたが、これもだめだった。
最近は、凶悪事件のニュースを見ても昔ほどブルーな気分になったりもしないので、何らかの感受性が衰えているのだとは思う。
ただ、知らない人と会うとか階段を踏み外しそうになったとか包丁を出しっぱなしにしていたとか、
子供部屋おじさんはみんなキチガイなんだと思う。自分も子供部屋おじさんで精神障害者だ。でも自分がキチガイなのかどうかよくわからない。
小さな頃から宇宙がどこに存在しているかを考えて発狂していたけど、でもそんなのあるあるだと思うし。今でも神について毎日思索にふけっているけど、別にそれがキチガイの根拠というわけでもないでしょう。
ネットでは割とよく人と揉めるけど、それは世間の人間の頭が悪すぎるせいであって、こっちのせいではないと思っている。
東大卒の主治医とは会話が成立するので世間がおかしいと思われる。
こっちは瞬間的にわかっても相手が理解しない。説明するのがめんどくさい。省略された部分を丁寧に説明したら「キチガイだ」みたいに言われるし。やれやれ。ほんと疲れる。
精神科の自己負担上限は月5000円なので薬の量が増えたところで金銭面の負担が増えるわけではないけど、何種類も薬飲んでるとなんだかもう人間やめてるような気持ちになってくる。
これから引きこもりの子供部屋おじさんたちが次から次へと凶悪事件を起こすのかもしれない。
人間社会を良くしていくためには、同じ悲劇が起こらないように改善策を練っていくことが必要です。
加害者家族も再発防止の協議に加わり、協力できる環境を整えることが役立つはずです。
声を上げる米国の加害者家族
スー・クレボルト著/仁木めぐみ訳『息子が殺人犯になった―コロンバイン高校銃乱射事件・加害生徒の母の告白』(亜紀書房、2017)は、1999年、コロンバイン高校で起きた高校生二人による銃乱射事件の加害少年の母親による手記である。
著者は、メディアにも顔を出して出演しており、本書にも写真が大きく掲載されている。
欧米諸国では、こうした加害者家族による顔出しインタビューは稀なことではない。
日本では、親が罪を犯した子どもがインタビューに答えている例はあるものの、加害少年の親で、しかも多数の犠牲者を出した凶悪事件の犯人の親が、世間に顔を晒してインタビューを受けるなど、世間の反応を想像すると鳥肌が立つほどだ。
1998年、アーカンソー州の高校で銃乱射事件が起きた際も加害少年の母親が顔出しでインタビューに答えているが、報道後、この母親には全米から励ましの手紙が届いたという。
励ましの手紙が届くというだけでも驚きだが、その内容もまた、「息子さんは一番辛い時だから面会に行ってあげてください」「辛い思いをしている兄弟のケアも忘れずに」と筆者が日頃、相談者に助言している言葉が市民から寄せられているということに大きなカルチャーショックを受ける。
それに追い打ちをかけるように罵詈雑言を浴びせたからといって、事件によって失われた命が戻ってくるわけではない。
社会がすべきことは、再び同じ悲劇が起こらないために、加害者家族が事件と向き合うことができる環境を作ることではないだろうか。
コロンバイン高校銃乱射事件の犯人の母親スー・クレボルトも「私は何を見落としたのか」と、貧困や暴力とは無縁だった家庭で育った息子による事件に、親として疑問を投げかけている。
その答えは、ひとことで言い表されるものではない。
公害を問題にすることすら、経済成長を妨げるという主張もあった60年代
70年代は三菱重工ビル爆破事件や警視庁幹部邸爆破事件など内外でテロ事件が頻発し
また連続強姦殺人事件、青酸コーラ事件などの凶悪事件が世間を騒がせていた。
三菱銀行強盗事件では、人質の行員に、別の行員の耳をそぎ落とさせるというおぞましい事件も起きた。
あるラーメン屋台では寸胴の底に人間の手首を入れて出汁を取るという、カニバリズムを想起させる話もある。
ほかにもいくらでもあるだろうが、人間の記憶など当てにならないし、
思い出は美しく書き換えられるものだということはよくわかる。