はてなキーワード: 実存とは
ay11
「たとえあなたが少数派であろうとも、真実は真実なのです」この何年か後にガンジーは暗殺された。
by ay11 2013/01/26 6:20:56 from web 返信
ay11
お前次同じことしたら…。
by ay11 2013/01/26 6:13:23 from web 返信
ay11
ひとりごと Add Starmiimii219miimii219
他人が納得する文章をしたためてなにになるわけ?
by ay11 2013/01/26 6:12:37 from web 返信
ay11
by ay11 2013/01/26 5:23:16 from web 返信
ay11
しばしば実存主義を未来主義と混同しますが、実存はあるもの。未来主義は実現できる。つまり違う。
by ay11 2013/01/26 5:19:45 from web 返信
ay11
あぁ…未来に提示するためにあるんだなって。
by ay11 2013/01/26 5:16:30 from web 返信
ay11
分類できないものは人間。それにしても最悪だよな?自分は他人にちょっかいかけておとがめなし。
by ay11 2013/01/26 3:49:52 from web 返信
ay11
はっきり言って人智なんだ。努力は。努力はすててもいい。決まった生き方を選ぶ。人間がモノを考えないように。
by ay11 2013/01/25 18:33:35 from web 返信
ay11
運命は信じたい。
by ay11 2013/01/25 18:23:52 from web 返信
ay11
ただの努力家。しかし姿勢は評価できる。唯一ルネサンス期にダヴィンチとならんだ人物。人智の範囲ではあるが…。
by ay11 2013/01/25 18:22:03 from web 返信
ay11
あ~なんかラッセンはラッセンなんだなって…。しかし海いいな?食物連鎖があっても競争はない。
by ay11 2013/01/25 18:09:23 from web 返信
ay11
by ay11 2013/01/25 18:01:31 from web 返信
ay11
考えなくていいことあるよな?時代や時空。根本は近くにあるし。自然にふれるとはよく言ったもの。
by ay11 2013/01/25 17:34:16 from web 返信
ay11
近しいです。
by ay11 2013/01/25 17:24:17 from web 返信
ay11
本当です。日本でもある。
by ay11 2013/01/25 17:23:02 from web 返信
ay11
カスです。
by ay11 2013/01/25 17:21:37 from web 返信
ay11
by ay11 2013/01/25 17:20:52 from web 返信
ay11
金かかるな。スポンサーもいるだろうし…。
by ay11 2013/01/25 17:05:29 from web 返信
ay11
この人は何年下積みしたんだろう?すごい。レベルが違いすぎる。
by ay11 2013/01/25 16:58:28 from web 返信
ay11
派遣切りは派遣を切ってるんだよね?家庭の事情とか関係ないよね?だから日本が冷戦中とか言われる。十分な環境をつくれない。アインシュタインが一つの国は戦争の準備と防止を同時にできないとか言ってるが。ペストになるよな?日本人。放っておいたら。
ay11
スルーしそうになっていたのだけれど、我慢できないのでやっぱり書いておきます。
ガガ撮影写真家逮捕 レスリー・キー容疑者“男性器写真集”販売
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/02/05/kiji/K20130205005128840.html
わいせつか芸術か……有名写真家レスリー・キー容疑者逮捕で物議
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130204-00000036-rbb-ent
【衝撃事件の核心】「紀信さんに憧れ…」越えた一線 ガガさんら撮影、有名カメラマンの写真集は男性器のオンパレードだった
http://sankei.jp.msn.com/smp/affairs/news/130216/crm13021618000012-s.htm
写真家の猥褻罪での逮捕は十年一日のごとく繰り返されているけど、そのたびに「あの写真集にチンポが写ってた!」「マン毛が写ってた!」と中学生のごとく大騒ぎ。まるでアホです。
そのつど繰り返されるのが、お馴染みの「これはアートなのかポルノなのか論争」。しょうもなさここに極まれり。
いいですか。
なぜなら、レスリー・キーは写真学校で写真の訓練を受けて、ギャラリーで個展を開き、問題の写真集も、ギャラリーで販売されたものだからです。
ギャラリーに置かれたもの、美術館に置かれたものは、アート作品です。これは自明です。便器に「泉」って書いて置いてあってもアート、缶詰めのパッケージをプリントしたやつがあってもアートなのです。
別に、俺はこんなものアートとは認めない! っていう人がいてもいでしょう。しかし、俺は蕎麦は手打ちしか蕎麦と認めない! っていう人がいても、実際に流通し消費されている手打ちじゃない蕎麦が存在し、蕎麦であるように、アートも、美術館やギャラリーにあるもの、またはそれら周辺の制度で評価されているもの、ぐらいの定義しか、もはやできないんです。象徴的にいうと、デュシャン以降、ウォーホル以降は。
アートの枠組みを問うこと自体がアートになり、行き着くところまで行った結果こうなりました。
理想化された神話的なヌードから、生身のネイキッドへの転換という美術史の流れで起こった論争など、はるか昔の話しなのです。
生身の裸がエロティックに表現されていたからといって、アートではないといえたのは、近代以前のことです。
無論、ここでの「アートである」とは「アートとして優れている」ことを必ずしも含意しません。
アートだからすべて偉い、崇高なものなんだ、というのは単なる権威主義です。
作者の慰みにしかならないような、誰にも評価されないクソみたいなアート作品もあれば、社会や人間に対する深い洞察を含んで、歴史的な鑑賞に耐えるポルノもありうるのです。
純文学とライトノベル、どっちが素晴らしいのかを問うようなもので、しょうもない純文学もすごいライトノベルもあるに決まっている。
警察は、チンポが写った写真集が売られたら捕まえる。これは、まあ、当たり前です。そういう法律があるんだから。
