はてなキーワード: 社会生活とは
行き帰りの電車の中、持ち帰りの書類、休日に来たメールへの返信、全て、仕事だ。
ここまでは間違いない。
一見すると仕事ではないが、仕事をするために必要な肉体を維持するための時間だ。
デスクでうんこを漏らさないためにわざわざトイレに行くのだから、つまり、仕事だ。
なんということだ。
少なくとも社会人の平日はそのほとんどが仕事になってしまった。
では社会人になる前はどうだろうか。
そう、学校に通っていた頃だ。
あの頃、私達が勉学に勤しんでいたのはこの社会で生きるために必要なことを学ぶためだった。
国語・算数・理科・社会、それらの知識がなければ社会生活に大きな支障が出る。
社会生活とは何か、金を稼ぎその金を使って生きること、つまりは、仕事をすることだ。
そう、仕事だ。
就職が有利だから偏差値の高い理系大学を目指した同級生が君たちにもいるだろう。
そうなのだ。
もうこうなると残っているのは、遊びの時間ぐらいだ。
何故なら、結婚して子供を生むことすらも、人類全体の労働力維持のための行いであり、つまりは仕事なのだから。
時には間接的ないしは直接的に仕事に必要な知識を得られる遊びをすることもある。
同じ楽しさの遊びならば、多くの人がついでに仕事に役立つ方を選ぶだろう。
もう駄目だ。
今日は寝られない。その理由は簡単で、いつも飲んでいる常用薬を飲んでいないからだ。
その常用薬には副作用がある。眠気が出るという副作用だ。その眠気が酷いために、普通なら朝晩で飲むところを夕食後と寝る前という変則的なスパンで飲むことになった。朝の薬の副作用の眠気で社会生活が送れなくなったためである。
しかしこの処方は非常に良く、夜の浅い睡眠も改善されることになった。
そして今日はこの薬を夕食後、寝る前と共に飲んでいないため、寝られないのだ。
なぜ今日は薬を飲まなかったのか?その答えもやはり薬の副作用にある。
この薬には、もう一つの副作用があった。むずむず脚になるという副作用である。むずむず脚と聞いて思わず笑った方もいらっしゃるのではないかと思う。しかしこれはそれなりに深刻な副作用なのだ。
むずむず脚というのは俗称であるが、医学的な根拠が全くないものでもないらしい。検索するとそれなりの数の結果が出てくる。この病気の主な特徴は以下の点だ。
・脚の不快感がひどく、じっとしていられない
・夜寝る前などに出やすい
自分の場合この3点全てに当てはまる。ただでさえ夜に出やすい症状なのに、夜にまとめて薬を飲んでいるため大ビンゴ、といった感じなのだ。
この不快感は大変にひどく、自分は一旦症状が出ると、呻き声をあげながら布団をのたうちまわることになる。そしてそののたうち方といったら大変うるさく、寝ている家族が起きてしまうほどだ。
何度もこのむずむず脚で家族を起こしてしまう。家族は大変に理解があり、薬の副作用でこうした症状が出ることを十分承知の上で、こちらを責めてきたりはしない。
しかし、翌朝になると眠そうにしている家族を見ると心が痛んだ。
昨晩も症状が出て非常に喚きのたうち回り家族を起こしてしまった。そして今日になり、家族が提案してきた。こんなに副作用が辛いのなら薬を飲むのをやめてみたらどうかと。
その提案は、家族に迷惑をかけていたのかもしれないという確信を強くした。
重度ではないんだけど、少し走ったり、朝早くに活動したり気候が悪いと症状が出ちゃったり…などの中程度な喘息の人はどう健常者に混じって生きていけばいいのかわからないなぁ、と思う。
どちらかというと、どうしたら健常者と同等の社会生活が送れるのか?ということ(大げさかもしれないけど)
中程度というのは、発作が起きても、頓服を飲んだり自宅で気管支拡張剤のネブライザ吸入したり、病院で処置とかしたらその日のうちにおさまるレベルの人の想定。
