はてなキーワード: フリーターとは
30になったら死のうと思ってる。あと10年有余がある、だけどあっという間なのだろうな10年なんて。
普通の人が中高生だった時期、いじめられて精神を病んでいた。自殺未遂も繰り返していた。その時、友人にこんなことを言われた「あんたはまだ若いんだから死ぬのは勿体ないよ」
10代後半の私は自分の若さを自覚していなかった。普通になれなかったからもう生きている価値がないと自分で思い込んでいた。
まあ、その時の言葉のおかげで私は今なんとなく生きてるのだけど、今でもやっぱり生きてるのは苦痛だ。
だから自分で決まり事をつくった。それは今のまま30歳になったら自殺しよう、というもの。
いま命を投げ出してしまうのは勿体ないらしいから、じゃあ自殺しても納得される歳になったら死んでやろうと。
そう考えたら楽になった。
見えない将来を考えて憂鬱になる自分が馬鹿馬鹿しいなと思えてきて、心の重いものがすっと軽くなったような気がした。
今でもやっぱり普通じゃない人生を歩む不安はあるし普通になりたいけど、普通に拘っていたって自分が救われることは何もないし、コンプレックスは多いけど逆に羨ましがられる
ようなことも多いんだから気にしないでいいじゃないかと思うようにしている。
四年前、就活に失敗した。というと、どこか物事がぼやけて聞こえるから不思議だ。
要はどこからも内定が貰えなかった。そこそこ良い中高に通い、なかなかの大学に入学した私にとって、初めての挫折だった。今はフリーターをしている。
フリーターでも良いと思っていた。働いている。ニートとは違う。
始めこそ半端な気持ちでいたバイトだったが、今は持ちうる限りの力を尽くしている。いずれは、自分の店を持ちたい。
ネットを探せば、同じ意見の人がたくさんいた。今の時代、雇用形態など問題ではない…
と、言い聞かせていた。
普段は忘れている。日々の雑務に追われて。時折、ふと思い出す。私は、フリーターなのだと。
本当は、仕事の話なんてこれっぽっちもしたくないし聞きたくない。だってフリーターに何か言えるはずがない。
なんだその客腹立つわー(お前に何がわかる)
大変だねー(お前よりはな)
でもそんな対応できてすごいよ(お前みたいになりたくないからな)
ありきたりな相槌を打つ。何を言っても、フリーターの戯言にしか聞こえない。社会を知らない、無知で愚かな負け犬の。
ただの被害者妄想だ。彼らには、誰かを蔑む気など全く無い。だからこれは、私が一方的に抱いている劣等感なのだ。
童貞と、そうでない者の差のようなものだ。一度越えるとこんなものかと思うが、知らない者からすれば、その溝は果てしなく深い。
無職でも稼げる、本当に好きなことを仕事に、正社員にこだわらない、日本の雇用が変わる…
耳に優しい言葉を探して、ブックマークする。そう、そうだよな!その通り!間違ってない!これで!これでいいんだ!これで!
ずっと、負け犬気分がつきまとう。この劣等感は、正社員になれば拭えるのだろうか。
1.本作の主題?