夜中にクラブで客踊らせたら逮捕されるのと一緒で、そういう法律があるんだから、逮捕も起こりうるでしょう。法治国家なんだから。
むしろ警察が芸術か否かを判断して法律を運用することのほうが不当なのではないかとも思います。
アートかポルノかなんて警察に判断できるわけがないし、されるべきでもない。
では、どうすべきか。
この場合、真に批判され、変わるべきは警察ではなく、こんなカビの生えた法律を放置している日本国民の意識である、と私は考えます。
根本的に間違ってるのは、警察ではなく法律なんです。そして、アート/ポルノ論争とか始めてしまう、ダンスは健全な文化なのか論争とか始めてしまう、幼稚な日本人です。
どれだけ俗悪で、低劣な表現であっても、被害者がいない限りは、ある朝突然、国権に身柄を拘束されることがないのが民主主義なのではなかったのでしょうか。
タテマエでは日本では猥褻なものは売られていないことになっている。これが欺瞞でなくてなにが欺瞞なのでしょう。
アダルトビデオにモザイク入れて、警察の天下り機関でチェックして、これはモザイク入ってるのでポルノじゃないです、猥褻じゃないですって、これが茶番でなくてなにが茶番なのでしょう。
ポルノ大国の日本で、写真集で外国人の写真家が逮捕されたというニュースは、海外からはどう見えるんだろう。
ちなみに、私はレスリー・キーの写真が低劣だと言いたいわけではないです。むしろ、写真集持ってるぐらいには好きです。腕もあると思います。
彼の仕事は、LGBTアクティビズムとしても、アートとしても、ポルノとしても、素晴らしい価値のあるものだとおもっています。
実は、ヌード撮るのってすごく難しいんですよ。嘘だとおもった人は、手持ちのカメラで自分の裸を撮ってみてください。立体感も質感もなんもない、みすぼらしい写真のできあがりです。
実は、ただのゆで卵でも、陰影をつけながら、その白さや丸さを撮影で表現するのすら、すごく技術や経験のいることなんです。いわんや人間を美しく、そして自分の表現になっている写真にすることはとても難しいことなんです。
写真というのは、見たものが見たまま写るというものではないです。たとえば、見慣れた花が、写真家の写真でみると、とんでもなく艶かしく、エロティックに写されたり、グロテスクに写されたり、ロマンティックに写されたり、こんな世界の見方があったのか! と驚嘆できるのが写真です。
当然ヌードも、そこには様々な解釈があり、無限の文脈があるものなのです。そこにモザイクという検閲が入ると、文脈は抹消され、猥褻なものがそこにはあった、という意味だけが立ち上がってしまいます。性器を隠した不自然なポーズやトリミングも同様です。
もちろん、春画などの例をだすまでもなく、ポルノもアートとして制度に回収され、認められる場合もありますが、現状、猥褻の線引きは、鑑賞者や捜査員がエロいと思うか、勃起するか否か、メールヌードに至ってはペニスが写っているかで判断されてしまいます。この思考停止。
ポルノは(特に性的少数者のそれは)作者が自分自身にとことん正直な、まさにパンツを脱いだ嘘のない表現に出会える数少ないジャンルです。どれだけ反社会的に思われ、政治的に正しくないものでも、実存の奥底にある、どれだけ押し込めても潰しきれない、人間のどうにもできないものが表現されてしまうのがポルノです。その凄みや執念は、アートのそれを上回るとさえ思えます。
我々は、アートやポルノ、健全さや猥褻さの枠組みの中で表現を擁護するのではなく、そして巧拙で擁護するのでもなく、低俗か高尚かで擁護するのでもなく、すべての表現を、すべての表現者を守るのだ、と宣言するべきなのです。
しかし、このニュース関連のツイートや、ダビデにパンツ履かせろクレーム、会田誠騒動などをみていると、法律を変えるなんて、あと数十年は無理っぽいですけどね。
ややこしい国に生まれたなあ……。
AKBは日本の現代社会の考察対象としての興味は強くあったが、メンバーそのもの自体にはあまり興味がなかった、しいて言うなら峯岸みなみが好きだった。
彼女の顔が好みだったというのもあるが、彼女の自分を下げるようなことをしてまで笑いをとるサービス精神が気に入っていた。
それは彼女の持つ、一種の愛に対する不安感がそうしているのではないかと思っている。心の奥底で、しっかりと安心した愛を受け取れなかった寂しさ。
しかし、その行為は、彼女に備わる本質的な優しさがそうしているのだと思うのだ。
実存的な不安から来る愛の渇望を埋める方法は人それぞれ違う。他人のことをわがまま放題に振り回したり、異様に執着したり。多くの場合はそうなる。
だけど、彼女は意識的ではないだろうが、自己犠牲を選んだ。自己犠牲なくして、何が本当の優しさなのか。
女性特有の利害関係への敏感さを標準以上に持つ他のメンバーの対して、異彩に存在していると感じていた。
彼女にたいする愛はこのへんにして、本題に入ろう。
今回の坊主謝罪問題は、AKB48というゲームを破壊するほどの衝撃がある。
「恋愛禁止」は、ファンと運営の間にある馴れ合いの果てに生まれたルールだ。
恋愛という実に個人的な出来事を、仕事であるアイドル活動に結びつけるのは、昔からあるアイドルの伝統ではある。
しかし、そういった不文律だったのものを、はっきりと打ち出したことは、AKBの大躍進の起爆剤になったのは間違いないだろう。
アイドルに抱く願望を、はっきりと約束してくれる。これは最初は一種のネタのようなものであったようだが、徐々にファンと運営の間での前提となっていったようだ。
ファンと運営との馴れ合い(ふれあい?)は総選挙やじゃんけん大会などがファンからの要望を答える形で誕生したように、AKBの伝統なのだろう。
そのファンと運営とそれをとりまくメディアとの馴れ合いのゲームそのものが、AKBというプラットフォームであり、彼女たちはゲームのキャラクターのように象徴化されて愛された。
そのゲームが現実にならないようにするには、彼女たちに生身の人間としての行動を許してはならない。それが恋愛禁止へと至ったのだと思われる。
しかし、今回の峯岸みなみの事件は、その関係に亀裂を生じさせる始まりになるのではないか。
これはゲームに熱中しすぎて、ゲームそのものが成立する条件を破壊してしまうということだ。
例えば、こういう経験はないだろうか。子供の頃、友だちとふざけてじゃれあってる時に、徐々に叩き合いになり、そして、ある瞬間一線を超えて喧嘩になる。
あるいは、文化祭の準備で、実行委員長が本気になりすぎて周りが引いてしまう。
ゲーム(遊び)が成立していた関係性や暗黙の了解が、参加者が過熱しすぎることで暴走し、破壊されてしまう。