自分も含め周りの喘息患者から聞いた中で、体を動かさない仕事でも労働に支障が出る一例として書いてみようと思う。
まず、中程度となると本当に体が悪い人のような社会的に手厚い保障は受けられない。
梅雨とか冬場にはどうしても発作が起きるから遅刻することが頻繁になってしまう。
発作で息苦しくて薬吸って電車の乗り降りを繰り返しているうちに落ち着いてきて、デスクに着く時間にはチアノーゼも治って見た目が健常者だから(ちょっと顔が白いくらい?)周りに仮病だと思われてしまう。
俗に言う自治体のぜんそく認定が認められる企業というのは聞いたことがない。
発作が起きてしまうと午前中は薬で手が震えて頭はぼーっとして眠気があって、の状態で使い物にならない。
頻繁に休むからもちろん上司に嫌われ評価が下がって賞与も下がる。
喘息ってストレスの蓄積で自律神経が乱れて大きい発作が起きるので、仕事が過度に忙しいことはもちろん、上にあげた例による精神的な重圧で余計に体調が悪くなる。
実際、自分も発作が起きて遅刻するのが怖くなり眠れなくなったことと、自律神経の乱れのおかげか知らないけど軽い鬱になった。同じような人は多いと勝手に思っている。
それでも自分は救急車で運ばれても経過観察とかでその日のうちに帰れるレベル。幼少期は入退院ばかりで、人生の全てを喘息と生きている。体が大きくなるにつれて今の具合に好転してきた。それでも自己管理できるほど軽くはならない。
主治医からはこの歳できちんと治らないのだから付き合っていくことを考えよ、とのこと。幼少期に喘息患者向けキャンプみたいなもので知り合って未だに親同士の付き合いのある友人も同じことを言っている。
今ホッテントリに上がっている「赤ちゃんの泣き声うるさい問題」について。
生後数ヶ月の赤ちゃんを連れ回す親たちに想うことと、“ベイビーハラスメント”について
http://www.goodbyebluethursday.com/entry/baby__harassment
この記事の中でこういう箇所がある。
電車の中で、新幹線の中で、飛行機の中で、赤ちゃんは泣きます。絶対に泣きます。
はっきり言って、私は、移動時間にゆっくりしたいのに、赤ちゃんが泣き喚かれたら迷惑です。
この前も、海外旅行に行った友人から、「前の席の赤ちゃんが泣き続けるから、飛行機の中で全然寝れなかったよ」という話を聞き、同情しました。
いっぽうでブログ主は1年前こういう記事も書いている。700ブクマ以上集めたので覚えている人も多いと思う。
http://www.goodbyebluethursday.com/entry/cafe
子供、特に赤ちゃんなんて泣くのが仕事だし、状況を考えて泣く子供なんていない。子供の泣き声は「仕方のないもの」であるとして受け入れなければならないし、むしろ「ほほえましい」ぐらいに思ってもいいぐらいだと思った。(中略)
もしこれ(俺註:泣く赤ちゃんとその親をカフェが追い出したこと)が公共の場であれば、それは批判されてしかるべきだろうと思う。例えば電車やバスの中で、赤ちゃんの泣き声に怒りを覚え、何か言ってくる人間がいたら、「あんたがタクシーを使え!」と言いたくなる。公共交通機関を使うならば、赤ちゃんの泣き声は受容されて然るべきだ。
俺は人間だれしも意見が変わっていいと思っているが、この記事の寛容さと子連れへの温かい目線から、今回の記事の「迷惑だから親はできるだけ外出我慢すべき」に至るまでの変化はなかなか劇的で戸惑う。
両記事とも夏休み中で子連れファミリーが多い時期のものであり、イライラしてしまうことが多いのだと思うが、それでもカフェの記事などは子連れの事情などにも配慮しつつ、それ以外の人やカフェの立場も尊重したバランスのとれた意見だと思っていたので、今回の記事を読んで残念に感じた。
子供の泣き声はうるさい。少なくともそう感じる人、状況によってそう感じる人がいるというのは厳然たる事実である。
