はてなキーワード: 根付とは
異例の危機に異例の支援は許されないのか?
米政府はすでに自国航空産業に5兆円以上の支援を決定。ヨーロッパの政府も自国航空産業の支援を大規模に進めます。
航空業界支援 異例の「政府保証」要請に波紋:https://t.co/kkwQQl7GFz— 藤末 健三 (@fujisue) 2020年4月8日
今回のコロナ禍の場合、特に航空業界はダメージが大きいからこの様な要請をするのも当たり前。
事態が事態なので政府は本来航空業界に限らず、企業支援をすべきなのに今回の場合、余りにも動きが遅いし、政府の人間自体がリーマンショック等の通常の不景気程度にしか思っていないのが問題。
特に個人事業主や中小企業に対しての粗利保障とかすべきだった。
本当出すべき時動くべき時に動かず、体裁のみ整えるのに必死だから今回大非難が起きているのは事実なのにね。
そりゃ消費税ゼロや給付金一律とかの必要な事をしていない上にかっこだけつけてマスク2枚しか一般人にはくれないのだから文句が出るのは当たり前だよ。
幾ら108兆円だとか言われても実際回ってこなければ、ただの絵に描いた餅に過ぎないからね。
またこのコロナ禍を悪用して今だマイナンバーの普及の道具にしたり、憲法改正の道具に悪用しようとしたりしているみたいだしね。
危機感なさすぎ。
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あんまり食ったことないし調理の仕方もわかんないんだけど妙に憧れがある
こう、ほのかに苦味があるけどあとを引く…みたいな?滋味(この単語本当に好き)がある的な?
普通に考えてこれまで品種改良を重ねてきてる野菜の方がうまいんだろうけど、魚とかは天然物の方がうまいっていうし、そういう天然信仰みたいなものが頭の中に根付いてるんだと思う
山に鎌?スコップ?持って出かけてキノコとか山菜とか採って帰ってきて天ぷらにして食う みたいなね すごい憧れるんだよなあ
ふきのとうへの憧れに関しては小学校でやった「雪の下で芽吹きを待つふきのとう」みたいな内容の話もかなり効いてる感がある 冬の間ずっと蓄えてきたものをシュッと簒奪して喰らってやりたいという邪な心が思えばあの頃からあった
味付けは塩がいいな 土の味?山の味?そういうものをノイズなしに味わいたい やっぱ滋味っすよ時代は 山菜、フックはないけどしみじみとうまい、そういうイメージがある
でもなあ 実際そうでもないのが怖いんだよな
案外筋ばってたり臭かったりエグかったりで全然うまくない、あ〜あこんなもんかよ、つって人生の夢がひとつ輝きを失う そんな未来がどうしても見えてしまう
( 2 ) おいでよ どうぶつの森
どうぶつの森とは、2001年に 1 作目を発売したゲームのシリーズである。マリオやポケモンのような動物を殺すことを楽しむゲームとは違い、動物の世界で人間が暮らすことをコンセプトにしたゲームである。この作品において、動物と対等に生活を送っている以上、動物差別などとはほど遠いゲームのように思われる。現に、愛護団体から、どうぶつの森が批判を受けているという話を聞くことはできない。どうぶつの森は、主人公以外はほとんどが哺乳類の動物が生息している空間であり、その空間で、釣りをしたり、昆虫を採集したりする。また、採集したものをスーパーに売って報酬として金銭を得ることや博物館に展示することができる。動物と共存する姿にだけフォーカスすれば、批判される対象というよりもむしろ推奨される存在にも感じられるだろう。しかし、ここにも人間至上主義的な側面を見ることができる。それは大きく 2 つの側面から述べられる。 1 つ目は動物のなかの区別が存在すること、 2 つ目は動物社会で生活するといわれながらも、生きている社会が人間社会であることだ。 1 つ目は前述したように動物の中に階層を作り出している点である。どうぶつの森では、主人公以外全員キャラクターが動物であるため、虫や魚を売る相手も博物館に動物を公開する相手も必然的に動物になる。動物のなかでも、魚や昆虫は搾取される側で、権利を迫害される。そして、哺乳類をはじめとする動物は、この世界では搾取する側なのである。どうぶつの森では、作中に主人公以外人間が存在しないため、他の作品よりも動物間の階層が色濃く読み取ることができるのだ。本来は、動物間において殺害や自由の拘束が権利侵害にあたるのかというと明確ではない。野生のなかで相手を殺す状況は自然であるからである。しかし、この場合は適用できると言えるだろう。その理由にもなり得るのが二つ目の論点である。それは、どうぶつの森という題名からは、ほど遠いほど、生活空間が人間社会なことだ。例えば、取引には通貨が用いられ、娯楽として博物館や釣りが存在する。動物と共存する社会象が、自然ではなく、人間社会であることは人間中心のステレオタイプが存在すると言えよう。人間が自然のなかで生活をするのではなく、人間の生きている世界に動物が存在するということであるからだ。