これと似たようなことが、今回の事件で起こった。
AKBの人気が頂点を極め、ショービズの世界に巨大な化け物ように君臨した時、自分たちの成功法則の一つ、恋愛禁止のルールの存在が大きくなりすぎてた。
それは過去のメンバーへの激しいバッシングや、脱退や移籍などの処罰(人間的行為なのに!)を受けたのを見ればわかるだろう。あれほどの人気を持ちながら、その地位を奪うほどだ。
前田敦子なんて、恋愛禁止がいやで脱退したと言われるほどだ。それほどのことなのに、誰もそれを批判しない。まさにゲームが行き過ぎて暴走していた状態だ。
彼女が実存的な不安を抱えていると想定すると、きっと自分の居場所が消えてなくなるほどの強いショックを週刊誌を読んで感じたのだろう。
それがパニックとなり衝動的に坊主にしたのだろうと思っている。運営が事前に知ってたら絶対こんなマイナスなイメージを与える結果になるようなことはさせない。
坊主にしなければ許されないと彼女を追い詰めるほど、恋愛禁止ルールは暴走していたのだ。
そして、多くの人が後味の悪い気持ちになる。恋愛禁止を旗手にもってそれを犯したメンバーをバッシングしていた人も、今回は彼女に拳を振り下ろすことに躊躇するだろう。
なぜなら、自分が人を追い込んだことを坊主というはっきりとわかるヴィジュアルで見せられたら、さすがに自分がこれからやろうとすることの意味に気づいてしまう。
そして、それまで白熱していたことが、ゲームだったことに気づいて覚めた気持ちを抱くのだ。ネタだったものがマジになっていき、そして行き過ぎた時にネタだったことを思い出す。
あるいは、からかって遊んでいるつもりが、いつの間にかいじめになり、相手がひきこもりになってようやく自体を理解するような。
一度人はゲームに覚めてしまうと、なかなかまた再熱中出来ない。
もしかしたら、今回の事件がきっかけに、AKBは崩壊するかもしれない。
そして、今の芸能界と日本に漂う、自己増殖的に増えるゲームが、崩壊するきっかけになるかもしれないなんてのも思う(話を広げすぎだけど)
昨夜、おとなしく地に座している鳥を発見した。体のどこかしかを負傷したらしく、上手く飛べなくなっているようだった。特に気にする必要も無いし、そのまま放っておいても問題なかったのだが恐らくの垂れ死ぬのだろうと思い、気まぐれで連れ帰ることにした。動機としては、私の心に内在する少量の善意や同情なる心理的情動機能がものが作用した為だろう。半日程度世話を焼いてみたが、どうやら餌を食べられないようで、何を与えても口に入らない。このままでは外でも中でも関係無く死ぬと判断し、結局野に放して自由にさせてやることにした。飼育が困難なのも理由の一つではあったが、何より鳥自身が外に出たがっていたことが最大の理由となった。やはり空を飛び、空を愛する存在にとって建築物のような閉鎖的な空間は息苦しく感じるのだろう。この鳥の行動を見た時、私は判断を誤ったと感じた。そもそも動物を保護しようとする行為自体、偽善行為なのである。普段我々は鳥はもちろん、牛や豚の命を殺し、料理の材料として扱っている。それは、我々にとって生き物ではあるが、食べ物としても認識しているからだ。何かを食べる時、その食べられる物質に命が宿っている場合は、その命を殺傷しなければならない。人はこうした殺伐とした生存的事情から、生き延びるために生物の命を原始時代から狩り続けてきた。命を弄ぶ魔の手は陸上の生物だけでは飽き足らず、海上の生物の命まで奪い、無惨に横たわった肉を調理し、欲の限り貪ろうとする。猟師は自らの殺傷行為を職業として正当化し、身を隠しながら己の飢餓を満たしてくれる野生の動物を虎視眈々と付け狙う。漁師は海上に捕獲用の網というトラップを張り巡らし、獲物が引っ掛かって人間の為の供物と成り果てることを満面の笑みで待ち構えている。動物園では野生から拉致してきた動物を見世物として扱い、サーカスでは人間を喜ばせるために動物自身の意志とは無関心に芸を仕込み、ペットショップでは金銭的価値を付加し、奴隷扱いする。このような半ば常識とされている事態を直視すれば、動物を保護するということが如何に欺瞞に満ちたものであるかは周知の事実であろう。まして動物愛護など所詮個人的な自己満足である。鯨を保護し、鮪を保護しない愛護団体にどれほどの善意が存在するのだろうか。そんなものは個人的劣情に基づいた偽善だと気付く筈である。ひとたび鯨が致死性の高い病原菌に感染すれば、愛護団体は彼らの愛する鯨達を鳥インフルエンザにかかった鶏の如く、容赦無く殺処分し捨てるだろう。まして愛護する対象が百獣の王とまで呼称されているライオンともなれば、恐怖に支配されてムツゴロウでもない限り近寄ることすら困難だろう。利己的な彼らの心に愛などという高尚な成分は含まれていない。愛という概念は常に利他的、自己犠牲的であり、決して個人的欲求のみを満足させるものではない。特定の動物を愛し、保護しようとする彼らの行為はまさに個人的欲求が反映された結果であろう。愛とは、生きとし生ける全生物に反映されるファクターでなければならない。人は、偽愛をもって動物の命を弄んでいるのである。この観点で進めると、私の行為も所詮は偽善ということになる。結論として私は判断を誤った、ということだ。全てではないかも知れないが、人間が語る愛とは、大抵が自身の身の安全保障が約束された、ご都合主義に則ったものだと言えるのではないか。現実に存在する人間の心は、ドラマや映画のように美化できるものではない。しかし、「やらない偽善よりやる偽善」ということわざが存在するように、時と場合によっては同情に駆られて衝動的な行動を形成することもあるし、何より人の善意が全て偽善だと一蹴するのも暴論だろう。それでは救われないし、そうした偽善で命が救われるのも確かである。従って全否定するスタンスまでは取れないが、「善意が如何なる成分で構成されているか」を吟味しようとする姿勢ぐらいは覚えておきたいものである。この論述は非常に理想的である。現実的でもなければ実存的でもない。この文章はただ自身の体験を交えて、安定を求めて嘘や欺瞞をバラ蒔きたがる人間の心理という厄介なものに少々メスを入れてみただけである。
『七月七日展 ― 衣服造形/コンセプチュアル・クローズ』を見た。
眞田岳彦氏の弟子(?)の作品が中心らしい。
それほど期待しないで行ったのだけど、なかなか良かった。
宮園夕加さんの、ボタンとボタンホールの距離を天の川に見立てて、
伝説では、天の川の橋渡しをするのはカササギの役目なんだそうだ。
テーマの「針仕事」と「七夕」が無理なく融合されてて、それを一番うまく表現してる作品だったと思う。
単純に、見た目がかわいいのも良い。
今回のベスト!