いっぽうで氏が要請するように、赤ちゃんを公共の場に連れ出さない、あるいは近所の散歩に限定して生活することもまた不可能。氏は若干勘違いしているが、子供が泣くのは生後数ヶ月だけではない。1歳、2歳でも泣く。2年間外出を控えると、2人子供を産めば4年間、3人なら6年間、旅行、レジャー、外食、里帰りが自由にできなくなってしまう。もちろんそれ以外のやむにやまれぬ外出だって数多くある。子供の病気、検査、シングル家庭、父母どちらかの病気・仕事・単身赴任・出張で預けられない、頼れる親が近所にいない等々…。
このように互いに考慮すべき事情を抱える、立場の異なる人間が同じ社会で暮らしているのだから、カフェの記事で氏が提案したように入口で「赤ちゃん連れはお断りしています」など、すみ分けできるところではそうする、交通機関などすみ分けできない、難しいところでは、親の側はラッシュアワーはなるべく避ける(それでも乗らざるをえないケースはある。親も好き好んでラッシュ子連れ乗車なんてしたくないので、多くの親はできる範囲で避けようとしている)、迷惑に感じる側は車両を変えるなりして互いに譲り合うしかないのではないか。交通機関などに乳幼児優先車両などあるといいんだけどね、優先席は今でもあるが泣き声は防ぎようがないので。せめて長期休暇中のラッシュアワー時間帯だけでも。指定席の新幹線や飛行機は難しいが座席予約時の工夫ですみ分けできないかなあ・・・。
そんなわけで俺の立場はできれば「すみ分け」、無理なら「譲り合い」である。子育てに限らずこれは当たり前のことだと思っている。すみ分けならともかく、譲り合いとなると法律もルールも存在しないので、どちらがどれだけ譲るべきなのか、個々が是々非々で判断することが求められる。そこでも意見がわかれたらもう仕方がない。お互いに心の中で舌打ちしてすれ違うしかなかろう。社会生活ではそういうこともある。ただ根底に「子供はうるさい生き物」と「子供は社会の宝」という2つの基本的共通認識が両者に存在していれば、舌打ちするシーンはそうはないとも考えている。
繰り返すが「赤ちゃん泣き声問題」は一般論では語ることができない個々のケースで判断されるべき問題だ。氏にはカフェの記事のように、この夏イライラしたポイントを具体的に語ってほしかった。
自分は何のために生きているのか?
一度くらいは考えたことがあるだろう。
そこから先は、何らかの価値を見出して充足感を得ている人、わからずに悩み続ける人、わからなくても気にせず生きていける人、等々様々であろう。
悩んでも悩んでもわからず、毎日がつまらなく、むなしいばかりだ。
否、すべての人は何らかの存在価値があるとは考えている、それを「実感」できないことが悩みの種であると言ったほうがより正確だろうか。
そういえば昔から「達成感」というものを感じたことがなかった。
高校・大学入試に受かった、演奏会や学校祭が、1つのプロジェクトが盛況に終わったなど、通常達成感を得られそうな場面においても感じたことがなかった。
(感じたのは「これまでの努力が無駄にならずホッとした」という安堵感?のみ)
自分の感覚が異常であるがゆえに、自分の存在価値を感じることができないのだろうか。
いずれにしても、遠くない将来、自分の存在価値を「実感」できないと、いよいよ本格的に心を病み、社会生活に支障をきたしそう…な気がする。。
しかし一体何をどうすれば、または何がどうなれば、「実感」できるのだろうか…。
第一に人間には(例えば日本人には国法で保証された)人権があるのだけれど、じゃあそれって常に守られてるかって言えば守られていないよね。
殺人事件の被害者は死体になっちゃってるけれど、彼には生存権がなかったかと言われれば、あった。茨城の自殺で自殺しちゃった子供にも、人権はあった。だから「人権さえあればいい」というのは誤りで、あったとしても誰もがそれを意識して守らなければそんなものはないも一緒なんだよ。