ただ、上述したとおり、この作品に対する動物愛護方面からの批判は加えられてこなかった。以上の観点から、この理由として、動物愛護者の立場でもステレオタイプに動物の種類に対する差異を認められており、かつ人間社会と野生社会の関係を対等として認識していないということが言える。毛皮をとることや、戦わせることをはじめとしたシンガーの原則を受け入れながらも、そこには人間を中心とする明確な意識が存在する。
マリオ、ポケモンのような明らかな人間至上主義とどうぶつの森のそれは、大きく社会的な見られ方が異なっている。ゲームのコンセプトの違いが存在していることは自明であるとしても、そのほかに、発売時期が関係していると考えることができる。動物愛護の社会的風潮が広がったため、動物軽視的な発想が明らかに反映されているゲームを制作者側は作りづらかったという側面である。現に2002年から CERO という非営利団体が結成され、対象年齢を決めることを業務としている。この一年前に発売されたどうぶつの森は、年齢制限が設けられるかもしれない状況下で制作がされていたのである。この制限が設けられたことにより、例えばこの 2 年後に発売されたモンスターハンターは、対象年齢が15歳と設定された。ゲームに対する社会の変化は、暴力性、性的、反社会的表現という倫理的な諸問題の中には、動物愛護についての社会風潮も存在しただろう。それには、以下のことが理由に挙げられる。近世における動物愛護関係法令の移り変わりでは、1973年に「動物の保護及び管理に関する法律」として、保護動物の虐待・遺棄の禁止、動物愛護思想の普及啓発、動物による人間への危険の防止が法令化され、1999年には「動物の愛護及び管理に関する法律」として、以上に加えて、愛護動物の虐待・遺棄の防止、動物取扱業に対する規制が追加されたのだ。同時期に発売されたゲームに上述したモンスターハンターがあること、また、動物軽視が顕著なゲームシリーズが続いていることから、社会の変容にゲームが必ずしも対応するわけではない。それはゲームのアンタッチャブルな特性によるものだ。それでも、どうぶつの森は社会的に批判されない作品であり、もちろん時代背景を踏まえても批判されない前提で制作されたものだと考えられるが、根本的には動物軽視の視点が含まれている。これは、社会において、動物愛護の風潮が高まりステレオタイプが変化したにもかかわらず、深層的に根付いたまま存在していると言えよう。また、長年変化せずにシリーズ化する作品からもステレオタイプが再生産され維持されていることが認識できるだろう。
みんなこんな気持ち悪いゲームに夢中になってたのか。これに対して批判の声がひとつも出てこない日本社会の前時代性やばすぎるだろ。狸にでも化かされてるのかな
https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
この山中先生のサイトを閲覧していて、常々不思議に思ってきたことの2つの謎を解く共通鍵が見えたような気がした。
2つの謎とは
・なぜ日本国内で散発的なクラスター発生が起きているのに、日々の満員電車やパチンコ屋でクラスター感染が発生しないのか
これらの謎を解く共通鍵が、山中先生のサイト中の以下の参照論文
「Asadi et al, Aerosol emission and superemission during human speech Increase with voice loudness. Sci Rep , 9: 2348, 2019
(内容)
エアロゾルは咳やくしゃみだけでなく、会話でも放出される、さらに声が大きいほどエアロゾルは多くなる
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/30787335/」