奥村絵美さんの作品も良かった。これも一見してとてもかわいい。
人間を一本の「まち針」として捉えるというコンセプト。
粘土と針でつくられたたくさんの小さな人間が、それぞれに環境を仮止めしている。
「針を自分自身の比喩とする、っていうアイディアはありだな」って私自身展示を見る前に
考えていたのだけど、縫い物をやらない私にはそこで「まち針」という発想は出なかった。
でも言われてみれば納得、でした。
仮止めされる「環境」の部分を何かもっと表現できそうかも、とも思ったけど。
良かったとストレートに言えるタイプの作品ではないけど、好きだ。「コンセプチュアル」。
糸が縫い付けられている。タイトルは『誰でもない肖像』。
写真の上から縫う技法は、有名な清川あさみさんを思い出させる。
けど、写真の女性が制作者の針仕事によって「誰でもなく」されてしまうことには一体
どういう意味があるのか。あるいは針仕事で加工される前から、彼女は誰でもないのか。
…写真に写る私は、そこに縫い付けられている限りでの人間であって、無限のあり方を
可能的にもつ自由な実存としての私ではない、だから「誰でもない」…?
制作者はこの展示のチラシで、針仕事について、「私たちの存在を露にし、生き生きとさせる」と書いてる。
こんなことを言われると、私としては、ハイデガーの技術論を持ち出して、その中に「針仕事」の
ポジティブな位置づけを探して色々言いたくなってしまうけど、結局のところ、その言葉と、
制作者自身の作品との関連はよく見えない。
う~ん。
…写真に写っているのは過去の私である。それは過去のその時点に縫い付けられている限りでの
私であって、現在の私とは異なっているし、通時的な無限定の私とも異なっている。だから、
過去において確かにそれは私だったが、いまや「誰でもない」…?
あと2つくらい気になる作品はあったけど、作者名も作品名も覚えてないので割愛。
帰りにブリジストン美術館に寄ろうと思ったら展示替え中で休館だった。
(エス)
===================
7月7日展 -針仕事に願いをこめた37名のデザイン&アート小作品展-
会期 7月4日(月)~7月9日(土) 10.:30~18:30(最終日のみ17:00まで)
入場無料
TEL 03-3281-0320 FAX 03-3281-0366
出展作家:
大江よう 今村滋男 藤谷さやか 末延晋太郎 久保田玲奈 関美来 飯田亜希子 土井直也
永井俊平 山口真代 宮田明日鹿 山中周子 宮園夕加 佐藤綾 松田かや 三上司 加藤ゆき子
桑田麻弓 後藤有紀 奥村絵美 平尾菜美 アーヴィン=ヒバ=アリ 小平由実 西村洵子 平井幸恵
盧暎雅 島田彩子 池田のぞみ 山本佳那 長鶴司 林凡乃 大八木富士奈
===================
Sanada Studio Inc. (サナダスタジオ)-眞田岳彦のデザイン事務所
京橋「千疋屋ギャラリー」で「七月七日展」を観る。 - マスヒロ食時記
デモを「手段」ではなく「居場所」とか「晴れの舞台」にしてるクズが多すぎる。
彼等はその病的な自意識ゆえに、一市民としての淡々とした日常など1日も送ることができない。
常に政治闘争の文脈に身を置き、当今であれば一日中ネットで闘争案件にアクセスしている。
仕事や学業はおろそかであり、あやしい身分で馬齢を重ねて一層堅気でなくなっていく。
右と左に分かれて罵り合うが、一般人から見れば等しく社会の負け犬に過ぎない。
彼等とは違うまっとうな一般市民が、何か問題意識を持ってデモ参加を志したとする。
だが、デモに出かけていくと、例の社会の負け犬どもが先輩面で居座っているのである。
一般市民には全く通じないオタク用語で会話し、オタク文脈の諍いや喧嘩を自重せず、
更にはデモの名目とは全く違うのぼりを掲げたり、集まった頭数を「流用」しようとしたりする。
わかるだろうか。
まともな生活も送っていないオタクが、本来「手段」であるデモという場に「住み着き」、
先日の原発デモ関連のツイッターも、見ていると本当に吐き気がする。
オタク文脈のオタク言葉の、一般人の関心には全くアクセスしないくだらないオタク喧嘩を延々やっている。
本人達は大変重要なことをやっているつもりで終始深刻なツラである。
だがこいつらはまともな人達の政治参加を阻害するただの害虫であり
長年のだらしない実存処理の報いとして、目が覚めている間中発作が起きてる単なる精神病患者である。
デモに10回以上参加している人間はほぼ全員この精神病の害虫なので
もしこいつらがいなくなれば日本の政治シーンは劇的に風通しが良くなるだろう。
だが、そんな殺虫剤もないので、今後もデモは彼等精神病のオタクどものおもちゃであり続ける。
それがいつまでも続く。
元ネタ:モテる女子力を磨くための4つの心得 http://youpouch.com/2011/04/26/162331/
こんにちは、現代思想系文芸批評を専攻しているエス嬢です。私は形式論理も自然科学も分かりませんし知の欺瞞ですが、現代思想に関してはファッショナブル。今回は、モテる現代思想系女子力を磨くための4つの心得を皆さんにお教えしたいと思います。
あえて2~3世代前の人間観を持つようにしましょう。そして飲み会の場で好みの男がいたら話しかけ、わざとらしく主体を過剰に根拠化してみましょう。そして「あ~ん!この主体本当にマジでチョームカつくんですけどぉぉお~!」と言って、男に「どうしたの?」と言わせましょう。言わせたらもう大成功。「主体性とか詳しくなくてぇ~! ずっとコギト信じてるんですけどぉ~! 自律してるんですぅ~! ぷんぷくり~ん(怒)」と言いましょう。だいたいの男は生=政治を批判したがる習性があるので、古かったとしても構造主義的な人間観を持っているはずです。
そこで男が「近代的人間主義の客体化しないの?」と言ってくるはず(言ってこない実直な実証研究系の男はその時点でガン無視OK)。そう言われたらあなたは「なんかなんかぁ~! 最近アガンベンが人気なんでしょー!? あれってどうなんですかぁ? 本質としての主体欲しいんですけどわかんなぁぁああい!! 私かわいそーなモダニスト★」と返します。すると男は「潜在性としての実存でしょ? 例外状態に集約されない共同体はまだ到来してないよ。本当に良くわからないみたいだね。どんな<主体>幻想が欲しいの?」という話になって、次の休みの日にふたりでデカルト以降的人間観の脱構築に行けるというわけです。あなたの女子力が高ければ、男が文学における作者の死も宣言してくれるかも!?