第二に、人種差別や性差別は、いま現在ではそれが「悪いことだ」とされていることでも、ちょっと前までは日常的に行われてきた行為がたくさんあるよね。「A子さんもそろそろ結婚しないと困る歳よね?」なんて会話は、地方では本当に日常的に行われていて、おそらく言ってる側も悪意なんて特にない。このケースは言った側に人権侵害の意図があったわけじゃなくて、人権やら差別に対する知識/認識が足りてないから起きたケースだといえる。
第一と第二からわかるのは、人権っていうのは、それを学ぶのも、意識するのも、守るのも、非常にコストがかかるっていう事実だよ。一般的に暮らす人は、毎日おびただしい数の人権侵害をしている。しかもそれが侵害だっていう意識もとくにない。
人権の意味と意義とそれの守り方を学ぶのは、それこそ哲学について修士できるほどの学習コストがかかるし、日々の生活の中で何の侵害もしないようにするのは聖人クラスの気遣いが必要だ。「そんなことないだろ普通の暮らしをしていれば、他人に迷惑をかける事なんてないはずだ」って言う人は、ただ単に見込みが甘いだけで、むしろそういう人ほど、学習コストを払っていないだけの、無自覚の加害者である可能性が高い。友人同士の日常会話も含めれば、人間は、多かれ少なかれ侵害をしているんだよ。
個人的な感想で言えば、そういうふうにお互いの権利を少しづつ侵害し合うのは、完璧な生物ではない人間にとって仕方がないと思う。多少のことは目をつぶり、相手が苦痛を受けてたら素直にごめんなさいをする。目に余る部分は改善していく気持ちを持つ。そうして社会生活を送っていけば、それで良いとは思う。それは人権や差別の問題に、人生が終わるまでの間、人生のすべてを投資するという意味ではなく常に考え続けて、そういう世界と付き合っていく覚悟を必要とすることなのだけれど。
しかし、一部の原理主義的な人、今ある混沌に耐えられない潔癖な人が、「自分よりも分かってない」人々に対して「いいからこの規則を守れ!」と言い出すものがポリコレなんだよ。
ポリコレはある種の言葉狩りであり規範なので、人権のそもそもの成り立ちに対する理解や、歴史的経緯に対する考察とか必要ない。メリットで言うならば、人権に関する高コストな学習をしないでも、表面を取り繕った秩序を社会にもたらすことが出来る。
しかし一方で、人権の概念やその必要性に対する理解なくただ振り回す棍棒にも堕しやすいわけで、そりゃあ当然マウンティングの道具にもなる。
この件に対する増田の(そしておそらく、良識派の多くの人の)誤解の最たる点は「人権の概念や成立やその運用や問題点について学ぶことは、相当高コストだ」っていう一点にあるんだよ。だからこそ廉価版/劣化版のポリコレなんてものが登場したし、いまも一定の用途で(例えば政治家の公開発言や、企業の広報などで)利用されている。
最近、夫から会社の愚痴ばかり聞かされる。色々な話を総合すると、どうやら夫は会社で孤立しているようだ。
社長からは日常的に罵られ、仲の良い同僚もいない。最低限の伝票整理などをやり、周囲とはほとんどコミュニケーションを取らず、一日中ほぼ無言で過ごす。話を聞く限り、そんな感じらしいのだ。
夫が今の会社に勤めて、3年が経つ。それは私達が付き合い始めた期間とほぼ重なる。
思えば、夫が会社に対してポジティブな話をするのを聞いたためしがない。いつも愚痴ばかりだった。
彼はずっと、つらい状況にいたのだろうか。
結婚前、私はあまりそういうことを気に止めずにいた。会社員生活は大変だ、彼も人並みに苦労しているのだ、私がささやかな癒しになれれば。そんな風に考えていた。それに、私自身も働いているし、基本的にはそれで精一杯なところがあった。