にあるような気がした。
すなわち(無論思いつき仮説としてだけど)新型コロナの感染経路の最も頻度が高いのが「エアロゾル感染」であり、それは、口から飛ばされる唾などからのエアロゾル中に長時間(3時間とも言われる)ウィルスが生存し、密閉された空間では、それが他の人の口に入ってしまい感染するものではないかということ(口ー口感染が最も頻度が大きいのではないかということ)。
前者の謎(欧米と日本等の比較)では、手洗い等の文化要因ももちろん大きいとは思うが、さらに「パーティ文化」が根付いているか否かにあるんじゃなかろうか。密閉された空間で口を開けている頻度が高いもの同士が大声で長時間発声し合う。そんな空間を日々繰り広げている。あるいは「激しい議論の文化」が根付いているか否かもあるかも。当初中国での感染速度が早かったのは、パーティや議論の文化ではなく、日頃でっかい声で口角泡を飛ばしながらコミュニケーションを取り合うスタイルからかもしれない。いずれも日本や(中国以外の)東アジアの国々にはない文化ではないか。
そして後者の謎(ライブハウスや屋形船でクラスター感染が起きるのに、満員電車やパチンコ屋でなぜ発生しないか)も同じ鍵。つまり口を大きく開けて発声しあっているか否か。満員電車やパチンコ屋で口を開け続けているやつはあまりいない。
https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
この山中先生のサイトを閲覧していて、常々不思議に思ってきたことの2つの謎を解く共通鍵が見えたような気がした。
2つの謎とは
・なぜ日本国内で散発的なクラスター発生が起きているのに、日々の満員電車やパチンコ屋でクラスター感染が発生しないのか
これらの謎を解く共通鍵が、山中先生のサイト中の以下の参照論文
「Asadi et al, Aerosol emission and superemission during human speech Increase with voice loudness. Sci Rep , 9: 2348, 2019
(内容)
エアロゾルは咳やくしゃみだけでなく、会話でも放出される、さらに声が大きいほどエアロゾルは多くなる
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/30787335/」
にあるような気がした。
すなわち(無論思いつき仮説としてだけど)新型コロナの感染経路の最も頻度が高いのが「エアロゾル感染」であり、それは、口から飛ばされる唾などからのエアロゾル中に長時間(3時間とも言われる)ウィルスが生存し、密閉された空間では、それが他の人の口に入ってしまい感染するものではないかということ(口ー口感染が最も頻度が大きいのではないかということ)。
前者の謎(欧米と日本等の比較)では、手洗い等の文化要因ももちろん大きいとは思うが、さらに「パーティ文化」が根付いているか否かにあるんじゃなかろうか。密閉された空間で口を開けている頻度が高いもの同士が大声で長時間発声し合う。そんな空間を日々繰り広げている。あるいは「激しい議論の文化」が根付いているか否かもあるかも。当初中国での感染速度が早かったのは、パーティや議論の文化ではなく、日頃でっかい声で口角泡を飛ばしながらコミュニケーションを取り合うスタイルからかもしれない。いずれも日本や(中国以外の)東アジアの国々にはない文化ではないか。
そして後者の謎(ライブハウスや屋形船でクラスター感染が起きるのに、満員電車やパチンコ屋でなぜ発生しないか)も同じ鍵。つまり口を大きく開けて発声しあっているか否か。満員電車やパチンコ屋で口を開け続けているやつはあまりいない。
何事も中途半端以下、努力も才能も、納期に間に合わせる力もないクズ。
そんなままこれまでの人生を生きてきた、自他ともに認めるクズ系クズ、それがわたし。
小学校の頃はまだまじめだった。いや、真面目の皮を被って生きていけた、というのが正しい。
合唱コンクールのピアノ伴奏で、本番にも関わらず二小節ほど停止した。
すぐ復帰はしたものの、「伴奏すら満足にできないクズ」「一生懸命練習しろよカス」と揶揄された。
「こっちだって十日前に突然任されたんだから」という思いでごまかしていたのが、クズの思考だったんだと思う。