大々的に宣伝されていたこの作品の主題は「家族の絆」であった。「時をかける少女」「サマーウォーズ」で、揺れ動く思春期の心情を細やかに描き出してきた細田守監督が、特殊な事情の母子家庭の波瀾万丈を通して、母と子の結びつきを表現する王道の家族劇であろう、と私は予想していた。
しかし実際には、冒頭でおおかみおとこと主人公の花が「哲学」の講義をきっかけに出会うことに示されているように、家族それぞれの社会的承認やアイデンティティの確立といった「生き方」への問いかけが大きなウェイトを占めている。いずれ花と結ばれ父になるおおかみおとこは、人間社会にひっそりと適応しながら、大学にもぐりソクラテスの「無知の知」についての講釈に耳を傾けていた。彼自身の特殊性と人間社会との融和点、すなわち「自分は何者なのか」を彼はまだ知らない。もっともそれは花も同様である。彼らが「真に何者であるのか」が判明するのは、その後の人生の中で、主観的にも客観的にもそうだと考えられる地点に辿り着いた時である。
13年という長い月日を描く作品であるため、一時期に割ける時間は限られている。花は前半の少ない上映時間の中で、おとぎ話のようなおおかみおとことの恋と別離から、残された二人の子どもの育児という生々しい現実へと転がり進んでいくこととなる。わざわざアニメーションという媒体で母子家庭の奮闘記を描くのであれば、母子家庭の「リアリティ」をどれだけ表現できるかが生命線となる。そのためにも花は一刻も早くおとぎ話から抜け出す必要があった。
しかし出産も子育ても、半ばおとぎ話の状態からなかなか抜け出せずに進んでいく。その一つの要因として、花がすでに片親の父を亡くしている(母は離婚、別居済み)、という極めて日本のアニメ文化的な手軽で便利な設定の中にいたことにある。したがっておとぎ話のような恋の終わりと厳しい現実の到来を告げるはずの「親との葛藤」のシーンはない。東京に下宿させていた女子大生の娘が、フリーター(?)の狼に食われて子どもを作り大学を辞め、しかも(おおかみこどもであることを知られるわけにはいかないため)全く子どもに会わせようとしないなど、並の親なら勘当ものである。両親が既にいないにしても、親戚や最悪の場合行政施設の関係者などの後見人や身元引き受け人もいない、では未成年の大学生が家を借りるにも何をするにも無理が出てきてしまう。しかし花は劇中ではほとんど言及されることのない両親不在設定を免罪符に、自由におおかみおとこと結ばれ雪を出産し、一年後雨を生んだ後におおかみおとこと死別するまで、誰と葛藤することもなく擬似的な新婚生活を満喫するのである。しかも医者にもかからず独学で自然分娩を行い、子ども達も一度も医者には連れて行っていないなど、事情はわかるが少し無理のある状況が続く。リアリティのある家族を描くためには、例え核家族であったにせよリアリティのある一族が描けなければならない。そしてそのためには、リアリティのある社会が描けなければならない。しかし作品の土台となる花の周りの人々との繋がり(親族関係、社会関係)が抜け落ちた「おとぎ話」のまま、二人はほとんど社会から孤立して描かれている。
親族や後に移住する田舎社会の人々に、意を決しておおかみおとこの血を引くこどもたちの秘密を打ち明けていたなら、物語は一風変わった方向へ進んでいただろう(行政や医療組織に打ち明けていたなら、悲しい話になってしまうかもしれないが)。しかしこれは二者択一の選択である。おおかみこどもの秘密を守り通そうとするなら、一家は孤立するしかない。秘密を打ち明けてある範囲の人々を味方に引き込んでいたなら、出産、子育て環境のリアリティはある程度担保されるが、おおかみこどもを受け入れる周りの人々、というまたまた別種のおとぎ話的な絵が出来上がってしまう。この部分のリアリティを保つのは並大抵のことではない。本作は前者、おおかみの本性を隠し通すことで、雨と雪の存在のリアリティを保つ代わりに、一家を孤立させて社会生活との折り合いのリアリティを失うことを選んでいる。
3.本作の根底を貫く3つの近代的概念:①選択権としての自由観
社会から孤立した者を待ち受ける宿命は、社会からの排除である。雨と雪を隠し続け、医者も児童相談所も拒み続ける花は、居場所を失い田舎への引っ越しを決意する。この辺りから見え隠れし始め、映画のクライマックスで明らかになるのが、取捨選択の権利としての自由を尊ぶ近代的な自由観である。花が田舎へ引っ越した主な理由は、人目を避けるためでもあるが、雨と雪が「人間か、おおかみか、どちらでも選べるように」したいということが大きなウェイトを占めている。そして学校や田舎の人々に対して秘密を守りながら姉弟は大自然の中で育ち、おてんばの雪と引っ込み思案の雨という当初の関係性を逆転させ、最終的に雪は人間として、雨はおおかみとして生きていくことを決意する、と読み取れるあたりでこの作品は幕を閉じる。二人の姉弟が(そして母が)どのような生き方を「選ぶ」のか、というアイデンティティの「選択」が事実上の主題となってくるのである。つまり、二人のおおかみこどもは、人間として生きる事も、おおかみとして生きる事も可能であり、その選択権を自分自身で持っているという考え方が根底に存在している。こうした権利概念や自由観は、歴史の悲劇から人類がようやく辿り着いた価値ある理念ではあるが、問題が無いわけではない。