結婚して、一緒に暮らし始めて、付き合いたてのころの浮かれた気分もだいぶ落ち着いてきた。すると、これまで受け流して来たことが、かなり深刻な問題に思えてきた。
相変わらず、夫の愚痴は止まない。話を聞くほど、状況は悪くなっているようだ。
夫の愚痴は、もはや愚痴と言うより、呪詛の様に聞こえる。社長を「キチガイ」と呼び、上司や同僚を「クソブタ」などと呼ぶ。しかも、頭の中でずっとそう呼び続けているのだろう、実に自然なのだ。聞かされるこちらは、戸惑うばかりだ。夫に感情移入して、味方になってあげたいところだが、そうはならない。私はその人達を見たこともないのだ。
社内では、全員が敵。夫の中ですでにそういう世界観が出来上がっているようだ。これはもう、末期的な状況ではなかろうか。
こんな境遇になってしまったら、普通の人は、とっくに会社を辞めると思う。
夫が特殊なのは、決して自罰的にならないことだ。悪いのはすべて「あいつら」で、自分は被害者。いつもそういうスタンスで話をする。それが本心なのか、自分を守るためのギリギリの手段なのか、彼の心の奥底まではわからない。ただ、苦しいだろうなとは思う。
私のことを考えて、離職できずにいるのだろうか。そんな風に考えたりもした。だとしたら、本当につらい。
一緒に暮らしみてわかったが、夫はあまり、仕事ができるタイプではないと思う。特に、コミュニケーションの面では、かなり弱者であるに違いない。暗いとか、人見知りが激しいとか、そういう感じはないのだが、どこか微妙にずれていて、なんとなく周りとうまく同調できない。そういう印象がある。空気を読むのはかなり苦手だろう。
夫は、言うべきことをギリギリまで黙っていたり、一方的に物事を進めてしまったりする。そういう困った面が色々とある。
夫婦間なら、お互いに許しあったり、時にはきちんと指摘し合ったりして、なんとかして行こうと思える。私にも欠点はあるし、そこはお互い様だ。
でも、会社ではそれは通用しないだろう。夫は、会社でも自分の欠点をたくさん露呈してしまっているのではないか。そして、それを他の面でカバーすることもできず、愛想やキャラで許してもらうこともなく、心を閉ざし、周りを敵とみなし、身をこわばらせながら会社にしがみついているのではないか。
残念ながら、そうなんだと思う。夫は、特に秀でた能力のある人間ではない。頭だって、あまり良くない。
心情的には、夫に味方したい。狂った会社に入ってしまった、運の悪い人。そういう風に見てあげたい。でも、それは無いだろう。
私はどうしてあげればいいのだろうか。彼に転職をすすめるべきだろうか。もう少し夫の適性に合う職種があるのではないか。
あるいは少し心身を休めてもらい、その間は私が生活を支えるべきだろうか。でも、こんな考えは、夫にとってはすべて大きなお世話かもしれない。決めるのは夫だ。会社中を敵に回しながら、それでも辞めないというなら、私は見守るしかない。心が壊れないことを祈るばかりだ。
さんざん、夫を心配する良き妻みたいなスタンスで書いてきたが、ちょっと偽善が過ぎたかもしれない。
たしかに、私は夫が心配だ。それは本心だ。でも、それと同じぐらい、私は夫に失望している。社長や同僚を口汚く罵り、鬱憤を晴らし、夜は一転して、甘えた調子で体を求めてくる。正直、まったく気分が乗らない。むしろ惨めだ。夫から、性的魅力は消え失せてしまった。できれば夫と寝床を分けたい。
まだ夫を愛してはいる。でも、この愛が消えて、失望だけが残り、やがて憎悪に変わるのが恐い。
今さら、夫が生まれ変わることはないだろう。見違えるようなハイスペになり、全てが万事解決なんて、ありえない。
夫は生まれつき、あまり社会生活に向かない人なのだ。そんな人はきっとたくさんいると思う。私だってどちらかと言えばそっち寄りの人間だ。
アホくさいよな。
萌えアニメや、美少女がゲームに登場するのを喜ぶと、社会生活に適応できてないんだろ?