高校の頃もひどかった。文武両道を語る、自称進学校にしか入れなかったのも原因の一つかもしれない。
だけれど、そうやって他責を真っ先に思いつきそれに縋るのも私がクズゆえの思考なんだと今になって自覚する。
夏休みの宿題を「明日出す」と一週間繰り返して出さなかった結果、生徒指導室行きになった。
テストは一夜漬けで、英語の赤点なんてザラだった。クズなので高3になってもベクトルの基礎がボロボロで「お前、やばいぞ」と叱咤された。
そうはいっても復習もしない、中身もない、自分に甘いクズなんだから仕方ない。
部活では、インターハイの三日前に怪我をしてキャプテンに詰め寄られてキレられた。
「本気じゃないだろ」「士気が下がる」「お前来んなよ」
重々承知してるけど、体面を気にするクズだから来るしかないんだ。ごめんなさい。
サークルでは技術の上達しないクズ部長を任された。指導は先輩に全部投げたし、全国大会ではわたしの凡ミスで奇跡的な逆転負け。
後輩を入れた以外は部室の置物として生きていた。これが本当の役立たず。
趣味の小説も電撃文庫に応募した。二次選考落選。それでプッツリキレて、投げ出した。
他の人たちは血のにじむ努力をしているのにさ、あーあ自分に甘いしメンタルが弱いドクズだこと。
研究室なんてひどさの塊だった。研究の報告会で、自分の研究をあまり理解していない始末、教官に顔をしかめられる状態がずうっと続いた。
ゼミの論文紹介なんて、内容が大したことないのに基本的なことすら上手く説明できずひたすら燃えて時間が終わった。
それを次に生かせれば良いものの、三年間ずうっと同じ感じでゼミは終わっていき。
最終的にドクターの先輩から「炎上商法」「ゼミの質問で、他の人が答える部分が多いのはM2としてどうなの」と御叱りをもらった。
修論なんて、実際完成度はめちゃくちゃ低いし、追い出され枠のお情けで卒業させてもらったんじゃないかと今でも思う。
修論とは別に論文化で必要なデータなんかも、わたしが責任もって行うべき部分を、残った人たちに押し付けて、逃げた。
正真正銘のクズ系クズ。そうやってこれまでの人生、生きてきた。
そして社会人になって、一か月。同期を数十~百人単位でとる企業に、文字通り『潜り込んだ』。
研修で、まだボロは出ていない。と思いたい。
しかし、この思考が頭に侵食されている時点でクズ系クズはまだ終わっていないし深く根付いていると思う。
それが社会人になって表出して、これまでとスケールの違う規模の失敗、負債を抱えてしまうことがたまらなく怖い。
そして今日、夢を見た。今まで迷惑をかけた先生やら同期やらいろいろな人が出てきて責められる夢。
全部元をただせば自分が悪い、出るとこ出れば10:0で負けることばっかやってきたので勝手にトラウマ負ってるだけなのだけれど。
実際甘えなのは分かっているが、このトラウマの数々を拭い去りたい。そして、人として多少はマシな状態になりたい。
藁をもすがる気持ちで、ここに吐き出して、書いている。
エア新刊出しました!ってツイが大量にまわってきて複雑な気持ちになったので。
昨今急に人気になったジャンルにいるけど、
ジャンルの需要と供給が釣り合ってなくて、サークル参加者がかなり少ないのに需要だけは大きいという状態になっている。
サークル参加者はイベント1週前からお品書きや、ギリギリまでコピー本やペーパーを準備して、イベント前日まで必死になって作ってる。
そんな状況で、先日開催されたオンリーイベントではイベント開催1週前からエア新刊が出回り、
実際のサークル参加者のお品書きや本物の新刊サンプルが埋まる状態になっていた。
前日までペーパー作成やコピー本作業してるサークル参加者も多く、
DISCORDで「エア新刊ちょっと自重して欲しい」という話題が出た。
私も思った。
手の込んだネタが入れ込まれたデザインも美しいお品書き(だが実際には出ない)。
それが本当にサークル参加する息も絶え絶えな告知と一緒に流れてくる地獄。
勘弁してくれと思った。
イベント準備で混乱してる中、これからサークルチェックしたいのに、エアと本物が見分けづらいTLをこれから漁らないといけないのかと思った。
実際にサークル参加するサークルが20なら、エア新刊ツイートが50近く流れてくる。そんな状況だった。
(サークル参加の中には告知を一切出さずに当日を迎える人もいる)
エア新刊自体は喜ばれるジャンルも多い、というか大半だと思うけど、せめてイベント前日は避けて欲しい。