「おおかみであること」はファンタジーではあるが、現実の例えとして捉えることも可能である。元来日本語の慣用句でも「一匹狼」などのように「狼」は単に動物を指すだけではなく、社会の周縁に生きるしかないアウトサイダーを指す言葉でもある(押井守監督の『人狼』に描かれているように)。そこから暴力的な存在という意味合いを除外して考えれば、「おおかみであること」は何らかの理由から迫害され、多数派と融和できない少数派に「非自発的に」刻まれた「抑圧のスティグマ」である。先の近代的自由観に基づけば、我々はあらゆることを強制されず、自発的に選択する権利としての自由を何よりも大事なものとして持っているが、実は選択していないにもかかわらず押し付けられているものもたくさんある。我々は男性として、あるいは女性として生まれることを選んだ覚えはなく、この国、この家族の元に生まれることも選んではいない。選択の自由を行使する以前に、強制的に親や社会から色々なものをもらって今の私たちは存在している。こうした、我々が意図せずに所属しているアソシエーションから抜け出すことは、それが被抑圧的アソシエーションであればなおさら、多大な困難を伴う。
いわば「人間か、おおかみか」どちらかの生き方を選べ、というのは私に対して「日本人か、男性か」どちらかの生き方を選べと言うのに等しい。日本人であることも、男性であることも、やめること自体は可能であるが、多大な葛藤と苦労を伴うし、何より大半の日本人は日本人であることをやめたがっているわけではなく、大半の男性は男性であることをやめたがっているわけでもない。当然私は「日本人男性」として生きざるを得ないが、それを嫌がっているわけではない。「おおかみであること」は、私にとって「日本人であること」以上に雨と雪の二人のアイデンティティに深く絡み付いている。彼らは望んで「おおかみこども」として生まれたわけではなく、そして何より自己の不可分の半面としての「おおかみであること」を辞めることは不可能だからである。逆もまた然り。雨と雪にとっては、「人間であること」も捨てることはできない。したがって大多数の人間が、国籍や人種などの複数の非自発的アソシエーションに従属して生きざるを得ない以上に、彼らは「おおかみにんげん」としてしか生きられないはずである。人間としてだけ生きていてもおおかみの本能は満たされず、おおかみとしてだけ生きていても人間の知性は満たされない。一方を選択して他方を捨てることでは、幸福な真の自由は訪れない。というのも、私を含め大半の日本人男性が、日本人であることや男性であることを嫌がったりしておらず、むしろそれを誇りに思うことも時にはあるように、雨と雪も本心から「おおかみであること」あるいは「人間であること」を嫌い、やめたいと感じているわけではない。真相は逆である。雨と雪に限らず「抑圧のスティグマ」を持つ人間が求めているのは、それを捨て去ることではなく、周囲が抑圧的な処遇をやめ、そのスティグマが価値あるものとして社会的に承認されることである。黒人や女性は差別されるから黒人であること、女性であることをやめたがっているわけではない。彼、彼女らが求めているのは、差別をやめること、すなわち黒人であることや女性であることを誇らしく思えるような、他の人々と対等の処遇である。自分の非自発的なアイデンティティを差別や迫害を理由として捨て去ることは、雪がおおかみに変身することを必死に避けていたように、それ自身当人にとって新たな大きな抑圧となるだけであり、それを捨て去ることを強制することもまた、抑圧からの真の救済とはなりえない。
「人間であること」のみを選択した雪は、今後もおおかみの衝動に苦しめられ続けるだろう。「おおかみであること」のみを選択した雨は、おおかみとして生きるだけでは無力であり、人間から森を守ることはできないことにいずれ気がつくだろう。したがって雨も雪も、「人間であること」か「おおかみであること」のいずれかを選ぶ権利としての自由を持つ、のではなく、彼らはどこまでも「おおかみにんげん」として生きることを運命づけられている。そのため彼らを幸福な真の自由へと導くのは一面を捨て去る選択ではなく、両面を受け入れる承認、すなわち抑圧されることなくありのままの「おおかみにんげん」として生きていくことを人々、社会から認められることでなければならない。そしてその基点にして起点となるのは、二人の秘密を知る唯一の存在、母である花のはずだった。しかし雨と雪は選択権としての自由を行使し、「人間であること」、「おおかみであること」の一方を選んで他方を捨て去る。この彼らの選択は同時にもう一つの取捨選択となって現れている。それは、特に雨に顕著なように「個人」としての自己の生き方を選択する代償として、それまで所属していた「全体」としての家族を捨て去っていくことである。
