はてなキーワード: 演繹とは
弱者男性関連の話で、アレルギーを起こしたみたいにこれまで弱者支援や差別関連の話でやっちゃいけないとされてた事のオンパレードで笑ってしまった。
弱者の声の封殺、訴えの軽視、訴え方への注文・トーンポリシング、統計的事実の無視(自殺率等)、
弱者の強者への雑なカテゴライズ(「~~特権」との類似)、自己責任論の展開、
「自分は大丈夫」の全体化(「自分も弱者男性だが問題無い」「弱者女性だが問題無い」から「弱者男性全体も問題無い筈(我慢しろ)」と言う言説)、
弱者と主張する事への条件付け(「他の弱者を圧殺しようとするのをやめなければ弱者と認めない」等の言説、圧殺している層と弱者層の雑な同一化)、
弱者の中の主張のチェリーピッキング(「弱者男性の主張はあてがえ論だ」)による弱者の悪魔化、
内心の邪推(「どうせあてがえ論なんだろ?」)、
解決策の提示と弱者である事の是非の混同(「弱者男性の苦しみには社会的に解決策がない→だから弱者男性は弱者ではない」という謎の演繹)、
苦しみの言語化と苦しみの実在の混同(「「何に苦しみを感じてるのか」をちゃんと言葉にしなければ、苦しみがあるとは認めない」といった態度)、
社会的な解決策の提示と社会的問題かの是非の混同(「社会的な解決策が無いならば社会的な問題ではない」)
「男の敵は男」言説(「女の敵は女」と同型、また、自分達が「本当の敵」である筈の強者男性ではなく弱者男性も巻き添えにしている事の無自覚)、
BLMに対するALMの様な「弱者男性問題じゃなくて弱者問題では?」
他にも色々有るんだろうがキリが無い(もし思い付いたものが有ったら書いてくれ)。
ま、フェミニストやはてサの人々も人間なんだねぇ、と却って親近感が沸いたよ、俺達仲間だね。
ただ公正を期すために言っておくと、例外は居た、飽くまで弱者男性に同情的なスタンスを崩さない人は少数ながら居て、
まぁそうは言っても体面上そうしてるんだろうなとは思う物の、体面上であれそういう態度を維持し続けるのは難しい事の筈だし、ガッツが有るなぁ、と思った。そういう人達はそういう意味でちょっと尊敬した。
〇追記
自称弱者男性が「救ってくれない」相手に粘着して攻撃ばかり加えてくるのは、彼らが欲しているのは救済でなく、気に入らない相手を貶めたいという嗜虐心。君たちはそれを自覚すると救済につながるよ。
男性が差別されてたら声をあげるけど、被害妄想のネトウヨがウンコを煮詰めてるところに手を入れたくはないよな。それを沈黙とか言われても。
弱者男性って「上昇婚思考の女のせいで幸せになれない。女が上昇婚するなら男女平等なんて冗談じゃない」以外に何か声上げてたっけ?
ちゃんとフェミニズムを学んでいれば、抑圧される男性の問題にも取り組んでいることが分かるだろうに。ただの嫌がらせで弱者男性を持ち出すから、無視されるんだよ笑
屏風から出てきた虎さん達。
「三歩歩けば忘れる」などと揶揄されることもある鶏。
でも鶏と共に過ごし経験を共有すると、かれらがいかに感情豊かで賢く、私たちと同じように社会生活を営む動物であるかが分かります。
かれらのクルミサイズの小さな脳の中で、鶏たちは私たちが想像するよりはるかにたくさんのことを考え、生きる喜びを味わったり苦しんだりしています。
自然な鶏の生活を知っていますか?鶏はとても勇敢で賢く、コミュニティを形成しながら生活する動物です。鶏は仲間を認識し、顔の特徴を見分けます。
24種類の鳴き声を使い分けます(もっと多いという人もいます)。個々の鶏が作りだす鳴き声や行動は、捕食者から逃げるようにという警告や、食べ物が近くにあることを知らせるなど、他の仲間に情報を伝達しています。
母親は、材料をかき集めて巣を作りその中で卵を産みます。巣を作る場所や巣を作る材料を得られないことは大きなストレスに成ります。
母親は、卵を1時間に5回も揺らし、卵に語りかけます。生まれた子供は母親から全てを学びます。子供がストレスを受けているとき、母親はそのストレスを自分のことのように感じ苦しみます。
産まれたヒヨコは母親のそばにいたいという欲求がとても強いので、一羽だけになったときには猛烈な勢いでピヨピヨと鳴きます。子どもたちは自分でねぐらを作れるようになるまで、母親と一緒に寝ます。オスの鶏は、見張り役を担っており、捕食者が来た場合にはどこから来たのかなどの警告音を鳴らして仲間を守ります。
母親は子どもと離れた場所にいても、子供に捕食者が迫ってくれば子供を守り、ワシやキツネを撃退することも有ります。
砂浴びが大好きで、片方の羽を広げ、砂を浴びます。そうすることで羽を清潔に保ち、ダニなどの寄生虫を落とします。鶏のクチバシは、人間で言えば手のような存在です。なにをするにもクチバシが役に立ちます。餌を探し食べるのにも、水を飲むためにも必要です。周囲を探索するためにも使います。鶏は1日に1万回から1万5千回、地面や草をつつき、探索をしたり餌を探して過ごします。
犬、チンパンジー、ゾウ、イルカ、さらに人間のような他の高度に知能のある種と同等だという様々な研究報告がなされています。
鶏は霊長類と同等のコミュニケーション能力を持っています。
意思決定をするとき、鶏はそれ自身の以前の経験と状況を取り巻く知識を考慮に入れます。
2017年1月2日、科学雑誌Animal Cognitionに掲載された神経科学者のLori Marinoによる論文(Thinking chickens: a review of cognition, emotion, and behavior in the domestic chicken)では、鶏の持つ高い知覚・認知能力が明らかにされています。