または適宜その場の空気を読んで欲しい。流れが速いときは放流するのを待って欲しい。
わがままかと思うが、実際にイベント参加する人の告知を優先させてほしい。
お祭り気分に乗りたいのは分かるけど、
サークル参加費も交通費も宿泊費も出さずに、オンリーイベントがあるという状況だけにタダ乗りされるのは正直かなりイライラした。
そんなきれいなマンガやお品書き作れるなら現地に来いよ!スペース取って本出せよ!という気持ちだった。
これが未成年の若い人メインのジャンルなら、お金ないだろうし、ごっこ遊びの域だからしょうがないよね。まだ本出せないだろうし…と、寛容な気持ちにもなれるが、
前述のジャンルは成人済み女性がメインなので、もう少し考えて行動して欲しい。
専業同人でもないただの人間が、オンリーイベント開催までの数ヶ月、私生活の時間のかなりを割いて新刊原稿執筆してると言うことを。
実際のイベントに参加して実物の新刊を出す人がいるから、エア新刊なる催しも開催できるのだと、アップロードする前に一度考えて欲しい。
ヨーロッパに半年くらい留学してて思ったんだけど、寿司がかなり根付いてる
惣菜みたいなものを売ってるスーパーマーケットに行くとだいたい寿司コーナーがある 大きさとしてはそれこそ日本のスーパーの寿司コーナーくらいで大してデカくはないけど
ただ、伝統的な日本的寿司はほとんどない サーモンとクリームチーズ巻きとかアボカドとフライドオニオンとかそういう感じのやつばっかり
味はまあまあいけるが、結構高い ショボい軍艦巻き8個みたいなサイズで7ユーロとかする 俺がいた街がバリバリの内陸で魚が高かったっていうのも関係してそうだから、港町だともっと安いかもしれない
Planet Sushiって名前のチェーンぽい店なんだけど、ブダペスト名物フォアグラを乗せたフォアグラ軍艦だとか揚げた巻き寿司だとかオリジナリティを感じるメニューが多かった
揚げた寿司、ゲテモノ感が強いけど食べてみるとかなりうまい 日本でも流行ってほしい つうかカリフォルニアロールに代表される海外寿司ってだいたいうまいんだよな 日本でも流行ってほしい(2)
老害の影響っていうのもいくらかあるだろうけど、それだけではないと思う。
同じ物を同じ品質で大量に作るには、人もみんな同じような考え方をしている方が都合がいいから、個性は集団を乱すものだという考え方が根付いた。業務を改善するにしても、工場の機械を変えるみたいな根本的な解決ではなくて、機械をそのまま残して小さい品質改善にとどめるようになった。
今は同じ物を大量につくってもしょうがなくて、新しい事業を始めることが重要だから、みんな同じ考えになるより人それぞれ違う考えをもっていた方が有利で、以前より個性重視になってきた。
終身雇用制ということは会社同士での人の出入りが少ないということだから、会社ごとに業務がガラパゴス化する。世界標準とか業界標準とかに合わせるより、今いる人の学習コストを低く抑えることを選ぶ。ガラパゴス業務は複雑化するから新しい社員に説明できず、先輩の技を盗めとしか言えない。長く会社にいる社員は、標準的などこの会社でも通用するスキルではなく会社固有の業務しか身につかないから会社に捨てられると人生が詰む。
そんな状態で情報システムを導入しようとしても、会社の業務を説明できる人が誰もいない。だからユーザー企業内のSEじゃ対応しきれずにSIが発達したけど、いくらプロでも、誰も知らない業務をシステム化するのは容易じゃないからたびたびシステム化に失敗して巨額の損失を生む。
終身雇用制はそろそろ限界らしいし、しばらくたてばこの逆の状態になって、日本の生産性もあがるんじゃないかなと。今後ガラパゴスが進んで差が広がっていくとは思ってない。
現状、芸術分野で発表された何某の内容というより、その発表された経緯、発端によって批判されているわけだから、これはオペレーションの問題だ。
18禁のあらゆるコンテンツがそのままだが今燃えているのはそのレーティングの外だ。
これは国や自治体に根付く共同体の広告だ。そこに求められることは共同体として適切な広告。
何が適切な広告か?自分が他者を理解できないように批判があれば下げるべきだ。もし表現があるのならばその外でするべきだ。
公的な要素を持つ機関の広告で性的に批判を受けても良いと思うなら堂々とやるべきだが、今回批判者が多数いたことは公的な広告のあり方を充分に示唆したと思う。