取捨選択の権利としての自由観には、この近代的な自由観と表裏一体になって形成され、社会に受け入れられてきたある考え方が寄り添っている。取捨選択の権利としての自由は、何に帰属しているのかを考えればその考え方も見えてくる。「生き方」の選択の権利は、国家にあるのでも何らかの組織にあるのでも、両親にあるのでもない。近代的な自由は常に「個人」の手の内にある。「個人」は選択の権利を持ち、それを他者に妨害されない権利もまた持っている、というわけである。こうした個人観も尊重されるべき人類の英知だが、その発達によって我々人間は別の問題に現在直面している。「個人」の肥大化により、家族や社会等の共同体の絆を、そして古い慣習や信仰などに息づいていたいわゆる「大きな物語」や「宇宙的秩序」を破壊して、人類がただのバラバラの個人の寄せ集めになってしまう「アトミズム」に陥るという問題である。したがって家族という、人々の繋がりを描くべき物語の根底に、こうした個人観を置いてしまうと、家族は崩壊してしまう。雨は山へ飛び出したきりおおかみとして生活し、どういうわけか雪も全寮制の中学に入り、あとに残されたのはひとりぼっちの花だけ、というわけである。雨は個人としての自分を選び、家族を捨ててしまったのである。
家族を最小の社会であると考えたヘーゲルは、市民社会、国家、世界史へと繋がっていく人倫の弁証法のスタート地点を家族においている。そして王道的な家族の物語はおおよそ、仲の良い親子(正)に何らかのきっかけで対立が生まれ(反)、最後は和解して「雨降って地固まる」(合)という弁証法的なプロセスを辿るし、実際の子育てにおいても、子どもは両親べったりの幼少期から、反抗期を経て、何らかの和解を踏まえて真の自立へ旅立っていく。反抗期が自立そのものなのではない。このようなプロセスが多くの家族ドラマで踏襲されているのは、それが流行っているからでも面白いからでもない。人間が最初に個人として生まれるのではなく、家族という全体の一員として生まれることが不可避である以上、家族の絆を知るには、家族と対立して家族そのものを対自化、対象化しなければならないからである。毎日当たり前のように存在する両親と、本当に強い絆で結ばれているのかを知るためには、わざと両親に反発し、お互い真剣に向き合う期間が必要だというわけである。こうした視点から本作を見ると、ただただ雨と雪のためだけに「個人」としての自己を押し殺して子育てに奔走する花と、それをただただ当たり前のこととして享受する幼少期の二人は、弁証法の正の段階、無垢な統一としての家族である。そして二人が小学校の高学年に近づくにつれ、激しい対立、反の段階が現れてくる。雨も雪もお互いの違いを強く認識し、雨は特に自分を家族の一員ではなく個人(個狼?)として考えるようになる。花の言いつけに反しておおかみの力を使ってしまった雪や、徐々に自然の世界の魅力に飲まれ、家を空けがちになる雨、そして激しい姉弟喧嘩など、家族はそこかしこに対立の火花を散らすようになる。
しかしここまでである。その後一家は和解して家族の絆を再確認することはない。雨は嵐の山から母を助けはしたが、家を飛び出して以後母と会話をすることはなかった。雪は草平と嵐の学校の中で自立への憬れを語り合い、その後母が迎えにくる描写も、直接会話をする描写もない。花は山で気を失っている間、おおかみおとこと再会し、彼にそれまでの人生を肯定し承認される言葉をもらっている。しかしそれは夢の中の出来事に過ぎない。花は以後雨の遠吠えを聞き、祈りの中でおおかみおとこと対話することによって家族の絆を信じ込むのである。真理は主観と客観の統一にある。どれだけ心の中で絆を信じていようとも、花の現状は孤独である。そこには反発しつつも助け合うという家族の現実的な絆も、現実的な幸福もない。雨が個人(個狼?)として家族を捨てて旅立ち、残された花は母としてのアイデンティティを失い空虚に祈るしかない。この物語は家族ドラマの王道スタイルである弁証法の構造の反の段階以後を切り捨ててしまったような形になっているのである。だから少なくとも映画の終わりの段階では、家族がバラバラになり、皆、特に花は絆を失って見えるのである。そんな状況になっても、どんな時でも笑顔を絶やさない花の表情は不憫ですらある。この物語の家族が弁証法のプロセスにおける対立から総合の段階へと移行できなかったのは、無論、前説の自由観に付随する個人観が差し挟まれ、家族の再統一、和解を妨害しているからである。個人としての生き方を選択し、家族を捨て去ってしまうことが子どもの「自立」である、という錯覚がここにはある。個人(個狼?)として生きることが家族として生きることと両立不可能なら、雨にも花にも真の幸福は訪れない。家族がバラバラの個人に分解してしまうことも、幸福でもなければ自立でもない。
