マンガは~ただの空想、娯楽
漫画というものの本質を、ただの空想や娯楽としてだけ捉えるのは、些か問題があるのではないでしょうか。そして、某御老体も、漫画をただの空想や娯楽としてだけにおいて捉えていないからこそ、あのような発言をなさっているという側面を持たれていると私は思うのです。
端的に(本質的に)言いまして、漫画とは一種の芸術である限りにおいて、自己表現の手段と言う『べき』だと思います。つまり、他人に対して、自らの思想や何やら、そういうものを伝える為の手段と言う『べき』でしょうね。
(『べき』と強調しましたのは、現実において必ずしも、漫画がそのような位置づけに無いということの表現です)
無論、娯楽的な側面や空想的な側面もまた、漫画においては存在しますが、しかしそれは本質的ではない。というのも、娯楽的な側面を持っているモノは、漫画だけではないし、それこそ芸術だけでもないからです。その他の様々なものが娯楽的側面を持っています。ですから、漫画を娯楽性や空想性という側面からだけを以て表象するのは、漫画の本質を捉え損ねるところの行為だと言えましょう。
で、要するに私が言いたいのは『こんにち議論されているような規制問題において、漫画の問題点として指摘されているのは、いわば漫画が本質として自己表現性を持っているということであり、また、そのような自己表現において問題のある表現が存在する、ということなのだ』ということなのです。
――話が少し変わります。
それで、実際にどのような表現が問題にされているかと言えば、性表現です。
何故性表現が問題にされているかとすれば、そのような表現が『ある種の氾濫』を起こす可能性があるからでしょう。
そう『ある種の氾濫が起こる可能性がある』。
これこそが、こんにちの議論における重要な問題でもあるのです。
性能力がやたらと強調されている漫画の類は――そのような漫画を書いた人間の自己を表象しています。少なくとも、表象している、と言う『べき』です。
逆に言えば、性表現が強調されているところの表現は、ある種の自己を含んでいると言うべきです。
こんにち議論されている規制問題において、本質的に問題とされているのは、恐らくその『ある種の自己』でしょう。そして、その『ある種の自己』は、影響力のあるアプローチを、周囲に対して行うことが、恐らく、あります。
そのようなアプローチの結果として、周囲の人々に、ある種の指向性が生まれることがあるのではないでしょうか。
つまり、『ある種の氾濫』というものが生まれる可能性があるのではないでしょうか。
そのような重要な問題がある為に、『ある種の自己』を含むような表現は、規制されるべきである、と言われているのではないでしょうか。
――話が戻ります。
漫画には、ある種の問題があって、そのことが、議論されています。それは、上記の通りです。
何故議論されているのかということについて、具体的に例えを言うならば、性『能力』を強調するような表現を含んだ漫画があることによって、と言えるでしょう。
さてここからが本題なのですが、我々の考えているところの『能力』の構成要素(O氏の言葉を借りれば因子)は、ほとんどの場合有限的なものです。
私が結果として思うに、このような有限性が、漫画を含む、ある種の自己表現において、余りに強調され過ぎることは、問題なのです。
このことは、上において『ある種の自己が、ある種の氾濫を生む可能性がある』とありますが、そのことに繋がっていきます。
ここにおいて私が言いたいのは、『ある種の自己』は、有限的な能力をあまりに含み過ぎる自己表現を為すところの自己を含む、ということです。
我々一般が持つところの有限的な能力というものには、一定の限界があります。性能力(ポテンツ)、筋力、計算力、思考力――このどれもが、歳を取るにつれ、衰えていくところの能力です……つまりは、有限的な能力です。
しかし、昨今において『ある種の自己』には、これらの有限的な能力について、あまりにも、強調し過ぎるという傾向があります。『ある種の自己』らの、自己表現においては、これらの有限的な能力が、あまりにも、強調され過ぎているのです。
いずれ年老いては、消えていくだけの、有限的な能力が、強調され過ぎているのです。
同じような絶望を、周囲にもたらすだけなのではないでしょうか。
能力など、消えていくだけなのに。それを敢えて強調することによって、彼らは一体何を表現しようとしているのでしょうか?
それは、結果として、彼らの絶望そのものなのではないでしょうか?
そして、そのような彼らの絶望は、周囲を絶望に陥らせようとしているのでは、ないでしょうか。
私が思うに、こんにち議論されている問題の本質は、そこにあるのです。
有限的な能力、年老いていくにつれ消える能力、宇宙の中で、消えては生まれるところの、その能力。
我々は想像力や表象力を持っているし、あるいは、与えられている。それにも関わらず、そのことを、無視するようなその能力、絶望を誘うところの能力。
そのような能力を、自己表現としての漫画において過度に強調すること、それは、避けるべきことなのではないでしょうか。