はてなキーワード: レスリー・キーとは
数年前、レスリー・キーの写真展(写真展で販売された写真集)は猥褻物と判断され逮捕されたんだけど、Twitterなりぶこめなりで猥褻物ではなく芸術の範疇だ!と声をあげた人(アカウント)と今回の騒動でやんや言っている人と全然被らない。(5年も前だけど)少し探したくらいじゃ見つからない。
なので、表現の自由そのものについてそれほど関心ないんだろうなぁと思ってる。
ちなみに、私はレスリーキーのその写真は猥褻物という判断もやむなし、と考えている。というのは、ポルノグラフィーを下敷きとした写真だったから。ただ、美術というのは下敷きとか文脈を使って作品に意味を付けていくものだからポルノグラフィーに準えたからといって美術作品になり得ない、わけではないから猥褻物ではない、という意見も理解できる。
そもそもチンチンが外に出ているせいで不利なんだよな。ポルノグラフィーを下敷きとしても被写体が女性なら問題ない可能性が高くなる。
例えば、はてブでも話題になった鷹野隆大のやつは被写体が女性だったら問題にならなかった可能性が高い。一方でチンチンさえ出ていなければ問題なし、という
ブラックボックス展が開催されていたのはABOUT | ART & SCIENCE gallery lab AXIOM|という六本木のギャラリー
ART & SCIENCE GALLERY LAB AXIOM
>2016年にオープンした「アート&サイエンス」専門のギャラリー。AXIOMの前身であるヒロミヨシイギャラリーの一部を使うかたちで展開されている。
このヒロミヨシイという人物について調べてみると次の記事が出てくる。
写真家レスリー・キー容疑者を逮捕 わいせつ写真集販売の疑い :日本経済新聞
>男性器が写ったわいせつな写真集を販売したとして、警視庁保安課は4日、シンガポール国籍の写真家、レスリー・キー容疑者(41)=東京都港区=、
台湾「わいせつ物は芸術作品ではない」vs 日本「芸術作品はわいせつ物ではない」
台北地検の日本のアダルトビデオに対する扱いがいろいろ波紋を呼んでいるようでありますけども
昔から日本ではわいせつ物陳列罪を回避するために「これは芸術作品であってポルノではない、よってわいせつ物ではない」という理論が用いられてきております。
これは裏を返せば「ポルノは芸術作品とは呼べない」ということであって台北地検の主張と全く同じなのでありますね。
台北地検を叩いて当然レスリー・キーや会田誠のことを叩かないというのは完全なダブルスタンダードだと思います。
スルーしそうになっていたのだけれど、我慢できないのでやっぱり書いておきます。
ガガ撮影写真家逮捕 レスリー・キー容疑者“男性器写真集”販売
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/02/05/kiji/K20130205005128840.html
わいせつか芸術か……有名写真家レスリー・キー容疑者逮捕で物議
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130204-00000036-rbb-ent
【衝撃事件の核心】「紀信さんに憧れ…」越えた一線 ガガさんら撮影、有名カメラマンの写真集は男性器のオンパレードだった
http://sankei.jp.msn.com/smp/affairs/news/130216/crm13021618000012-s.htm
写真家の猥褻罪での逮捕は十年一日のごとく繰り返されているけど、そのたびに「あの写真集にチンポが写ってた!」「マン毛が写ってた!」と中学生のごとく大騒ぎ。まるでアホです。
そのつど繰り返されるのが、お馴染みの「これはアートなのかポルノなのか論争」。しょうもなさここに極まれり。
いいですか。
なぜなら、レスリー・キーは写真学校で写真の訓練を受けて、ギャラリーで個展を開き、問題の写真集も、ギャラリーで販売されたものだからです。
ギャラリーに置かれたもの、美術館に置かれたものは、アート作品です。これは自明です。便器に「泉」って書いて置いてあってもアート、缶詰めのパッケージをプリントしたやつがあってもアートなのです。
別に、俺はこんなものアートとは認めない! っていう人がいてもいでしょう。しかし、俺は蕎麦は手打ちしか蕎麦と認めない! っていう人がいても、実際に流通し消費されている手打ちじゃない蕎麦が存在し、蕎麦であるように、アートも、美術館やギャラリーにあるもの、またはそれら周辺の制度で評価されているもの、ぐらいの定義しか、もはやできないんです。象徴的にいうと、デュシャン以降、ウォーホル以降は。
アートの枠組みを問うこと自体がアートになり、行き着くところまで行った結果こうなりました。