5.本作の根底を貫く3つの近代的概念:③価値を放棄する平等観
そして何よりも花を不憫に思わせてしまうのは、単に雨がいなくなってしまったからではない。雨が「おおかみとして生きること」を選んだからである。しかし劇中では、雨がおおかみとして生きることに、花は戸惑いはしたものの最終的には肯定したし、作品全体のスタンスとしても、別れの悲しさはあっても、「おおかみとして生きること」自体は肯定的に表現されている。ここには、前二節の近代的な自由観、個人観から導かれる第三の概念が潜んでいる。すなわち、生き方の選択権としての自由が個人には備わっており、それは何者にも妨害されてはならない尊重されるべきものである。したがって、「個人が生き方を選択する」こと自体が重要で価値のあることであり、その選択自体を尊重するために、政府や他者は個人の選択した生き方の「内容」にケチをつけてはならないという平等観である。これも近代以後の社会には欠かせない重要な概念である。職業に貴賤はなく、魚屋として生きる生き方と教師として生きる生き方はどれも同等に尊重されるべきである、というわけである。この概念も、極端に押し進めると、我々人類を文明的に発展させてきた一つの原則、すなわちチャールズ・テイラーがAuthenticity(ほんもの)と呼んだ理念そのものの破棄へと到達する。この理念は、「ある生き方は、別のある生き方より価値がある」として、人間の生き方には価値の序列があることを前提に、真に人間が生きるべき姿、「ほんものの生き方」を模索するというスタンスを形成する。近代的な平等観に慣れ親しんだ人々にとっては、生き方の優劣を価値付けることは、政府による不必要な介入や、職業身分による差別など危険な事柄を助長するようにも思えるだろう。しかし逆に急進的な平等観の元では、あらゆる生き方が平等の価値を持つと見なされる。言い換えれば、「生き方」の選択を重視してその内容を無視するということは、あらゆる「生き方」の内容が平等に論争点にはなりえないどうでもよいもの、すなわち無価値となる。偉大な学者の生き方も、高名な僧侶の生き方も、愚かなギャンブル狂の生き方も、みな平等に無価値なのである。
このことが本作においてはどのように現れてきているのかというと、「人間として生きること」が「おおかみとして生きること」と平等に価値ある選択肢として描かれている点である。そしてそれは裏を返せば、「人間として生きること」は「おおかみとして生きること」と同等に無価値であるということの表明に過ぎない。だから姉弟がどの生き方を選んで「決定」するのかということだけが重要視され、その選択した生き方の「内容」の善し悪しは一切吟味されないのである。人間の人生が理性を持たない単なる動物に過ぎないおおかみの Permalink | 記事への反応(2) | 08:36
126: 風吹けば名無し 2013/02/11(月) 02:23:29.69 ID:IwUk1x8y
キムタク 171 ±0
真田広之 165 -6
岡田准一 165 -6
こう見るともっと小さくても余裕で売れるくらいや
143: 風吹けば名無し 2013/02/11(月) 02:29:02.04 ID:zyJqhx3r
>>126
他にチビの二枚目オッサン俳優って見た事ないし、身長170未満は日本人の成人男性のうち4割もいるのに
170㎝未満で息の長い有名二枚目俳優が出現するのは、数十年に一度以上の長期スパンじゃねーか、
現実は170未満のチビ人口の99%以上が脚光を浴びずに誰にも相手にされず
チビの勤め人やチビの派遣工やチビのフリーターやチビのニートとして人生を終えるわけだ。
半面、日本の成人男性の一割程度しかいない180以上は、俳優だのモデルだのまあまあおいしい位置にいる奴が多い。
芸能人だけじゃなく野球などのメジャースポーツ選手とかもそうだろ。
体がデカいだけで、才能も素質も凡庸なのにプロになったりそこそこいい位置だったり長いキャリアだったり。
そもそも身長問わずほとんどの人間が一般社会で就職して生きていくわけだから
チビのリーマンとかチビのフリーターやチビの工場の派遣とか何一つ得しないわな。
チビは日本人成人男性の四割もいるのに居場所だけは限りなく狭い。
あとトムクルーズが他者との身長の比較で165㎝だと判明してる画像ってどれなんだ?