「人間理性の限界」とか「理系コンプレックス」などを表現する「不完全性定理」をテクスト批評に入れると、男性ポストモダニストは「なんかこの子アカデミズムに回収されないなぁ」や「対象aかも」と思ってくれます。現代思想上では数学基礎論のイメージだけが都合よく曲解されて相手に伝わるので 「不完全性定理」 を多用することによって、男性はあなたをポストモダニストらしいと勘違いしてくれるのです。そういうキャラクターにするとほぼ絶対に自然科学者・数学者・論理学者・分析系哲学者に嫌われますが気にしないようにしましょう。
3. とりあえず男には「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておく
飲み会などで男が女性に話すことといえばポストコロニアリズムやフェミニズムの話ばかり。よって、女性にとってどうでもいい話ばかりです。でもそこで適当に「へぇーそうなんですかぁ~?」とか「よくわかんないですけどすごいんですねぇ」と返してしまうと、さすがの男も「この女伝統的な古典文学研究志向だな」と気がついてしまいます。学究の徒だとバレたら終わりです。そこは無意味にテンションをあげて、「えー! なにそれ!? 知りたい知りたーい♪」と言っておくのが正解。たとえ興味がない話題でも、テンションと積極性でその場を乗り切りましょう。積極的に話を聞いてくれる女性に男は弱いのです。
いろいろと話を聞いたあと、「脱構築は正義で、テクストの外には何も無いんですね! 覚えたぞぉ! エクリチュールでメモメモ!」とコメントすれば常にあらかじめ差延が発生。続けて頭に指をさしてくるくる回しつつ「デコンデコンデコン! デコンデコンデコン!」と言って、「どうしたの?」と男に言わせるのもアリ。そこで「私のロゴス中心主義をデコンストリュクシオンしているのでありますっ☆」と言えば女子力アップ! そこでまた男は「この子脱構築そのものをも脱構築し続ける運動を動的に受容してるのかも!?」と思ってくれます。私は形式論理も自然科学も分かりませんし知の欺瞞ですが、こういうテクニックを使えば知識を持たない私のようなバカ女のほうがモテたりするのです。男は優越感に浸りたいですからね。
4. レストランではレディースセットを食べられない娘をアピールせよ
男とレストランに入ったら、真っ先にレディースセットなどの女性限定のメニューを探して「あーん! 私これ食べられないんですよねぇ~(悲)」と言いましょう。するとほぼ100パーセント「どうして? 嫌いなの?」と聞かれるので、「嫌いじゃないし食べたいけど食べられないんですっ><」と返答しましょう。ここでまた100パーセント「嫌いじゃないのにどうして食べられないの?」と聞かれるので、うつむいて3~5秒ほど間をおいてからボソッとこう言います。「……だって、……だって、セクシャルマイノリティを排除するマッチョの論理じゃないですかぁっ! LGBTかわいそうですぅ! ジェンダーは社会的に構成されるのにぃぃ~(悲)。わたし実は男の娘なんですよ……」と身を震わせて言うのです。
その瞬間、あなたの女子力がアップします。きっと男は「なんて優しい天使のようなコなんだろう! 絶対にゲットしてやるぞ! コイツは俺の男の娘だ!」と心のなかで誓い、あなたに惚れ込むはずです。意中の男と付き合うことになったら、そんなことは忘れて好きなだけレディースセットを食べて大丈夫です。「食べられないんじゃなかったっけ?」と言われたら「大丈夫になった」とか「差別の暴露がむしろ差別を固定化/再生産する」、「男の娘はネット上では既に市民権を得た」と言っておけばOKです。
関係各分野の皆さんごめんなさい
「例外状態を実現する共同体はまだ到来してないよ」はおかしいのでは、という指摘がtwitterでありました。
円高だから輸出が伸びないのではなく、輸出先に購買力が無いから、輸出が伸びないのである。
円安にする為に、去年の9月に円売り介入をしたが、その結果、どうなったか。輸出したくても、相手先では食料や燃料の高騰によって可処分所得が食われ、工業製品の購入・更新は先送りになっていて、輸出は大幅に減ってしまっている。せっかく円安に誘導したのに、輸出先の在庫がだぶついていて、出荷したくても受け入れてくれない状態となっている。
つまり、通貨の切り下げ競争をやっている相手国に、輸出をする為に同じように通貨の切下げで付き合っても、相手国の消費者はエンゲル係数が上昇している為に購買力が減少し、輸出しても在庫が積み上がるだけで、利益に繋がらないのである。
通貨の切り下げで輸出が伸びて相手国の産業を空洞化させる事ができるのであれば、国際的経済戦争の手法としては有効であるが、相手国に購買力が無い場合や、相手国の国内産業が生産する製品よりも高性能で安価な製品を作り出せない状態では、通貨の切り下げは間違った政策となる。
後進国・中進国は、この間違いを実行してしまい、輸入物資の高騰を発生させ、国内経済を疲弊させてしまい、政情不安を招いている。
食料や燃料といった生活必需品のコストが高騰していて、工業製品に対してお金が回らない状態は、当分続くであろう。工業立国を続けるには、少なくなったお金を吸い取れるだけの信頼性と利便性を実現した製品を供給する事でしか、成立しないわけで、かつ、後進国・中進国に出て行った工場ではコピーできないような製品でなければならない。そういう製品を生産し、そして、国外に余計なお金が流れていかないように、低レベルな製品も国内生産に戻す事が必要となる。
購買力が小さくなっている市場においては、営業マンを送り込み、その国内のメディアに宣伝を流して製品を売るというやり方は、通用しない。市場規模が小さすぎて、営業所や支店を置けるだけの売り上げが維持できないのである。宣伝はインターネットで行い、個人輸入の形で購入して貰うという手法へとならざるを得ない。
宣伝は個別の製品の宣伝だけでなく、企業の信用度を上げる宣伝も同時に行わなければならない。個別の製品の宣伝については、過去の手法が使えるが、企業の信用度を上げる宣伝については、過去の手法は使えない。親戚が従業員になっているとか、本社ビルや工場といった物件が目の前にあるといった信用創造が通用しない顧客に信用してもらうにはどうすれば良いかというと、その企業を支えている株主やユーザーといったソーシャルネットワークの広さ、実存を、その企業のwebにおいてアピールするとなる。インターネット上の既存コンテンツをミラーして、投票によって入れ替えを行っていくという手法は、その手段の中の一つである。