理想化された神話的なヌードから、生身のネイキッドへの転換という美術史の流れで起こった論争など、はるか昔の話しなのです。
生身の裸がエロティックに表現されていたからといって、アートではないといえたのは、近代以前のことです。
無論、ここでの「アートである」とは「アートとして優れている」ことを必ずしも含意しません。
アートだからすべて偉い、崇高なものなんだ、というのは単なる権威主義です。
作者の慰みにしかならないような、誰にも評価されないクソみたいなアート作品もあれば、社会や人間に対する深い洞察を含んで、歴史的な鑑賞に耐えるポルノもありうるのです。
純文学とライトノベル、どっちが素晴らしいのかを問うようなもので、しょうもない純文学もすごいライトノベルもあるに決まっている。
警察は、チンポが写った写真集が売られたら捕まえる。これは、まあ、当たり前です。そういう法律があるんだから。
夜中にクラブで客踊らせたら逮捕されるのと一緒で、そういう法律があるんだから、逮捕も起こりうるでしょう。法治国家なんだから。
むしろ警察が芸術か否かを判断して法律を運用することのほうが不当なのではないかとも思います。
アートかポルノかなんて警察に判断できるわけがないし、されるべきでもない。
では、どうすべきか。
この場合、真に批判され、変わるべきは警察ではなく、こんなカビの生えた法律を放置している日本国民の意識である、と私は考えます。
根本的に間違ってるのは、警察ではなく法律なんです。そして、アート/ポルノ論争とか始めてしまう、ダンスは健全な文化なのか論争とか始めてしまう、幼稚な日本人です。
どれだけ俗悪で、低劣な表現であっても、被害者がいない限りは、ある朝突然、国権に身柄を拘束されることがないのが民主主義なのではなかったのでしょうか。
タテマエでは日本では猥褻なものは売られていないことになっている。これが欺瞞でなくてなにが欺瞞なのでしょう。
アダルトビデオにモザイク入れて、警察の天下り機関でチェックして、これはモザイク入ってるのでポルノじゃないです、猥褻じゃないですって、これが茶番でなくてなにが茶番なのでしょう。
ポルノ大国の日本で、写真集で外国人の写真家が逮捕されたというニュースは、海外からはどう見えるんだろう。
ちなみに、私はレスリー・キーの写真が低劣だと言いたいわけではないです。むしろ、写真集持ってるぐらいには好きです。腕もあると思います。
彼の仕事は、LGBTアクティビズムとしても、アートとしても、ポルノとしても、素晴らしい価値のあるものだとおもっています。
実は、ヌード撮るのってすごく難しいんですよ。嘘だとおもった人は、手持ちのカメラで自分の裸を撮ってみてください。立体感も質感もなんもない、みすぼらしい写真のできあがりです。
実は、ただのゆで卵でも、陰影をつけながら、その白さや丸さを撮影で表現するのすら、すごく技術や経験のいることなんです。いわんや人間を美しく、そして自分の表現になっている写真にすることはとても難しいことなんです。
写真というのは、見たものが見たまま写るというものではないです。たとえば、見慣れた花が、写真家の写真でみると、とんでもなく艶かしく、エロティックに写されたり、グロテスクに写されたり、ロマンティックに写されたり、こんな世界の見方があったのか! と驚嘆できるのが写真です。
当然ヌードも、そこには様々な解釈があり、無限の文脈があるものなのです。そこにモザイクという検閲が入ると、文脈は抹消され、猥褻なものがそこにはあった、という意味だけが立ち上がってしまいます。性器を隠した不自然なポーズやトリミングも同様です。
もちろん、春画などの例をだすまでもなく、ポルノもアートとして制度に回収され、認められる場合もありますが、現状、猥褻の線引きは、鑑賞者や捜査員がエロいと思うか、勃起するか否か、メールヌードに至ってはペニスが写っているかで判断されてしまいます。この思考停止。
ポルノは(特に性的少数者のそれは)作者が自分自身にとことん正直な、まさにパンツを脱いだ嘘のない表現に出会える数少ないジャンルです。どれだけ反社会的に思われ、政治的に正しくないものでも、実存の奥底にある、どれだけ押し込めても潰しきれない、人間のどうにもできないものが表現されてしまうのがポルノです。その凄みや執念は、アートのそれを上回るとさえ思えます。
我々は、アートやポルノ、健全さや猥褻さの枠組みの中で表現を擁護するのではなく、そして巧拙で擁護するのでもなく、低俗か高尚かで擁護するのでもなく、すべての表現を、すべての表現者を守るのだ、と宣言するべきなのです。
しかし、このニュース関連のツイートや、ダビデにパンツ履かせろクレーム、会田誠騒動などをみていると、法律を変えるなんて、あと数十年は無理っぽいですけどね。
ややこしい国に生まれたなあ……。