特定の価値基準で押さえ込んで、世の中どうなったかと言えば、トランプを産んだわけよ。
でも、そのことを自省するでもなく、トランプを産んだのはよろしくない、より一層強いねばってなってるじゃん?
んで、誰かが爆発したら、数段上を行っている社会に適応できないかわいそうな人たちで、ボクは違う(キリッ
と切断処理してホクホクするんだろ?
差別の話
https://anond.hatelabo.jp/20170727091402
何かをきっかけに差別する気持ちが湧き出ること自体は仕方ないとおもう
で、それ自体は気にすることない。自然な気持ちだ。受け入れよう。
慣れもある。
それを表に出すかどうか。
表に出さないのは、
ポリコレとは何かがわかっており、それを守ろうという意識があること。
また、いざ自分や自分の大切な人が被差別側に回ったときのことを想像できるということ。
表に出すのは、
ポリコレなんて偽善、自分の素直な気持ちに従うことこそ正しい生き方、という考えがあること。
また、自分や自分の大切な人が被差別側に回ったときのことを想像できないか、そんときは自分のチカラでどうにかするとかって思ってる。
これは一般人は議論のネタとしていまだに議論したがるけど、社会学ですでに答えがでていることで、前者が正解。
1+1=2と同じことなので、議論しても意味ないんだよ知ってる?
被差別的な人を前にしたときに、「えー」って思うかなんとも思わないよっていうのは人によって違っていいし合わせる必要ない。
俺ってこういう人だよってアピりたいならアピってもよいけど対応は変わらない。
マタハラの話
https://anond.hatelabo.jp/20170715092225
投票した政治家やオリンピック選手が、任期中や大会直前に産休とるといったら「えー」って気持ちになるのは仕方ないこと。
えーって思うか、おめでとうって思うかは人それぞれの環境でも変わるから合わせる必要ないけど、「俺ってこういう人」ってことをアピりたいなら表明してもいいよ。
対応は変わらない。
それほど親しい人間もいない状態で、普通の会社員として社会生活を送っていると、"俺"を使う機会がない。
そのうち、"俺"っていうのは、なんだかよっぽど自分自身をさらけ出している感じがして、誰に対しても恥ずかしくて使いづらくなってしまった。
そういえば、"僕"もほとんど使わないし、なんだか抵抗あるな。
これはこれで、ある種のコミュ障というか、なんというか。
なんか本人には落ち度のなさそうなクズって感じだから本人が持って合わせた正味の性格なんだろうなって思った。
反面、努力して大学行ってるから本気だして一つのことをやらせたら人並みかそれ以上のことができそうだから、うかうかしてられねえなとも思う。
日本の社会においてどんなクズでも社会生活を送れる程度には社会の仕組みがしっかりしてる。
上を見なければ一応食ってける程度には稼げる。
死ぬ時に振り返っていろいろあったけどなんとかやりきったなって思えるように、俺は最低限のラインをそこにして生きている。
人生はなんとかなる。
俺はネットで画像をたくさんひらってクソなやつらばかりが集まる掲示板でワイワイやるのが趣味だ。
画像をリネームしてフォルダ分けしておくと画像掲示板で流れに応じてすぐに画像を貼れるからいっぱいレスもらえて嬉しい。
俺の日常はこんな感じ。
私は仕事ができない人種なのではないか。春から社会人として働きはじめ、3ヶ月半が経った。周りの新卒の人たちは、一通りの仕事を覚えたのだろうか。自分はまだ満足に仕事をこなせていない。