リストラによって親戚が解雇されたとか、工場が廃止されて海外に出て行ったといったことで、社会の中における存在感が希薄になっていくと、外資と信用度に差が無くなり、余計に過酷な競争に巻き込まれるというのが、日本の産業が陥っている失敗の原因の一つと言える。
対策は、企業側だけではなく、政治の側においても、行う必要がある。食料や燃料を生産する方が、はるかに楽なように見えるが、それらで養っていける人員の量には限界がある。日本にとって、工業立国は、当面は過大な人員を食べさせていく為に必要な選択であり、特許権や著作権等の知的財産権や、懲罰的賠償制度、許認可、立地制限といった制度を改廃し、起業を行いえて、しかも、競争が活発化するような産業育成が必要となる。
実存ってなんでしょうね
それはね、人と人との間にあるものなんですよ
それで、システムってなんでしょうね
ところで、話は変わりますが、何かに操られていることに、人間は気付くことができません
また、人間には、自分自身の意志で行っていることと、コントロールされていることの区別ができません
実存というのは、結局のところ個人意志でもあり、システムそのものでもあるのです
人間には、自分の意志で行っていることと、コントロールされていることの区別ができないんです
しかし、仮に自らの意志だけで全てが支配できたとすれば
システムと意志
表裏一体の二つの要素
この二つが合わさったものこそが、自由なんです
完全に操られていることと、完全に操られていないことは、同じことなんですよ
さあ今日も出かけよう
マンガは~ただの空想、娯楽
漫画というものの本質を、ただの空想や娯楽としてだけ捉えるのは、些か問題があるのではないでしょうか。そして、某御老体も、漫画をただの空想や娯楽としてだけにおいて捉えていないからこそ、あのような発言をなさっているという側面を持たれていると私は思うのです。
端的に(本質的に)言いまして、漫画とは一種の芸術である限りにおいて、自己表現の手段と言う『べき』だと思います。つまり、他人に対して、自らの思想や何やら、そういうものを伝える為の手段と言う『べき』でしょうね。
(『べき』と強調しましたのは、現実において必ずしも、漫画がそのような位置づけに無いということの表現です)
無論、娯楽的な側面や空想的な側面もまた、漫画においては存在しますが、しかしそれは本質的ではない。というのも、娯楽的な側面を持っているモノは、漫画だけではないし、それこそ芸術だけでもないからです。その他の様々なものが娯楽的側面を持っています。ですから、漫画を娯楽性や空想性という側面からだけを以て表象するのは、漫画の本質を捉え損ねるところの行為だと言えましょう。
で、要するに私が言いたいのは『こんにち議論されているような規制問題において、漫画の問題点として指摘されているのは、いわば漫画が本質として自己表現性を持っているということであり、また、そのような自己表現において問題のある表現が存在する、ということなのだ』ということなのです。
――話が少し変わります。
それで、実際にどのような表現が問題にされているかと言えば、性表現です。
何故性表現が問題にされているかとすれば、そのような表現が『ある種の氾濫』を起こす可能性があるからでしょう。
そう『ある種の氾濫が起こる可能性がある』。
これこそが、こんにちの議論における重要な問題でもあるのです。
性能力がやたらと強調されている漫画の類は――そのような漫画を書いた人間の自己を表象しています。少なくとも、表象している、と言う『べき』です。
逆に言えば、性表現が強調されているところの表現は、ある種の自己を含んでいると言うべきです。
こんにち議論されている規制問題において、本質的に問題とされているのは、恐らくその『ある種の自己』でしょう。そして、その『ある種の自己』は、影響力のあるアプローチを、周囲に対して行うことが、恐らく、あります。
そのようなアプローチの結果として、周囲の人々に、ある種の指向性が生まれることがあるのではないでしょうか。
つまり、『ある種の氾濫』というものが生まれる可能性があるのではないでしょうか。
そのような重要な問題がある為に、『ある種の自己』を含むような表現は、規制されるべきである、と言われているのではないでしょうか。
――話が戻ります。
漫画には、ある種の問題があって、そのことが、議論されています。それは、上記の通りです。
何故議論されているのかということについて、具体的に例えを言うならば、性『能力』を強調するような表現を含んだ漫画があることによって、と言えるでしょう。
さてここからが本題なのですが、我々の考えているところの『能力』の構成要素(O氏の言葉を借りれば因子)は、ほとんどの場合有限的なものです。
私が結果として思うに、このような有限性が、漫画を含む、ある種の自己表現において、余りに強調され過ぎることは、問題なのです。
このことは、上において『ある種の自己が、ある種の氾濫を生む可能性がある』とありますが、そのことに繋がっていきます。
ここにおいて私が言いたいのは、『ある種の自己』は、有限的な能力をあまりに含み過ぎる自己表現を為すところの自己を含む、ということです。
我々一般が持つところの有限的な能力というものには、一定の限界があります。性能力(ポテンツ)、筋力、計算力、思考力――このどれもが、歳を取るにつれ、衰えていくところの能力です……つまりは、有限的な能力です。
しかし、昨今において『ある種の自己』には、これらの有限的な能力について、あまりにも、強調し過ぎるという傾向があります。『ある種の自己』らの、自己表現においては、これらの有限的な能力が、あまりにも、強調され過ぎているのです。
いずれ年老いては、消えていくだけの、有限的な能力が、強調され過ぎているのです。
同じような絶望を、周囲にもたらすだけなのではないでしょうか。
能力など、消えていくだけなのに。それを敢えて強調することによって、彼らは一体何を表現しようとしているのでしょうか?
それは、結果として、彼らの絶望そのものなのではないでしょうか?