自分の身長をどう捏造しようが、周囲との比較で実寸や鯖読みが簡単にばれるのは
芸能人の実寸や鯖読みを認定したがるチビ男が一番分かってるはずなのに
それでも自分の身長はサバを読んでしまう(170未満でさばを読まない男は皆無)所に
・有名人(特にイケメン系)に対し「実はかなりサバ読んでる!実寸はこんなに低い!」認定
・日本人の成人の平均身長を171に固定(実際はここ二十年以上、171と172を左右している)
チビ仲間を少しでも増やしたいんだろうな。
最後に。
真田広之レベルの顔面(あと演技力と英語力とアクション力)じゃないと
イケメンだと認めてもらえないって、チビの人生ってすごくハードモードだよな。
ちなみにアクションに関しては十代~二十代と
千葉ちゃん直々の訓練や危険な撮影で天守閣からの飛び降りなど無理難題をこなし
常時怪我が絶えず、毎日死を覚悟していたとのちに述懐している。
高身長だと小栗や豊悦レベルでの顔でもイケメン扱いされていい思いしてるのに。
岸部一徳とか棒読みで目の細いフツメンなのに明らかに身長で得してる。
チビだと真田やハイド(化粧&フォトショがないと通用しない)レベルの顔じゃないとイケメン扱いされない。
岡田准一なんて顔面、声質、演技力、まじめで温厚で勉強熱心な性格と
どれも今の同世代の中ではずば抜けてるのに、いまだに代表作を生み出せないのは明らかに身長のせいだろ。
歌手業のついでに、たま~に俳優活動して大ヒット作をいくつも生み出した
全てにおいて可もなく不可もない凡庸な才能の福山と比べると、ますますチビのコスパの悪さが浮き彫りにされる。
整形とか植毛でもどうにもならんしな。
小さいころからの付き合いで、中学生ぐらいまでは違和感なく付き合ってきた知人がいる。
高校くらいからだんだん違和感を感じてきて、大人になった今も縁を切れずにいる。
例を挙げると、
彼は実家寄生のフリーターでコンビニで働いている。労働時間は週3日で一日8時間くらい。たぶんここまでは本当なんだろうけど、月収がなんと30万くらい貰っているらしい。それを、なんのためらいもなく言うのだ。もしかしたら本当に恵まれた環境で時給が3000円代という可能性もある。一応確認のため、彼の働くコンビニの入り口に貼ってある求人をみたところ、昼番850円、遅番1050円(深夜)といった都心部ではむしろ少ないくらいの時給が記載されていた。
そのコンビニで働き出して半年程度なので昇進を重ねて3000円代なんてことは無いと思う。
でも彼は自信満々に、高校時代からのバイト(ちなみに彼は高校時代バイトしてなかった)の貯金含めて1000万あると言っている。
べつに私が彼の収入を妬んでいるのではなく、真顔で自信満々にそういう発言を繰り返しているからちょっと不気味に感じているのだ。
彼の説明が終わったところで、本題の縁を切りたい話をする。
高校時代違和感を感じてから接する回数を減らせば自然と関係もなくなるだろうとおもって徐々に疎遠にしていった。しかし、私の仲良くなるひとを察知するとその人に接触をし、いかに自分が優れたかを語り出す。そして、彼は初対面の人へのコミュ力は異常に高く虚言癖を気づかせない才能があるのか、みんな「こいつすげー」って思ってしまうっぽい。そして、彼と私が昔からの腐れ縁であるように語りだし疎遠にしてたのに結局周りのイメージは彼と私は親友みたいな感じになってしまっている。
結果として私が仲良くなった友達とあそびいこうとするとなぜか、虚言の彼がセットになるというのが毎度のパターンなのだ。
そして、仲良くなった友達も彼の虚言に薄々気付き始め、その彼とセットというイメージになってしまっている私とも距離を置かれてしまう。
もしかしたら、私にも原因があるのではないかと色々考えてみた。
スペックとしては飛び出した能力はなく、学校もずっと中堅校でそのなかでも成績も並。恋人も並にできる程度。まわりからも「普通だよね」といわれるようなタイプの人間。運良く(?)彼が居ないときの人間関係は荒波もたたずすごく穏やかに生活している。
学生時代は本当に何度も何度もこんなことが続たが、学生時代を終えた今となってはさすがにそんなことがないだろうと思って安心していた。
追記