大学の頃はそこそこ要領よくそこそこの成績を取っていたので、自分は平均的な人間だと思っていた。優秀ではないが、人並みに仕事をやっていける人間だろうとたかをくくっていた。
とんだ思い上がりである。蓋を開けてびっくり。こんなにも無能だった。
作業をしていて、前に教えてもらったことと少しでも違うことが起きるとパニックになってしまう。AはできるけどA’はできないみたいなかんじ。臨機応変にできない。
複数の仕事を任されると全部が中途半端になってしまう。多分マルチタスクを処理できない(職業的にマルチタスクを処理できなければならない)。やばい。
わかったつもりになってるだけで、いざもう一度同じ作業をするとできない。何のためのメモだと言いたくなる。
それで、できない→焦る→失敗する→落ち込むの悪循環。失敗しないよう対策を練るけど、また新しくミスをする。一つの穴を塞いでも違うところから水が染みてくる泥舟に乗っているみたいだ。
上司は駄目な私に懇切丁寧に教えてくれるのだが、愛想を尽かされるのは時間の問題だと思う。本当に申し訳ない。
なぜ自分はこんなにポンコツなのだと落ち込む。自分なりに家に帰ってから業務の復習をしたりまとめたりしているが、それがイマイチ日中役に立たない。作業が頭にちゃんと入ってないのかなあ、理解できない頭なのかなあ、とヘコむ。もっと頑張らないとと思うが、やる気が空回りして変なミスをする。
できない自分が情けなくて涙が出る。この仕事が向いていないのか、それとも社会生活に向いていないのか。まだ辞めたいわけではない。辞めたいってつぶやく日もあるけど。この仕事がやりたいと思って、入社できたのに、その仕事に向いていないのではという不安。入社3ヶ月半で決めつけるのは早いのかもしれないけど、仕事をこなしている自分を想像できない。経験を積めばできるようになるって周りは言うけど、ずっとポンコツのままかもしれない。怖い。
こういう気持ちは、多分いろんな人が持ってるだろうし、私の上司も持ってたかもしれない。普遍的な悩みだということはわかっているけど、溜め込んでいるとしんどくなってしまうのではてなに書き込んだ次第。
名前は「親」のものではない。では、「子供」のものか? と言えば、それも違う。
「親が子に贈る最初のプレゼント」みたいなお花畑理論を聞かされると、心の底からぞわぞわするんだが、
ああいうそれこそ「何の根拠もない」名づけ理論を信じてる人間がいることに、時々当惑する。
増田、アンタのことだ。
「あなたの所有物」に「あなたが名づける」なら、それはあなたの自由だ。その名前が名づけられるものへの贈り物だといいたいならそう言っても別に構わない。
だが子供は「あなたの所有物」ではない。あなたとは別の人格を持ち、別の人生を送る他人だ。訳あって、たまたま10数年共に暮らすことになった、他人だ。
そこを勘違いした人間が、お花畑理論を振りかざし、子供に関わる周囲の人間に噛みついて回る迷惑な毒親となる。
名前というのは、これから子供が生きる人生、社会の中で出会う人と共有される、一つの符丁だ。人間の名前とは、何をおいてもまず「社会のため」に必要なものなのだ。
そこでは親の「想い」とやらはどうでもいい。
例えばアンタが飼い犬に「タウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアポカイフェヌアキタナタフ」とか名付けても、別に誰もあなたを咎めはしない(馬鹿にはされるだろうが)。だが、それを子供の名前にしようとしたら、全力で止められるだろう。役所の受付ですら書類を突っ返すかもしれない。そこにどんな「親としてのご立派な想い」があろうと、そこはくつがえらないんだ。それを忘れてはいけない。「社会にとって利のない」名前は社会によって拒否されるんだ。