そして、そのような彼らの絶望は、周囲を絶望に陥らせようとしているのでは、ないでしょうか。
私が思うに、こんにち議論されている問題の本質は、そこにあるのです。
有限的な能力、年老いていくにつれ消える能力、宇宙の中で、消えては生まれるところの、その能力。
我々は想像力や表象力を持っているし、あるいは、与えられている。それにも関わらず、そのことを、無視するようなその能力、絶望を誘うところの能力。
そのような能力を、自己表現としての漫画において過度に強調すること、それは、避けるべきことなのではないでしょうか。
なんで君はこんな遅くになって、こんな手紙をよこすのか、そう君は思うのだろうね。理由は単純だ。君が自己満足の為に僕に書いて、僕によこしたように、僕も自己満足の為に書いて、君に送る事にするよ。それにあたって、ただ一つお願いがある。どうか返事を書かないで欲しい。僕にとって君との関係はキラキラとした美化され、風化された思い出というよりはむしろ、呪いや呪縛に近いのかもしれない。僕は君との関係を思い出す度、罪悪感に苛まれるんだ。この行為は別の言葉に変えるならば、償いに近いものかもしれないと思う。無論、こんな自己満足の手紙を送った程度で、僕の行いは贖われるとは思わない。
最初に謝っておきたい。僕が非常識な行いを行ったのは重々に承知しているし、そのことを忘れた事なんて一度もない。あれは責められるべき事だったと思うし、君がそう判断するのももっともだと思う。君は疑問に思うだろう。なぜ何もしなかったのかって。率直に言うと、君の中に抱いている僕と、実際の僕自身の落差に驚き、その砂上の楼閣を維持すべきか逡巡したあげく、何も選び取ろうとしなかった、つまりは自分が傷つきたくなかった、そして君に対して臆病だった。
僕は確かに、友情以上の意味を込めて、好きだ、と言った。そんな言葉を言ったのは生まれて初めてだった。その時の君の表情の移り変わり、春の穏やかな周りの風景、部屋のオブジェ、机に彩られた食事。全てを色鮮やかに思い出すことができる。君の手を握ったときの、ちょっとひんやりとして、僕よりも小さな、可愛らしい手の形や、僕の一挙一動にあたふたしてこじんまりとした小動物のようにコミカルでコケティッシュな君の仕草は、今でもまるでそこでの一部始終が8ミリビデオで撮られていたかのようにを鮮やかに思い出すことができる。そこで僕は確かに好きだと言った。しかし、本心では無かった。僕はしばしばそういった必要もないのに、そういった類の愚かな過ちを犯す事がある。しばしば、僕は人に嫌われたくないと思う余り、本心から乖離した行動をとってしまう事がある。そしていつも後悔する。学習しないのだ、僕は。それにしても僕はあまりにも軽率だったと思う。
君との関係を継続していく気がなかったと責められていても仕方がない。僕は君が思うほどに倫理的な人間でもない。君が思うほどに、自分が何か価値のある人間だなんて今の際まで思ったことは一度もない。世界からある日突然僕が消え去ったとしても、多分何の変哲もなく世界というものはそれまでと変わらぬ歩みを続けるのだろう。君はそんなことないって言ってくれたのは、とっても嬉しかった。それでもこの考えは変わらない。でも、あんなにたった一人の人について想いを巡らせたのは、初めてだったと思う。僕の周りの人間は、喩えて言うのであれば旅の途中にふとすれ違う、街角の風景みたいなもので、人生の短い時間を共有しては、時間という川の流れに押し流されるような、刹那的な存在だった。僕はそのまま、生涯孤独のままに生きていくのだろう、そう思っていたし、君に会うまではその考えは揺らぎすらしなかったんだ。それは僕の土壌の中に大きく根を張って、巨大な木へと成長していた。
君みたいな人間は初めてだった。君とのメールでのやりとりはとても楽しかった。君からメールが来る度に、思わず口笛を口ずさむほどに嬉しかったし、この時間が永遠につづけば、なんて今考え直すと陳腐な事を考えた。傍から見たら馬鹿げているのかもしれない。でも僕にとって君と僕との関係は、それこそ実存をかけた問題だったし、真剣だったし、真摯にとりくまねばならないことだった。君みたいな素晴らしい理解者を得られた事は、多分神様の贈り物だったんだって心から思うんだ。なんでそんな得難い関係を保っていた君から僕は離れていったのだろうか。聞くに耐えぬ理由だと思う。君はそれを聞いたら怒るどころか呆れるだろうから。無論、なんの矛盾も抱えていない人間は世の中にはいないだろうけど、それにしたって限度がある。僕は矛盾した人間だとこの時ほど思ったことはない。
僕はあれほどまでに苦しめた僕に対する過剰な信頼と、敬意と好意と愛情を・・・失うのが怖かったんだ。だから僕は結局言うに言えなかった。だってあんなに手酷い別れになったにも関わらず、最後にこんな綺麗で美し過ぎる手紙を受け取っては、返そうにも返事が出来なかった。それを行う事は、恐ろしく酷いことのように思えたんだ。知らなくて良い事もある。もちろん、率直な想いを打ち明けるという選択肢もあったけれど、僕はそれを選べなかった。これが君に対するせめてもの償いなのか、それとも病的な利己心のなせる業なのか、僕には分からない。ただ君はとても悲しんでいるに違いないだろうし、その上に辛辣な言葉を浴びせる事は、もはや暴力であり、君に対する最大級の冒涜なんじゃないかと躊躇してしまったんだ。
君の言動に違和感があったわけじゃないんだ。君はメールのやり取りを介して、僕が想像した以上に君らしかった。どこか、違うだなんて違和感を感じた事は一度たりとて無かった。ああやっぱり、まさか君はそんなことで僕が君を諦める、なんて思わなかったんだろうね。だからこそこの言葉を言うのが辛い。一年以上もの間、君に返事の一通さえも出せなかったのは、とりかえしの無い事をしてしまったという罪悪感と、なんて空疎な事に時間を費やしてしまったんだろうという虚無感から逃れるためだった。
誤解しないで欲しい。君が空疎だとか、薄っぺらいとかそういう意味じゃない。むしろ逆だ。無邪気で純粋な君に接しているうちに自分のどうしようもなく矮小な部分や目を覆い隠したくなるような恥部を覗かれる恐怖に怯えて、逃避しただけの哀れな男なんだ。
恐ろしく動物的で、独善的で醜い。僕は自分自身のそういったどうしようも無く、醜くて矮小な自分自信を受け入れることができなかったんだ。だから僕は君との関係を拒否した。逃避した。切断した。逃げ出した。
僕は君と付き合う、その可能性ももちろん考えた。それは一見とても素晴らしい事のように見えた。だって僕の短い人生の中で、これほどまでに心を通わせる人なんていなかったから。君を失ってしまう事はとても辛いことのように思えた。でもそれは出来なかった。僕の心が拒否していた。君は僕といつまでも過ごしていたかった、そう言ったね。でも僕はそうじゃなかった。あの空間がとても-そう、とても重苦しいものに思えたんだ。心に重石が乗っかったようだった。いつまでこの狂った芝居を演じなければならないんだろうといっぱいいっぱいだった。帰りの電車の中では今までに経験したことのないほどの疲労感が襲った。