フリーターは、中卒や高卒など、学歴水準が低い者に多いことが、各種調査の結果明らかになっています。また、学校中退者の割合も非常に高くなっています。
バブル絶頂期に高卒が1流企業に簡単に就職できたわけではない。
今の普通大学以下の人間はその時代に大学に行ってたわけではない。お前みたいなのは大学に行くべき人間じゃなかった時代。
また、大学出ても、逆にちゃんと就職しなくても良くね?って言う雰囲気もあった。
何故なら、その辺で1日ふらりとバイトさせて、って言って、1日日雇いで数万稼げた時代。
ふらふらしながら、自由に時間を使って、お金必要になったらふと働いて数日分稼ぐ。
これが所謂「フリーター」なんだよ。底辺ではなくて、ある意味、毎日働くのなんてだりーって人たち。
その時代にはまあ、働いたら働いたでより稼げるし、「社畜乙ー」ではないが、そこまでかせがんでも充分やってけるしー、ってのが本来のフリーター。
だが、そんなフリーターが40,50になって、そのまんままともな仕事に付かないまま期間工とかになっていく(それですらバブル期には自由に使える金が充分にある職業なこともあった)
だから別に落伍者とか言うレベルでもない。よっぽど今のこの楽な時代にニートとかやってたり、それを全面に押し出してニート芸人やってるバカブロガーとかのがよっぽど人として下だろう。
彼は少なくとも20代くらいには充分な程遊んでたんだろうし。
■色んなところでアルバイトを見たら
フリーターのチビ率やブサ率が高くでビビッた。デブもまあまあいた。
やはり彼らは面接が通り辛いんだろうなって思う。
中距離恋愛していたフリーター彼氏の就職がやっとこさ決まり、東京で一緒に住むことになり家も決めたのだが
母一人子一人で育った彼のお母さんが同棲反対…
就職決まったよ、彼女と住むよ、そのうち結婚するよと最初に伝えた時は、ふーん程度だったらしく家電くらい買ってやろうと言ってくれていたらしいのだが、
いざ、となったら猛反対…
うんと、ひとり息子手放すの嫌になっちゃったみたいです
しかし彼にも問題があった
なにもしない
なんなら縁切ることも考える、と。
気持ちは嬉しいが…なにもしてくれてない…
なぜ反対するのかも、説得しようともしてくれない彼にうんざり
お母さんに引越し費用を出してもらうなら一緒に住めませんと伝えました
お母さんと話もちゃんとしてみると
来週ご挨拶に行こうと思っていたところの出来事で、同棲の挨拶ではなくただのお付き合いしてます挨拶に変更
そもそも会ってくれるかどうかもわからなく…
26歳なんですけどね
言われなくてもしてほしいんですけどね
親くらい説得してほしいんですけどね
就職に関しても私が就職しないなら別れると散々言ってやっとこさ決まったのに…
はぁ…
どんな顔で挨拶したらいいの…罵られるのかな…
1.仕事を教えてくれない
みんな自分の仕事を奪われたくないから仕事を教えないっていうこともある。
なんとか仕事に慣れて効率良く回せるようになると、たまに同僚から「もうちょっと仕事してるフリして残業した方がいいんじゃないかな」とかアドバイスを頂く。
2.同僚がひどい
仕事に対してやる気がない。出勤しても休憩ばかりで「社長に見られたら困るから」って言って上司がバレないサボり方を教えてる。
3.未来がない
1. 授業で演技指導してもらえない
『演技実習』でアニメや外画を観て感想文書かされる。意味が分からない。
アニメ(同じ専門学校のアニメ学科の人が作ったもの)にアテレコして、それでオシマイっていう授業もある。
たまに声優さん(全然有名じゃない人)が来て、「もうちょっと感情を込めた方がいいんじゃないかな」なんて指導とはほど遠い感想を頂く。
2. 同輩が酷い
私がアニメや映画や芝居の話をしても「何それ知らない」って言われる。
授業の出席率が低い。出席してもノートさえ取らなくて、「会社に入った時困るから」って言って講師がメモの取り方教えてる。
大学に進んだ友達がアニメ研究会に入って楽しそうにしてるのが恨めしい。
3. 未来がない
将来のために貯金するだとか、
もっとたくさんお金を稼いでいろんな物を買いたいだとか、、、僕にはそういう考えはありません。
ただ、