これは、字画判断がどうという話をしてるんじゃないぞ。俺が問題視してるのは、何をおいてもまず嫁さんに対するアンタの態度のことなんだ。
想像するに増田は、字画判断とかいう「非合理的なもの」が、自分の人生にまつわってくるのが「嫌」なんだろう。だが、アンタの「嫌」という感情だって十分に非合理的だ。いい年をして、理で全てを説明できると思ってるなら大馬鹿を通り越してお目出度いとしか言いようがない。自分が「理」に縋る「理由」はなんだ? 「理」のないものに身をゆだねる不安の源泉は「理」で説明されるべきことか? 全てを理で説くならそもそも「こっちがいい/悪い」などという「価値」の概念こそ真っ先に捨てるべきじゃないのか? だが、あらゆる「価値」概念を放棄したら、人間としての健全な社会生活など送れないだろう。
人間は、「理」以外の価値も持たなければ生きていくことはできない。絶対の価値規準など、ない。だから、重要なのは他者の価値規準を知り、認めつつ、共同の価値規準を創出していくという姿勢であり態度なんだ。増田がすべきことは、嫁さんが「画数にこだわる」って知った時に、「なるほど、俺にはそういう発想がなかったけど、そういう発想をするひとがやっぱりいるんだ」と気付いて、「なるほど分かった。じゃあ画数のことも考えながら、いい名前を付けることにしようぜ」っていうことだったはずだ。
なのに、「画数?は?」みたいな対応をした、と。馬鹿か? 馬鹿なのか? 社会性ゼロの子供か? 小学生でももう少し相手への気遣いをするぞ?
今すぐ嫁に謝ってこい。そもそもそんな「どっちでもいい」ことで、妊娠中の嫁の負担増やすことにそれこそ「何の意味がある」んだよ? 人間の社会で、メスの仕事が子を産むことなら、オスの仕事はメスが安心して子を産める環境作ることだと有史以前から決まってるだろうが。名前など、一でも二でも、分かりやすく周囲が呼びやすい符丁でさえあれば子は育つんだ。それよりもっと大事なことが目の前にあるだろ。
不合理に満ちた世の中で、誰でも不安で何かに縋る。それは別に悪いことじゃない。ただ、少しばかりの寛容さと、だまされない賢さ、それは必要だ。姓名判断とやらに何十万何百万をつぎ込むのは、それは愚かな行為だ。だが、画数を気にするのに、現実にどんなデメリットがある? 小さいことでいちいち嫁の不安をため込むと、そのうちとんでもない宗教にハマったりするぞ。夫の支えというのは、そのくらいプライスレスなものなんだぜ。
成人した人間の最低限の処世術として、自分の感情を無闇矢鱈に他人にぶつけない、ぶつけてもどうにもならない、他人はコントロールできない、自分の感情のツケは自分が払うしかないって理解しなければ、社会生活は大変に難しい、と言う前提があると思う。
ところが、世の中には些細なことを粗探ししたり、小さなことで他人を恫喝したり、意識せずにモラハラを働くような(それこそ、「なんで私が怒ってるかわかる?」式の)人間や、逆に他人からの評価が自己評価に直結してて、他人からの承認を集めないと自分を保てない承認欲求モンスターたちが掃いて捨てるほどいる。こう言う人たち は何を考えて生きてるんだろう?
普通に考えて、自分と他人の精神は別で、他人の精神はコントロールできないなんて当たり前のこと、誰にでも分かりそうなもんじゃないか?自分と他人が未分化なのか?赤ん坊なのか?社会は赤ん坊ばかりなのか?赤ん坊がそのまま社会に出て無数に対人トラブルを起こし続けているのか?
他人の精神をコントロールしたいと言う願望を実行するのは、他人の肉体を傷つけたい、と言う願望を実行するのに負けず劣らず醜くて卑劣なものだと思う。