鶏は数と基本的な算術を理解している。鶏は考え、論理的推理をする能力を持っている。例えば、彼らは演繹という単純な形式の能力があり、これは人間が約7歳で発達する能力である。
鶏は時間間隔を知覚し、将来の出来事を予測できるように見える。鶏は人間に似た複雑な方法で社会的スキルとルールを学び、行動的に洗練されている。
鶏は複雑で否定的・肯定的な感情を持ち、シンプルな形式の同情心を持つ証拠が示されている。鶏はすべての動物と同じく、それぞれ個性が異なり、認知的、感情的、行動的に、各々が複雑な個である。
彼らを経済動物として見るのではなく、
あっ、わかるー?オレ、業界引退したからね。今は趣味のプログラマ。本音を言うと、人工知能は嫌いだよ。ヘドが出る。理由は帰納法っぽいノリが嫌い。本当はリレーショナルデータベースとか、Ruby/PHP みたいなバックエンド、あと React/Vue でないフロントエンド、AWS/GCP みたいなシェルでいじれるクラウド、Kubernetes/Docker みたいなコンテナ技術、Android/iOS 開発、NewRelic/データ犬、みたいな界隈のが好きだった。演繹的な手法で組み立てる世界のが、問題を分解しやすいし、働いている感がしたからさ。もう、おさらばしたから関係ないけど、それでも Ruby 3.0 とか聞くと心がおどるよ。
■所与の前提
航空会社は運行に支障を来す行動をとった者を強制退場させることを規約で規定している
→これは演繹できない
→降ろすことができる
→これは演繹できない
→降ろすことができる
「マスクのせいじゃない」と言っている人は、この所与の前提を共有しているものとしてしまって話している。
「マスク関係あるよね?」と言っている人は、この所与の前提を飲み込めていないor所与の前提に疑義がある。
→たとえば、「運行に支障を来す」の中に「マスクをしない」が含まれていると思い込むなどは論理的には明白に誤謬。
黒人差別だろうがなんだろうが、この前提が事前に共有されれば問題にならない。
黒人差別はいけない、マスクはすべき、とかいうコンセンサスの問題でもなんでもなく論理的に所与の前提が一致しないと議論にならない。
「運行に支障を来す」が暴言や暴力として別途規定されていて、この手の議論をするなら本来はそっちの内容まで前提を共有するべき。その上で、「暴言や膀胱があったか分からないから善し悪しを判断できないよね?」という議論はできる。
以下、センスという言葉は字義通りの意味、つまりテクニカルな要素に先立つ感覚的な要素の意味で用いる。
これは考えてみれば当然だ。
たとえば力学の質量や速度などの概念は理論的に定義されるから存在するわけではなく、それに対応するものは感覚や認識として存在しており、理論はそれを上手く反映したモデルなのだ。
いくら数式の変形が得意でも、速度という概念が日常的な感覚として理解できていなけれは、力学を理解することは不可能だろう。
もちろん、知識によって補強されるセンスもある。たとえば電磁気学の概念の多くは、力学の概念のアナロジーであるから、力学を正しく理解していることが、ここでいうセンスに該当する。
なお、センスというのはプラスアルファの特別な才能ではなく、必要条件に過ぎない。
彼らは、自分が理解できないことを話し手の説明のせいにしたがるが、ほとんどの場合、彼らのセンスが無いのである。
普通の人に何かを系統立てて説明する場合、以下のような手順を踏めば、よほど前提知識が足りていない場合を除いて、おおよそ通じる。
2番目と3番目は入れ替えても構わない。これは演繹的に考えるか、帰納的に考えるかの違いであり、どちらか一方が優れているというものではない。
およそどんな分野にも、異常にセンスのない
奴は存在して、奴らは、どんなに言葉を変えて説明しようが、具体例を示そうが、たとえ話をしようが、絶対に理解しない。
何せ、センスの無い奴は上の工程のどの箇所も、特に(1)すら理解していないからだ。奴らはたとえば、「2次方程式を解くのは1次方程式を解くよりも難しく、別の方法が必要になる」というところからまず理解していない。こういう奴らに平方完成とか教えても無意味である。
教育にナイーブな幻想を抱いている奴は、適切に教えれば誰でも理解できると思っている。特に、分からない原因を突き止めて改善すれば分かるようになると思い込んでいる。たとえば、微分法で接線の方程式が分からないのは、2点を通る直線の方程式の立て方が分からないからだ、とか。
もちろん、これは原理的には正しいのだろうが、ほとんど現実的ではない。おそらく、小学校低学年まで遡らないと、そういう原因を解消することは不可能だろう。
センスの問題を感じる奴の多くに欠けていると思うのが、言語的なセンスだ。
たとえば、プログラミングを教えていると、「ソースコード」や「オブジェクト」という言葉の意味が分からなかったとか、フィードバックしてくる奴が結構いる。もちろん、一部はやる気が無くてそういうことを書いているのだろうが、数が多いので実際にそういう奴はいるのだろう。
普通の人はそんな感想は抱かない。その話の中でそれらの語が何を指しているのかは明らかであるし、そもそも「それらの語の厳密な定義を知らなくても内容は理解できる」ということは分かるからだ。