僕は「お金」よりも「自分の時間」に価値を置いてるところがあります。
「自分と向き合う時間」「考える時間」に圧倒的に価値を置いてます。
僕がやってるバイトは、準備時間を合わせると1日12時間くらい拘束されるのですが、
正直、頭を使わなくてもできる仕事なので、その時間内は「思考停止状態」になってます。
僕はこの「思考停止状態」が何時間も続いていることがヤバいと思ってます。
これが週5勤務だったら週60時間プラスで寝てるようなもんですよ。
それがずーっと続くようなものです。
今思うと、週5勤務とか考えられいです。
特に目的もないような貯金をして、週5で働いている正社員よりも、
特に目的もないけど、自分の時間を過ごして、週1で働いてなんとかなってるフリーター、
のほうがマシだと思います。
話を戻しますが、
僕は「自分の時間」を優先して、それに合わせる形で勤務日数を決めたら、週2日の勤務が最適だったわけです。
残りの空いた5日間で本を読んだり、ネットでお金を生み出す仕組みを作ったりすることだってできる。
僕はこの2つのバランスを重要視していますが、今の僕には週2勤務でうまーくバランスがとれています。
「勤務日数も多いし、貯金溜まりすぎだなぁ。自分の時間なんてねーなー。」
働いてるその分、自分のことなんて考えることができてないですから。
はっきり言って、社畜になったら終わりに近いですよ。
ここでいう社畜とは、「自分の時間を生み出せない人」のことを指します。
自分の頭で考えるのが嫌な人は「良い社畜」として生きれると思いますが、
考える時間が極端に少なくなってしまったら人間ではなくなりますからね。
考えない動物ってのは人間ではなくなりますから、いくらでも替えのきく人間になるわけです。
「自分と向き合う時間・考える時間」をもっと増やし、人間らしく考え、自分で決めろ。と思います。
誰かに選んでもらって、誰かに決めてもらって、みんなと同じ行動をしてる日本人なわけですよ。
正確には俺がある程度経歴を知っている人の中には叩いている人はいない。
逆に言えば、そこから虚構新聞を叩いている人の人物像が絞られてくる。
1.低学歴
勉強会や交流会を主催していたり、参加したりする人が叩いているのは全く見ない。
サンプル数は1000超えてるのに、ゼロなのだからかなり統計として説得力がある結果だと思う。
虚構叩きしている人は低学歴、あるいは無名大学出身ということだ。
理由は同上。
社名を公開している人がそういう問題に口を出しにくいというのは分かるが、
普段は様々な問題に首を突っ込む人もこの問題には関心を示さないようだ。
全員が無職というわけでもないだろうが、傾向としてはそうなのだろう。
俺自身やや右翼的な思想を持っているので付き合いは自然そういう人に偏るが、
彼らが叩いているのを見たことがない。
ということは、逆に叩いているのは左翼的な思考を持っているということになる。
まとめると、虚構新聞叩きをしているのは高卒でニートやってる左翼となる。
この元増田やトラバのフリーターが馬鹿なのは良いとして(匿名だし釣りかもしれんし)
良くねーよ。任意じゃねーんだよ。日本に住む日本人ならある意味義務なんだよ。
それとも根本的に厚生年金と国民年金と言うものを全く理解してないのか?馬鹿なのか?ま、馬鹿なんだろうけど。
ならさぁ、もう、お前、無人島にでも行って税金も何も払わずすべてホントに自給自足で生きてみろや。
その他の利益を日本から受けておいて、そこだけ自分だけは出し抜きたいとかふざけんな。
言ってる意味がわかりません。この議論(1年1万五千で年金は年数十万もらえるべき)は15年前にはまじめにされてたどですか?www
え???あんな支払い料でここまで厚く保証してくれるものが他にあるの???
だから、そういう馬鹿は、全部自給自足で生きてくしか無いでしょ。
marief8107 年金 お金 行政 福祉 そうなんですよね、国民年金は高いと感じますよね。だから社員になって、会社が半分出してくれる企業年金に加入する方が断然お得なんですよね~。 2013/11/23
上で訂正されてるが、こいつも根本的に国民年金とか厚生年金とか理解してない馬鹿。さらに言えば、天引きだと「ひかれてない」とすら感じてそうな馬鹿。