君がセクシャルマイノリティであることや、君の家庭環境とかに、違和感を感じていたわけじゃない。そういう人間がいたって可笑しくないとは思うし、僕はそこまで差別的思想に凝り固まっているわけではない、と信じたい。理由はもっと別のところだ。多分、僕がもっと思慮深く、善良でもっと本質的に物事を考えられるのであればこんなことにはならなかったと思う。しかしながら実際の僕は君が考えているほどには素晴らしい人間ではなかった。
しかしながら、結局のところ差別主義者と誤解されざるを得ないような酷い最後になってしまった事については、釈明のしようもないと思う。君を尊重すべきと考えるならば、それは絶対やってはならない類の行動であったし、今でももっといいやり方があったんじゃないかって思ってる。結果が似たようなものであれ、それに至るまでの課程が全く違うものであれば、たぶん、君もこんなに傷つくことは無かっただろう。
君がとても辛い人生だったのは察するに余りある。出来ることなら傍らにいて、君といつまでも一緒にいられれば良かったのだけれど、恐らく僕では分不相応だったのだろう。あのときは悲しみに暮れていたかもしれないけれど、僕なんかよりきっと素晴らしい伴侶が見つかる事を確信している。君の本質に触れれば、君ほど繊細でピュアな心を持ち、尚且つ魅力的で素敵な人間なんて早々いるものではないということを理解できるだろうから。この手紙が自己満足なのは言うまでもないが、君の幸福を祈る気持ちだけはどうか理解してもらえたらと思う。君の存在は唯一無二のもので、僕にとって特別であることはこれからもずっと変わらない。これからの君の人生が幸溢れるものでありますように。
俺も言いたいことがある。
「実際にそういう友達や彼氏を連れてきて親に面罵されてカッとなった」っていうなら
俺はこの元増田の激昂もわかるんだけどさ、
自慢の親への親愛より勝って親への汚い言葉になるんだろう。
それが本当に気持ち悪い、俺は。
俺がサヨクって奴等に対して不信感や嫌悪感を抱くのもここでさ。
差別反対はいいさ。勿論だ。
俺の婆さんは90近くて誰もがそういうぐらい穏やかで善良で平和な人格だが
テレビでオカマが出てくると唖然とした顔になって「精神的な障害じゃないかしら」って言う。
でも俺は婆さんが好きだし、テレビの前でオカマを拒絶してたって
いきり立って説教なんかしないし直せとも言わないし婆さんに対する印象なんか代わらない。
むしろそこでいきりたつって人間のその憤り自体を俺は疑う。
それは本当にそいつの生活や切実な実存から出た怒りなのかな?
俺は絶対違うと思ってるけどね。
そこでの怒りは多分に演技的な怒りであって
その意見の開陳て言うのは、
子供が最近学校で習ったことを親が知らないのに気付いて得意気に自慢を始める心情であり、
普段にないぐらい攻撃的になるのは
そういうことを一度やってみるいい口実が出来たことに自分で興奮してるだけだろうが?
精神的に未熟な人間、つまりそこそこ歳の行った子供って言うのは
「正義の立場から倫理に劣る人を攻撃する」という高揚の誘惑に耐えられない。
劣悪な種のサヨクというのは未熟で幼稚なタイプの高校生ぐらいの人間性をよく体現している。
コンテンツの価値は内容にあり、その内容を作り出すには、金がかかる。
価値のあるコンテンツを自社製作したり、外注で下請けに製作させるという事は、コスト的に成立しない。
社命で従事するアマチュアや、はした金で作られるコンテンツに、訴求力は無い。
また、木戸商売である旧来のメディアビジネスの手法も、通用しない。
インターネット上での競争は、同時性だけでなく、過去に蓄積された全てのデータとの競争でもあり、クリエイターの実存以外に、本当の意味でのオリジナリティは存在し得ないのである。
コンテンツを作るのは、高価なPCでも高価なソフトウェアでもない。生身の人間であり、それらの道具を使いこなせる能力は無いよりはあったほうが良いが、それだけでコンテンツを作れるわけではないという事である。
[2010.9.24]
こんなのもあった
http://twitter.com/EmmanuelLevinas
というわけで、私は活動をやめませんし、「はてなから退会させられたからお前の負け」とか言ってるバカは何で勝ち負けを判断しているのか非常に疑問です。私は生きてるし無効化されたわけではないのに。
「斉藤のり子が実存に勝った!」「斉藤のり子の方がどうみても勝ち組」などと喜んでいる本人(とその取り巻き)は本当に頭が悪いんだなあと思うばかり。今どき勝ち組、負け組などと言っている方がアホだし、あんなバカが勝ち組なら別に負けでいいです。
私がはてなから退会させられることになったのはanigoka氏のおかげであり、斉藤のり子は全然関係ないので、私がいなくなってせいせいした人はanigoka氏に感謝してあげて下さい。
ではまた。
斉藤のり子とやらにどんだけこだわるんだこいつは。
アニゴカだろうが例の粘着増田だろうが実存を消してくれたことには感謝しておく。でも「ではまた」とは言わずに未来永劫wwwから消え去ってくれればいいのに。
http://d.hatena.ne.jp/hatayasan/20100822/p1#c1282941774
jituzonjituzon 2010/08/28 05:42 お前、私のことをウォッチして楽しんでたようだから、退会した理由を教えてあげるよ。
id:anigoka氏が私を侮辱・名誉毀損ではてな運営にコメントの削除申立をする
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16日にその旨メールがくる(一週間以内に削除または削除しない合理的な理由を書かないと一週間経った時点でサービス停止の後アカウント削除します)
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以前適用されていた合理的な理由を返信
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一週間以上経っても連絡もサービス停止もなかったのに27日夜に「すみませんが様々な事例により昔とルールが変わりました。一週間猶予の後アカウント削除しますのでログ保存やアウトポートをお願いします」とメールがくる
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なぜか、あの粘着ストーカー増田を書き、私専用の誹謗中傷wikiまで作った斉藤のり子=dropdb=webkitが「自分が追い込んだんだ、勝った!」と勘違いしてTwitterで大歓喜
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斉藤のり子は関係ないのになんだこいつ
という流れ。
はてな運営が私のアカウント削除を決めた理由は2005年にphaたちの本名をダイアリに書いてプライバシーを侵害したことがあるから。
5年前のことまで遡る運営はある意味すごいと思った。
まあ勘違いして喜んでる奴は私が生きてて活動可能なことをわかってないバカなんだろうなと思う。
そのうち正式なアナウンスがあるからそれ読め。
訊いてもいないのに威圧的&上から目線&長文&全く関係ない内容で自己弁護&罵倒を行う実存先生マジパねえっす。まあ死のうが生きてようが実存がはてなから消えてくれてよかったよ。